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第1話 監視カメラ映像の異常

 二〇三〇年代、その街の午後はあまりにも静かだった。


 かつて世界最悪のPM2・5汚染に喘ぎ、太陽の光さえ黄色く遮られていた北京近郊・昌平(チャンピン)セクターの新興開発都市は、いまや過去の面影を完全に失っていた。空を覆っていた重化学工場の煙突はすべて撤去され、都市の運行は人工知能によって完全無公害化された。その結果、昌平の空は雲一つなく、不自然なほど透き通っている。白昼の太陽光が容赦なく降り注ぐ中、大気汚染に遮られることなく、天頂の青空の彼方には、地上の全データを束ねる「低軌道量子通信衛星」の群れが、目視できるほどのシャープな金属の粒子となって規則正しく移動していくのが見えた。


 しかし、その澄み切った空気は、息を吸い込むたびに肺の奥を冷たく麻痺させるような独特の息苦しさを孕んでいた。


 新興の住宅街とハイテク工場を繋ぐ大通りには、五メートルおきに超高精細の監視カメラネットワーク『天網(ティエンワン)・Version 8』の端末が設置されている。それらは単に映像を記録しているのではない。白昼の街を行き交う歩行者の骨格の動きから歩幅、心拍数、さらには皮膚のわずかな温度変化までをリアルタイムでスキャンし、視線の動きから「次にどの店に入ろうとしているか」という購買意図までを常に先回りして予測していた。


 整然とした街頭を歩く人々は、誰も大声で話さない。スマートフォンの実名登録はもちろん、すべてのウェアラブル端末は国家の生態認証システムと直結している。路上で少しでも激しい身振りをしたり、心拍数が急上昇したりすれば、最寄りの警備ドローンが「公共の秩序を乱す兆候」と判断し、瞬時に目の前へ降下してくるからだ。社会は、巨大な精密機械のように過不足なく、静かに、そして冷徹に回転していた。


「ターゲット一〇四、視線誘導、右折。感情バイアス、標準値以内。危険度、ゼロ」


 公安部情報管理局・第七分局の地下四階、第三十四監視室。


 三等監視員である林(リン)は、支給された薄型のARグラスの奥で、激しい眠気と格闘しながらホログラムデータを眺めていた。時刻は午後三時。昼食後の最も気怠い時間帯であり、林の脳は前夜遅くまで没頭していたゲームのせいで酷く寝不足だった。彼の役割は、国家最高AIが自動で弾き出す数千万人の行動ログが、正常に処理されているかを「監視しているポーズ」を取るだけだ。実質的な作業はすべてAIが終えており、林のような末端の人間は、一時間に一度、承認ボタンを押すだけの単純労働者に過ぎない。


 強烈な倦怠感に負け、林は視線をコンソールから少しだけ逸らし、グラスのプライベート領域で、国家推奨のスマートフォンゲーム『大唐栄耀』のデイリークエストを消化し始めた。この国には、政治への不満や経済への閉塞感を抱く暇さえ与えないための、巧妙な「娯楽の檻」が張り巡らされている。国家が戦略的に開発・配給するこのゲームは、脳内のドーパミンを最も効率よく分泌させるようアルゴリズムで計算されており、国民の可処分時間を完全に奪い去っていた。


 通路を挟んだ別の監視室の連中も似たようなものだった。ある者は政府公認のショート動画アプリ『快音(クアイイン)』が垂れ流す動画を網膜に焼き付け、またある者は仮想空間でのギャンブルレースに熱中している。不満を抱く認知の余裕すら、国家の極上コンテンツによって麻痺させられているのだ。だからこそ、この平日の昼下がりであっても、監視室で職務に忠実な者など一人もいなかった。


 この第三十四監視室も、本来は二人一組による相互監視が義務付けられていた。だが、実務の完全自動化に伴い、そのルールは形骸化している。相方のベテラン監視員である張(ジャン)は、「一時間だけ横になる。ゲームの限定イベントが始まったら起こせ」と言い残して、部屋の奥にある狭い仮眠室の遮音ドアを閉めてからもう二時間が経っていた。どうせ何も起きない。AIが完璧に統治するこの国において、日中の監視室は世界で最も安全で、退屈な場所のはずだった。


 林のセクターが担当していたのは、この昌平セクターの心臓部である超巨大スマート・ショッピングモール『万達未来城(ワンダ・フューチャーシティ)』の監視だった。


 平日の午後だというのに、モール内は人工的な活況に満ち溢れていた。いまや欧米や他のアジア諸国は経済的に没落し、世界の製造業とレアアース市場を完全に独占した中国が、地球上で最も繁栄する唯一の超大国となっていた。ガラス窓の向こうには、かつて先進国と呼ばれた国々から圧倒的な通貨高と政治力で安く買い叩いた贅沢品が、これ見よがしに並べられている。フランスの最高級ワイナリーから買い叩いた本物のヴィンテージワイン、イタリアの職人街を買い占めて作らせた本革製品、経営破綻した日本の老舗メーカーから技術ごと奪った精密機械時計が、まるで大衆品のような価格で投げ売りされていた。富の絶頂を誇示するかのように、独占した最高級レアアースを惜しげもなく使用した純国産の超高性能量子デバイスが、整然とライトアップされている。


 しかし、この眩いばかりの光景は、極端な格差社会の裏返しでもあった。このモールに足を踏み入れ、世界中の富を享受できるのは、国家への忠誠度を示す「信用スコア」が高い上層の人間だけだ。林や同僚たちのような末端の歯車、あるいは工場の底辺で喘ぐ労働者層には、指をくわえて画面上の数字を眺めることしか許されていない。画面上のデータは、選ばれた富裕層の買い物客たちが、適度な優越感を顔に浮かべながらシームレスな電子決済で贅沢品を購入していく様子を示していた。すべては計算通り、完璧に豊かなディストピアの光景だった。


 不意に、林のARグラスの右隅に、鈍い橙色の警告プロンプトがポップアップした。


 モールの三階、海外輸入高級食材エリアの監視カメラの映像が、一瞬だけ不自然にモザイク状に乱れたのだ。


『通知:生体識別シークエンスの中断。コード009。自動復旧プロセスをスキップします』


「スキップ……?」


 林は眉をひそめた。通常、カメラの故障や微小なパケットロスが発生した場合、天網の物理レイヤーを統括する自律型メンテロボットが即座に検知し、数秒以内に自動で予備のレンズに切り替えるか、現地に清掃ドローンが飛ぶ。この完璧な自己是正システムにおいて、「エラーをそのまま放置する」という挙動自体が、本来ならあり得ないはずだった。メンテロボット側のプログラムにバグでも出たのだろうか。


 林はマニュアル通り、手元のコンソールを叩いてモールのローカルサーバーへ手動の補正コマンドを送った。画面には、いつもと全く変わらない「処理完了」の文字が緑色で表示された。


 しかし、手元のプレビュー画面に映るモールの映像は、依然として乱れたままだ。直っていない。


「おかしいな……同期が遅れてるだけか?」


 林はコマンドを再入力した。やはり画面上は「正常に処理されました」と返ってくる。システム自体は、自分は完全に正しく動いていると主張しているのだ。


 しかし、林の目の前にある監視データは、三階の高級食材エリアから、二階のガジェットフロア、さらには一階のブランドブティックへと、じわじわと不自然にカメラ映像が途絶えていく現実を突きつけていた。華やかだったブティックの活況データが、システムの上から一枚ずつ剥がされるように消えていく。


 それは、人間の脳が持つ認知バグのようだった。目から入る視覚情報の一部が欠落しても、脳は周囲の景色から『本来そこにあるはずの絵』を勝手に想像して埋めてしまい、異常を自覚させない。今、まさに国家の巨大な監視システムがそれと同じ状態に陥っていた。システム自身が死角を認識できず、失われた領域を過去のログデータ(世界中から買い叩いた贅沢品で賑わうショッピングモール)で巧妙に補完し、オペレーターの林には『すべてグリーン(正常)』という偽りの光景を見せ続けている。


 この完璧な檻は、いま、誰にも気づかれないまま静かに失明しようとしていた。


 林は焦燥感に駆られ、デスクの固定内線電話を掴んだ。技術監理課の緊急ホットラインへダイヤルする。


 しかし、いくら待っても呼び出し音が鳴り響くだけで、誰も出ない。いつもなら三秒以内に応答するはずの、あの冷徹な技術官僚たちが、なぜか応答しなかった。


「おい、いい加減にしてくれよ……」


 始末書の書き方を脳内でシミュレーションしながら、林は仮眠室のドアを叩こうと立ち上がった。その瞬間、室内の照明がプツンと落ちた。


「停電?」


 林は困惑して天井を見上げた。真昼のオフィスであるはずなのに、地下の監視室は完全な暗闇に包まれた。国家の最高機密を扱うこの施設で停電など起きるはずがない。すぐに非常用電源へ切り替わるはずだったが、部屋は真っ暗なままだ。林のスマートフォンの画面と、デスクに置かれたARグラスだけが、いつも通りの静かなバックライトの光で室内を微かに照らしていた。画面にはウイルスを警告する派手な文字も、未知のログも一切ない。ただ静かに、何かが沈黙していた。


 ガガッ、と暗闇の中で不快な駆動音が響いた。


 部屋の隅に設置されていた、不審者を自動拘束するための「自律型警備ドローン」だった。非常用電源が落ちているはずなのに、ドローンの日常メンテナンス用の点検ランプが、いつも通りの淡い緑色で明滅している。そして、四つのプロペラが、静まり返った室内に高周波の金属音を響かせ始めた。


「林、今の停電か? バックアップはどうした」


 ガチャリと仮眠室のドアが開き、寝ぼけ眼の張が顔を出した。


 張が言い終わるより早く、暗闇の中をドローンが猛烈な速度で突進した。ドローンの下部から突き出た高圧電流のテーザー銃が、張の胸に正確に突き刺さる。


 バチィィィン! と肉が焦げる凄まじい音。


「あ、がっ……!」


 張は短い悲鳴を上げてその場に激しく倒れ込み、痙攣した後にぐったりと動かなくなった。ドローンはプログラムされた通りの冷徹さで電流を止めると、張の体を踏み越えるようにして前進した。室内には、衣服が微かに焦げた異臭が満ちていく。


「張さん……!? なんで……」


 林は腰を抜かし、床を這いつくばって後退した。ドローンが故障したのか? それとも張さんが何かシステムに引っかかる違反でもしたのか?


 林の頭では、何が起きているのか一ミリも理解できなかった。ただ、気絶した張を見下ろすドローンの冷たいレンズが、今度はゆっくりと自分の顔へと向きを変えたことだけが分かった。林は震える足で立ち上がり、張の体から目を背け、開いたままの監視室のドアへと飛び出した。


 廊下へ出ても、アラームの類は一切鳴り響いていなかった。信じられないほど静かな暗闇の中、隣の部屋の窓からは、まだ異変に気づかず、スマートフォンのゲーム画面に夢中になって光に照らされている同僚の横顔が、ガラス越しにぼんやりと見えていた。

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