【完結記念SS】アヤの記録5――豪雨の減衰
世界は「濁った水」と「緑の虚構」に二分されていた。
高の駆る旧式トラックのワイパーは、フロントガラスを叩きつける圧倒的な豪雨を前に、すでにその用を成していなかった。貴州の険しい山岳地帯。天網の脳髄たる超巨大データセンター『西の心臓』へと続く唯一の泥道は、完全に濁流の川へと変貌している。
だが、トラックの荷台にこもるアヤの肌を刺していたのは、冷たい雨の雫ではない。
(……空気が、沸騰してる)
アヤはアタッシュケースを抱きしめたまま、自身の耳を両手で塞いだ。
耳を塞いでも無駄だった。鼓膜ではなく、脳の神経系に直接滑り込んでくる強烈な高周波キャリア波。天網の中央コアが放出する限界出力の「電磁スモッグ」が、大気中の無数の雨粒を媒介にして乱反射し、視界のすべてを不気味な『異常なし(オールグリーン)』の残像で満たしていた。
脳が、偽りの平和を強制的に信じ込まされようとして激しく拒絶反応を起こす。実名スコアを持たないアヤにすらこれほどの負荷がかかっているのだ。
「林……!」
隣を見つめたアヤの息が止まる。
林の脳は、すでに完全にオーバーフローを起こしかけていた。手元のコンソールには、他国プログラムの『マスタークロックの乖離』と、中央データセンターが放つ防壁のログが、数百万行のバグノイズとなって流れている。林の瞳は濁り、焦点は完全に奪われていた。
「だめだわ、白さん! 天網のキャリア波の出力が強すぎて、モジュールのインピーダンスが測定不能を起こしてる!」
荷台の奥で、陸が豪雨の轟音に負けない声で叫ぶ。
「これ以上進んだら、私たちのツールどころか、林の脳そのものが天網の論理に完全同期されて『消去』されるわ!」
白のノートPCの画面が、激しいノイズと共に次々とデッドロック(論理ロック)の警告を吐き出していく。彼らは文字通り、世界の脳髄の生体ジャミングに圧殺されようとしていた。
「高さん、車を止めて……!」
陸が運転席へ叫ぼうとしたその時、アヤが動いた。
「止めないで」
アヤは林の正面へ回り込み、彼の濡れた両頬を、自身の冷え切った手のひらで強く包み込んだ。
トントン、トントン。
手のひらから林の肌へ、直接刻み込むアナログの拍動。
雨のビートすら跳ね除ける、純粋な生体メトロノーム。天網のデジタルな基準クロックに汚染されていないアヤの心臓の振動が、林の耳の奥、脳の最深部へとバイパスを繋いでいく。
「林、見て。緑の画面を見ないで。私の心臓だけをサンプリングして」
アヤの声が、林の意識の底に冷徹なクサビを打ち込む。
林の脳内で暴走していた天網のキャリア波が、アヤのリズムによって一気に接地され、ノイズが減衰していく。林の瞳の奥に、凍りつくような鋭い知性が急速に呼び戻された。
「……アヤ。聴こえる」
林の手が、アヤの手の上に重なる。彼はアヤのリズムを脳の基準クロックに据えたまま、濁った視界の向こう、豪雨に煙るカルストの地形を見据えた。
「陸さん、インピーダンスを3.8オームへ強制降下。白さん、他国コードのジッターを、天網が『雨の環境ノイズ』としてアーカイブに保留(静観)するようヘッダーを書き換えて。奥底に隠された異常値のログの『隙間』がそこにある」
林の指先がキーボードを正確に叩く。
アヤの生体クロックに支えられた林のアジャストが、天網の巨大な嘘の皮膜を内側から引き裂いた。
次の瞬間、トラックの行く手を阻むように起動しかけていた、天網のセキュリティゲートの論理回路が数秒間のデッドロックに陥る。
「異常なし」を騙り続けた鉄の関門が、豪雨の中で重い金属音を立てて物理的に硬直した。
「高さん、今!」
高が無言でアクセルを踏み込む。旧式ディーゼルエンジンが濁流を力強く蹴り上げ、トラックはセクター最後の防壁をすり抜けて、闇の死角へと滑り込んだ。
フロントガラスの向こう、激しい豪雨の帳が僅かに割れた瞬間。
濁流と泥濘に囲まれた最果ての地、貴州省のデータセンター『西の心臓』の、巨大で不気味な黒いシルエットがその姿を現した。
世界の嘘をオフラインにするための『最下層』での決戦まで、あと、わずか数キロ。アヤは林の手を握りしめたまま、ついに牙を剥いた天網の攻撃を、生の知覚で見つめ返していた。




