【完結記念SS】アヤの記録6――虚構の言語、生身のパルス
貴州省データセンター『西の心臓』の管制区画。その空間は、アヤにとって目眩がするほどの不快感に満ちていた。
壁一面に並ぶ巨大な統合ダッシュボードが、目に痛いほどの深緑色を放っている。だが、アヤの耳と肌は、そのすぐ裏側で狂ったAIが悲鳴を上げ、他国プログラムの『マスタークロックの乖離』がインフラのあちこちを窒息させている物理的な摩擦音を捉えていた。
この部屋にいる人間たちは、誰もその現実に気づいていない。
「周、お前は何を言っているんだ。ダッシュボードを見ろ、管区内はすべて『緑』だ。異常など何一つ起きていない」
冷淡な声で言い放ったのは、このデータセンターの総責任者、馬主任だった。
彼はスマート端末の画面を指先でなぞりながら、書類の数字と画面のステータスだけを見ている。彼にとっての現実とは、この物理的な部屋でも、外の豪雨でもない。システムが定義した「記号の正常さ」だけだった。
その馬主任の前に、立ちはだかったのは、周だった。
「画面が緑なら、外のドローンが人間を閉じ込めている檻も『天災のトラブル』だってか? 目を開けろ、馬主任。お前らが数字の保身のために趙分局長の嘘の報告書を受け入れたせいで、天網の脳髄はもう内側から腐り始めてるんだよ」
周の声は、この部屋の電子音声のように調律されてはいなかった。低く、しゃがれた、物理世界の質量を持った声。
アヤは、コンソールの影に身を潜めながら、二人のやり取りをただじっと見つめていた。
非登録者であるアヤの知覚は、彼らの「言葉(論理)」をそのまま受け取らない。彼らの肉体が発する微細なバイパスと、空間のインピーダンスの乱れとして変換して処理する。
馬主任のバイタルパルスは、驚くほど平坦だった。
実名スコアの頂点に立ち、電磁スモッグ(高周波キャリア波)に脳の予測符号化を完璧に調律された男。彼は、自分の統括する世界が破綻しているという「エラー」を、脳の認知レベルで強制排除しているのだ。だからこそ、現実の惨劇を目の前にしても、彼の心拍数は1ヘルツも乱れない。
(……この人は、生きながらシステムの中に閉じ込められている)
アヤは冷たい恐怖を覚えた。実名スコアを持たない「闇っ子」として育った自分は、都市のインフラも配給も受けられず、常に生存の危機に晒されてきた。けれど、記号の檻に飼い慣らされ、目の前の現実の歪みすら見えなくなってしまった馬主任のような生き方に比べたら、どちらが本当に「存在している」と言えるのだろうか。
「馬主任、お前がいくら『防壁』で論理ロックをかけようが、物理的な回線は配線で繋がってんだよ。俺たちが下層から直接プラグを抜けば、お前らの美しい虚構は一瞬で砂に帰る」
周が懐からテスターを取り出し、コンソールの基盤へと迷いなくクサビを打ち込む。
その瞬間、馬主任のスマート端末の画面が一瞬だけ不規則なノイズに歪んだ。馬主任の完璧だった眉が、初めてピクリと動く。
アヤは、自分の胸の奥で脈打つ、心臓の鼓動に触れた。
言葉の嘘で世界を塗り替える大人たちと、それを爪の先で剥ぎ取ろうとする周たちの戦い。
私たちは今、このデータセンターのさらに奥、暗黒の『最下層』で、狂ったAIとの命がけの絶対同期を始めようとしている。
アヤはアタッシュケースを強く抱き直し、記号に支配された管制室の死角へと、自らの生の知覚だけを研ぎ澄ましていった。




