第五話 混ざった血
冷えた音を立てて、注射器が持ち上がる。
「手を」
女のハンターが、レイに片手を伸ばして促す。
少しの間の後、レイは大人しく片腕を差し出した。先程、吸血鬼に裂かれた方とは反対側の腕だった。
注射器の針はすぐに腕に刺され、赤い血を吸い上げていく。
神崎は黙ってそれを眺めていた。
注射器に入った血液へ、小瓶に入った液体が注がれる。
血の色が変わらなければ人間。もし青く変われば、吸血鬼であることが証明される。
透明な液体が血液を薄める。女は、液体を混ぜるように何度か注射器を揺らした。
だが、何秒経っても薄まった赤色は変色しなかった。
「……そうか」
ハンターの男が小さく呟いた。
「検査へのご協力、感謝します」
そう短く言葉を残して、男は吸血鬼の残した灰の回収作業に入った。
女もそれを手伝う。
神崎はレイの腕を乱暴に引き、灰に背を向けるように早足で歩き出した。
*
「あの」
しばらくして、レイが口を開く。
「何だよ」
神崎は立ち止まり、低い声で振り返る。
そこで初めて、考え事に集中するあまりレイの腕を掴んだままだったことに気付き、無言でそれを離した。
汚い物にでも触れたかのように何度か手を払ってから、神崎は眉間に皺を作った。
「お前、さっきのあれは何だ。あの検査を、どう誤魔化した?」
「誤魔化してはいません。あなたも見ていたはずです」
「検査を擦り抜ける吸血鬼なんか、いてたまるか」
「言ったでしょう、俺は混血だと。ただの偶然ですが、あの薬には人間として反応するようですね」
神崎の表情がより険しくなる。
偶然。
そんな二文字で、ハンターから逃れた吸血鬼が目の前に存在してしまった。
当然、そんなことがあってはならない。
痛む頭を押さえつつ、神崎は再びレイへ視線を向けた。
「吸血鬼同士は、互いを匂いで認識出来るのか」
「ええ」
「どんな匂いだ?」
そう問うと、レイは少しばかり言葉を探すように首を傾けた。
「……人間は、少し甘いような匂いがします。吸血鬼は、錆びた鉄に似た匂い。混血は、それより少し生臭い匂いがするそうです」
そう言いながら、レイは先程抉れた腕を鼻先に寄せた。
傷はもう塞がっているが、服はあの時散った血を吸っている。
だが、嗅いでも自分の匂いはよく分からない。レイは、そう言いたげな顔をしていた。
神崎は髪を掻きながら、周囲を見回す。
つい自分の家のある方向へと歩いてきてしまったが、ここまでレイを連れてくる理由はなかった。
「お前、どこに住んでいる」
そう問うと、レイは視線を持ち上げた。
「家はありません。昨夜は、あなたに絡まれた後で声を掛けてきた女性の家で眠りました」
「絡まれたって言うな。——その女の名は?」
「知りません」
「住所は」
「分かりません」
「……まさか、血を吸ってないだろうな」
「昨日は貰っていませんよ」
レイは淡々と言葉を返す。有益な情報はなくとも、その中に嘘も無さそうだった。
とりあえず、新たな被害者が生まれていない事実に、神崎は小さく安堵の息を吐く。
「行く先が無い時はどうしてるんだ」
「日の光が届かないような木を選んで、その枝の上で眠っています」
「猿かよ……」
頭痛が増した気がして、神崎は思わず空を仰いだ。
レイは、しばらく黙ったまま神崎の横顔へと視線を注いでいた。
「先程、どうして仲間へ明かさなかったんですか」
その声に、神崎は視線だけをレイへと戻した。
「俺が吸血鬼だと」
「…………」
問われないはずがない。
あの時、ただ一言この男は吸血鬼だと言えていれば、今頃はハンターが三人掛かりでレイを追えていたはずだ。
もしかしたら、一晩で二人の吸血鬼を殺せていたかもしれない。
吸血鬼は、一日でも早く殺さねばならない。
でなければ、罪なく生きている人間が殺されるのだ。
だが、ハンターでありながら、神崎はそうしなかった。
「お前を……」
返した声は少しだけ掠れていた。
神崎は一度唇を噛んだ後で、再び口を開く。
そして、睨むような視線をレイへと向けた。
「利用しようと思う」
「利用、ですか」
レイの双眸が細められる。
神崎の言葉の意味を探ろうとするような眼差しだった。
「そうだ。お前の嗅覚があれば、人間に紛れている吸血鬼を探し出せる。お前をここで殺すより、飼い殺しにした方が、よほど効率がいい」
「俺に得はありませんね」
「俺の家を使っていい。寝床に困ってるんだろう?」
レイが次の言葉を待つように、僅かに首を傾ける。
「俺に協力すれば、少なくとも俺がお前を追い回すことはなくなる。俺の家で、食事も、部屋も用意しよう」
「それだけですか?」
「他に望みは?」
そう問えば、要望にしろ拒絶にしろ、すぐに答えが返ってくるものだと思っていた。
だが、レイはしばらく黙ったままだった。
やがて溜息交じりに、そっと瞼を伏せた。
「俺が必要無くなったら、俺を殺さずに一度解放すること」
静かな声でレイはそう言った。
「その後、俺をまた捕らえられたのなら、その時は殺しても構いません」
そう告げるレイの表情に、やはり感情は読み取れない。
世の中の全てに興味が無さそうな顔で、レイは一つだけ望みを口にした。
「……分かった。約束しよう」
神崎は静かに頷いた。
そうして、今朝までは一人しか住んでいなかった家の玄関に、二人分の靴が並んだ。
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