第42話 絶対同期
林の指先が固定した金属ダイヤルの位置は、天網の分散OSが時間の矛盾に脳髄を最も激しく窒息させている、わずか一ミリ秒の空白の継ぎ目そのものだった。
「――マージ(融着)、執行!」
陸が浸水した床の上で、叫びながらデバイスの最終トグルスイッチを重くパチリと引き下げた。
その瞬間、アタッシュケース型のデバイスの軍用規格基盤から、ジェイソンが自らの知能の全てを注ぎ込んで逆算した核心コード――『全逆算キー』の超高頻度パルスが、物理光タッピングの導線を通じて、メインフレームの最下層カーネルへと一気になだれ込んだ。
ピピッ、ピピピピピピッ!
オシロスコープの緑色の画面で狂ったように跳ね回っていたサイン波の濁流が、林の固定したダイヤルの位相へと吸い込まれるようにして、一瞬で完全な水平線へと収束していった。インジケーターが、これまでにない眩いほどの「深緑色」を灯して静止する。
他国プログラムのバグによる「一時間に一ミリ秒のズレ」を、生身の人間がリアルタイムに手動ダイヤルを回して辻褄合わせし、時間の狂いを力ずくの物理層のロジックで相殺・ねじ伏せる、真の絶対同期の執行だった。
「……やった! 貴州のメインフレームのマスタークロックが、完全にホールドされた……!」
陸がハンディコンソールのレジスタログを見つめたまま、その理知的な双眸を大きく見開いて震えた。
それだけでは終わらなかった。周先輩が事前に派閥の連絡員とすり合わせておいた隠密ルーティングの成果、そしてジェイソンが全米のインフラを救うために仕込んだ双方向パッチの効果が、太平洋を越える秘匿衛星回線を通じて一気に世界中へと逆流していった。
中央のシステムに対して『全土、完全正常』という本物の同期パルスが滑らかに還流を始める。
時間の歪みという怪物の手綱は、生身の知覚とロジックの融着によって完全に引き剥がされ、完璧な檻はそのコアから静かに機能を停止し始めていた。
「よくやりきりましたねぇ、林くん、アヤちゃん」
背後で、周先輩がシニカルな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥に確かな感嘆の熱を灯して二人を見つめていた。
液晶画面の嘘を盲信し、足元の濁流と火災のなかに取り残された馬主任の悲鳴は、とっくに地下室の不気味な静寂のなかに消えていた。世界を窒息させていた怪物の息の根をついに止めたのだ。林は、自らの左手の甲に残るアヤの指先の確かな温もりと、脳髄の奥底で世界のリズムを完全に捉えきった絶対的な手応えを噛み締めながら、押し寄せる浸水の冷たさを忘れて、激しい鼓動とともに静かに安堵の息を漏らすのだった。




