最後の放課後⑦
「あぁああああああああああぁぁぁあ」
大間抜けに開かれた口から、肩の力がどっと抜けるような言葉にならない声が漏れ出て、立ち上る湯気とともに天井を舞っていた。
濡れた前髪を手でかきあげ、持参した紐で後ろ髪ごとくくって湯につかないようにしてから、ライアは首の根元まで湯の中に体を沈ませる。
そんな、風呂場ではありきたりな動作を見て、掛け湯をしていた登笈は、なにやってんだこいつ、と鼻で笑う。
湯気で白く濁った景色。足元から伝う熱気。裸で歩き回る同性の暑苦しさ。ぱしん、ぱしん、とおっさんみたくタオルで背中を叩く生徒の姿を横目に、股間を隠して湯船に急ぐ恥ずかしがり屋の姿。湯の中で眠気に襲われ、寝落ちしそうに瞼を開閉させる男に、湯熱で顔まで赤くする瘦せぎすの男。
ここは大浴場の男子湯。今日も今日とて、疲れを癒しに訪れる生徒で溢れる、学習院の憩いの場。ここでは貴族平民、先輩後輩という鎧の一切を脱ぎ捨てて、誰もがタオル一枚で語り合う。
「いやぁ、しみるなぁ。この身体の芯からあったまってくる感じ、一日の終わりって感じがたまんねぇ」
「もう色んなことがどうでもよくなるよね。はぁー、きもちい」
教師と生徒以外には誰も入ってこられないので、まさしく安らぎの場所である。隅々まで掛け湯を済ませた登笈も、濁音混じりに息をするライアの近くに座り込んで、その絶妙な湯加減に長く息を吐いた。熱すぎず、かといって温くもなく。浸かっていると自然に汗が額から鼻筋を伝うような、そんな長年の研究が垣間見える。たまに、これでも熱すぎてすぐに上がっていく人もいるにはいるが。
ともあれ、こうして一日の締めくくりには大浴場で体を清めるのが、学習院の———少なくとも登笈やライア、レイドのルーティンだった。
それぞれが個々で入る場合もあれば、予定を合わせて一緒に浸かることも、入り口で偶々(たまたま)出会ったらその日の愚痴を言い合いながら笑うこともある。一年目はレイドがもう少し熱くしてほしいと言い、ライアは温度が高いと真っ赤な顔で言い、登笈も底が深くて慣れないと要望を口にしていたが、今やもう全員がこの環境に適応してしまっている。
大浴場だけではない。狭いと言っていた寮の部屋、椅子がかたいと嘆いていた教室、花粉がきついとくしゃみをした庭園。どれも、三年目ともなればもう一つの故郷のようなものだ。ここで知らない誰かと出会い、学び合い、共に成長して、やがては巣立っていく。
出来れば、ずっと一緒に過ごしていたいと、そう願いながら、そうはならないことも何よりこの学習院で彼らは知っていくのだ。
登笈は、両親や幼馴染の痕跡を探しながら、ステンネル公爵家のあるセントホルンの街に帰る。ライアは実家に帰らず、自力で生きていく。レイドは帝国に戻り、力をつけて、家を潰した者達に復習を果たす。みんなそれぞれ目的があるから、友人を困らせることは言いたくないと、誰もが今後も共にとは口にしない。
「リング、もう大丈夫そう?」
「ん———あぁ、これか。さっきのこと、レイドから聞いたんだな」
聞かれて、ライアは湯に沈ませていた左手を持ち上げる。彼の人差し指には、白い金属で造られた指環が嵌められていた。
特に拘った意匠や、高そうな宝石も付いてはいない、言ってしまえばただの輪っかのようなそれは、この現代にあって魔道具と称される歴とした武具である。
魔道具リング。嵌めた者の意思、意志に従って、人智の届かぬ現象を発生させる装置。原初の時代に妖精より賜ったとされるそれは、アテリア王国を中心に数十以上の数が確認されているが、その総数は未だに不明のままだ。その殆どを貴族が独占しているためか、研究はあまり進んでおらず、如何にしてこのような魔法の道具が造られたのかは伝承に委ねられている。
代表的な例を挙げると、まずライアの持つレアンド公爵家の雷のリング。王都貴族のルーリア家が所有する炎のリング。四大貴族エイトリー公爵家の毒のリング。同じくヴェステン公爵家の氷のリングなど。共通しているのは、そのどれもがありきたりな指環の形をしていることと、その名称通りの能力を持っていること。
きっかけは確か今日のように、風呂に浸かる時もそれを付けっぱなしにしていることを疑問に思ったことだったか。特に隠そうともせず、ライアはこれが雷のリングであることを話したのだ。本来の継承者である兄が、護身用にと持たせてくれたのだと。
リングとは所有者の意思により発動する物。著しく心が揺れない限りは、基本的に暴発など起こり得ない。
だからこそ、あの場にいたレイドは即座に彼の心配をした。リングの正確な所在が知られることのリスクも踏まえて、ハオに黙秘も頼んで。
「……あれは、俺が悪い。こいつは俺の恐怖に反応したんだよ。あの、ハオって人に対する恐怖にな」
つい二時間ほど前の話を、天井を見つめて思い返しながらライアはそう語る。
ハオ=ロウゼン。彼女から感じた畏怖。あるいは覇気に対する感情が指令として伝わり、攻撃紛いのことが起きたのだと。
それを横で聞いていたレイドは、一度大きく息を吐いてから、ゆっくり目を開けた。
「心配性のハオのことだ。俺の友人だと聞いて試したんだろう。まさかリングを持っているとは思ってなかっただろうがな」
藪蛇、とはまた意味が違うか。と、彼はそう言って再び肩に湯をかけ、目を閉じた。そろそろ逆上せるのではないだろうか。登笈は訝しんだ。
「あぁ、そんな気はした。今思うとってだけで、あん時は余裕なんて無かったけどな」
「だったら、その余裕を作るのがお前の課題だな。一人で生きていくんなら必要な力だろう、それは」
「……だな。まだまだ未熟だ。つっても、どうやって生きていくかなんて、実は全く見えてないんだけどな」
石鹸で転んで、運ばれていくお調子者の生徒を眺めつつ、ライアは作り笑いをしてそう語る。自由にと言いながらも、やはりその道は厳しそうだと。
「まぁ、それもライアらしいよ。やりたいことやってた方がそれっぽい」
「単純に怠いしな。家督が貰えるわけでもねぇのに家の道具扱いなんて。正直、野垂れ死ぬならそっちのがまだマシな気がするわ」
「それは駄目だよ」
「突っ込む気にもなれない」
「えぇー……何かすんません」
容赦の無い言葉の拳がライアを襲う。
当然ながら、他の二人は本当の家族を失った身の上なので、生死の話にはかなり厳しい。
「でもあれだよね。自分から好きな人をさがしてさ、その家に婿入りする、とか。そういうのもありなんじゃない?」
半ばスイヨの受け入りだが、それを隠して登笈は手団扇で顔を扇ぎながら言った。
「そー、かもな。親が納得するくらいの血筋が前提にはなるが、いいかもしんねぇ。ただ、問題は良い人が見つかるかどうかだな」
「見つかるよ、きっと」
ライアは面倒臭がりですぐ逃げ出そうとする男だが、太い芯のあるいい奴だ。いざという時に頼れる兄貴肌と言い換えても良い。
だから、彼の周りからは人が去っていかない。何かと衝突するスイヨも、雑な絡みを受けるレイドも、そして登笈も。彼が好きで彼の近くにいるのだから。




