(30)
なんだろう、亜夢は考えた。まるでここから逃げて行った、と言わんばかりだった。慌てて閉めて、締め切らなかったという演出めいた扉の様子を怪しんだ。
「……」
しかしここを引くわけにはいかない。亜夢は扉に近づいていく。三崎のように反対側で罠を張っている場合がある。亜夢は取っ手ではなく、扉の真ん中を勢いよく押して扉を開いた。
「えっ?」
開いた通路の奥に、ウエーブのかかった茶色い髪の女性が立っているのを見つけた。
「アキナ?」
服装は間違いなくアキナで、髪型もそうだった。ただ、顔の前に髪がかかっていて、断言が出来なかった。
押し開いた扉が、再び閉まっていく。
アキナなら、思念波世界で確認できる。亜夢は非科学的潜在力を使って、扉の先にいる人物がアキナなのかを確認する。
『アキナ!』
床に煙が待っていて、足元が見えない。
低い天井から、いくつか柱が立っていて、周りには死角がたくさんあった。見える範囲にはアキナの姿は見えない。
『アキナ、いるの?』
この思念波世界は間違いなくアキナのものだった。しかし、本人の姿がない。つまり、精神制御されているのだ。
『アキナ、そこにいるよね。私の目の前』
さっきアキナが見た、少し顔をうつむけて、髪で顔が見えない姿が現れ、スッと亜夢の体を突き抜けて行った。
『えっ?』
今のは、何? 亜夢は思念波世界から現実に視線を戻した。
もう一度、扉を押し開いて、一歩中に踏み込む。
今までの通路と違い、天井も横幅も、少しずつ狭い感じがした。
奥に立っている女性が、顔を上げ、髪を後ろに流した。
「アキナ!」
亜夢は近づこうとしたが、違和感で足を止めた。アキナにしか見えない女性は、亜夢の声にピクリとも反応しない。
「アキナ? だよね……」
反応のない、うつろな目。アキナが精神制御されているのだとしたら、うかつに近づけばアキナの非科学的潜在力で倒されてしまう。
「……」
アキナは頭を手で押さえ、苦しい表情に変わる。
「痛い…… 痛いよ、亜夢…… 助けて」
亜夢は半歩踏み出すが、何かが歯止めをかけている。
「亜夢…… 来ちゃダメ」
「えっ? アキナ、今なんて」
「罠だよ…… もう私助からないから、亜夢だけでも引き返して……」
「アキナ、今助けるよ!」
亜夢は気持ちを振り切って、アキナの方へ走った。
通路の壁、床、天井に、電子回路のように青白い模様が光り、浮き出てきた。
「うわぁ あああああ」
亜夢はアキナに近づく半ばで膝をついて倒れてしまった。
頭を抱え、無意味に連呼した。
「くるなくるなくるな、くるなぁぁああ」
何度も何度も体が揺すられている。
足先や体は止まっているのに、頭だけがフラフラと安定しない。
あっちからこっちから殴られているように、頭に痛みが走る。痛みの八割ぐらいは感じなくなっているけれど、それでも叩かれるたび、痛みはある。
現実なのか、夢なのか、思念波世界なのか……
目を開いているのか閉じているのか、立っているのか横になっているのか。どこからくる感覚を信じていいのかわからなくなっている。
『亜夢……』
アキナが呼びかける。
アキナの顔がどんどん大きくなっていって、口を広げると亜夢の体を飲み込んでしまう。
暗闇。
そして水が流れる音がする。
その間中、頭は上下左右に叩かれ、動かされ続けている。
こんなに揺れていると、まともに立ち上がられない。
亜夢は満たされた水で呼吸が出来なくなった。
『苦しぃ……』
息を吐き切って、苦しくて死にそうだった。
それでも体は息をしようとして、今度は水が鼻から口から入り込んでくる。
『死ぬ』
金髪の少女が、手を差し伸べた。
ハツエちゃん? ハツエちゃん、助けて。
金髪の少女が分裂する。
もう一人の少女は腕組みして言う。
『違うぞ』
『助けて、ハツエ』
『この手を掴むのよ』
『違うぞ。考え方を変えろ。概念を突き崩せ』
『助けてあげる』
『違うぞ。わかるだろう』
手を差し伸べてくる天使のような少女と、腕組みをしてじっと見下ろしている少女。
亜夢は手を伸ばして、少女の手を取ろうとする。
『違う!』
手と手が触れ合う瞬間、亜夢は少女の手を叩いた。
すると空間すべてを満たしていた水が、塵のように分解されていく。どこにも見えなかった水面が下がり、亜夢の顔がその水面の上に出る。
天使のように見えた金髪の少女は、黒い霧に包まれた。
目だけが、亜夢の方を睨んでいる。
『ふん、この程度で逃げれると思うなよ』
亜夢は水を飛び出して、高く宙を舞い、ひねりながら弧を描いて着地した。
亜夢は頭を押さえながらも立ち上がり、通路をアキナの方へ進んでいった。
「この通路を渡り切れば……」
進もうとする亜夢の足が震え始める。
「どうして? 動いてよ!」
亜夢は自身の足を叩き、首をひねる。
「感覚がない……」
再び襲ってくる強い頭痛。
干渉波の何十倍もつよいものを流している、亜夢はそう思った。この壁、この床、この天井…… すべてが発信装置なのだ。
かろうじて動く手を動かし、手首の内側を付けて指を開く。
「光球…… で……」
手の平の中に光が集まり始める。
突き出した手から放たれた光球が床を突き破る。
「!」
亜夢は急に、体が軽くなるのを感じた。
「亜夢、勝負」
亜夢は耳を疑った。
アキナがものすごい形相で亜夢を睨みつけている。
「聞こえないなら、こっちから行く」
アキナは足を肩幅ほどに自然に開き、腰をすこし落として、拳を引いた。