第2話 遅すぎる困惑
地下四階の冷たいリノリウムの廊下を、林は肺が引き裂かれそうな勢いで疾走していた。背後からあの高周波のプロペラ音が追ってくる幻聴に怯えながら、彼は通路の突き当たりにある「三十四室・統括管理室」の重厚な防音扉に体をぶつけるようにして飛び込んだ。
「室長! 主任! 大変です、監視室のドローンが、張さんが――」
勢いよく開いた扉の先で、林の声は場違いな静寂にかき消された。
大きな革張りのデスクの奥では、第三十四監視室の最高責任者である王室長が、特級の龍井茶をすすりながら、机の上のスマート端末を熱心に眺めていた。執務時間中であるはずの午後三時すぎ、彼の端末に映っていたのは、都市の監視データではなく、彼自身の資産管理口座の株価チャートだった。
王室長は、技術的な素養など一ミリも持たない典型的な「党閥官僚」だった。父親が地方政府の重要部局の幹部であるというただ一つの理由で、このハイテク治安維持組織のポストに滑り込んできた男だ。彼にとって最も重要な業務は、上層部への見栄えの良い「トラブル率ゼロ・信用スコア向上」の報告書を作成することであり、現場のシステムがどう動いているかなど興味の対象外だった。
「騒々しいぞ、林。昼間の緊張感はどうした。張がどうしたというんだ?」
王室長は不機嫌そうに老眼鏡をずらし、資産画面を隠すように端末を伏せた。
「ドローンが急に襲ってきたんです! 張さんがテーザー銃で撃たれて、仮眠室の前で気絶しています。システムがおかしいんです、室長、主任、何とかしてください! お願いします!」
「バカを言うな」
王室長の脇のソファから、気の抜けた声が上がった。
そこに寝そべっていたのは、この部屋の技術主任である李だった。彼は林の上司にあたる技術職のトップだったが、その目は完全に虚ろだった。昼食後の睡気も手伝ってか、李主任の網膜グラスには、林のデスクでも見た国家推奨ゲーム『大唐栄耀』の超高難易度ギルド戦の画面が、目まぐるしく投影されていた。二十四時間、脳に快楽物質を流し込み続ける国家の「娯楽の檻」に、最も深く依存しているのは、皮肉にもそれを管理・保守すべき現場の技術者たちだった。
「林、お前、デイリークエストのやりすぎで幻覚でも見たんじゃないか?」
李主任はグラスの奥の目を血走らせ、指先を痙攣させるように空中で動かしながら冷笑した。
「手元の『天網』のダッシュボードを見てみろよ。エラーフラグは一枚も立っていない。すべてグリーンだ。ショッピングモールの売上予測も、住民の感情バイアスも、すべて完璧に『正常値』の範囲内。システムが正常だと言っているんだから、正常なんだよ。張のやつも、どうせ過労か昼寝のついでに倒れただけだろ」
「そんなわけありません! 中心のカメラが、じわじわと映像が途絶えて、過去の静止画にすり替わっているんです! システムの表示は嘘なんです、何とか調べてください!」
林は涙目になりながら、両手を合わせて懇願した。下っ端の自分にはそれ以上の処理を提案する権限などなかった。
王室長はめんどくさそうに溜息をつき、お茶を口に含んだ。
「林、仮に、万が一お前の言う通りだとしてだ。私が今、分局長に『システム暴走の疑いあり』と報告して、もしそれがお前の見間違いだったらどうなる? 私の今期の政治評価(政績)にどれだけの傷がつくか分かっているのか? 今、中央は世界中の贅沢品を買い叩いてこの新興都市を『模範都市』として宣伝している真っ最中なんだ。水を差すような真似ができるか。人が一人倒れたくらいで大騒ぎするな」
「政治評価の問題じゃありません! 本当に危険なんです!」
「黙れ!」
王室長は激昂して机を叩いた。
「システムが正常だと言っている以上、事件は存在しない。お前が言っているのは、党のシステムの完全性を疑う反革命的な妄想だ。李主任、この狂った若造のIDを一時凍結しろ。頭を冷やさせろ」
李主任はゲームの画面を名残惜しそうに閉じ、コンソールに向かって数回、気怠そうにキーを叩いた。
「はいはい、ID凍結、と……ん?」
李主任の指が止まった。
「どうした、李主任。早くしろ」王室長が急かす。
「いや……コンソールが、僕の主任管理者パスワードを受け付けないんです。それどころか……」
李主任の額から、ゲームの熱中とは違う、本物の冷や汗がだらだらと流れ落ち始めた。
「管理画面のグラフィックが消えていく。エラーも出ない。ただ、文字が消えて空白になっていく……」
それは、失明のプロセスが、ついにこの上層部の管理システムにまで到達した瞬間だった。
ハッキングは派手なウイルス画面を出さない。ただ、システム自身に「お前は正常だ、何も問題はない」と囁き続け、防衛機能を眠らせたまま、すべての権限を内側からじわじわと削ぎ落としていく。保身に走る無能な党閥官僚と、娯楽に脳を焼かれた技術者が、マニュアルと画面の「正常」の二文字に縋り付いて右往左往している間に、侵略者の触手は第三十四監視室の喉元にまで完全に達していた。
パチ、と部屋の明かりが消えた。
独立したバックアップ電源すら沈黙している。そして次の瞬間、ガガガガッ、と部屋の通気口の奥から、複数の警備ドローンの駆動音が響き渡った。
「な、なんだ!? 停電か? 李主任、どうなっている!」
王室長が暗闇の中で悲鳴を上げる。
林は二人の上司を見捨て、直感だけで部屋の脱出口へと身を翻した。背後では、暗闇の中で李主任の「パスワードが通らない!」という絶望的な叫びと、王室長の無様な怒号、あるいは、冷徹なテーザー銃の放電音が激しく炸裂していた。




