第23話 荷台の夜
林は、軍用トラックの無骨な鉄板で覆われた荷台の奥の木箱の隙間に、アヤと並んで深く腰を下ろしていた。完全な暗黒。しかし、デジタルデトックスを経て液晶画面の嘘から完全に解放された林の五感は、密閉された空間のわずかな気流の温度変化や、隣に座るアヤの静かな生身の呼吸を、恐ろしいほどの解像度で静かに捉えていた。
ゴトゴトと、重い板バネサスペンションが路面の泥や石を跳ね上げる生々しい振動が、床板を通じて直接背骨へと伝わってくる。
「……保定セクターの境界までは、この悪路をノンストップで走ってもあと数時間はかかるよ」
暗闇のなかに小さな光が灯った。
それは前時代の液晶を用いた、頑丈な防振仕様の検証用パームトップ端末が放つ、鈍い緑色の反射光だった。光の主は陸。彼女は、コンソールの脇でキーボードに指を滑らせながら、低く理知的な声で林たちに語りかけた。その表情には、張り詰めた状況のなかでも、若い二人を静かに庇護しようとする包容力が滲んでいた。
「林くん。周さんから聞いたと思うけれど、いま保定の関門は、他国プログラムが仕掛けた時間の歪みのせいで、エラーを吐かないまま『完全な戦時閉鎖モード』へとシステムが狂作動を起こして、物理的に完全封鎖されている。ここにあるモジュールの昌平用の暗号鍵のままでは、あそこの最新の自動巡回ドローンや無人治安維持車両(UGV)の多層防衛線には通用しない。だから保定の狂った変調クロックに合わせたリアルタイムパッチを書き換え続ける必要があるんだ」
林は、陸の手元で明滅する緑色の波形ログを静かに見つめた。自分が世界を救うハッカーになれるわけではない。ただ、最新のシステムが自ら狂っていくその死角を、生身の知覚と計算だけでアジャストする歯車。その過酷な現実を、陸の言葉は冷徹に、しかし温かく突きつけていた。
――その時だった。
ピピッ、と陸のパームトップ端末の最下層レジスタが、天網の検閲網を完全にバイパスした不審な高周波シグナルを検知して、小さく電子音を立てた。
画面に映し出されたのは、現行の暗号化プロトコルではなく、十数年前のインターネットの黎明期に使われていた、ピア・ツー・ピア(P2P)の骨董品のような非公式暗号化パケットのテキストだった。
送信元のIPアドレスの偽装元は――アメリカ西海岸、シリコンバレー。
「……ジェイソン?」
陸の唇から、驚きに満ちた呟きが漏れた。かつてオープンソースの暗号コミュニティで技術的な交流があったが、今は長老派閥の技術者として潜伏する彼女の「裏のルート」を正確に狙い撃ちした、太平洋を越える極秘のショートパケットだった。
暗い画面に表示された文字は、酷く気の抜けた、しかし救いようのない諦念と自責に満ちた男の英語のメッセージテキストだった。
『ハロー、陸。……そっちの全土監視システム(天網)が画面上でオールグリーンを表示したまま、裏側で勝手に窒息死しかけているだろう? あー、やっぱりね、って感じだ。すまない、そのバグを引き起こしている時間の狂いの核心コードを書いたのは、僕だ。軍の独善に売り渡した僕の怪物が、今、全米のインフラも大渋滞でホールドさせて世界を壊そうとしている。……これ以上の犠牲を出さずに自分の過ちのトドメを刺すために、君たちに中枢AIの弱点を教える。天網のカーネルが暗号検証処理の過負荷で完全に硬直フリーズする物理的な位相のメカニズムを、今からそっちの端末へ流し込む。……怪物を殺してくれ』
コンソールに、ジェイソンが自らのコードを逆算して弾き出した、天網中枢の「処理の空白時間」の精密な構造データが、緑色の文字列となって滑らかになだれ込んできた。
世界を窒息させようとしている怪物の生みの親から届いた爪痕。陸はそのデータを食い入るように見つめ、林とアヤへと視線を戻した。二人の生身の知覚と、この太平洋を越えた天才の助言が、ついに暗闇のなかで一本の線へと繋がり始めていた。




