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西部遺跡管理事務所 業務日誌  作者: 青桐 臨
第九章 第2節
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9 薄氷を踏む


 カギモトはさっと立ち上がってリュックを背負った。その拍子に地面に置いていたコーヒーに靴先が当たり、倒れてこぼれた。

  

「わざわざ迎えに来てやったんだぜ、さっさと来い」


 マツバは犬でも呼ぶような手招きをする。

 蒼白な顔のカギモトは、今にも逃げ出しそうだ。

 

「行きません。このあと……約束があるので」


 マツバは鼻で笑った。


「自分は約束ブッチしておいて何言ってんだよ」


 カギモトは痛いところを突かれたように押し黙る。

 ソナもとりあえず立ち上がったものの、2人の挙動を見ているだけで何もできない。


「……嫌です絶対に」

「阿呆か。自分で予約したんだろうが。ガキじゃねえんだ、責任持てや」

「……」


 カギモトが言い返せないところを見ると、マツバの理由はそれなりに筋が通っているらしい。


 “カウンセリング”と先ほどマツバは言った。


 カギモトは被回収者だ。被回収者はこっちに連れてこられたあと、環境の変化に適応するために定期的にカウンセリングを受けるというのは聞いたことがあった。

 その話なのだろうかとソナは推測する。


 ──そのカウンセリングの約束を、すっぽかした?


 カギモトへの不安感がさらに大きくなる。


 マツバはだらしなくポケットに手を突っ込み、カギモトに近づいていく。カギモトは後ずさって身構えた。


「抵抗すんなよ。みっともなく拘束されて連れて行かれたいわけ?」

 この子の前で、とマツバが急にソナを顎で指すと、カギモトの顔はさらに強張る。

 マツバは、お世辞にも爽やかとはいえない笑顔をソナに見せた。


「お邪魔しちゃって悪ぃね、でも今回は本当にこいつがいけないんで。だからちょっと、今日のところは借りてくわ」


 この男には有無を言わせない力がある。

 正直ソナは口答えなどしたくなかった。

 しかし、怯えているようにすら見えるカギモトの前にソナは立つ。


「すみません。よく事情はわかってませんが……無理強いするものでは、ないんじゃないですか」


 マツバはソナを見つめた。まるで資格を見定めるかのような、そんな目だった。


「無理強いじゃない。正式な受診命令が出ている」

 

 ポケットから折りたたまれた紙を取り出して開いて見せる。

 カギモトが後ろで「あっ」と声を上げたが、ソナはマツバに近づき、文章を目で追った。


 確かにそれはカギモト宛の受診命令で、一番下に心理カウンセラー……「レン・ファーレン」とサインされたものだった。


「レン……」


 何度も聞いたその名前が、ソナの中でやっと繋がった。

 以前、心理学関係をやっている、とレンは電話口で言っていた。


 つまり、被回収者であるカギモトの、心理カウンセラー。


 しかし受診命令を出されるとは……相当なことである。


 思わずカギモトの方に振り返ると、カギモトは今度は真っ赤になってマツバを睨む。


「それ……それはプライバシーの侵害じゃないですか。個人情報の漏洩です」


 マツバは真顔になった。

 ソナにとってはいつもにやついている印象しかないマツバの、初めて見る表情だった。

 が、マツバはすぐにふっと噴き出して笑う。


「おまえらしくもねえ反論だ。いよいよ見逃してやる気にはならねえな」

 マツバは一気に距離を詰める。

「あ、あの、マツバさん……」

「あんた、ボディガードはありがたいんだけどよ、本当にそいつのためなんだ」

 

 「どいてくれないか」と細い目に見下ろされる圧はもちろんあった。

 しかし、ほんの少しの温度を感じさせる言い方でもあった。


 乱暴ではあるが……カギモトを悪いようにはしないだろうという根拠の薄い信頼らしきものをを、ソナはマツバに対してなぜだか持っていた。


「行くぞ。あっちに車停めてる」


 立ち尽くすソナを無駄のない動きで避けて、マツバがカギモトの腕を掴む。

 カギモトは歯噛みするようにマツバを睨んでいたが、やがて、がくりと力が抜けたように項垂れた。


「カギモトさん……」


 カギモトはちらりとソナを見た。


 それだけだった。何も言わず、ふいと顔を背けてしまう。

 汚らしいものでも払うようにマツバの手を振りほどき、そのままマツバの後を、足を引きずるようにしてついて行った。


 ソナは呆然として芝の上に立っていた。


 今まで切り離されていた空間が突然戻ったかのように、音や景色がソナに飛び込んでくる。

 足元には先程カギモトが倒した彼の空のコーヒーのカップが転がっていた。自分の分のカップと共に拾う。


 顔を上げると、来た時と変わらない、嘘のように穏やかな光景が周囲にはある。

 眩しくて、自分以外の誰もが幸せそうで。

 わけもなくそれが遥か遠いものに感じられて、そちら側に足を踏み入れることなど、どう頑張ってもできないような気がした。

 その感覚は少しの懐かしさをソナに思い出させる。

 友人らしい友人もできなかった学生時代、楽しそうに言葉を交わしながら目の前を通り過ぎていく同級生達が、壁の向こうにいるみたいに見えていた。

 社会人となり、今の環境にあって、いつの間にか忘れていた。


──あの人はずっと、こんな気持ちでいたのかもしれない。


 なぜだか今、そう思う。

 手から力が抜けて、拾ったカップが落ちた。なだらかな坂を転がっていく。


「あ……」


 ソナは慌てて後を追った。 

 風が後押しするようにしてカップはころころと坂を下る。

 綺麗に整備された歩道まで出てしまい、誰かの靴先に軽く当たった。

 白い日傘を差したその人は足を止め、屈んでカップを拾い上げた。


「す、すみません……」


 恐縮しながら日傘の人物に近づき、カップを受け取ろうとしてソナははっとした。


 黒い艷やかな髪。同じ色の瞳の少女。

 白いワンピースを身に着けた華奢な彼女は、間違いなくノダ・アヤセだった。


「あ」

 向こうも覚えていたらしく、ソナを見て目を丸くした。

「あれ。えっと……職員さん?」

「……どうも」


 カップは受け取ったが、アヤセとの間には妙な沈黙が生まれた。


──そうだ。


 カギモトはノダ・アヤセと会う約束をしていた。だから彼女はここにいる。待ち合わせ場所の、図書館の前に行くのだろう。

 ソナはそっとアヤセを伺った。


 レースのついた日傘。きちんと化粧をしている。新品のような綺麗なワンピースに、可愛らしい小ぶりのバッグ。汚れのないパンプス。首元の細いネックレスがちらちらときらめいている。

 以前事務所に訪れた時も可愛らしい格好をしていたが、普段からこんな装いなのか、それともカギモトと会うからなのか。

 

「ええと、あの、それじゃ失礼します……」


 アヤセは何とも言えない愛想笑いを見せて、ソナに軽く頭を下げ、図書館の方へと向かおうとする。


 そのまま放っておいてもよかったのだと思う。


「あの、ノダ……さん」


 しかしソナは呼びかけていた。

 アヤセは日傘と一緒に振り返る。

 

「その……か、カギモトさんなら、急用ができてしまったようです」

「えっ?」


 アヤセは驚いたようにソナを見て、すぐにその目を不審そうに細めた。


「す、すみません。私、カギモトさんと職場で席が隣で、今日あなたとお会いするっていう電話を横で聞いてて知ってまして」


 どこか後ろめたく、言葉を詰まらせながら伝える。

 アヤセは日傘の細い持ち手を固く握っていた。 


「でも、カギモトさん、その急用でここを離れてしまったので、待ってもたぶん、お会いできないですよ……」


 言葉尻は自信なさそうにか細く、外の空気に吸い込まれていった。重たげな静寂が訪れる。

 

 今の自分の行動がひどく醜いものに思えた。

 

 いや、とソナは頭の中で否定する。

 親切で伝えたつもりだ。知ってて言わずに彼女が待ちぼうけをしてしまったら、居たたまれないと思って──


 すうっと、アヤセが息を吸う音が聞こえ、ソナは意識を正面に戻した。

 アヤセの黒い瞳は、ソナが持つ2つのコーヒーのカップに向けられている。


「……一緒だったんですか? 今まで」


 それは単なる質問に過ぎなかった。

 「はい」か「いいえ」で端的に答えられるもので、答えは「はい」だ。


 なのに。

 すぐには答えられない。

 答えられないこと自体が何を意味するのか。

 それを考えたくないと思ってしまうことにも、先ほどの醜さと似たものを自分自身に感じていた。


 でも私は既に、あの人の立つ薄氷に足を踏み入れている。


 もう引き返すことはできないかもしれないけれど、そうすることを、自分で選んだのだ。

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