第10話 没落したかの国で
高度五百キロメートルの低軌道上を周回する他国の気象・環境偵察衛星が捉えたデータが、数万キロメートル離れたメリーランド州・フォートミード陸軍基地へと、ミリ秒単位で転送されていた。
物理的に電磁シールドを施した地上の最新鋭サイバー作戦センター(USCYBERCOM)の内部では、地上の人間たちの生々しい熱気が渦巻いていた。二〇二〇年代の失政と財政破綻により世界市場の主導権を完全に失い、没落の途を辿っていたアメリカ。彼らが国家の再起を賭け、議会の目を盗んで極秘裏に開発を続けてきた新開発の自律型侵略プログラムが、今夜、ついに中国・昌平セクターの天網の防壁を切り裂くことに成功したのだ。
センターの中央にある巨大な戦術モニターには、天網の最下層から強引にシグナルを逆流させて引き剥がした、昌平の監視カメラの生の映像が不細工なグリッド状になって投影されていた。
「接続確認。第七分局のキャッシュノードの奪取に成功。我が国のプログラムが、奴らの暗号鍵を正しいアップデートとして誤認させることに成功しました」
エリート官僚たちが大金星を挙げたかのように歓声を上げる中、作戦を指揮する陸軍中将のミラーは、コーヒーカップを片手に興奮を隠せない様子でその映像を見つめていた。
「素晴らしい。奴らのシステムは仕様の完全性を盲信するあまり、自らのバグを認めない。現地の役人が保身のために隠蔽している間に、我々のプログラムが全土のデバイスを窒息させる。これによって我が国は再び世界の頂点へ返り咲くことができる」
しかし、その狂騒から離れた部屋の隅で、主席開発技師のウォルターは、コンソールデスクの前でキーボードを叩く手を完全に止めていた。規律とデータのみを信じる彼の目は、侵略プログラムの戦果ではなく、センター内の定時内部同期ログに固定されていた。
「……一・二ミリ秒の乖離」
ウォルターの、喉を締め付けられたような声が、室内の熱気を冷酷に切り裂いた。
「どうした、ウォルター。また君の神経質なバグ探しが始まったのか?」
ミラー中将がめんどくさそうに振り返った。
「中将、センターのマスタークロック(主原子時計)が、外部の国家標準時ネットワークのスタンプと乖離しています。エラーフラグは立っていません。ルーターはすべて『同期成功』のステータスを返しています。遅延ではありません。時間が、極めて滑らかに進んでいる(バーストしている)んです」
現象は把握できたが、実際に何が起きているのか、ウォルターにはその本質が全く掴めなかった。外部の原子時計ネットワークの障害なのか、それとも自国内の基幹ルーターの局所的なハードウェアエラーなのか。なぜどのセキュリティシステムもアラートを吐かないのか。
彼は原因も全貌も分からぬまま、自らの目の前で起きている不条理なログを前に右往左往し、だが、そ
の必死に絞り出したパッチ構築も、デジタル社会そのものが抱える「仕様の重み」の前には無力だった。
全米のインフラは、商用の利便性と効率化のために「時間が常に一律に自動同期されていること」を前提(仕様)としてシステムが組まれている。ウォルターが原因不明の狂いを強引に止めようと放った緊急パッチは、インフラ側のシステム自身によって「中央命令との不一致(異常なノイズ)」と判定され、自動で破棄され続けていたのだ。
システムは、自分が狂っていることに最後まで気づけない。
ウォルターのデスクのサブモニターに、民間インフラの「エラーなきフリーズ」を知らせるマクロ統計が、指数関数的に上昇し始める。完璧を自称するハイテクシステムが、互いに正常のステータスを表示し続けながら、相手の仕様を噛み合わせて終わりの見えない報復合戦へと向かう狂気的なフィードバックループ。その最初の一振りが、ワシントンやウォール街の静かなインフラの麻痺として、白昼堂々、音もなくエスカレートし始めていた。




