第41話 最下層
滝のように流れ落ちる冷却水の濁流を突き抜け、林たちがたどり着いたのは、最下層の深淵、全土の基準時計を統括する『マスタークロック・コア』の格納室だった。
そこは、これまでのスマートインフラのクリーンなイメージとはかけ離れた、異様な熱気とクラッシュの気配に満ちていた。
部屋の中央に鎮座する、超巨大なメインフレームの筐体。他国プログラムと天網の中枢OSが噛み合い、互いの時間の矛盾を力ずくで補正し合おうとした結果、発熱は限界に達し、超大型冷却水ポンプの配管からは白い熱い湯気が激しく噴き出していた。さらに、線状降水帯による氾濫水が床を浸たし、ショートしたガリウム合金回路の火花が黒煙を立ち上らせている。水没と火災の二重のタイムリミットが、すぐ足元まで迫っていた。
「林くん、デバイスを直結して! ここにあるコアの変調周期は、さっきの特訓のさらに数倍、毎秒数万回という狂った速度で自己変異を起こしているわ!」
陸が浸水した床に膝をつき、アタッシュケース型のデバイスの光マルチピンコネクタを、メインフレームのマザーボードの最深部へと突き刺した。
オシロスコープの緑色の画面が立ち上がる。だが、そこに映し出されたのは、もはや幾何学的な等高線すら失い、まるで爆発の炎のように不規則に跳ね回り、ねじれ続けるパルスの濁流だった。普通の人間の目には、ただの光の雑音にしか見えない破滅のサイン。
林の右指がアナログダイヤルを握りしめた。しかし、あまりの超高頻度の変異の前に、高次元化したはずの彼の脳髄すら一瞬、処理の迷宮へと叩き落とされそうになる。
その瞬間、アヤが林の真後ろに立ち、彼女の冷たい小さな手のひらを、林の左手の甲へとそっと重ねた。
アヤの漆黒の瞳は、黒煙の這う空間の最深部を睨み据えていた。彼女の耳は、大雨の物理音と火災の爆音を突き抜けて響いてくる、水没しかけた大型冷却水ポンプのインバーターモーターが、中枢からの給電周波数の狂いによってミリ秒単位で発している、凄まじい多重変調の不協和音を完璧に捉えていた。大河の氾濫の震動と、怪物の脳髄が窒息する一瞬の静寂。
トトトト、トントントン、トト、ト。
アヤの指先が、林の皮膚を正確に、かつてない激しい変拍子と多重ストロークのリズムで叩き始める。
ジェイソンの残した最後のデバッグコードと、アヤの刻む物理世界の崩壊の鼓動。林はオシロスコープの光から意識を完全に切り離した。クリアになった彼の空間認知領域が、アヤの指先から流れ込んでくる多重震動の隙間だけを、脳内で直接三次元の位相構造物としてリアルタイムに映像化してゆく。
「林くん。君の限界を、今ここで完全に超えなさい!」
背後から響く、周の低く確固たる声。
「……みえた」
林の唇から、言葉が漏れた。
雑音の濁流のなかに、中枢AIが一秒間に数回起こす論理的な硬直――「一ミリ秒の空白時間の継ぎ目」が、圧倒的な奥行きを持って鮮やかに結像した。
アヤの指先が、これまでで最も激しい刺激を林の皮膚に与える。その感触と完全に同調し、林は肉体の条件反射だけでダイヤルを滑らかに回しきり、完璧な位置でアジャストして固定した。ジェイソンの核心コードを直撃させる、最終執行の瞬間だった。




