【完結記念SS】高の記録
旧式軍用四輪駆動トラックの運転席で、高は無骨な指先で革巻きのステアリングを愛おしそうに撫でた。
彼が操るこのカモフラージュ塗装の車体には、スマート社会の標準装備である自動運転AIも、全土監視システムに位置を同期させるGPS端末も一切存在しない。現代の市民から見れば、それは「旧時代の鉄の棺桶」だった。だが、天網の低軌道量子通信衛星がシャープな金属粒子のように空を泳ぐこの世界において、電子制御を完全に排除したこのトラックだけが、システムに検知されない唯一の「動く鉄の死角」として機能していた。
高は、かつて国家の最高機密を運ぶ軍の特殊輸送部隊に籍を置いていた。天網の黎明期、デジタルな地図がまだ不完全だった時代に、荒涼たる泥道やGPS圏外の荒野を、生身の知覚とタイヤの摩擦係数だけで走破してきた、実務派だ。
「高さん、フロントのデフロックのインピーダンス、基底値まで戻しておいたよ」延慶のガレージの暗闇から、ネットワーク技術者の白が、手元のアナログテスターを工具差しに収めながら声をかけてくる。「助かるよ、白。あそこのセクター境界ゲートは、AIの狂作動で物理的にロックされてる。ミリメートル単位の車体コントロールでこじ開けるには、足回りの正確なフィードバックが要るんだ」高は彫りの深い顔を僅かに動かし、バックミラーに視線を落とした。
荷台の暗闇には、アタッシュケースを抱きしめた非登録者の少女・アヤと、一週間の過酷なデジタルデトックスを経て瞳に生身の知覚を取り戻しつつある林が息を潜めている。
………………
トラックが延慶の廃墟を出発して数時間。激しい豪雨がフロントガラスを叩きつけ、ワイパーはすでにその機能を失っていた。前方に見えてきたのは、昌平セクターの境界を隔てる巨大な『水門ゲート(狂作動の関門)』だった。
他国から放たれた侵略プログラムの「マスタークロック乖離バグ」の直撃を受け、ゲートを制御するAIは完全にシステムロック状態に陥っている。ダッシュボードが『オールグリーン(異常なし)』の嘘を表示し続ける裏側で、巨大な鉄扉は通過する者を拒むように物理的にホールドされていた。
「くるわ……! 林、時計の二時の方向、変異したドローンが二機!」荷台からアヤの叫びが響く。同時に、林がその空間位相を手動モジュールでアジャストし始める。
林の「同期」によって、ゲートの油圧シリンダーが一瞬だけ、ガガガと耳障りな金属音を立ててトラック一台分ほどの隙間を開けた。「高さん、今!」陸の叫びが無線を震わせる。高の瞳が、一瞬で軍用ドライバーの冷徹な光へと切り替わった。
「しっかりつかまっていろ」短く吠えると同時に、高は旧式ディーゼルエンジンのアクセルを床まで踏み込んだ。過給機が猛獣のような咆哮を上げ、黒煙が豪雨の闇を切り裂く。泥濘の路面。タイヤがトラクションを失いかけた瞬間、高のクラッチワークと繊細なステアリング修正が、ミリ秒の遅れもなく車体をコントロール下に引き戻した。
右のサイドミラーが、水門の鉄扉に掠れて火花を散らす。その距離、わずか数ミリメートル。システムが論理矛盾のバグで再びゲートを完全閉鎖する、その「デッドロック・ウィンドウ(一瞬の硬直時間)」の隙間に、高は重い鉄の車体を弾丸のように滑り込ませた。
――ガツン! リアバンパーがゲートの端を激しく叩いたが、トラックの速度は落ちない。濁流を力強く蹴り上げ、トラックは天網の監視網が届かない「デバイスの墓場(荒野)」へと脱出速度を上げて突き抜けた。
………………
「すごい……本当にあの隙間をノーブレーキで抜けてしまったんだね」白が助手席から、呆れたような、だが深い信頼を込めた声で笑った。
高はバックミラーで、関門の向こう側で虚しく火花を散らす警備ドローンの残骸を一瞥し、再び泥濘の荒野へと視線を戻した。天才たちのコードや、アヤの刻む生体メトロノームが世界の嘘を暴き立てるのだとしても、その「生のパルス」を決戦の地である貴州のカルストの要塞まで物理的に運び届ける器が必要だった。
デジタルがデジタルを書き換える過程で世界がどれほど狂おうとも、この四本のタイヤが地面を掴んでいる限り、高のドライビングがブレることはない。
「お前たちが天網のプラグを抜くその瞬間まで、俺のトラックは絶対に止めさせん」無骨なドライバーは、激しい豪雨の帳の向こう、南西の最果てで牙を剥く『西の心臓』を見据えながら、旧式エンジンのギアシフトをさらに力強く叩き込んでいた。




