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第八話 深夜の客人


 それから数日が過ぎた。

 夜、時計の短針が真上を指す頃、浴室ではシャワーが床を打つ音が響いていた。

 一人きりのリビングでふと立ち上がったレイは、壁に貼られた一枚の写真の前に立った。

 そこに写真が飾ってあるのは、初日の夜から知っていた。だが、意図して目を留めたのは初めてのことだった。

 指を伸ばし、触れる寸前で止める。


 一人きりの吸血鬼狩り(ハンター)

 相棒は吸血鬼に殺されたと言った神崎の声。

 孤独なはずの部屋に僅かに残る、誰かの気配の名残。

 レイは記憶を順に辿っていった。


「あなたのことですね」


 そう呟いた声に、答えが返るはずもなかった。

 表情を見せないレイにさえ、写真の中の名も知らぬ男は笑いかけていた。


 不意に、レイの耳が一人分の足音を拾う。

 人間の耳では拾えない程の、微かな音だった。それは、この家の扉の前で止まった。

 同じ場所から、緊張を含んだ深呼吸が聞こえる。


「はぁ……気が重い」


 髪を掻き、憂鬱そうに零された、聞き慣れぬ声。

 レイは視線だけで素早く部屋を振り返った。

 元々、この家に自分の持ち物など無いに等しい。

 自分のために用意されたマグカップは、今日はまだ使っていない。棚の中にある。 

 音もなく玄関へ移動し、自分の靴を回収する。他に目立つ痕跡がないことを確認すると、すぐに貸し与えられた部屋へ戻った。


 同時にインターホンの音が鳴る。

 浴室を出た神崎が玄関前を映し出すモニターを眺めている間、レイは自室で黒い上着に袖を通していた。

 自分がこの家に持ち込んだ物といえば、この上着と靴くらいのものだった。

 扉を隔てた先から声が聞こえる。


「どうしたんだよ。こんな時間に」


「たまには飲もうぜ。酒とツマミも買ってきたんだよ」


「……おい、待て!」


 強引に家へ上がり込んでくる足音。

 その音に隙はない。訓練されたハンターのものだった。

 レイは静かにベランダに出て窓を閉める。幸い今夜は無風だった。風の音さえ立たない。


 ハンターがレイを探しに来た。

 神崎が吸血鬼と共にいることが知られた。

 ただ偶然、神崎の知った顔が遊びに来ただけかもしれない。


 どれも考えられた。

 だが、最悪の可能性がある以上、ここに留まる理由にはならなかった。

 一度だけ、部屋を振り返る。

 分厚いカーテンに遮られ、部屋の中は見えなかった。


「——ありがとうございました」

 

 誰にも届くはずのない声で呟く。

 落下防止の柵の上に立ち、履き慣れた靴で一歩踏み出す。

 黒い影は夜の闇に溶けて消えた。


 

    *



 我が物顔で家に上がり込む同僚の男の背を追って、神崎はリビングに戻った。

 風呂上がりの髪から、まだ水滴が垂れていた。肩に掛けたタオルでは受け止めきれず、シャツの襟元が濡れている。

 だが神崎には、それが冷たい汗のように感じられた。


 部屋の中を視線だけで見回し、レイの姿を探す。だが、見当たらない。

 自室に戻っているのだと、同僚に悟られないよう小さく安堵の息を吐く。


「お前の家に来るのも、随分と久しぶりだよな。最後に来た時は、佐伯(さえき)と三人で飲んだっけ」


 その名前に、神崎の指先が揺れる。

 無意識に視線が壁に貼られた写真へと向いた。

 この家で一時期、共に暮らした相棒。

 その人物が使っていた部屋の扉のノブに、男の手が掛かった。

 神崎は手を伸ばし、男の手首を掴む。


「何をしてる」


「別に? ただ懐かしいなと思って。ここ、佐伯の部屋だったろ?」


「そうだ。今開ける必要はない」


「開けちゃダメな理由もないだろう?」


 男はいつもと変わらない笑みを浮かべた。

 だが、その笑みが固いことくらい、付き合いの長い神崎には分かる。

 何かを確認しにきた。それは明らかだった。

 今度こそ、背筋に冷たい汗が伝った。


「神崎」


 よく知った声が名前を呼んだ。

 もし同僚の男が誰かの命令を受けてここを訪れたというのなら、この会話さえ監視されている可能性がある。

 下手なことは言えない。

 唇を噛み、ゆっくりと手を離した。

 扉が開かれる。


「随分と片付けたな。何もない。……まあ、佐伯がやたらと散らかす男だったから、余計にそう思うのかもしれないけど」


 男は笑ってそう言った。

 神崎は、無意識に俯かせていた顔を上げる。

 男の肩越しに部屋を覗き込むが、そこには言葉通り、空っぽの部屋があるだけだった。

 何も置かれていない机。本の一冊さえ入っていない本棚。

 人の姿はない。人が居た痕跡さえない。

 レイのために買い替えたカーテンがなければ、神崎でさえ先程まで共にいた人影が幻だったのではと思ってしまいそうだった。


「じゃ、飲もう。佐伯の分も買ってきたんだ。アイツも酒が好きだったからな」


 男は笑ってリビングへと戻っていく。

 神崎だけが、その場から動けずにいた。

 背後で、テーブルに酒の缶が並べられていく音がする。

 何度も視線だけで部屋を探り、耳を澄ませ、暗い部屋に誰の気配もないことを繰り返し確認した後で、神崎はその部屋の扉を閉めた。


 

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