第37話 泥濘の中で
「しっかり掴まって!舌を噛むんじゃないぞ!」
キャビンからの高の大声と同時に、軍用トラックの巨体が激しく宙を跳ねた。線状降水帯がもたらした猛烈な泥流が、カルスト大断層の未舗装路を泥濘へと変えていた。最新の制御システムを積んだオフロード車であれば、トラクションコントロールAIがスリップを抑制してくれる。しかし一度限界を超えると、安全のために強制ホールドされてしまってをその場で動けなくなってしまう。恐らくトラクションコントロールの限界を超えているはずの泥濘を、高の指先は油圧作動のステアリングを通じて泥の反力を冷徹に読み解き、旧世代エンジンの不骨なトルクを路面へと丁寧に沿わせていた。
フロントガラスの向こう、雨と冷却塔の吐き出す白い熱い霧の奥から、数条の赤いスキャンレーダーが奔流を切り裂いて伸びてきた。天網の要塞を守る、無人治安維持車両(UGV)の自動巡回網だった。
「防衛ボットの変異周期、さらに加速しています! 一秒間に四千回以上のランダムパルス!」
荷台の暗闇のなか、陸がキーボードを叩き、ジェイソンの残した全逆算キーをコンソールへとマージさせた。画面上の信号は、中央の暗号検証の過負荷に引きずられて不規則に明滅を繰り返している。
「周先輩、このジッターのブレは昌平の時の比じゃない。自動追随(PLL)を走らせたら一ミリ秒で迎撃ボットに肉体ごと制約されます!」
林の額から、焦燥の汗が土砂降りの雨のように流れ落ちた。ダイヤルを握る指先が、その超高頻度の変異の前に一瞬強張る。
「画面を見るなと言ったでしょうが、林くん」
横から伸びてきた周の手のひらが、林の肩を重く、しかし確実に叩いた。
「システムはな、自分のコアが発熱して火災を起こしていることすら、ダッシュボードの緑色を守るためにノイズとして必死に隠蔽しているんだ。そんな都合の良い『液晶の光』を追いかけるな。アヤちゃんの刻む、この現実の大地の悲鳴を融着させなさい!」
林の左手の甲を重ねたアヤの瞳は、激しい土砂降りのなかで漆黒の闇を見据えていた。彼女の耳は、大雨の物理音を突き抜けて響いてくる、浸水によってショートし、火災の煙を噴き上げながら狂ったように異常高回転を続ける要塞の超大型冷却ファンの不協和音を、完璧に捉えていた。
トントン、トントントン。
アヤの指先が、林の皮膚へと凄まじい多重変調のストロークを刻み始める。三連符と変拍子が複雑に絡み合う、世界の崩壊のリズム。
林はオシロスコープの光から意識を完全に切り離した。高次元化した彼の空間認知領域が、アヤの指先の多重な振動の隙間だけを、脳内で直接三次元の立体パズルへと組み立て直していく。
「……次、三、二、一、いま!」
アヤの指先とシンクロして、林は肉体の条件反射だけでダイヤルを滑らかに回しきり、白が近接ツールの照射ボタンを力強く押し下げた。
ピピッ。
インジケーターが鮮やかな緑色を灯して静止した。
大断層の防衛サブノードに対して『異常なし』のダミーパケットが一瞬放流され、トラックの目の前に立ち塞がろうとしていた無人治安維持車両の群れが、時間の歪みのなかにピンポイントで発生した空白時間に直面し、論理的なハングアップを起こしてその場に沈黙した。カメラは受像を失い、アラームは一通のフラットラインすら吐き出さない。
「抜けたぞ! しっかり掴まっていろ!」
高がステアリングを切り回し、トラックは泥流を大きく撥ね上げながら、沈黙した防衛ボットの死角を真っ正面から踏み越えた。土砂崩れ寸前の大断層を、生身の知覚と旧世代エンジンの底力で切り崩した瞬間。
ドン! と激しい風圧の衝撃音を残して、トラックは要塞の第一防衛線を強行突破し、周の指定した「地下保守用ハッチ」のすぐ目の前へと、泥まみれの車体を激しく滑り込ませるのだった。




