二度目の地獄
その日、少年達の世界は一変した。
通いつめた馴染みの店は窓から炎を吐き、いつか歩いた大通りにはうつ伏せに倒れた誰かの死体が幾つも転がっている。空を見上げれば、そこにあるのは黒々とした雷雲の層。そこから雷の矢が何本も放たれては、街の至る所を石畳の地面ごと打ち砕いていく。
誰が言わずとも分かる。これがこの街の終わりだと。何が起こったのか理解することも出来ずに、ただ燃え尽きて、消えていくのだと。
今更になって気付いたが、落雷は続いているのに、雨は既に止んでしまっていた。火の手がここまで巨大になっていることを考えれば、当然と言えば当然ではあるが。
せめて。せめて、せめて一分一秒でも生きて、と崩落した建物の隙間から伸びる手は、茶と黒の混じった吐き気のする色で焦げている。
逆流する胃液を喉奥に押し込んで、登笈は走る、走る、走る。
「チッ。何だよ餓鬼が生きてるじゃねーの」
見渡す限りの赤景色。少し手を伸ばすだけで火に触れられそうな大火災の中で、しかし登笈はそこで立ち止まった。立ち止まらざるを得なかった。
かつて親しんだ大通りの中心を我が物顔で練り歩く男がいたからだ。明確な殺意を感じたからだ。ここで死ぬかもしれないと、恐れてしまったからだった。
男は、暗い色のアンダーシャツを身につけていた。癖っ毛に見える髪型と、整った目鼻立ち。髪や瞳の色まで判別はしかねるが、細身でどこにでもいそうな背格好をしている。ただし、その右手に握られたナイフがなければ、だが。
「……貴方は」
負けるまいとして登笈も視線をぶつけ返すと、男は、またかよ、と面倒そうに小声で呟いた。
「名前なんて聞いてどうすんだ? あの世で神様に俺を殺してくれとでも頼むためか?」
辺り一面、立ち上る炎と黒煙。元々察していたようなものだったが、どうやら男はこの惨劇の関係者らしい。
「……」
ふと学習院があった方角に目を向けると、やはり今いる場所とそう変わらない状況が見て取れる。最早、目印になり得る建物は悉くが失われ、広いネサラのどこに自分がいるのかすら不明瞭になってしまう。聴きたくないのに、喉の焼けた子供の泣き声が耳に入ってきた。気持ちが悪くて仕方がなかった。
二年以上も世話になった男子寮は今頃燃え尽きてしまっているだろうか。大図書館の本、おそらくもう読めないのだろう。ラヲと食べたカツサンドの店も、いや。そして自分もここで焼けて、爛れて、惨めに死んでいくのか。それも、こんな男に見下されたままで———。
沸々と、登笈の心の中で多くの感情が渦巻いていた。思えば、焦げた死体にあれほど彼が吐き気を覚えたのは、無自覚的に蓋をした記憶を呼び覚ます何かがあったからだった。何もかもが、思えばあの枇杷の国から。
———大丈夫よ。大丈夫だから。
「……何で」
「あぁ?」
「何でこんなことをする。僕が……みんなが何か悪いことでもしてたのかよ。何で焼かれなくちゃいけない」
気付けば、上手く言葉を繋げられずにただ感情を吐露していた。すぐにでも逃げなければいけないのに、振り切って逃げる算段を考える———でもない、ただただこの行き場の無い苛立ちをぶつけていただけだった。けれど、許せなかった。この街を焼いたことに対してとは違う。街を襲って、人を殺して、こんな非道なことをする人間が許せなかった———違う。登笈にとっては、何よりも、他のどんなことよりも、自分の大切にしたい居場所や繋がりを理不尽に壊されることが許せなかったのだ。
だが、一人勝手に激情に侵される少年に、男は何の感慨も持たずため息をつく。同じことを言う奴には何度も会ったと言外に告げるように。
「あー、どうせ死ぬんだしいいか」
首の根元をぽりぽりと掻き、辺りを一度見回してから、男は手に握るナイフを登笈に向ける。
「俺はディザイア=ラグナリアだ。偉大なるレベリオの、今は下っ端やってるよ。つっても、そこらで暴れてる連中とは違うがな」
それを受けた登笈が一歩、二歩と後退していくのを確認し、ナイフの角度を上へ下へ変えて、間合いと適切な距離を測っていた。話しながらも、いや、話したからこそ逃すつもりは毛頭無いと。
「……レベリオ」
距離は徐々に離れていくのに、全く間合いから離れられていないことに汗を垂らしながら、登笈はその組織の名称を復唱する。
聞いたことがない名前だった。ニュースペーパーや本ではもちろん、歴史研究学の講義にもそんな集団、あるいは組織は出てこなかった。だとしたら、新しく生まれたものか。しかし、男———ディザイアの口振りからして、特にネサラに恨みがあるようには思えない。スリージ聖王国に対してとなると、それも今の所は。
「そろそろ良いかぁ? 俺も別に親切で教えてやったわけじゃないんでね。冥土の土産ってやつだ。分かんだろ」
ディザイアは口元に薄く笑みを零しながら、ナイフを後ろ手で構え直した。
いよいよ来ると、登笈もそこで確信する。思えば長く話が出来た。あちらには付き合う必要などないのに。どうでもいいことだが、本当にどうでもいいことだが、彼も正直な青年なのだ。その気骨が変な方向にいっているだけで。
とはいえ、そんなことは今更どうでもいい事柄。まずは炎燃え盛るこのネサラで、武器を持った敵を相手にどう生き残るか。どう逃げるか。幸い、逃走経路は幾つもある。だが、変に細い道を通れば家屋の崩壊や火事に巻き込まれかねないという不安も存在していた。
「———ッ」
しかし、考えている時間は無い。
ぐ、っと姿勢を下に押し込んだディザイアが、次の瞬間にはこちらに向けて走ってきていた。それを見るより前に、登笈も前を向いたままバックステップで勢いを作り、足首を捻って回転、一気に加速する。果たして彼を振り切るほどの速度があるかどうか。そんな博打に命を賭けることも出来ないが、今はとにかく逃げて時間を作る。あるいは疲れを嫌って諦めてくれると嬉しいけれど、冥土の土産という言葉選びからはそうは思えなかった。
「あんま逃げんなよ、疲れたかねぇんでなぁ。けど、こういう追いかけっこは大好きだ!!」
「は……っ、ゲホっ。はぁ。くそっ!!」
石畳の地面を必死で蹴り、とにかく走る。息が切れるのも御構い無しに。何故って、ペース配分なんて考えていたら追いつかれてしまう。自分の持てる最高速度を使って、取れるだけ距離を取ってそれを保つ。これ以外に道は無い。走り始めてようやく察したが、脇道小道は殆どが焼けた民家の柱やら燃える木々やらで塞がれていた。これでは、ただ走って一直線に逃げ切るくらいしか。
「あれだ……っ」
がくん。と、両の膝が挫けそうになる中で、登笈の目が捉えたのは、小さな屋敷の門に凭れ掛かる名も知らぬ騎士の死体だった。そして彼の亡骸の傍には、その職業であれば絶対に常備している物が落ちている。
———距離は。
視線だけ後ろに向けて、迫り来るディザイアとの位置関係を計る。やはり離れられてはいないが、”あれ”を取ることは十分に可能な距離があった。
「———あぁ? おいおい、それ、取るつもりじゃねぇだろうな。やめとけやめとけ。使ったことあんのか!?」
「……それでも、これしか生き残る術はないじゃないか!!」
背中に飛ぶ野次に叫び返したのを合図に、登笈はその鎧纏う亡骸目掛けて手を伸ばした姿勢で飛び込み———、転がり込んでその武器を手に握る。
片手持ちの両刃剣。刃は生憎と途中で折れてしまっているが、それはこの人物が最期まで街のために戦った証だった。胸元に鎧を貫通したと思われる傷があって、彼はそれを致命傷として亡くなったのだろう。断面や傷口は普段なら一秒と見ていられないものだったが、自然とこの時だけはそれを心にすっと受け止められた。
おそらくは、彼に対する感謝の気持ちがそうさせた。諸々考えると、極限状態でそこまで脳が働いていないとか、既に吐き気や恐怖は上限に到達していたからとか、他に理由があったのかは定かでない。が、とりあえずどうでもいいと割り切って、登笈は半分までしか刃の残っていないそれをディザイアに向け返してみせる。
「握るにゃまだ早いんじゃねぇか。学習院の生徒だろ、お前。剣術のお遊戯とは話がちげぇぞ。重さも、覚悟も」
「じゃあ見逃してくれないかな。そしたら、僕はすぐにこんな物騒なの放り捨てて走って逃げるけど?」
「———……悪いが、それは応じられない相談だな。ネサラの崩壊は学習院の餓鬼共の死も含まれてんだ。でないと、ここを狙う意味がない」
「僕達の……?」
学習院は、言わずと知れた名門校。アテリア王国の王立学院に並んで、こぞって貴族が子を入学させる場所だ。それが目的でネサラを襲撃した。頷ける話ではある。
しかし、だとするなら。
「僕は貴族の子じゃない。枇杷の国で生まれた侍と農民の子だ。その上で聞く、僕も殺すのか……?」
「ん、あー、どうだろうな。そう言われりゃ、まぁメインターゲットじゃねぇけど。っていうか俺は冥土の土産にっつったろ。もうお前は死亡確定なんだよ。
だから、知りたいことがあんならそう回りくどい質問はやめて、聞きたいこと聞けよ」
「……」
「……あ? んだよ、そのほけーっとした顔やめろ」
「いや、その。優しいってのは絶対違うと思うんだけど、変な人だなって」
変に親切というか、無駄に正直というか。調子を狂わせるタイプの男。もっと違う場所で出会えたなら、また異なる印象を抱いたであろう青年。
どうせ始末するならさっさと殺せばいいものを、こうして登笈が剣を持つまでに至っている。あるいは、関係が一方的でなくなったからこそ感じたものなのかもしれなかった。
どうあれ、ディザイアは危険人物だ。鍛錬を積んだ騎士が難なくやられているところを見るに、今の自分では真正面から相対しても返り討ちに合うだろうと、登笈は太腿の震えを空いた左手で叩きながら考えていた。
狙いは変わらず逃亡の一手。右手に握るこれはただの抵抗のためだけに振るう。最終手段だ。ここから先、思考、腕、足、どれが止まってもお陀仏だろう。
「よくわかんねーな。気持ち悪ぃといやぁお前の方だと思うぜ。ついさっきまでのんびり生きてた奴が、こんなナイフ向けられても最適解ばっか叩き出して動きやがる」
彼はナイフを後ろ手に構え直して、
「お前が今それを手にして、俺が本気にならざるを得なくなった。これが俺の油断のせいだとは、正直思えねぇ」
そう言いながら深呼吸をした。一滴の気の緩みも存在しない、立ちはだかる騎士に放ったモノと同様の殺気。地面に足を縫い付けられるような、本能的な恐怖。
ディザイア=ラグナリアが、登笈を敵として再認識した。狩られるだけの草食獣ではないと。武器を持った、男だと。
「———らァッ!!」
「ッ!!」
未だに水っ気の残る石畳の道を互いに蹴って、腕を降れば刃物が当たる間合いまでぐんと近付けた。両者が瞳孔の開いた瞳をすれ違わせて、振り切った刃と刃が直後に乾いた金属音を立てて遂に衝突する。その間、石で鉄板を削ったような不協和音がきりきりと続き、噛み締めた口の隙間から荒い吐息が漏れ出る数瞬を超えた先で、足元の玩具からぱちんと火花が弾けた。
「ん、ッッ!!」
その直後、ディザイアが身体を肩からぐるんと回し、生んだ勢いそのままに登笈の腹を思い切り蹴飛ばした。
「〜〜〜ッ!?」
まだ体重も軽い小さな体躯は耐えることも出来ずに吹き飛ばされて、火煙を吹く建物の壁に叩きつけられる。喉の奥からありったけの二酸化炭素が吐き出され、ぶつかった衝撃と共に胃液が逆流した。打撲の痛みがすぐに全身を回り、頭から思考という機能が消え掛ける。
視界が薄れ、小さな星が幾つも幾つも光っては消え、光っては消える。かと思えば今度は右肩の付け根が壮絶な痛みを脳に訴えて、次は肋骨に熱が溜まる。今にも途絶えそうな意識の中で、だが登笈は相手が間髪入れずに迫ってきているのを確かにその絶え絶えの視力で捉えてみせた。
視たなら、指先が動く。足が動く。上半身を起こす。聴力も生き返る。動かせる。右肩が脳の指示を聞かないので、左手で崩れた瓦礫の角を掴み、そこに全体重を乗せて腰を浮かせる。
「終わりだ———ッ!!」
「あ、あぁああああああああああああッッッッ!!」
ナイフが近付いてくる。いや、ディザイアが近付いてくる。だが、真っ先に伸びるその刃先が胸元に触れようとしているのを無視して、登笈は腕と腰のバネを使った全身全霊の蹴打をその無防備な顎に命中———しなかった。
正確には、当たったが外れた。寸前で登笈の狙いに気付いた彼は、上半身ごと顔を横に逸らそうとしたのだ。結果、両足の蹴りは顔面の代わりに右上腕部の骨に甚大な打撃を与えたこととなる。顎でなくとも顔に当たれば意識を奪えただろうが、そうはならなかったらしい。
だが。
「い……、このクソ餓鬼がぁっ!!」
だが、予想外の反撃を受けたディザイアは、右腕に流れる尋常ではない痛みに下唇を噛み、左手で右の上腕部を押さえている。持っていたナイフも地面に落としていて、再び斬りかかるには時間を要するように見て取れた。
「……ぁ、やば」
一度でも退けたという安堵。生まれた達成感と遠ざかった死の足音が、寸前で踏み留めていた意識を急激に薄れさせていった。
眠たいわけでもないのに瞼が閉じていく。あともう少し、あともう少しと力を込めても、両肩から足先に至るまでが血流が途絶えたように深い沈黙を表して、終いには首からも信号が途絶えて、かくん、と視界が上を向いた。
———それにしても、登笈はあっちへこっちへ忙しいわね。……羨ましいわ。私には多分、出来ないことだもの。
「……まだ」
脳裏に響く、懐かしい声。決して忘れてはならない家族の存在。帰ると約束したあの場所。
リアーネ=ステンネルの顔が、頭が良くて、運動神経も抜群で、何でもそつなくこなす努力家の、あの寂しがり屋の姉の顔が、暗転した瞼に浮かんでいた。
「手こずらせ———やがって。どうすんだ、これから……まだ仕事残ってんだぞ。あぁ、認めるよ。いや認めねぇ。殺す前に、お前の名を聞かせろ」
ざり。と足音が混じる。左手でナイフを持ち直したディザイアだ。
彼は宙ぶらりんの右腕を放置して、登笈の喉元に今度こそその凶刃を突き当てていた。当然である。最早、拒む余力など少年には遺っていないのだから。
———ねぇ。貴方、名前は何て言うの?
「……と、おい。宮城、登笈」
———そ、私はリアーネ。今日から貴方の姉よ。え、年齢? ……貴方と一緒だけど、悪いかしら?
「そうかい。よぉく、覚えておくぜ———ッ!!」
そして。ディザイアが足で登笈の腹を押さえ、左手を振りかぶった瞬間。
二人の頭上を白光が包み込む。瞬き、光が落ち。瞬き、周囲に広がる独特な酸っぱい臭い。瞬き、雷撃が大地を砕く。




