第34話 高次元化
拠点の冷たいコンクリート床に、声が響き渡った。
「――そこまで。林くん、焦って動いていて台無しですよ」
暗闇の奥からぬっと現れたその輪郭に、林は息を呑んだ。愛車のパジェロで別行動をとっていた、周が、華南の拠点へと合流していた。
「周先輩……! どうしてここに」
「君たちの長江大橋での三分二十秒のタイムトライアル、ログで見せてもらいましたよ。よくやってくれました」
そして周は浮かべていた笑顔を消し、苦悩した表情で話し出した。
「だが、今の君の適応能力の速度では、次に向かう貴州のメインフレーム最下層カーネルの『変調周期』に接触した瞬間に、弾き飛ばされて終わりです。天網の中枢AIはいま、他国プログラムによる時間の歪みを力ずくで計算補正しようとして、自分自身の防衛アルゴリズムを毎秒数千回という狂った速度で自己変異させ続けている。……アヤちゃん、メトロノームの震度を上げなさい。ここからは、つらいでしょうが、林君の限界を抉じ開けていかないといけないです」
特訓の第二幕は、凄まじい肉体的・精神的な負荷を伴って開始された。
陸がパームトップ端末を操作し、周先輩が持ち帰った貴州の深部暗号検証マトリクスをモジュールへと流し込む。オシロスコープの緑色の画面に浮かび上がったのは、もはや一定の波形(サイン波)すら維持していない、まるで狂った生き物のように不規則にねじれ、飛び跳ねるパルスの濁流だった。
林の背後にアヤが立ち、その手のひらを林の左手の甲へと重ねる。
だが、アヤの刻むトントンという指先のストロークは、これまでのシンプルなリズムではなかった。ドックの天井の大型排熱ファンが、給電周波数の狂いによって多重に変調させている、極めて複雑な不協和音のうなり。アヤはその鋭敏な知覚で、世界の時計が何重にもきしみ合う、三連符や変拍子に相当する過酷なリズムを捉え、林の皮膚へとダイレクトに叩き込んでいた。
(視えない――脳が、パズルの等高線に追いつかない――!)
林は脂汗を流し、網膜の裏側が沸騰するような強烈な目眩に襲われていた。
デジタルデトックスを経て事象をクリアに捉えられるようになったはずの視覚が、天網中枢の起こす超高頻度の変異の前に、完全に速度負けを起こしていた。ダイヤルを動かそうとしても、アヤの指先が伝える複雑な多重ストロークのサインを脳が幾何学パズルとして立体的に組み立て直す前に、画面のパルスは無慈悲に跳ね上がり、シミュレータの模擬赤ランプが冷酷にエラーを灯し続ける。
「画面を見るな、林くん!」周先輩の怒号が、林の鼓膜を物理的に叩いた。
「君の脳はまだ、かつてあのゲームに依存させられていた時の、液晶の光を追いかけようとしている! データの継ぎ目は画面の中にはない。アヤちゃんの指先が伝える物理的な震動の奥行きを、君の空間認知領域でそのまま三次元の等高線として組み立てるんだ! まだ君の限界はもっと高いところにある!」
周先輩の言葉と、アヤの指先から流れ込んでくる強烈なストロークの圧。
林は歯を食いしばり唇を噛んだ。保定の街で画面の嘘に誤魔化されたままとらわれて息絶えていったと思われる人々の無力な姿が、林の胸の奥底で、気分の悪くなるような激しい義憤となって何かを呼び起こした。
(消させない。システムがノイズとして消去した、あの人たちの生きていた事実を、僕の限界のせいで無にされてたまるか――!)
林は、自らの脳髄の報酬系回路の最深部を、怒りと義憤の力で強制的に引き絞った。
視覚を捨てるようにしてオシロスコープの光から意識を完全に切り離し、アヤの指先が刻む多重な振動の隙間だけを、脳内の空間認知領域へとダイレクトに融着させる。
その瞬間、林の脳内のシナプスが劇的な変異を起こした。
それまでバラバラな雑音にしか聴こえなかったドックの金属音やアヤのリズムが、彼の脳内の空間パズルのなかで、突如として「完璧な三次元の位相構造物(等高線の立体パズル)」として、圧倒的な奥行きを持って結像したのだ。画面を介さず、物理世界のパルスのきしみを、生身の脳の空間認知だけでリアルタイムに逆算・アジャストできる、真のレベルアップの覚醒。
「……次、くる」
アヤの指先が、これまでで最も不規則なストロークで林の皮膚を強く押し込んだ。
その感触と同時に、林は肉体の条件反射だけで金属ダイヤルを滑らかに回し、一ミリの狂いもなく、完璧な位置でアジャストして固定した。
ピピッ。
コンソールの模擬ランプが、貴州の中枢AIの暴走アルゴリズムを完璧に騙し切る、鮮やかな緑色(完全同期)を灯して静止した。林がついに怪物を止めるための適応能力を獲得した瞬間だった。




