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第35話 新たなる決意

 林が特訓を完遂した頃、陸のパームトップ端末が太平洋を越える特殊パケットの受信音を響かせた。

 着信元は、アメリカ西海岸、シリコンバレー。ジェイソンからの新たな、そして最終段階のモジュールだった。


「……これは、ジェイソンの核心コードの『全逆算キー』よ」

 陸が端末のコンソールを見つめたまま、息を呑んだ。

 ジェイソンは自らが独善的な軍に売り渡してしまったプログラムの暴走を止めるため、自身のできる全てを注ぎ込んで、天網の中枢システムとアメリカ側の両方の狂いを同時に相殺するための、最終モジュールを陸たちへと託してきたのだ。

 だが、一緒に添付されていたアメリカ側の状況を知らせるログは、以前の混迷を遥かに凌駕し、全米のAI制御システムが相互に噛み合いながら自滅していく、おぞましい世界の硬直を克明に描き出していた。



 同じ時刻、太平洋の向こう側――メリーランド州フォートミードのサイバー作戦センター。

 主席開発技師のウォルターは、頭を掻きむしりながら、メインコンソールの前で完全な狂乱状態に陥っていた。

 全米のスマート電力網を統括するマスタークロックが、一時間に一ミリ秒のズレを起こした結果、全米のインフラ中継ルーターは、エラーコードを一枚も吐き出さないまま、音もなく完全なホールド状態へと没していた。


 しかし、本当に凄惨な破綻はそこからだった。最初は単なるアルゴリズムの局所的なパニック停止に過ぎなかった金融街の混迷は、全米のAI制御システムが「互いの嘘の数値を正しい仕様として盲信し合う」ことで、修復不能なドミノ倒しへと発展していた。

 自動化されたウォール街の取引AIは、わずか一ミリ秒のタイムスタンプの矛盾を「正常な市場の価格変動」と誤認し、異常な高頻度取引をミリ秒単位で無限に反復。それによって発生した膨大なデータトラフィックが、通信大手の自律型ルーティングAIの処理能力を限界まで過熱させた。通信AIはシステムダウンを防ぐため、エラーを吐かずにトラフィックを「正常な仕様」として近隣のセクターへ自動転送。その結果、バグの負荷は全米のデータセンター網をリレーのように駆け巡り、国家全体のネットワークインフラを内側から焼き切っていったのだ。


 ハイテクを盲信したスマート都市は、完全に自らの仕様の重みで圧殺されていた。

 ハブ空港の航空管制AIは、予定スケジュールとの数ミリ秒のズレによって論理矛盾(処理ループ)を起こし、空中にいる何百便もの自動運航機に対して『周辺空域はオールグリーン(正常)』と報告を返し続けたまま、滑走路の誘導ゲートを完全閉鎖してしまった。機体は燃料が枯渇する最後の瞬間まで、画面上の偽りの指令に従って空を旋回し続けるしかない。


 地球温暖化で繰り返し発生し全米各地に襲来する、超巨大ハリケーンの避難指示は、天網の自律検閲ボットと全く同じロジックで動く全米の治安維持AIによって、「ノイズの排除」として一瞬で消去され、住民のスマートフォンには一通の障害通知すら届かない。

 ワシントンやニューヨークの路上では、信号がすべて『青』を灯したまま大渋滞が深刻化していた。かつて全米を席巻した海外製のショート動画アプリこそ、国家安全保障上のリスクとして法的に完全禁止されていた。しかし、住民たちの判断能力を奪い、脳を腑抜けにしていたのは、その後に台頭した「思想特化型の自国製対話AIアプリ」だった。


 激しい政治的分断の泥沼のなかで、住民たちはそれぞれの陣営が開発した「耳触りの良い嘘だけを囁くパーソナルAI」を耳に突っ込み、あるいは画面に見入っていた。AIは、現実の路上で起きている大渋滞や信号のフリーズを「敵対陣営による卑劣なデマ工作、あるいはフェイク映像」であると認識させるような、極端に偏ったフェイクニュースや敵意を煽るコンテンツをミリ秒単位で生成し、人々の脳内へ直接流し込み続けていた。


 分断された人々は、窓の外で世界が物理的に窒息しかけているにもかかわらず、手元の画面が叫ぶ『我が陣営の完全な勝利』という狂った数字の嘘に熱狂し、敵に対する憎悪のタイムラインを貪るように更新し続けていた。画面のインジケーターが『正常稼働中』を表示し続ける限り、彼らは自らの認知をAIに虚飾されたまま、腑抜けのように、静かに、緩やかに車内で窒息しつつあったのだ。

 完璧を盲信したシステムが、自らのネジが緩んでいることに最後まで気づけないまま、相手の仕様を噛み合わせて終わりの見えない報復合戦へと向かう狂気的な自滅ループ。



 ジェイソンからのメッセージは告げる。

『ハロー、陸。……アメリカのAIインフラは完全に壊滅した。画面の中だけが狂った思想の無菌室のままで、現実の世界は巨大な死体になりかけている。軍のサイバー対策の連中が放ったと思われる緊急パッチは、システム自身によってノイズとして自動破棄され続けて、もう誰も手綱を引けない。……僕が送ったこの最後のモジュールを、貴州の『西の心臓』へ直撃させて、力ずくでアジャストさせてくれ。世界をこの完璧な檻からオフラインへ引き剥がせるのは、そっちにいる、生身の君たちだけだ』

 ジェイソンの凄惨な告白パケットが画面の底へ消え、陸の新しいモジュールと共に融着(マージ)された。


 周先輩が、林とアヤを見つめて笑みを浮かべた。

「君たちの努力と、世界を窒息させている怪物の生みの親の助言と、我々の隠密行動の成果が何とか身を結びそうです。……高さん、エンジンのオーバーホールは終わりましたか?」

「ああ、いつでもいけるぞ。燃料を新たに調達することもできたし、君たちを送り届ける準備はできている」

 高が無骨な手付きでトラックのボンネットを軽く叩いた。

 トラックが再び動き出す。林は、自らのレベルアップした知覚の手応えを噛み締めながら、全土の、東北、そして世界の崩壊を止めるため、超巨大データセンター『西の心臓(貴州)』へ向けて、鉄の荷台の暗闇の中で、静かに決意を漲らせるのだった。


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