第30話 黄河を越えて
南西への針路を進むトラック。そのフロントガラスの向こうに、濁流を轟かせる広大な黄河と、それを跨ぐ十車線の超巨大ハイテク架橋『黄河スマート大橋』の白い巨大な主塔が、薄明の霧の中にぼんやりとその威容を現し始めていた。
だが、その大橋の手前は、それまでのセクターとは一線を画す異様な熱気と混乱に包まれていた。
大橋を管理する中央管制AIは、他国プログラムの時間の歪みによって『完全な車両詰まり(ホールド)』の判定を下し、エラーなしのまま巨大な防護ゲートを物理閉鎖していた。そのため、橋の手前には膨大な自動運転車が立ち往生していた。道路の一部は塞がれており、そのまま走ることはできない状態だった。
だが、ここで何よりも林の目を釘付けにしたのは、車内で腑抜けになって干からびていく大半の住民たちの影で、明確に天網に対抗し、牙を剥き始めた人間の集団が路上に現れているという事実だった。
「――おい、あそこを見ろ。住民たちがドローンと戦っているぞ!」
スライド窓から、高の低く緊張した声が届く。
画面上のオールグリーンという仕様の嘘に疑いの目を持ち、異常を肌で察した一部の物流ドライバーや地方労働者たちが、ついに自衛のための暴動を起こしていたのだ。彼らの戦い方は、最先端のサイバーハッキングなどではない。システムの仕様を逆手に取った泥臭いゲリラ戦だった。
男たちは、近くの工事現場から強奪してきた工業用の黒い防食スプレーや、粘り気のある廃潤滑油を、迫り来る警備ドローンの光学レンズに向けていっせいにぶちまけていた。天網の防衛アルゴリズムは、どれほど高度な顔認証や三次元空間認知のプロセッサを積んでいようとも、カメラのレンズを真っ黒に塗り潰されることに対して、何の自己検疫パッチも持っていなかった。映像入力を奪われたドローンたちは、自分の仕様のなかで『視界不良:是正中』のループを起こしたまま、お互いのプロペラを接触させて次々とコンクリートの路上へと無様に墜落し、火花を散らしている。
さらに別の男たちは、自動運転車が発するGPSの同期シグナルを狂わせるため、古い高電圧トランスをトラックのバッテリーに直結し、周囲に猛烈な電磁ノイズを撒き散らしていた。天網の分散OSが時間の矛盾に脳髄を忙殺されているその隙を突き、彼らは力ずくで物理フェンスの支柱を鉄パイプで抉じ開け、大橋の防護ゲートの物理クランプを強引に引き剥がしたのだ。
「ゲートが壊されたぞ! 止まっている車の間を縫って突っ切る!しっかりつかまっていろ!」高が叫び、トラックのステアリングを強烈に切り回した。
人々がシステムを破壊したことで、閉じ込められていた一部の車両が暴走気味に動き出し、路上には不自然な動線の歪み――「わずかな隙間」が生じていた。高は元軍の特殊輸送部隊としての技術を総動員し、完全に沈黙してフリーズしている自動運転車たちを回避しながら、その細い隙間へと車体をミリメートル単位で滑り込ませた。
さらに助手席では、白がワイヤレス・インジェクションツールを前方の座礁車両の近接レーダーへと照射し続けていた。時間の歪みで論理矛盾を起こしている最新EVの障害物センサーに対して「異常接近」のダミーパケットを強制的に送り込み、相手の車両の電子ブレーキを意図的に誤作動させて無理やり道を譲らせる、進路確保のゲリラ工作だった。
渡河を終了して周囲に車がいなくなり、通常の運転に落ち着いたところで、アヤが静かに林の横へ寄り添い、黄河スマート大橋のコンクリートが濁流の振動によって微かにきしむ、新たな世界のリズムへとその耳を澄ませた。
トントン、とアヤの指先が林の左手の甲へと触れる。
アヤの刻む濁流の大地のきしみ。林は、自らのクリアになった感覚のなかに幾何学パズルの位相を融着させながら、新たなる目的の熱を漲らせていくのだった。




