10 車内にて
最悪だ。
麻痺したような頭の中を、その感情だけが埋め尽くす。
マツバ・トオルの運転する魔導車の助手席。
リュックを前に抱えたまま、流れていく窓の外の景色の中に、この事態を逃れる糸口があるのではないかと目を凝らしていた。
緑の平坦な農地と、薄雲がかかり始めた空が広がるばかりだ。
自室にさえいなければマツバに会うことはないと、なんでそんな単純に考えてしまったのだろう。
この男は神出鬼没だ。
こちらを探し当てることくらいわけもないことはわかっていたはずなのに。
やはり、最悪の可能から目を背けている。
マツバの舌打ちが聞こえた。前の車がのろいか何かだろう。
これからカウンセリングに連れて行かれる。
ありえない。どうしよう。どうしたらこの状況を。
……ポケットにはいつものように護身道具が入っている。
それでマツバの隙を狙うイメージをしてみる。何パターンか考えてみても返り討ちにあう未来しか見えない。
そもそもが、隙を突いてここから逃げ出せたとして、どこに行く? 逃げ込めるところなんてどこにもないのに。
無駄なことを考えてしまった。腹の中で消化しきれない苛立ちが燻っている。車の揺れも相まって、今朝から多めの薬で抑えていた吐き気が今頃訪れる気配がしていた。
──写真を。
腹の上のリュックを形が変わるくらいに抱き締める。
──手に入れればとりあえず何とかなると思っていた。
薄れていく記憶が少しくらい補強されて、それだけで満足できるだろうと。
それでしばらくは皆とも、完璧に今までどおりとは言わないまでも、それなりにうまく過ごせるだろうと。
そんな単純なことじゃなかった。
引きずり出されるように蘇る記憶が、また消えてしまうのが怖かった。何とか留めておきたい気持ちに衝き動かされ、思い出すままに口にしていた。
ソナ・フラフニルの気持ちなんて考えもせずに。いや、ソナ・フラフニルのことなんてたぶん見てさえもいなかった。
いやちがう。むしろ。
まひろの顔がソナの顔にすげ替わる夢が頭をよぎる。
彼女だからか。
記憶の中のまひろが揺らがないように、まひろと彼女は違うのだと自分に刻み込むために、彼女との差異を探そうと事細かに──
傷ついたような顔をした彼女を見たら、すべてをなかったことにしてしまいたくなった。穏やかでぬるま湯のような関係を保つにはそうするしかないから。
それなのに。
それは嫌だと言った彼女の言葉に、ただでさえ不安定な足元がさらに揺らいだ。
同時に、体のどこかに柔らかく染み渡るように響いて、それでいて、痛い。
もう後戻りができないという焦りとともに、あの時のソナを反芻するように思い出してもいる。
息が苦しい。気持ち悪い。
「ぬいぐるみ抱っこしたガキか」
小馬鹿にしたようなマツバの言葉に、ゆっくりと隣を見た。釘がぶら下がったような趣味の悪いピアスが揺れている。
マツバはハンドルを握り、前を向いたまま。
「何だそのリュック。大事なもんでも入ってんのか?」
「……」
リュックを、ほんの少し体から離す。
元の世界から違法に持ち込まれたものだ。中の写真をこの男に見つかったらまずい。
マツバは細い目をちらとこちらに向け、またすぐ前方に戻した。
「なあ、おまえ今朝どこにいた?」
一瞬返事に詰まる。
「同僚の家にいて……それから図書館ですよ」
嘘はついていない。
……図書館といえば、ノダ・アヤセとの待ち合わせ時間が迫っている。今の状況を伝えることもできないし、彼女との約束も反故にしてしまった。
マツバはふんと鼻を鳴らした。
「おまえも知ってんだろうけど、俺、人の居場所が大体わかるんだわ」
マツバがハンドルを切る。
「今朝レンちゃんから連絡が来た。おまえがカウンセリング予約したのに来ない。すっぽかしたのか、もしかしたらおまえに何かあったのかって」
「……」
「それで、おまえのことを探した。そしたらなぜか、わからなかった。感知できなかったっつうか」
淡々と語るマツバから視線を逸らし、再び外を見る。景色は先ほどとあまり変わり映えしない。
「普通そんなことないわけよ。てことは、おまえどっか、認識ができねえ場所に行ってたってことだろ」
マツバは返事も求めていない様子で一方的に喋っている。
「そういやあの図書館にはそういうスペースがあったな。まあ、そういう場所はあちこちにある。そういう場所を使いたい人間や組織はいるからそれ自体はおかしなことじゃない。だから問題は」
リュックを抱える手に、知らず力が入っていく。
「おまえは自分で予約したカウンセリングをすっぽかして、そんなところで誰と会って、何をしてたのか」
『アーテヌ』のことは、マツバにはずっと言いそびれていて今に至る。
国家の安全を守る魔法取締局のマツバのことだ。組織の存在はもちろん認識していて、動向だって注視しているだろう。
現政府を転覆させるような彼らの話に誘われているとは言えるはずもない。少なくとも、自分の口から言いたくはない。
「……なんでもいいでしょう。どこ行こうが何しようが俺の自由です」
「約束破るのも無駄に人を心配させんのも、自由ってか。自分勝手って言うんだぜそれ」
「人の心配するのもそっちの勝手じゃないですか」
思わず大きな声が出た。いつもなら我慢できるはずのマツバの嫌味も、今は全てが耐え難い。
「そういうの押し付けないでください、嫌なんですよ」
マツバが素早くハンドルを切ったかと思うと、急ブレーキを踏んだ。かなり飛ばしていたのか、前につんのめりそうになりシートベルトが胸に食い込んだ。
車は乱暴に路肩に停まる。
「あ、危ないじゃないですか」
「カギモトおまえ、少し頭冷やせよ」
マツバはフロントミラーを見ながらひとつ結びの髪を解き、再び結び直し始めた。
「ずっとやべえ顔してるぞ」
「誰のせいだと」
「おまえだろ」
その語気の鋭さにどきりとする。
「おまえが自分で自分を追い込んでるんだろうが」
「な……」
反射的に口は開けたものの、言葉が出てこない。
「……おまえ、もう少し周りを見ろよな。本気でおまえのことを心配してるやつもいるんだぜ」
ドアの脇からボトルを取り出し、マツバは水を飲む。横を通り過ぎる車を眺めながら、
「って言いたいが、そういうのが嫌なんだよな。だから言わないでおいてやるよ」
「……もう言ってます」
マツバは軽く笑う。何もおかしくない。
「しかし冗談じゃなく、おまえ、そうやって孤立を極めてる場合じゃねえぞ」
いつの間にか笑みを収め、マツバは真剣な目をしていた。
「今の、“杖無し”による殺傷事件は序の口だ。今よりもっと立場が悪くなっていく。そんな流れを作ろうとしてるやつらがいる。それこそおまえ、職場にもいられなくなるかもしれねえ」
マツバが言っているのは、“杖無し”を排除しようとする組織の方のことだろう。
先の集会でも、今回の一連の事件は、“杖無し”が危険だという風潮を強めたい保守の過激派によるものだと言っている参加者もいた。
ノイマンは以前、“正式に、大義を持って、“杖無し”を排除してやる”と宣言していた。
あいつやメッツェンが属する過激派『クロク』も本格的に動き出しているのかもしれない。
もはや見ないふりをすることはできない状態になったというべきか。
「なあおまえ……もし今の事務所を追い出されたら、その時はどうするつもりだ?」
いつものふざけた口調ではない。
もしも。
俺があの職場からも排除されるようなことになったら、その時は──
いくつかの可能性が浮かんでぶつかり合って、粉々に砕かれる。破片はすべて冷たく真っ黒な泥の中に堕ちていって、何も残らない。
「……それに答えることに、何の意味があるんですか」
「質問に質問で返すんじゃねえよ」
マツバが吐き捨てた。それから苛立たしげに頭をばりばりと掻き、そして、大きく長い溜息をついた。
「いや、ある意味それが答えってか」
マツバは乱れた髪をもう一度素早く結び直すと、ようやくハンドルを握り、アクセルを軽く踏む。
マツバの愛車は道路へと戻ってまた走り出した。
「喜べよ」
マツバは進行方向を見据えながらぼそりと言った。
「やっぱりカウンセリングに連れて行くのはやめてやる」
「えっ」
「本当に、これが最後だ」
喜ぶよりも不信感のほうが募る。
訝しげに隣を見ていると、マツバは「その代わり」といつもの不敵な笑みを浮かべた。
「ひとつ、俺の言うことを聞け」
こちらの答えなど聞くつもりもないらしい。
マツバは更にアクセルを踏み込んだ。




