第14話 マクロ統計グラフ
パジェロの鉄板をすり抜けてくる夜の冷気が、延慶ボブスレー会場の敷地内に残る、未完成のコンクリート建築物の影を静かに満たしていた。エンジンを停止させた薄暗い車内で、林は助手席のシートに深く背を預けたまま、ダッシュボードの上に置かれた周の衛星端末の画面を凝視していた。
画面が放つ無機質な青白い光のなかに映し出されていたのは、地上のカメラ映像ではない。環境偵察衛星の熱赤外線センサーと電磁パルス測定器がリアルタイムで捉えた、昌平セクター全体の「マクロ統計グラフ」だった。
「……動いていない。これはどういう事ですか?」
林は、カサカサに乾いた声で呟いた。
「ええ、完全に止まっていますねぇ」
周は運転席の窓を少しだけ開け、外の夜風を吸い込みながら、冷めた声で応じた。
端末の画面上では、昌平セクターの中心部を走る主要幹線の電力消費パルスやルーティングの周波数が、一律のエラーによって完全な一本の直線――「フラットライン」へと張り付いていた。
第七分局の趙分局長が送信した『インフラ正常・是正完了』という虚偽の報告書を、天網の中枢AIは正しい仕様として受理してしまっていた。その結果、システムは自らの内部で起きているハッキング(時間の歪み)を異常と認識できず、狂った同期命令を全域の交差点やEVの制御サーバーへ配信し続けていたのだ。
画面上の安全フラグがすべて『瑞々しい緑』を灯し続ける裏側で、都市という巨大な肉体は、エラーコードを一通も吐き出さないまま、音もなく完全な「硬直」状態へと導かれていた。
スマート信号機はすべての交差点で『青』のまま完全にフリーズし、それを正常と信じ込んだ自動運転の物流トラックたちが、センサーの論理矛盾によって身動きが取れなくなり、全セクターの主要道路を静かに塞ぎつつある。それでも、住民たちのスマートフォンには障害を知らせる通知は届かない。それどころか、天網の自律検閲ボットは、路上の異常を報告しようとする個人のSNSのパルスを「デマの排除」としてミリ秒単位で消去し続けていた。
誰も、自分が檻の中に閉じ込められていることに気づけない。
画面が与えてくれる偽りの安心感に目を誤魔化された人々は、高層マンションの暗闇のなかで、端末のグリーンランプを見つめながら、静かに、緩やかに窒息していくだけだった。
「システムが完璧を求め、自らの非を隠蔽しようとした結果がこれです」
周は冷徹な目で、フラットラインの等高線グラフがさらに歪んでいく様子を見つめた。
「あっちのデータセンター(貴州)も、この異常を検知できたとしても静観しているでしょう。誰も手綱を引かないまま、この国の誇る最高峰の知能(天網)は、自分自身が吐き出した数字の嘘に足元をすくわれて、勝手に内側から壊死しようとしているんですよ。……さぁ林くん、今夜はもう寝なさい。僕たちのような末端の力のないものには、たとえ気付いたとしても、ほとんどできることはないですからね」
林は、電波の途絶えた自らのスマートフォンの冷たいガラスの板をポケットへとしまい、窓の外の漆黒に沈むオリンピックの残骸を見つめた。地上のシステムが自らの仕様の重みで勝手に傾いていく不気味な軋みが、山を渡る夜風のなかに、確かな前兆となって混ざり合い始めていた。
――その時だった。
パジェロのヘッドライトすら消された完全な暗闇のなか、コンクリート建築物の柱の影から、カサリ、と衣服が擦れる生々しい「布擦れの音」が響いた。
息を殺した複数の人間の気配。彼らの静かな足音が、パジェロの周囲を音もなく、包囲していった。




