第4話 脱出
分局長室の液晶ガラスの向こうで、趙分局長と取り巻きたちが、中央へ送信するための「天災の言い訳」をヒステリックに推敲し始めた。その狂騒から静かに目を背け、ハッチから傷だらけの手で這い上がってきた男は、呆然と立ち尽くしていた林の肩を強く小突いた。
「出よう。ここには僕らはいない方がいい」
男はヨレヨレの作業着のポケットに工具を突っ込み、顎でドアを指し示した。
二人は、エリートたちがコンソールにしがみついている隙に、静かに部屋を抜け出した。
廊下へ出ると、館内は奇妙な静寂と、水面下のパニックが澱んでいた。
天井の防衛ドローンたちは、強制ショートによって電波を失い、床やデスクの上にただの鉄の塊として無様に転がっている。しかし、壁の統合ダッシュボードだけは、分局長室の命令に従って瑞々しい緑色(正常)を叫び続けていた。局員たちは、手元のフリーズした端末と、画面上の「異常なし」という数字の並びの板挟みになり、誰もマニュアルにない物理的な行動を起こせないまま、ただうろたえていた。
「こっちだ。天網のグリッドセンサーが死んでいる勝手口がある」
男は、一般局員が立ち入らない配管保守用の細い鉄製ハッチを抉じ開け、林を西日の差し込む薄暗い踊り場へと誘導した。
コンクリートの階段を自らの足で下りていく間、林はポケットの中のスマートフォンを取り出して画面を見たが、電波遮断のせいで完全に『圏外』のままだ。通知のインジケーターは消灯している。
手動の勝手口から屋外へ出ると、午後三時半すぎの昌平セクターの街並みが広がっていた。
表面上は、いつも通りの平穏な午後の風景だった。自動運転のシャトルバスが走り、スマートモールのホログラム広告が瑞々しく明滅している。しかし、アルゴリズムには僅かな異常が現れ始めていた。交差点のスマート信号の切り替わりが、コンマ数秒ずつランダムに遅れ、完全自律駆動の電気自動車たちが、お互いの接近をミリ秒単位で過剰に警戒して、不自然な急ブレーキを踏み鳴らし始めている。
男は、都市を囲むスマート防衛フェンスの死角――中継鉄塔の事故によって局所的に通電が停止している境界の隙間――を通って、感知されないようにセクターの外側へと林を連れ出した。未開発の荒涼とした山道を数分歩いた先、崖の窪みに隠されるようにして建てられた、錆びついた亜鉛メッキ鋼板の古いガレージが姿を現した。
「……あの、あなたは一体」
林がようやく声を絞り出すと、男はガレージの南京錠を工具で力任せに引き抜きながら、初めて自分の名前を口にした。
「周だ。情報管理局の、ただの保守員だよ」
周はそれ以上の説明をせず、重い鉄扉を開けた。奥に、埃をかぶった重厚な鉄の塊が鎮座していた。一九九〇年代製の骨董品、三菱・パジェロ 。電子基盤も、天網への自動同期モジュールも、GPSの追跡タグすら一切搭載されていない、アナログ時代のディーゼル車だった 。
周が運転席へ飛び乗り、手動のキーを回してセルモーターを回すと、金属の摩擦音とともに、黒い重油の煙を吐き出しながら、四気筒のディーゼルエンジンが目覚めた。車体全体が、生々しくガタガタと揺れ始める。
「乗りなさい、林くん」
周は手動のマニュアルシフトを叩き込み、クラッチペダルを踏み込んだ。
林が助手席の重いドアを閉めると同時に、パジェロはスマート都市のクリーンな静寂を引き裂き、山岳地帯を目指し移動を始めた。




