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第32話 長江のゲート

 華中地域の荒涼とした原野を突き抜け、高(ガオ)の運転する軍用トラックがたどり着いたのは、華南地域との境界を分かつ大動脈、長江(ちょうこう)の川岸だった。


 視界を埋め尽くす濁流の向こう岸に、幾何学的な光の格子をまとった超巨大物流大橋『長江スマート大橋』がそびえ立っている。

 しかし、その大橋のゲートは完全に沈黙していた。仕掛けられたハッキングの影響で、長江を渡るすべての物流シャトルは、完全ロック状態になっていた。

 橋の手前の車はシステムによってすでに綺麗に排除されており、ただ無骨な防護ゲートだけが冷酷に閉じられていた。


「白(バイ)さん、保定の時のように無線のインジェクションツールは使えないの?」

 林(リン)が荷台のスライド窓からに尋ねた。

「無理よ。長江大橋のローカルノードは国家級の重要インフラだもの」

 陸(ルー)がパームトップ端末を睨みながら首を振った。「バックドアになる無線規格自体が物理的に存在しないの。でも、ここから五キロ手前の山あいに、大橋の制御線を上流で統括している無人中継所がある。そこから幹線網の光ファイバーへ侵入すればいけるかもしれない。高さん、そこに向かって!」


 高はトラックを反転させ、天網(ティエンワン)の死角を縫って山あいの無人中継所へと車体を滑り込ませた。地下のパッチパネル室へと潜り込み、筐体のビスを外して光ファイバーの露出ソケットを引き出す。

 林はケースを開け、コネクタをポートへと直結した。オシロスコープの緑色の画面に、貴州の『西の心臓』から逆流してくる暗号検証パルスのジッターが狂ったように明滅し始める。林の右指がダイヤルに触れる。


「陸さん、このままセッションを固定したら、橋に着く前に回復してしまうのではないですか? エミュレーターに遅延(ディレイ)の罠を仕込んで、今から十分後に、たった『三秒間だけ』ゲートを無効化して解錠するようにプログラミングすることはできないでしょうか?」

「待って、この橋は全長五キロあるわ」陸がキーボードを叩きながら鋭く言った。「高さんのトラックが時速百キロで激走しても、対岸の出口ゲートに達するまでに三分(百八十秒)はかかる。入口を三秒で抜けても、対岸に着く頃には出口は冷酷に再ロックされている」


「……いや、いけるわ」白が回路のログを睨みながら遮った。「中央システムは時間の歪みのせいで、上流から下流への『処理の伝播遅延(タイムラグ)』を起こしている。入口の偽造パルスが閉じてから、そのエラーメッセージが対岸の出口ノードへ到達して再ロックが執行されるまでに、論理的な計算のズレで約三分半の猶予が生まれる。つまり、入口を三秒の隙で抜けた後、対岸が完全に閉じるまでのタイムリミットは、正確に三分二十秒(二百秒)よ!」


「わかった、レジスタをホールドする!」

 陸が時限パッチの書き込みを完了させ、林は作業を再開する。

 アヤが林のすぐ真後ろに立ち、彼女の冷たい小さな手のひらを、林の左手の甲へとそっと重ねた。アヤの耳が、地下室の天井を走る大型冷却水ポンプのモーターが発する物理的な唸りの周期を捉える。

 アヤの指先が林に触れ、刻まれた長江のリズムが、林の脳内で一本の線へと融着した。


「……次、くる」

 アヤの指先が強く押し込まれるのと同時に、林は肉体の条件反射だけでダイヤルを滑らかに回し、一ミリの狂いもなくその位置で固定した。ピピッ、とインジケーターが鮮やかな緑色を灯して静止する。

 林たちは現状復帰を終わらせて地下室の闇を駆け上がった。

 十分後。トラックは大橋の手前の遮蔽物の影で息を殺してゲートを見つめていた。高はあらかじめアクセルを踏み込み、クラッチを半噛みさせて時速八十キロまでの助走のエネルギーを車体に蓄えさせている。

 タイマーがゼロを数え上げた瞬間、誰もいない大橋の重厚な電子ゲートの防護クランプが、カチャリと無音のまま物理的に強制解錠された。


「――今だ、高さん!」

 高がクラッチを繋ぎ、旧世代エンジンが爆音を上げた。トラックは弾かれたように遮蔽物から飛び出し、開かれたわずか『三秒間の針の穴』を、文字通り滑り込むような猛烈な速度で強行突破して長江スマート大橋へと進入した。直後、背後でゲートが冷酷な金属音を立てて再ロックされる。

 ここから対岸の出口ゲートまで、残り三分二十秒の命のカウントダウンが始まった。

 前方も後方も、完全に無人の巨大なコンクリート大橋。高は代替燃料の混ざる黒い排気煙を限界まで吹き出させながら、ピストンが焼き切れるほどの速度でアクセルを踏み込み続けた。ガタガタと車体全体が激しく震え、荷台の暗闇の中で林はアヤの体を強く抱きしめて耐えた。


 陸の端末のカウントダウンが残り十秒を切り、フロントガラスの向こうに対岸の重厚な出口ゲートが迫る。中央システムの伝播遅延の終わり。ゲートのクランプが、エラーなしのホールド状態へと戻ろうと、ブゥゥンと不気味な重低音を響かせながら物理的に閉じ始めた。

「突っ切るぞ!」

 高が怒鳴り、トラックの車体が完全に閉じかける直前の、わずか数センチメートルの隙間を、火花を散らしながら力ずくで強行突破した。

 ガガガガン! とアオリを激しく削り落とす衝撃音を残して、トラックは長江の網の目を完全に切り崩し深南部へと潜り込んでいった。トラックの荷台の中で、林は激しい鼓動を抑えながら安堵していた。


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