第六話 共存の条件
「ルールを決める」
自身が借りているマンションの一室で、入浴を終えた神崎はそう言った。
窓辺に立ち、夜空を見上げていたレイが静かに振り返った。
「協力関係にある間、俺はお前を殺さない。その代わり、お前も俺を狙うな」
「狙いませんよ。女性の血の方が美味しいので」
「そういう話じゃない」
テーブルの傍に置かれた椅子に腰を下ろしながら、苛立ったように神崎は言葉を重ねた。
「吸血行動自体をするな。血なら……裏のルートから輸血用の血液でも買ってきてやる」
そう告げたものの、レイは緩く首を振り、カーテンを閉めて窓を覆った。
「なら、必要ありません。時間が経過した血液は不味いですし、俺は純血と違って血を飲まなくても死にはしないので」
そう、何気ないことのように言った。
神崎は背凭れに預けたばかりの背を勢いよく起こす。
「……何だと?」
吸血鬼は人間と同じ食事を必要としない。
社会に紛れるため同じ食事を取ることはあっても、本来吸血鬼に必要なのは人間の血液だけだ。
だが、それさえ必要ないとレイは言った。
「普通の食事で事足りるということか? お前、じゃあ何故、人の血を飲んでいた?」
「ただの嗜好品ですよ。あなた達人間が、酒や煙草を嗜む理由と同じです」
「人の皮膚を裂き、そこから血を啜る嗜好なんかがあってたまるか」
醜いものを眺めているかのように、神崎は表情を歪める。
だが、すぐにもう一度背凭れに体重を預けた。
「次のルールだ。必要な物があるなら俺に言え。用意してやる。だから、勝手に外に出るな。勝手なことをするな」
「俺の自由が少ないですね」
「当然だ。お前は吸血鬼だぞ。本来なら発見されて、すぐに殺されるべき存在だ。生かされているだけでありがたいと思え」
不満を口にした割に、レイは食い下がらなかった。
その後もいくつかの決まり事を定めたが、反論は一つも返らないままだった。
「あの吸血鬼は、なぜ混血のお前をあそこまで嫌悪した?」
話の最後に、何気なく神崎はそう尋ねた。
ソファの端に腰掛けていたレイは興味もなさそうに、視線さえ向けないまま答えた。
「人間の血が混ざっているからでしょう」
「それの何が問題だ?」
「吸血鬼にとって、人間とは餌です。食材と言い換えてもいい」
脚を組みながら、他人の話でもするように語る。
「人間だって、牛や豚の血が半分混ざった個体がいたら、気味が悪いとは思いませんか?」
「お前らから見た人間とは、そういう存在なのか?」
「ええ」
それきり、会話が途切れた。
もう朝が近くなった頃、神崎は一枚の扉を指差した。
「お前はそこの部屋を使え。今は使う奴もいない。空き部屋だ」
「以前は誰かが使っていたんですか?」
レイは示された扉を開きながら問う。
ベッドが一つ。空の本棚。小さなデスクに、椅子が一つ。
非常にシンプルな部屋だった。
言葉通り、しばらく使われていない部屋の中に、知らない人間の香りがごく薄く残っていた。
「そんなこと、お前には関係ないだろう」
「ええ」
神崎の言葉に、レイは黙って部屋に入る。
扉を閉めた直後、すぐに扉を開いて顔を覗かせた。
「欲しいものが出来ました」
「……何だ?」
「光を通さないカーテンを」
神崎は椅子に座ったまま、体を傾けて部屋の中を覗く。
部屋の窓に掛けられているカーテンは、少しだけ薄手のものだった。
壁際に置かれているベッドまで光が届きはしないだろうが、確かに少し心もとない。
「分かった。すぐ届くように注文しておく。俺も、吸血鬼一人分の灰を掃除させられるのは面倒だ」
「ありがとうございます」
そう言い残して、レイは今度こそ部屋の中に消えた。
「ありがとう、ね……」
誰に向けるわけでもなく、神崎は一人でそう呟いた。
そして、朝日が部屋を明るくするまで、念入りに銃の清掃を続けていた。
*
神崎が自室で眠り、夕方になって起き出してきても、レイの姿はリビングになかった。
貸し与えた部屋の扉を開くと、暗い部屋の中、ベッドの上に人一人分の丸みがあった。
「おい、起きろ。吸血鬼」
そう声を掛けても、反応はない。
微かに聞こえる呼吸音に合わせて、掛布団が僅かに上下している。
神崎は小さく舌打ちを零し、ベッドの脇に立った。
「仕事の時間だ、さっさと起きろ」
苛立った声と共に肩を揺する。
すると次の瞬間、ベッドの中から伸びてきた腕に手を引かれた。
咄嗟に体を支えようと前に出した足が、ベッドのフレームに当たり重心が揺らぐ。
体勢を崩した神崎の腰へ、レイの腕が回った。
そのまま逃がさないように抱き寄せられた視界の端で、レイの唇が薄く開いたのが見えた。
そこから覗く、尖った白い牙も。
あの日、黄昏の中で聞いた言葉が、咄嗟に脳裏を過った。
『俺は、噛んで良いかと聞きましたよ』
『ベッドの上で』
咄嗟に腰に手を伸ばし、引っ掴んだ銃で黒い髪を殴りつける。
真っ暗な空間に、重い音が響いた。
「……痛いな」
そして、寝ぼけた声が遅れて聞こえた。
ようやく持ち上がった瞼の奥から現れた瞳が、神崎の姿を捉える。
ゆっくりと部屋を一周見回してから、最後にまた視線は神崎へと戻された。
「どうしたんです、ベッドに入ってきたりして」
「お前、殺すぞ」
「昨晩、俺を殺さないという話をしたばかりのはずですが」
「どこかの女と間違えて、俺を噛もうとしやがったのはお前だ」
銃口を顎に突き付けられても、相変わらずレイは動じない。
眠そうに何度か重く瞬いた瞼をようやく持ち上げ、そして何かに気付いたように伏せた。
「そうかもしれませんね」
「次は警告なく撃つ」
「互いの部屋に入らないというルールも追加しては?」
「お前がちゃんと起きてくれば、部屋なんか入らねえよ」
腰に回ったレイの腕が緩むなり、神崎はすぐにベッドから降りた。
レイは苛立ったままの神崎の背をゆっくりと追って部屋を出る。
日が沈み、また夜が始まろうとしていた。
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