第29話 突破
濁った代替燃料をタンクに流し込まれた旧世代エンジンは、黒い排気煙を吐き出しながら、夜明け前の深い霧の中を疾走していた。保定セクターを越えてなお、行く手を阻む天網の多層防衛線は密度の濃さを増している。
フロントガラスの向こう、白濁した霧の奥から、数筋の青白いレーザー光線が伸びていた。華中地域へと侵入するすべての物理物流をせき止める、無人化された国営の「総合検閲関門」だった。
「高さん、速度を落とさないで。このまま突っ切るよ」
助手席の白が、フロントガラス越しにセンサーの配置を睨み据えながら言った。
荷台の暗闇の中では、陸のパームトップ端末が、再び太平洋を越えて着信したジェイソンからの追加データを明滅させていた。アメリカ側の放った侵略プログラムの侵食により、天網の中枢システムにかかる暗号検証の処理負荷は、いまや指数関数的に増大していた。
「中央フレームの論理的硬直の頻度が、さっきの数倍に跳ね上がっている」
陸がハンディコンソールを叩き、林へ波形モニターを向けた。
「他国プログラムの時間の歪みを力ずくで計算補正しようとして、天網の脳髄が一秒間に数回、完全にバーストを起こしている。白さんの近接インジェクションツールと、私たちのモジュールのダミーパケットを組み合わせれば、その硬直の数ミリ秒の間、検問所の監視カメラを完全に無力化できる。……問題は、そのバーストが起きるタイミングが完全に不規則なことだ」
自動化された検門所のゲートは、生体認証センサーとミリ波レーダーで何重にも保護されている。ほんの一ミリ秒でもタイミングを誤れば、その瞬間にトラックは「未登録の不審なエラー」として迎撃ドローンに包囲される。
林はオシロスコープの緑色の画面へ、クリアになったその両目を凝視した。
画面の向こう側で激しくブレ続ける、パルスの乱高下。普通の人間の目にはただのノイズの残像にしか見えないその幾何学的な等高線が、今の林の視覚には、明確な「構造の歪みと空白の継ぎ目」として直感的に結像していた。
「アヤ、音を聴いて」
林は、隣に座るアヤの小さな右手を掴み、自らの左手の甲へと重ねさせた。
アヤは目を閉じ、トラックの排気音の奥から響いてくる、検門所の超大型冷却塔が発する微かなインバーターの唸り声へと意識を集中させた。中央からの給電周波数の狂い。天網が息を止める瞬間に、その唸り声のピッチが極微小に変化する。
トントン、とアヤの指先が、林の皮膚を正確に叩き始める。
ジェイソンの残した中枢のバグの論理構造と、アヤの聴き取る物理世界のきしみのリズムが、林の脳内で一本の線へと融着した。
「……次。三、二、一、いま!」
アヤの指先のリズムと同調して、林は手動ダイヤルを滑らかに回してフェーズを合致させ、白がキャビンでワイヤレスツールの照射ボタンを押した。
一瞬の、完全なる空白。
天網の中枢が処理ループで落ちたそのわずかな瞬間に、トラックは時速百キロメートルを超える速度で、検問所の生体センサーとミリ波レーダーの死角を真っ正面から踏み越えた。カメラは彼らを捉えず、アラームは一通のフラットラインすら吐き出さない。完璧を盲信した自動化センサーの目の前を、旧世代エンジンを積んだ鉄の塊が、文字通り「存在しないノイズ」として堂々と通り抜けたのだ。
ドン! と風圧の衝撃音を残して、トラックは検門所のゲートを一瞬で置き去りにし、再び深い霧の荒野へと滑り込んでいった。
「嘘だろ、完全に検閲をバイパスした……!」
スライド窓から高の驚嘆の声が響く。完璧な仕様の裏側を、生身の知覚とロジックで切り崩して突破した手応え。トラックの荷台の暗闇の中で、林は自らの指先に残るアヤのリズムを握り締めながら、この先に向かう目的地に対して想いを燃え上がらせるのだった。




