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第5話 美しい檻

 パジェロが吐き出す重い駆動音だけが、電波の途絶えた険しい山道を揺らしていた。傾いた西日が切り立った岩肌に長い影を落とし、山脈の向こうへと沈みかけている。インパネの薄暗い緑色の光だけが二人の顔を静かに照らし始めていた。


助手席の林は、窓の外を流れる荒涼とした原野を見つめていた。バックミラーの端には、先ほどまで自分がいた昌平セクターのスマート都市が、不自然なほど青白く発光する幾何学的な光の塊となって遠ざかっていくのが見えた。

周は、ヘッドライトが照らす未舗装の悪路に視線を固定したまま、手動のシフトレバーをローギアに叩き込んだ。その横顔には緊迫感はなく、冷めた目が西日の落とす影を見つめていた。

「林くん。君は生まれてからずっと、あの完璧な『天網』に囲まれて育ったから実感が湧かないでしょうがね」


 周の声が、エンジン音に混じって車内に響いた。

「あの美しい檻はね、二〇三〇年代に突如として完成したわけじゃない。二十年以上前から、この国が生々しい歪みを一つひとつ圧殺しながら、積み上げてきた歴史の系譜そのものなんですよ」

パジェロが大きくバウンドし、車内が激しく揺れる。周はハンドルを強引に切り直しながら言葉を続けた。


「僕が若かった頃、二十一世紀初頭の中国には、一人っ子政策の違反で出生届が出されず、戸籍すら持たない『闇っ子(黒孩子)』と呼ばれる子どもたちが地方に何百万人も存在していた。国家が正確な人口すら把握できず、地方の役人は自分の出世のために中央へ都合の良い嘘の統計を報告する……それがかつてのこの国の現実だったんです 。中央の指導部にとって、その『数の不透明さ』こそが最も不気味で、恐ろしいアキレス腱だった」


 国家がその不透明さを埋めるために最初に打った布石が、二〇一〇年代から始まったインターネットと携帯電話の「実名制」の徹底だった、と周は言った。すべてのデジタル活動に身分証の登録と顔認証が義務付けられ、スマホ決済が国民の唯一のインフラとなったことで、個人のすべての購買履歴、移動履歴、人間関係が自動的に一元化される強固な基盤が完成した。


「そこへ、僕らが毎日扱っている『天網工程』という全土の監視カメラ網が結びついた。それにね、林くん。本当に凄まじかったのは、その最先端のハイテクの足元を、人間による超アナログな相互監視網――『グリッド管理(網格化管理)』で固めたことですよ」


 各マンションや住宅地区に顔認証ゲートを義務付け、地域ごとに配置された「網格員(グリッド員)」と呼ばれる末端の人間が、AIの弾き出したデータを基に住民を物理的に見張る。世界の製造業と市場を独占し、富の絶頂を迎えたはずの今の中国だが、その内実は、信用スコアによって完全に固定化された格差社会だった。


「だからこそ政府は、国民の認知を麻痺させるために、脳内のドーパミンを効率よく分泌させる国家製ゲームやショート動画を戦略的に社会へ浸透させた。不満を抱く認知の余裕すら奪う良く考えられた檻ですよ。君たちは、その中で飼われていた歯車だったってわけです」

 林はポケットの中のスマートフォンに目を落とした。電波は圏外のままだ。普段なら数秒おきに届くゲームの通知も、動画のポップアップも、今は何一つ降ってこない。ただの冷たいガラスの板と化した端末を見つめながら、彼は言葉にできない奇妙な空白感を覚え始めていた。


「……でも、それが、今夜壊れかけている。一体、何が起きているんですか?」

林は、静まり返ったスマートフォンの画面をしまいながら、乾いた声で尋ねた。

「僕にも全貌は分かりません」

周はパジェロのフロントガラス越しに、うっすらと夕暮れの紫へと変わりつつある空を見上げた。天頂には、地上の異変などどこ吹く風で、低軌道量子通信衛星の群れが冷徹な光の粒となって移動している。

「ただ、確実に言えるのは、第十四中継鉄塔の事故という物理的な隙を突いて、僕らのシステムが外側から受けている負荷は、単なるバグのレベルじゃないということです。防衛プログラムにすら感知されないほど『正常な命令』に擬態した、極めて精緻な未知の暗号化コードが入り込んでいる。天網の脳髄は、自らが盲目になっていることにすら気づかないまま、内側から乗っ取られかけている。……趙局長がいくら報告書を作文して誤魔化そうとしても、この歪な構造の檻が耐えられる限界は、そう長くはないはずです」


パジェロは険しい山奥の道へと突き進んでいった。これから自分たちがどのような世界の軋みを目撃することになるのか、林にはまだ何も分からなかった。


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