【完結記念SS】白の記録
昌平セクターを北に外れた、天網の電磁波が届かない山間の廃墟――延慶。草に埋もれた錆びついた通信ラックが並ぶその拠点で、白は手元のアナログテスターの針をじっと見つめていた。細い指先で同軸ケーブルのインピーダンスを測定する。
画面の向こう側の位相のズレを直感で見抜く林の「パズル脳」や、ドローンの摩耗音を聴き取るアヤの「野生の知覚」のような、特殊な能力は自分にはない。
元・公安部情報管理局第七分局のネットワーク技術者である白の仕事は、地味で退屈な数値の維持(器械出し)だった。電圧の基底値、抵抗、波形の減衰率。電子制御を剥ぎ取られた旧世代のデバイスたちが、この廃墟で「正しく息をする」ための環境を、ミリ波の狂いもなく完璧に維持し続けること。それが彼女の役割だった。
「白さん、お茶が入ったよ。陸さんが持ってきたカモミール」荷台の影から、アヤが湯気の立つマグカップを手に歩み寄ってくる。実名スコアを持たない非登録者の少女。アヤが隣に座ると、白はテスターを置き、小さく息を吐いてマグカップを受け取った。「ありがとう、アヤ。……お前、本当にあの人に似てきたね」「あの人?」アヤが不思議そうに首を傾げる。白の視線は、アヤのその澄んだ、電磁スモッグに調律されていない瞳の奥へと向けられていた。「お前のお母さんだよ。林の先輩技術者だった、阿藍」
………………
かつて昌平セクターの基幹ネットワーク設計の最前線にいた頃、白は阿藍のすぐ下に就いていた。
現体制(趙分局長や馬主任ら)の実績偽装と数値至上主義による強硬な管理方針が固まりつつあった時代。阿藍はすでに、天網のダッシュボードが『緑色』を維持するために、現場の微細なエラーログを最適化という名目で「消去」し始めている狂気に気づいていた。
『白、システムが嘘を吐き始めたら、人間は自分の生の知覚でしか狂いを修正できなくなる。もし私に何かが起きたら……この国に最初から登録されていない、純粋なクロック(命)を遺すわ』そう言い残して廃棄インフラ区画へと消えていった阿藍の背中を、白は今でも鮮明に覚えている。
その後、白自身も「規律違反」の濡れ衣を着せられて退職へと追い込まれ、登録を抹消(行方不明扱い)されてこの延慶の廃墟へと流れ着いた。「お前のお母さんが言っていた通りになったよ。システムは自らが狂っていることに気づけず、内側から窒息し始めている。そして、お前が連れてきたあの不適合者の林が、その歪みを引き裂くクサビになろうとしている」白はアヤの小さな右手に触れた。アヤの心臓が刻む、アナログな基準クロック。それはかつて阿藍が「完璧な管理社会の盲点」としてこの世界にサンプリングした、唯一の希望の波形だった。
…………………
「おい、白! トラックの無線モジュールの電圧が0.2ボルトドロップしてるぞ。陸がコードのアップデートをかける前に、インピーダンスをアジャストしてくれ!」拠点の奥、カモフラージュ塗装の旧式軍用トラックの影から、周の声が響く。
周は工具を握り光ファイバーの融着に追われていた。周もまた、黎明期に泥まみれで線を繋いでいた、白と同じ「実務派」の人間だった。「今行くよ、周。まったく、せっかちなんだから」白はマグカップを置くと、使い古した工具差しを腰に回し、再びアナログテスターを手に立ち上がった。
地味で、誰の目にも留まらない保守作業。けれど、林のパズル脳がその特異な適応能力を100%発揮できるのも、アヤの野生の知覚が林の「生体メトロノーム」として稼働できるのも、すべては白がこの拠点の電圧とインピーダンスを完璧にホールドしているからこそだった。「私は世界を変えるコードは書けない。だけど、あなたたちが世界の嘘をオフラインにするその瞬間まで、この鉄の死角だけは、絶対に死守してあげる」
白はアヤの頭を優しく撫でると、オイルとハンダの匂いが満ちるガレージの奥へと、確かな足取りで歩みを進めていた。天才たちの逃避行を陰から支える、技術者としての誇りをその背中に宿して。




