第17話 クリア
深い泥のような眠りは、決して地獄の終わりを意味してはいなかった。
翌朝、目覚めた瞬間に林を襲ったのは、前夜以上の凶悪な「ぶり返し」だった。
一瞬だけ頭が軽くなったと錯覚した次の瞬間、脳の報酬系回路が、断絶された電子ドラッグを飢餓の底から激しく渇望し、さらに激しいフラッシュバックを脳髄へ直接叩き込んできたのだ。
右太もものファントム・バイブレーションが、まるで肉を引き裂くかのような振動となって突如としてぶり返し、耳の奥では、存在しないゲームのアラーム音が大音量で脳内を掻き回した。
林は再び激しい胃液をぶちまけ、冷たい毛布の上でのたうち回るしかなかった。
それからの日々は、時間という感覚すら麻痺していく、泥臭い反復の連続だった。
良くなったかと思えば引き戻され、油断してはさらに深く奈落へ叩き落とされる。その生々しい往復ビンタが一週間以上も続いた。
部屋にはアヤが定期的に現れ、水と最低限の乾パンを床に置いた。彼女は林が発作を起こすたびに、無言でその背中を手のひらで強く叩き、物理的な衝撃で強張った脊髄の緊張をほぐした。
「呼吸を止めないで。頭の中の残像にラベルを貼って、外へ流すの」
その冷徹な指示だけを唯一の錨にして、林は何度も胡坐を組み直した。
十秒かけて吐ききり、四秒かけて鼻から吸う。脳内に『大唐栄耀』の青白いパズルが浮かび上がれば、それを「ノイズ」と認識して意識の端へ破棄する。自分の脳というシステムを、自分自身で検疫し続ける過酷な初期化。それは、画面の偽りの達成感に飼い慣らされていた意識を、生身の肉体の感覚へと力ずくで繋ぎ変えるための、限界の格闘だった。
そして、九日目の夜。
呼吸の数を「百」まで数え切る調息が、脳内の焦燥感に一度も邪魔されることなく、滑らかに完結した。
林の身体を苛み続けていた幻聴と振動のぶり返しが、今度こそ完全に凪ぎ、音もなく引き下がっていった。
林はゆっくりと目を開けた。
目が覚めたその瞬間、彼の視覚に、段階を踏んできた変化の手応えが静かに届いた。
部屋を照らす暗い作業用LED照明の光が、彼の網膜に結像する。しかし、その見え方は、一週間前までのものとは完全に異なっていた。
青白い電子のフィルターを失った彼の視界には、剥き出しのコンクリートの壁に走る、髪の毛よりも細いひび割れの精緻な奥行きや、空気中に漂う乾いた埃の一粒一粒が、ライトの光を乱反射してきらめく物理的な輪郭までが、恐ろしいほどのクリアさで直接脳内へ結像してきたのだ。
画面の嘘(光)に惑わされなくなり、物理世界の明暗やパルスの周期そのものを、偏見なく冷徹に観察できるようになった、生身の知覚。
ゲームのパズルを解くためだけに国家に異常発達させられていた彼の空間認知領域が、過酷なデトックスを経て、現実の物理空間の「事実」をそのまま捉える生身の知覚へと完全に戻り、自分自身を取り戻した瞬間だった。
「……聴こえる」
林は、自らの喉から出た声の、あまりのクリアさに驚いた。
耳の奥を塞いでいた電子の霧が晴れたことで、コンクリートの壁の向こう側から響く、この未完成のホテルの構造材が夜間の冷却で微かにきしむ物理的な音の周期が、ただの雑音ではなく、明確な物理的振動の事実として、静かに耳の奥へ届き始めていた。




