第39話 馬主任の防壁
分厚い耐火扉を周がこじ開けた瞬間、中央管制室のなかに黒い化学煙と濁流がなだれ込んだ。
だが、部屋のなかに鎮座する無数の超大型モニター壁は、どこまでも瑞々しい『健全度:正常』を表示し、完璧な世界の継続を訴え続けていた。その光のなかに浮かび上がっていたのは、白髪交じりの髪をかきむしり、血走った目で統合ダッシュボードの画面を凝視している総責任者、馬主任の姿だった。
「お前たちは何者だ! ここは国家最高機密セクターだぞ!」
馬主任は腰を抜かしたように床の濁流へへたり込みながら、手元の端末を盾のように林たちへと突きつけて叫んだ。彼の足元にはすでにくるぶしまで水が迫り、天井の排気口からは火災の黒煙が噴き出しているにもかかわらず、その視線は手元の画面の『緑色の数字』から一瞬たりとも離れようとはしなかった。
「すぐに防衛ボットを起動して制約(鎮圧)してやる! 画面には不審なノイズ以外のエラーは一枚も立っていない! 水没も火災も、すべて敵対陣営による卑劣な仮想デマ工作だ! システムが正常(緑)と言っている以上、これが絶対の国家の事実なんだ!」
ヒステリックに画面の嘘を盲信し、侵入者を消去しようと防衛ロックのマスターキーへと震える指先を伸ばすエリート官僚。
その盲執の前にぬっと立ちはだかったのは周先輩だった。
「いい加減にしなさいよ、馬主任」
周の、いつになく冷徹な、しかし低く響く声が管制室の喧騒を圧殺した。周は馬主任の手首を力ずくで掴み、その視線を無理やり、黒煙の這う足元の濁流へと引きずり下ろした。
「お前の見ている世界はね、ただの液晶の嘘だ」
現場を知り尽くした技術者としての重みと、エリートたちへの激しい皮肉が、周の言葉に宿っていた。
「2010年代の黎明期から、僕たちは光ファイバーを融着し、パルスを繋いできた。システムが完璧を誇ってバグを無視し続けた結果が、この足元の冷たい水の冷たさであり、喉を焼く煙の煙さだ。ダッシュボードの画面がどれだけ瑞々しい『緑』を叫んでいようとも、お前の大事な天網は、とっくに仕様の重みで暴走して、火を噴いて死にかけているんだよ!」
「だから何なんだ!そんなわけはない!嘘だ! システムが狂うはずがない、私は、私は正しい数字だけを――!」
「数字しか見ないから、足元の現実に殺されるんですよ」
周は冷淡に馬主任の手首を撥ね退け、顧次席監理官から託された最深部へのバックドア・コードを、陸のパームトップ端末へと叩き込ませた。
「林くん、アヤちゃん。この官僚の壁の向こうが、すべての基準時計を統括するメインフレームのマスタークロック・コアだ。奴が液晶の嘘のなかで溺れ死ぬ前に、僕たちの手で世界の手綱を引き剥がしにいきますよ!」
林は、周先輩の言葉の重みを網膜の裏側に焼き付けながら、「まだだ!まだ終わらんぞ!」と何処かで聴いたフレーズを叫んでいる馬主任を置き去りにして、最下層コアへ繋がるハッチへと向かった。嘘飾された官僚が、迫り来る水と煙のなかで未だに『正常』を叫び続ける不条理の部屋を後にし、林は自らの感覚を極限まで尖らせながら、最終決戦の舞台へと濁流を蹴立てて突き進むのだった。




