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西部遺跡管理事務所 業務日誌  作者: 青桐 臨
第九章 第2節
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8 係留



「その子、美術館巡りが好きで」


 カギモトは芝の上に胡座をかいて、リュックを抱えて続ける。


「こんな感じで出掛けて、外でアイス食べて。暑い日だったから、溶けてこぼして、確かチョコのアイスだったのかな、服すごく汚しちゃってさ。今のフラフニルさんよりもっと大胆に」


 カギモトはいつもより早口で饒舌で、何かに急かされているようにも感じられた。

 ソナも座り直し、黙ってクレープの最後の欠片を口に運んだ。チョコでべたついた手をハンカチで拭う。


 降り注ぐ日の眩しさに目を細め、自分のまったく知らない遠くの世界を追いかけるようにカギモトは語っていた。


 ──どうして。


 ソナは空になったクレープの包み紙をきゅっと握る。


「それでさ、その子美術館で買った絵はがききを……」

 カギモトはふとソナを見て止まる。

「……どうかした?」


「どうして」

 胸の中から押し上げられるように、ソナの口から言葉が出てきた。

「そんな話、するんですか」

 カギモトは「え」と目を瞬いた。


 言うべきでなかったとすぐに思った。

 じんわりと焼け付くような不快感を感じながら、ソナは包み紙のゴミを手の中で小さく丸める。


「あ、ごめん、知らない人の話しされても……つまらないよね」

 カギモトは気まずそうに頭を掻き、しかしすぐに「でも」と言う。

「……もう少し、聞いてくれない?」


 訴えるような薄茶色の瞳に、ソナの唇は僅かに震えた。

 

「なんで、今なんですか」


 たぶんこれも言うべきじゃない。

 でも、止められなかった。


「今そんな話、私に……」


 カギモトは固まった。

「それは」と口の中で呟くように言いかけて、そのまま黙ってしまう。

「“それは”……なんですか」

「……なんでもない。嫌な気分にさせちゃったならごめん。やめる」


 やや不貞腐れたようにも見えるカギモトの態度に、ソナも苛立った。


「何かあったんじゃないですか」

「……何も」

「カギモトさん。私は」


 高まりかけた声をぐっと飲み込む。


 私は、あなたが見えない扉の向こうに行くのを見ていました。

 そこで何かあったんですよね?

 だからあなたは今、そんなふうに──

  

 けれども言えない。言ったらきっと、取り返しのつかない亀裂が入ってしまいそうな気がする。

 ずっと、その葛藤を繰り返している。


「また……適当にあしらうんですか、私のこと」

 

 代わりに出たのは責めるような言葉だ。


 カギモトははっとして「ちがう」と言った。しかしそれ以上は続かない。


 こんなふうにカギモトに言い放つ自分はたぶんとても子どもじみている。

 追い詰めたいわけじゃないのに。

 

 カギモトは抱き締めたリュックに額を押しつけるようにして項垂れた。


 晴れやかな日の下にあってもそこだけ影が差すようで、暗い底へとどこまでも沈んでいくみたいだ。

 いつものように取り繕おうとする素振りすら見せない。


  “何か”はあった。

 でもこの人は言わない。

 そこまでの関係だということだ。

 だって、ただの同僚でしかない。


 ……本当にそうだろうか?


 この人と対等でありたいと言いながら、彼の立つ場所の脆さに気づき、いつからか、近づくことを恐れていた。

 それが彼を尊重することだからと理由づけて、理解を示したふりをして、適度な距離を保とうとしていた。


 ──逃げているのは自分もだ。


 やり場のない苛立ちが急速に萎んで、無力感が押し寄せてくる。

 ソナは先ほどは諦めた服の染みをハンカチで再び拭い始めた。取れないことはわかっていながら、何度も強く。


「適当にあしらってるとかじゃない」


 やがてカギモトが掠れた声で呟いた。


「なんて説明すればいいのか……わからなくて」

 

 ソナは手を止める。


「……思い出せたから」


 詰めた息を吐くようにカギモトは言った。


「思い出す?」  


「こっちにいると……だんだん忘れる。家族とか、友達も、付き合ってた人の顔も、うろ覚えになってく」


 訥々とした語り口とは裏腹に、リュックを抱える彼の手にはきつく力が入っていた。


「覚えてることも、それが本物なのか、夢なのか、俺の思い込みなのか、全部ぐちゃぐちゃになって、わからなくなることも、多くて……」


 ソナは相槌を打つことすらできす、聞いているしかなかった。


「でも今日……なんていうのかな、確かな記憶、みたいな、そういうものを……見つけて。そしたら、引っ張られるみたいに、ぼやけてた色んな記憶がはっきりした。さっきも」

 カギモトはふと顔を上げた。その表情を、何と呼べばいいのかソナにはわからなかった。

「フラフニルさんが服汚したの見たら、ま……彼女と出かけた時のこと、細かく」

「……」

「でも、それってやっぱり、俺の頭の中にしかないものでしょ?……写真とかとは、ちがう」


 形に残らない、とカギモトは低い声で言う。


「でも、言えば、残るかもって。誰に話せば、少しでも長く。だから今、言わなきゃって、思ったのかな……」


 やっぱよくわからない、と投げやりな様子で首を振るカギモトを、ソナは凍りついたような気分で見ていた。



 今はっきりと感じたのは、カギモトの、元の世界の記憶への執着だ。



“思い出をすべて失ったら、その時俺は死ぬんだと思う”


 以前のカギモトの言葉が蘇る。

 その時は冗談だと流したカギモトだが。


──とても、冗談だとは……


 この世界に来てから、彼がどうやって自分を支えてきたのか。

 彼を覆う壁の一部が氷解したような、そんな気がしていた。

 しかしそれは明るいことではなく、むしろ、底が見えないほどに深いものを見てしまったような……


 じわりと迫り来るのは恐怖かもしれない。


 それと同時に、どうしようもない不愉快さも感じていた。

 

 この人は思い出話を聞いてくれる相手が欲しかった。偶然知り合いの私がいたから話しかけた。そして恋人のことを思い出した。その思い出を自分の中に繋ぎ止めたくて、目の前にいる私に話した。


 側にいながらずっと、違うところを見ているということだ。

 

 そんなことでまた苛立ってしまう自分の浅さにも嫌気が差す。


 何も言えないでいると、「また」とカギモトは呻くようにして、両手で顔をごしごしとこすり始めた。

 その力の入れ方があまりに強くて不安になる。

 ようやく手を止めたかと思うと、カギモトはふっと力の抜けたような笑いを漏らした。


「……ほんと、変なところばっか見せてる、なんでだろ」

「……」


 肌が少し赤くなっている。ソナの方を見たカギモトだが、すぐに目を逸らして芝の上に置いたコーヒーを手に取った。

 口をつけ、再び置く。


 遅れて、「フラフニルさん」と決まり悪そうな笑みを浮かべた。


「……はい」

「あのさ、この前みたいにしよう」


 ソナはカギモトを見つめた。


「何ていうか……ほら、何もなかったって感じで。そうしてくれたでしょ、この間も」

 カギモトの口調は先ほどまでとは打って変わって軽い。

「なんか気まずくなっちゃうし、そうしない?」

 悪いのは俺だけど、と冗談めかして言う。

「俺、フラフニルさんとは普通にやっていきたいから、明日からも。だから今日のことは、なかったってことで」


 この間のように、何もなかったことにすれば、変わらず接することができるのだろう。

 仕事の話をして、時々当たり障りのない雑談を交わしてささやかに笑い合うくらいの関係だ。

 この人がそれを望むなら──


 風向きが変わり、クレープの甘い香りがソナの鼻を掠めた。


 その淡さに、胸がぎゅっと締まりそうになる。


 でも、私は。



「……カギモトさんには、別の理由があったのかもしれませんけど」



 思いを伝えるのはいつも苦手だ。

 誤魔化してしまいたくなるけれど、もつれた感情の中から、本物を必死に手繰り寄せようとしている。

 

「カギモトさんが今日、話しかけてくれて、外で食べようって誘ってくれて、一緒にクレープを食べたことは、私には……」


 消えない服の染みを見つめていた。

 手の中のクレープの包み紙はもうこれ以上はできないほどに小さくなっている。

 

「なんて言えばいいのか、私もわかりません。……でも」


 甲高い声を上げた子どもたちがすぐそばを走り抜けていった。

 

 喉が塞がるような気がする。

 何かが変わってしまうことは怖い。

 それでも。

 視線を上げ、カギモトをまっすぐに見る。


「なかったことにするのは……嫌です」


 カギモトは僅かに目を見開いた。


「なんで……」

「おいカギモトぉ」

 

 粗野な呼び掛け。

 振り返ると、光沢のある真っ青なスーツを着た男が真後ろにいた。

 

 魔法取締局職員、マツバ・トオル。


「カウンセリングすっぽかしてデートかよ」


 カギモトが横で身を固くする。


「いい度胸じゃねえか」とマツバは凶悪そうな笑みを浮かべた。

 

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