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Replay (復活)  作者: 瀬里那 淳
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(3)再会

(二話のつづき)


第2章


1 野沢佐智さんとの再会


 過去の人生で大吾が、野沢佐智さんと再会したのは二十二歳の夏の終わりだった。

その時は、今の人生でデザインのアルバイトをしている広告代理店の公宣に社員として勤めており 帰宅の時に千日前のバス停で偶然出会ったのが始まりだった。

その頃 大吾が居候していた母の実家と野沢さんの家は、大通りを隔て東と西に少し離れていたが、利用するバス停は同じであった。

現在の大吾は、上六の近くのアパートに住んでおり 市電で北浜に通っていた。

路線も違い、乗るものも違っていた為 まず出会うことは無いと云ってよい。

この頃、大吾は、公宣のアルバイトでよく千日前に出てきたが、不定期で佐智さんに出会う機会には、恵まれなかった。

偶に夜の八時過ぎ 彼女が帰宅する頃の時間に市電ではなく、彼女が乗る千日前からバスに乗ったりしたが、出会うことは無かった。


 過去の人生では、二年ほど彼女とお茶を飲んだりして付き合った。

彼女と出会う少し前から大吾には、既に交際していた女性が居た。

彼の気持ちは、次第に佐智さんに傾いて行ったが、交際中の女性を裏切ることが出来なかった。

ある日、彼女が会社に電話を掛けてきた。

「大吾さん、今夜時間いいかしら?」

「構わないけど、如何したの?」

「ええ、一寸大事な話しが有って---」

彼女は喫茶店で

「大吾さん、うち結婚する事にしたの。

 京都の雅楽器店の長男で猿渡云うんやけど みやこに見習いに来てはって その人からプロポーズされ たの」

「ふうーん、ええ話やんか」

大吾は、仕方ないなと思いながらも自分が、交際中の女性の話をした事を後悔した。

「お養父(とう)ちゃんは、相手の人が、こっちの家柄気にしはらへんかったら 良え話や云わはって。

 うち この話受ける事にしたの」

「--------」大吾は、暫く無言だった。

「大吾さん?」

「えっ、ああ」

「大吾さんも、今お付き合いしてる人と幸せになってね。

 うちの式の時来てくれはるでしょう?」

「ああ、寄せてもらう。必ず寄せてもらうよ」

この時から、佐智さんと お茶を飲むことは無くなった。

二ヶ月程して彼女から結婚披露宴の案内状が届いた。

京都での披露宴が終わり 最後の参会者の見送りをする佐智の前に立った時 大吾は、手を差し出し彼女と握手をした。

大吾は、自分を見た彼女の目を忘れることが出来なかった。

過去の人生での事である。


 大吾が、山三の正社員となって、一年以上が経った二十二歳の誕生日、佐智さんとの再会を自分への誕生プレゼントの積りで みやこ楽器に出向くことにした。

その日は、土曜日だったので、大吾は山三から早めに帰宅して 何時ものジーパンに白のポロシャツ、夏物の薄いグレーのジャケットを着た。

靴もバスケットシューズではなくモカシンを履いた。

少しだけ大人っぽくした積りである。

勤めだしてから大吾は、頭をすっきりしたスポーツ刈りにしていた。

出かける前に大吾は、珍しく母の鏡台で自分の姿をチェックした。

さすがに大吾の胸は、高鳴り緊張していた。

佐智さんにすれば中学校卒業以来 大吾の事は、何にも知らない筈である。

心斎橋筋を彼女が働いている店に向かいながら

「どうか彼女が売り場の自分の目の届くところに居ますように」

と胸の内で祈った。

みやこ楽器の店内に入ると 土曜日の午後の事もあってかなりの客がいた。

大吾は店内を見渡したが、彼女の姿は見当たらなかった。

大吾は、ギターをもう一台買うつもりであった。

ギターは、手軽で人気商品らしく店内に入った右側の壁面の殆どを占めていた。

中ほどに接客カウンターが有り 更にその奥にも高級品のギターが、他の値打ち物の楽器と一緒に並べられていた。

大吾は暫くの間ギターを選ぶ振りをしながら 店内に野沢さんの姿を探し求めたが見当たらなかった。

ひょっとすれば公休日?それはないやろう、ボーナスの出る忙しくなる時期に。

或いは、後方の事務方か?いや、以前の記憶の中には、売り場に出ていると確かに野沢さんは言っていた筈だが。

まぁ、今日会えなければ又出直すか と諦めかけた時、接客カウンターの後ろのドアが開き 書類を手にした彼女の姿が目に入った。

懐かしいポニーテールにした彼女を見紛う事はなかった。

彼女は、接客カウンターに座る客に書類を差し出し、説明している様子だった。

大吾は、それとなく彼女の接客のきりが付くのを待った。

その時、大吾の視線を感じたのか 彼女が、大吾の居る方に顔を向けた。

大吾はとっさに手を顔の横にあげて小さく振った。

一瞬彼女は怪訝な顔をしたが、直ぐ接客中の客との話に戻った。

接客が終わり客を見送ると 彼女は、再び大吾の居る方に顔を向けた。

大吾は、軽く頭を下げ彼女の方に歩き出した。

彼女は、じっと見つめていたが、その顔が驚きに替わり 目を見張った侭の笑顔に変わった。

接客カウンターの傍に立った大吾は

「山上さん、お久しぶり。此処に居てはったんですか」

「えぇー、神野さん。神野さんでしょう?

 何でぇー。此んな処で何してはんの?信じられへん」

彼女の目は、先ほどから驚きの侭である。

「山上さん、何してはんのて 此処楽器屋さんやろ。ギター探しに来たんですわ」

「えっ、神野さん、ギター弾きはるの? 

 ううーん、それでも奇遇やわぁ、神野さんと店で会うなんて」

彼女の話しは、あっちこっち跳んだままである。

彼女は、近くの男性店員に

「すみません、私この方の接客しますから宜しく」

と声を掛けてカウンターを回って大吾の傍らに立った。

「神野さん今日ギター買いはるの? 

 ほんまは、うちギターの事はよう分からへんの」

「うん、買うよ。どれにするか決めてあるから 山上さん心配する事無いよ」

二人は、大吾が決めていたアコースティックギターの並べてある処へ歩いた。

大吾はギターを手にしたまま

「今日これ買うけど、それより山上さんと久しぶりや、店終わったら喫茶店付き合わへん。

 予定有るの?」

「うぅーん、何にも。うちも神野さんと話したい。

 懐かしいし 久し振りやもん」

「何時に終わるの?」

「八時」

「そしたら店出て そこの辻東へ行ったらすぐに御門(ぎょもん)云う喫茶店あるから そこで待ってるわ」

「分かったわ。あたし御門知ってます」

二人は、ギターを買う客と店員の振りをしながら 手早くこれだけの事を決めた。

大吾はギターを手にして彼女の後に付いて接客カウンターに向かった。

接客カウンターでは、先ほど彼女が声を掛けた男性店員が大吾の応対をした。

男性店員が説明を始めると 

「いや、大丈夫、よく分かって居ますから。有難う」

と丁寧に彼の説明を断った。

彼の横にいた佐智が 

「この方、私の中学校の同級生の方なんです。

 偶々ギターを買いに来て偶然私と出会ったんです」

「へぇー、そうなんですか。それで分かりました。

 実は野沢さんは、ギターの担当じゃありませんし、何時も私が担当するんです。

 今日は、いきなりお客様の接客を始めたんで、可笑しいなぁと思ったんです」

「主任、勝手してすみません」

「野沢さん、いいよ、そんな事。

 貴女のお蔭でお客様にギターを一台お買い求め頂いたんだから」

主任は、笑顔を見せて、少し改まった調子で

「本日は、みやこ楽器でギターをお買い求めいただき有難うございます」

と丁寧に頭を下げた。

佐智もそれに倣って頭を下げた。

主任と佐智は、店の入口のところまで出て大吾を見送ってくれた。

店を後にした大吾は、ふぅーっと大きく息をついた。

そして佐智さんと再び始まる これからの事に大きく胸を膨らませた。

彼女との約束の時間は夜なので 大吾は一旦アパートに戻った。

買ったばかりのギターをおっぽり出し、ベッドに仰向けにひっくり返って天井を見ながら 今、会ってきた佐智さんを思い浮かべた。

まるで夢のようで、懐かしい思いが溢れ出た。

今の人生に戻ってから感じた事の無い強い感動だった。

過去の記憶に有った多くの人達と出会ったが、大した感動は覚えなかった。

真希との再会の時でさえ、懐かしい思いが溢れたが、意外と頭の中が冷めていた。

真希と接しながら過去に知らなかった多くの事を発見し 生身の彼女を身近に感じたが、それでも自分が少し離れたところから眺めているような気がしていた。

佐智さんに逢った時から、いや会おうとする少し前から 大吾は、初心な生身の二十二歳に戻っていた。

口の中が乾き、胸が動悸を打っていた。

天井を見上げながら、この人生に戻って 始めて自分の全てを傾けられる目標に出会ったと思った。

そして、今更ながら彼女への自分の想いの強さを知った。

過去の人生の六十余年を生きた中で 絶えず彼女の事が脳裏に浮かび 度々夢の中で彼女と出会った事を思い起こした。

大吾は、自分に「落ち着け、冷静になれ」と言い聞かせた。

以前の事は、彼女は何も知らないし、未だ彼女には起こっていない事である。

大吾は、彼女と以前の通りの親しい仲になるかどうか不安だった。

まず出会いからして違っていた。

それは、大吾が作為的に行動していた。

彼女の環境は変わっていないが 大吾の方は、以前とまったく異なる人生だった。

しかし、今の自分の環境は、過去の自分より良くなっているのではないかと思い直した。

これまでは、気にも懸けなかったが、勤め先が 山三證券である事を少し誇らしくも思った。

その反面、一介のサラリーマンに過ぎないとも思った。

自分を語り、話を聞き、会話する術は、遥かに進んでいるに違いない。

この人生でこんな事は、考えもしなかった事である。

自分が知っている世の中の未来を 隠し押さえながら自然に振る舞おうとしてきた。

それでも人々は、際立った存在として大吾を認めた。

「大吾よ 臆するな。これまで通り自分を信じて自然に振る舞え」

と自分に言い聞かせた。

大吾の気持ちに少しずつ余裕が戻ってきた。

慌てることなく三ヶ月ほどの間に 彼女に自分への信頼感と親密さ、出来れば愛情を育ませるのだと言い聞かせた。

これから一年間位の間には確実に、彼女にフィアンセの相手は、現れない筈であった。

過去の人生で彼女が、プロポーズを受けた時の事は、よく覚えていた。

フィアンセの相手が、何時現れたかは、聞いて居なかったが、何度か彼女と逢っていた時の状況から大吾は、そう確信していた。

夕方の七時過ぎに 大吾はアパートを出た。

身に着けた物は、午後 彼女に再会した時と同じだった。

心斎橋筋をぶらつき、本屋に立ち寄ったりしながら 待ち合わせの御門(ぎょもん)に着いたのは 約束の十分前だった。

店内は、土曜日で込み合っていた。

大吾は、レジ横で待ちながら 壁際が空いたら取ってくれるようにレジの女性に頼んだ。

壁側のアベックが立ち上がり、空席ができた。

大吾は素早くレジの女性に合図してその席に向かった。

大吾は、入口の方に向かって座った。

水の入ったグラスを運んできたウェートレスに珈琲を注文し タバコを取り出した時 佐智さんが入ってきて店内を見回し すぐ大吾に気が付いた。

大吾も立ち上がって手を振っていた。

彼女は、薄いベージュの襟のついた半袖のブラウスに 同色のプリーツスカート姿だった。

今日 店で見た時は、売り場の制服姿である。

大吾は、自分の方へ歩いてくる彼女を見て美しいと思った。

髪を漉き上げ、(うなじ)をすっきりと見せポニテールに束ねた姿は、大吾の記憶にあるものだった。

昔の記憶通りに薄化粧だった。

それは、決して上手とは言えなかったが 大吾は、それをかえって気に入っていた。

何時も鼻の頭にむらが有って親しみが持てた。

彼女は、鼻筋が細く長く通った美人顔である。

完璧な化粧をすると別人のようになるかもしれない。

しかし、大吾の頭の中のずっと記憶に有ったのは、いましがた目にしている彼女である。 

佐智さんは、にこやかな笑顔でスカートの膝の後ろを手で押さえ お尻を突き出すようにして座った。

大吾は、ため息が出そうに成った。

何もかも以前の記憶通りだった。

「待ちはった?」

「ううーん、僕もさっき来たとこ」

「神野さん、どないかしはった?さっきから何か思い出すような目でうち見はって。うち変?」

「いいや、とんでもない。変じゃないよ、山上さんと中学校の体育の時間 休んだ事思い出してたんや」

「まぁ、そんな事覚えてはるの。あの時の事 うちも覚えてるわよ」

「そやけど、懐かしいし嬉しいなぁ。

 山上さんと こうして会えるなんて。ほんまに 神!」

「神!」 

「えっ?」

「えぇ!」

「えっ?」

「山上さん、今 多分僕と同じ事云おうとしたんとちゃう?」

「多分、うちもそう思う」

「ほんなら 一緒に同時に云おうか。

 もし違ってたらショックやけど」

二人は、手で合図しながら

「神様の御引き合わせ」

と全く同じ言葉を発して笑い出した。

大吾は笑いながら、可笑しさと嬉しさとが綯い交ぜになり眼元に涙が滲み出た。

佐智さんも笑いながら、ハンケチを口元に宛てようとしていたが

「神野さん、泣かないで。これで涙拭いて」

とそれを大吾に差し出した。

「いいよ、いいよ」

と大吾は、手で制しながら自分のポケットからハンケチを取り出して目元を拭った。

大吾は、佐智さんが自分のハンケチを差し出してくれたのが嬉しかった。

そして、椅子に背を付け、ふぅーと大きく息を吐き出した。

笑い収めの様であり、安堵の吐息であった。

佐智は、そんな大吾を 親しみを込めた眼差しで見やっていた。

「この人中学校の時も素敵やったけど 今は、もっと良え大人の人に成りはった」

と胸の中で呟いた。

「せやけど、ほんまに偶然で うちも懐かしさと嬉しさで一杯なんよ。

 神野さんの事色々聞かせて。

 うちは、みやこ楽器で働いてる事分かったでしょう。

 それと うちは、今 野沢佐智云うんです」

「ああ、野沢さんやなぁ。

 今日店の男の人がそう呼んではった。

 取敢えず ややこしいから佐智さんて呼びますわ。

 だけど如何して苗字変わりはったんですか?結婚?」

大吾は、過去の人生で知っていたが、もしかしたらと言う不安に取り付かれた。

「ううーん、結婚なんかまだしてないわよ。

 いろいろ事情があって」

「ああ、そう」

大吾はさりげなく返事したが、ほっと胸を撫で下ろした。

「どうぞ、名前は変わって居りませんから。

 今 お仕事は何してはるんですか?

 着てはるもの見てるとサラリーマンではないみたい」

「これですか?これは僕のプライベートカジュアルです」

「えっ、なんて?プライベートカジュアルって?」

「ごめん、ごめん。

 仕事の時以外の普段着です。

 仕事は普通のサラリーマン。

 今は山三証券の未だ新米社員ですわ」

「へぇー、やっぱりねぇー。

 さすが良え会社に行ってはる。

 ああ、そうやギターどっか預けてきやはったん?」

「うぅーん、時間有ったんで 一度家に帰って置いて来たんですわ」

「家って、前に住んではったとこ?」

「いいや、今は上六の近鉄百貨店の南側にアパート借りて おふくろと一緒ですわ」

「それやったら、ここから近くで直ぐやんか。

 前に住んではるとこやったら、うちと近かかったし バス停辺りで会うても良さそうなもんやったけど 会う事無かったわね。

 それが、こんなに離れた人の多い心斎橋で会うななんて やっぱり神様の御引き合わせかな」

今度は、真面目な顔をして彼女が云うのに

「僕もそう思う」

と大吾は、彼女の目を見て云った。

彼女は、微かな恥じらいを見せた。

「神野さん、素敵な大人の人に成りはった。

 中学二年の体育のあった日、あの日から後 神野さんは急に変わらはったように思うの。

 なんでか知らんけど。

 それまでの神野さんとは全然違った。

 うちは、不思議やと思いながらも そんな神野さんに憧れてしもうた。

 クラスの子は皆 神野さん急に変わらはった云うてたけど」

「僕は、何にも変わったと思ってないけど なんか夢でも見たんかなぁ。

 それよりも今佐智さんが、云うて呉れた事 僕は嬉しいなぁ。

 僕も佐智さんが中学校の時からずっと気になる人やった。

 昔の僕は、女の子とは よう喋らん引っ込み思案な処が有って、恥ずかしがりかな?

 あかんたれやったからなぁ」

「神野さん、今の神野さんは、昔の堅物から角が取れて 何ていうか大きくなりはった云うか、良え大  人、それも恰好良え大人にならはった」

「佐智さんにそう云われら くすぐったいよ。

 そんな大層なもんやないし まぁ、何処にでもいるサラリーマンなんやから。

 それより佐智さん これを御縁にこれからも僕と付き合ってくれはる?」

大吾は、過去の人生で分かって居たので 何の躊躇もなく この言葉を口にする事が出来た。

「おおきに、うち 嬉しいです。

 うちの方からも宜しくお願いします」

大吾の佐智さんに対する 第一ステップは、大吾が案じたほどの事もなく すんなりとスタートした。

それから二人は、積もる話に時間を忘れ語り合った。

佐智さんの野沢姓に成った事には、やはり込み入った事情があった。

以前は、その事に何か事情があるのだろうとは思ったが、立ち入った話はしなかった。


 佐智には、実の両親が居なかった。

野沢姓は、彼女を産んだ母の兄にあたる人で 彼女にとっては、叔父であった。

現在は養父で実父となっていた。

母は佐恵と云ったが、佐智が十歳の時 嫁ぎ先で病を得て亡くなった。

佐智には兄妹がなく、母が亡くなって後、父は妻の喪も明けぬうちに後妻を迎えた。

父親は、元来女出入りの多い人で 母の佐恵も辛い思いが多かったようである。

父親と後妻の間に直ぐ男の子が生まれ、娘の佐智は、あまり大切にされなかったようである。

母の兄である野沢惣太郎は、佐智を不憫に思い養女として引き取った。

佐智が、中学校に入った年である。

この時の佐智は、未だ母親の嫁ぎ先の山上姓を使っていた。

養い親であった惣太郎は、佐智の高校入学を期に佐智子を野沢籍に入れ 野沢姓を名乗らせた。

大吾は、曾て中学校を卒業して間なしに同窓会の事で佐智さんの家に電話を掛けた事が有った。

この時に電話に出たのが野沢惣太郎だった事を 過去の彼女との付き合いの中で聞いて居た

大吾は、過去の人生で 彼女の結婚式に出席し 惣太郎にも会っていた。

そして、今度の人生では再び会いたい人だと思っていた。

大吾の事も少しは話したが、佐智さんの身の上に対する関心が高く 大吾は、上手く彼女の話を引きだし真剣に聞いてやった。

すでに大吾は、戻ってきた人生の自然な姿に返っていた。

佐智さんは、語りながら目に薄らと涙を滲ませていた。

「神野さん、有難う。

 うちこんな事始めて他人(ひと)に話した。

 なんやら、気持ちがすっとしたみたい」

と云って見上げた時 大吾の瞳が涙で霞んでいるように見えた。

佐智は、自分の涙の所為かとも思ったが、そうでないと感じた。

「ああ、この人は、私の気持ちを分かってくれてはる」

と感じ、自分でも意識せずに自分の手にしていたハンケチを大吾にそっと差し出した。

大吾は、軽く頷いてそれを受け取って自分の目頭をそっと押さえた。

大吾は、丁寧にハンカチを畳み直し佐智に帰した。

佐智は、その仕草に奥ゆかしさを感じた。

同い年で有る筈の大吾が、自分より年上の人であるようにも感じた

大吾は、彼女と話していて戻ってきた人生の中で これまでと全く違う思いがした。

同世代の人と接している時 殆どが、自分より遥か年下であるように感じ そのような目線で見てしまっていた。

しかし、彼女に対しては、そのような気持ちにならなかった。

そうなっている自分に むしろ驚きすら覚え その事を嬉しく思った。

話している間には、一度も何時も覚える寂しさ、孤独感には襲われなかった。

今に生きていると云う思いを実感することが出来た。

「良かったね。山上さんが野沢さんになったと聞いた時 何か訳が有りそうだと思ったけど 僕に話して 呉れた事が、とっても嬉しいよ。

 それにしても義父(おとう)さんも立派な人らしいね。

 僕も一度だけ電話で話したことが有ったと思う。

 中学校卒業して同窓会の話しが有ったやろ、覚えてはる?」

「そう、覚えてる。お義父(とう)ちゃんが云うてはった。

 同窓会の話しの時よ、今の電話の子ちゃんと物が云える 良え子や云うて褒めてはった。

 その時は、うちが褒められたようで嬉しかった」

大吾は、以前にあった話と今度の人生の事が、今その細部まで寸分たがわずに繰り返されている事に驚きながら不思議な事の様に思えた。

「僕も今の話聞いてお義父(とう)さんが懐かしくなったなぁ」

「うち、今日帰ったら、お義父(とう)ちゃんに 神野さんに出会うた事話す。

 お義父(とう)ちゃんも懐かしがりはるやろうなぁ」

「うわぁ、えらいこっちゃで。

 佐智さん、もうこんな時間や。

 そろそろ帰らんと お養父(とう)さん心配しはるわ」

大吾は、腕の時計を見ながら云った。

十時半を少し回っていた。

「ほんまや、神野さんと話てて 時間忘れてしもうた」

「佐智さんは、バスやなぁ。

 僕上六やから一緒に乗ろうか」

大吾は、バスのつり革を持ちながら 曾て二人でバスのつり革にぶら下がり 帰宅した情景を思い起こしていた。

大吾は、自分の家の電話番号を伝え、彼女の家の電話番号を教えてもらった。

彼女の休みは水曜日であった。

大吾は、日曜日と祝祭日が休みで、二人の休日が合う事はなく それからのデイトは、殆ど彼女の仕事が終わる夜の八時からになったが、毎週顔を合わせてデイトを重ねた。

二人のデイトは、いつも喫茶店での話だった。

偶に手を握り合うことが有ったが、それ以上のことは無かった。

時間も佐智の勤めの関係で二時間程度だった。


 二ヶ月程が経った或日 何時も二人が落ち合う 御門を少し先に行った喫茶店ロダンで

「佐っちゃん 今日は、上六で降りて僕のアパートへ寄って行かない。

 おふくろも居るから顔見せやなぁ」

「ほんまにぃ。大吾さんのお母さんに会わせてくれはるの?

 嬉しいし、なんやら胸がドキドキしてきた。

 お母さんてどんな方やろう」

「別に、気のええ普通のおばさんや。

 まぁ気難しい事は云わへんから安心して」

二人は、何時もより早くロダンを出た。

心斎橋を千日前のバス停に向かって歩きながら

「大吾さん、お母さんに何か お土産買って行く。

 この先の不二家でケーキどうかしら」

「そうやなぁ、佐っちゃんのお土産やったら おふくろ喜ぶやろうなぁ」

ケーキを買って大吾が勘定を払おうとすると

「大吾さん、あかんよぅ。

 これは、私からのお土産やから」

と云って、彼女は大吾に払わせなかった。

上六でバスを降りて 二人は珍しく腕を組んで歩いた。

佐智が大吾の腕を抱えこんだと云って良かった。

時間は、九時前だった。

近鉄百貨店の南側を東に折れ 大吾のアパートに向かうと当たりは、住居が立ち並び、賑やかな表通りに比べ森閑としていた。

佐智は、組んだ腕に力を入れ大吾に身体をもたせ掛けるようにして歩いた。

大吾は、彼女の腕に手を添えて力を入れた。

自分の動悸と彼女の動悸が聞こえるようだった。

二人が付き合い出して初めての事である。

佐智は腕を抱きかかえて歩きながら、ずっと以前から 大吾とこうだったような錯覚に囚われた。

初めて御門で会って話して居る時も ずっと前からそうだったような気がした。

それは、この人の人柄がそう感じさせるのだろうと思った。

「佐っちゃん、もう直ぐや。あそこに見える白い建物」

「もう?もっとこうして居たかったのに。

 うち あかんなぁ、これからお母さんに会う云うのに」

「僕もな。せやけど佐っちゃんの手 暖かいなぁ。生身の佐っちゃん感じて胸ドキドキしてるわ」

「うちも」

と云って彼女は、一層大吾に身体を寄せた。

アパートの前に入る横道に差し掛かった処で、二人は組んでいた腕を離した。

「ここ、この二階」

大吾は先に立って階段を上がった。

佐智は、この頃には珍しい洋風の二階建てとブルーに塗られた玄関ドアを見て、美しいと思った。

映画で見た事のある外国の感じがした。

大吾は、喫茶店を出る時 母に電話で彼女を連れて行くと云ってあった。

ドアを開けると 母の加代がテーブルに紅茶の用意をして座っていた。

「母さん ただいま」

「ああ、大ちゃんお帰り。

 さぁ、お連れさんも遠慮しはらんと上がっておくれやす」

佐智は、大吾の後から顔を覗かせ少し緊張した面持ちで頭を下げた。

大吾が沓脱を上がってから 佐智は、傍らの下駄箱の上にお土産の紙袋とバッグを置き

「夜分にお邪魔致します。

 大吾さんにお世話になって居ります野沢佐智です。

 宜しくお願い致します」

と両手を前に揃え丁寧にお辞儀をした。

「そんな堅苦しい事措いて、早う上がっとおくれやす。

 佐智さんのお話は、大吾から ようお聞きしてしてますよって。

 さぁ、どうぞ、どうぞ」

と笑みを絶やさずに云った。

佐智は、いきなり自分を名前で呼んでくれた大吾の母親に 親しみを覚えた。

そして関西弁を綺麗に使いはる上品なお母さんと思った。

大吾は、傍らに立って二人の応対を眺めていた。

佐智が、お土産のケーキの紙袋を手にして沓脱を上がると

「ああ、これ佐っちゃんから母さんへのお土産」

と云って自分でテーブルの上に置いた。

「まぁ、そんなに気ぃ使うこうてくれはって。おおきに」

「お母さんのお口に合うかどうか分かりませんけど召し上がってください」

「まあ、不二家のケーキやなんて久し振り。

 折角やから 皆で頂きましょう。

 丁度紅茶の用意もしてますよって。

 大ちゃんとのお話は、後で ゆっくりそっちの部屋で。

 掛けとくれやす」

と云って彼女の為に椅子を引いてくれた。

大吾は 「佐っちゃん、バッグこっちへ置いとくわ、貸して」

と云って開け放った自分の部屋の机に彼女のバッグを置いた。

目の前のテーブルには、小ざっぱりとしたテーブルクロスが掛けられた上に 趣味の良いティーセットが置かれ 横にリプトンの四角い紅茶葉の缶が置いてあった。

佐智の目に贅沢ではないが、何処も清潔で趣味の良さが感じられた。

加代は、お茶を入れながら

「晩のお食事は大ちゃんが、いらない云いはったんで ご用意してまへんの。

 今度お越しやした時は、ご飯一緒に食べて行っとくれやす。

 今日は、佐智さんの不二家のケーキ 一緒によばれますよって。

 丁度よろしおしたなぁ」

佐智は、はにかみながら 頷きかえした。

「佐智さん、話は聞いとりましたけど ほんまにお綺麗な方。

 うちの大ちゃんも中々目が有りはる」

加代は、うっとりとした顔で彼女を見遣った。

そして 曾ての真希ちゃんとは、また違った女らしさを感じた。

佐智は、若い娘らしい恥じらいを見せながら

「お母さん、そんなに言わないでください。私恥ずかしいです」

と はにかみながら応えた。

大吾の母は

「大ちゃんから あなたの事を聞いてますから、どうぞ安心して」と云ってるようだった。

佐智は、初対面の自分への心遣いを有難く思った。

「大ちゃん、そろそろ向こうでお話したら。

 私も明日お仕事やから先に休ませて頂きますよって、佐智さん先に失礼します。

 ゆっくりして行っておくれやす」

佐智も、夜分の非礼を詫び丁寧に礼を返した。

佐智は、大吾の母を余分な事を言わない気遣いの行き届いた人だと思った。

大吾の部屋を見て 佐智は驚きを隠せなかった。

そんなに広くはなかったが、シンプルな書棚、机、収納庫が、黒で統一され機能的に収められていた。

壁際に折り畳みの黒いソファーベッドが置かれていた。

改造された押入れの下段に 大きな箱型の二つのスピーカーと まだ珍しいラジオと一体になったステレオカセットデッキが組み込まれていた。

二台のギターが、唯一装飾的な雰囲気を帯びてソファーの上の壁に懸かっていた。

壁と天井が白で床は、明るいグレイのカーペットが敷いてあった。

ベランダに面した掃出し窓には、天井から床までのベージュのストライブのカーテンが引かれ レースのカーテンと二重になっていた。

佐智の驚きは部屋のインテリアもさることながら、書籍、雑誌、新聞の量と大判のファイル、二十冊ほどの大判の大学ノートだった。

机の下に鍵の懸かる引き出しキャビネットが置かれていた。

天井まで届いた書棚は、びっしりと書物で埋め尽くされていた。

佐智が、驚きながらも興味深そうに見回しているのに

「狭まっ苦しい部屋やろ。

 まぁ 今のところは、僕の寝室兼書斎やから我慢してな。

 二、三年してもう少し稼いだら、佐ちゃんにゆっくりしてもらえる部屋に代わるから。

 これが今の所 佐っちゃんを別にしたら、僕の全てや」

大吾の部屋は、真希が来ていた頃に比べ書籍、ファイルが圧倒的に増えていた。


二人が、付き合い出して 既に三ヶ月が経過していた。

この頃二人が落ち合うのは、御門を少し東へ行った何時ものロダンだった。

こじんまりしたモダンなインテリアの静かな店である。

毎週二人が会うのは、大吾の仕事が休みの日曜日の夜になっていた。

佐智は、何時も大吾に会える日曜日が待ち遠しかった。

朝家を出る時 義父(ちち)の惣太郎が

「佐智、お前今日は、神野はんと会う日やろ」

「そうやんか、お養父(とう)ちゃん」

(わし)もな、一遍神野はんに会いたいと思うてるんやけど、(わし)が出向くのも大変やし うちへ 来てもろうたら如何や」

「ほんまにぃ、お義父(とう)ちゃん 大吾さんに会うてくれはんの。

 大吾さんも お養父ちゃんの事懐かしい云うてはったし、きっと喜びはると思うわ」

「そうか、それやったら お前が休みの日の晩がええやろうなぁ。

 晩御飯一緒に食べてもろうたら良えと思うんやけど。

 神野はんに水曜の夜で都合の付く日聞いてみてや」

佐智は、大吾と会って以来 最初から どんな話をしたか、大吾がどうだったか 殆どすべてを養父(ちち)に話していた。

惣太郎は、佐智からそれを聞くのが楽しみになっていた。


 惣太郎は、五十歳の時 連れ合いを亡くし それ以来独り身だった。

彼には、子供が居なかった。

惣太郎は、長らく勤めていた安宅製粉を五年前に定年退職をし 今六十歳になっていた。

佐智を十歳の時引き取ってから足掛け十三年間、彼女を実の子供の様に育ててきた。

惣太郎は、今でも妹の佐恵が不憫で仕方がなかった。

佐智には、幸せになって欲しかった。

何時も佐智の行く末を気にかけていた。

佐智も惣太郎を慕っていた。

母と血の繋がった兄であるが、自分の父親だと思っていた。

惣太郎は実子はいなかったが、妻が先立つまで佐智を交えた三人の暮らしを幸せだと思っていた。

惣太郎の妻は、病弱だったが、気立ての優しい人だった。

佐智もその人に良く懐いていた。

妻を亡くした惣太郎に 後添えの話しを持ちかけられたことが有ったが、彼にはその気がなかった。

佐智との二人の生活を乱したくない思いが強かった。

惣太郎は、何時も佐智に妹の佐恵の面影を重ねて見ていた。


佐智は、みやこ楽器の閉店時間の来るのが、もどかしかった。

店が閉まると慌ただしく着替え 大吾の待つロダンに足早に急いだ。

大吾と逢う時は、何時も気持ちが弾んでいた。

ロダンの奥の何時もの席で大吾は、軽く手を上げ佐智に笑いかけた。

彼は休みの日なので プライベートカジュアルのジーンズ姿だった。

今まで読んでいたのか テーブルの片隅に寄せて週刊東洋経済が置かれていた。

「お疲れ様。そんなに慌てて来なくてもいいのに」

佐智は、鼻の頭に汗をかいて、息を切らせていた。

「そやかて、一寸でも早う大吾さんに逢いたいもん」

「僕もや、朝から早う夜になれ思うて時計ばっかり見とったわ」

と云いながら 大吾は、自分のハンカチを取り出して佐智に渡した。

佐智は躊躇する事無くそれで、鼻の頭と額に滲んだ汗を押さえた。

そしてハンカチを鼻の処へ当てて 

「大吾さんのハンカチ何時もいい匂い」と云った。

大吾は笑いながら 

「そらそうや、佐っちゃん用に特別に用意してあるんやから」

「おおきに、そやけど うちの汗の匂い付いてしもうた」

「そらぁ おおきに。

 佐っちゃんの汗の匂い残ってたら嬉しいわ」

二人の親密度は、この様に増していた。

「大吾さん、今までそれ読んではったん?えらい難しそうな本」

「ああ、これね。山三行ってると 勉強せなあかんね。

 そのうちに僕も株で儲けようと思うてるし」

「株で儲けるって、お金が沢山要るんでしょう」

「うん、まぁね。

 大分前から、そうやなぁ、夜間に行ってる頃から一生懸命貯めて来たんや。

 云うても知れてるけど」

「へぇー、大吾さん その頃から株で儲ける事考えてはったん?

 夜間行ってはって云うたら中学校卒業してすぐでしょう」

「こないだ話したけど、中学校卒業してすぐ行った硝子工場の仕事 結構給料良かったし、それと一年休 学して仕事だけした云うたやろ。

 その時名古屋へ行った話。

 まぁ、学校休んでた時に少し余分に稼いだかな」

「せやけど、何で?どうして? 

 そんな時から株で儲けようて考えはったの」

「うん、姉が高校卒業して商社の英文タイピストになったんや。

 その時の姉の恋人、同じ会社の営業マンで、今の旦那さんやけど その人から教えてもらったんや。

 大吾 株の勉強して将来投資で稼ぐこと考えて見たら?

 今、うちの会社の株買ったら そうやなぁ、五年程したら倍位になる云うて」

「へぇー、それで 直ぐやる気になりはったの。凄いなぁ」

「うん、その時 最低何ぼくらい要るか聞いたら、まぁ百万は要るやろう云うてはった。

 その時は、気が遠くなるような話やったけど 小口でぼつぼつ増やしたらいける云うてはったんで   まぁ、金貯め始めたと云う訳」

「百万円云うたら、うちの今の給料、全部貯金しても二十年以上掛かってしまう。

 ほんまに気の遠くなる話」

「僕も、話聞いた時 そう思ったけど 取敢えず稼いで貯める事やと決めたんですわ。

 それで、何処の株を買えばいいか そんな事知るために 山三へ就職したわけ。

 今は一生懸命に勉強してるとこですわ」

大吾は、姉の旦那を担ぎ出し作り話を巧みにした。

実際のところは、何処の株を買えば良いか よく分かって居た。

大吾の勉強は、それを補強するものだった。

大吾は、現在手元に十万円の山三株とその他で額面五十万円相当を保有していた。

株価は、その額面を遥かに上回っていた。

山三の株以外は、あと三か月ほどすれば、売買できるようになるので少しずつ増やしていこうと考えていた。

大吾の資産は、同年代の平均的サラリーマンの年収を遥かに上回っていた。

大吾の狙いは、そろそろ兆しを見せ始めた証券不況だった。

あと二年すれば、勤め先の山三が倒産危機に見舞われることを大吾は知っていた。

しかし、それは大吾だけが知っている事だった。

山三証券が日銀特融によって救われ、政府のテコ入れによって証券界が立ち直り経済が活性化する事を。

話を聞きながら佐智は、目を丸くして首を左右に振りながら感心していた。

佐智は、この人は頭がいいと云うだけでなく、逞しい人だと思いつつ、とても自分と同い年だとは思えなかった。

そして、自分の恋人であることに誇らしさを感じた。

「大吾さん、話替えるけど良い?」

「ごめんね、佐っちゃんには、詰まらない話だったかもしれないね」

「うぅーん、そうじゃないの。

 今の話を聞いて、うち もっと大吾さんが好きになったんよ。

 話って云うのは、お養父(とう)ちゃんが大吾さんに会いたい云うてはんの」

「本当?それは有難い。

 僕も何時か お目にかかりたいと思うとったんや」

「ああ、良かったぁ。

 それでね、うちが仕事休みの水曜日の晩 何日(いつ)やったら都合付くかしら?

 うちの家へ来てもろうて晩ご飯一緒に食べよう云うてはるの」

「いいよ、今度の水曜日。

 会社終わったら残業せんと直ぐ寄せてもらう。

 そうやなぁ、佐っちゃん所やったら六時半位に行けると思うよ。

 家、分からへんから二丁目のバス停に着いたら電話する。迎えに来てな」

「わざわざ、ごめんね」

「なぁーに、喜んでお伺いしますよ。

 お養父(とう)さんにもそう伝えて」


大吾がやって来る水曜日、佐智は朝早くから起き出し家の片づけを始めた。

惣太郎は元々早起きだった。

連れ合いが亡くなってから佐智の休みの日以外 家の事は、殆ど惣太郎がやっていた。

「佐智 えらい早起きやなぁ。朝の事は、(わし)がすんのに」

「そやかて、お養父(とう)ちゃん 今日は大吾さんが来はるやろ」

「そら晩や。まだまだ時間有るがな。

 そやけど、お前弾んどるなぁ。

 分かる、分かる。儂かて同じ気持ちや」

「お養父(とう)ちゃん、おおきに。

 うちの為に喜んでくれはって」

「なぁーに、お前が今幸せそうやから嬉しいんや。

 お前の幸せ見るのが、儂の幸せなんや」

「お養父ちゃん、今晩何食べてもらう?」

「大吾はんの好きなもん お前分かるやろ」

「何時も うちの仕事終わってからで時間少ないから食事に行った事無いの。

 そやから分からへん。

 多分何でも食べはると思うけど」

「そぅか、それやったらすき焼きにしようか。

 後で儂 買い物に行って来るわ」

「お養父ちゃん、うちも一緒に行く」

二人は、連れ立って近くの市場へ向かった。

惣太郎は、町内会の世話役をしており 地の人達からの人望が有った。

道往く人がにこやかに声を掛けて行く。

「お早うさんだす。えらい早うから娘さんとお買いものだっか。

 親娘(おやこ)お揃いでよろしおまんなぁ」

市場についてからも同様だった。

それぞれの店の人が、声を掛けた。

買い物を済ませ家に戻った二人が、昼食を済ますと

「佐智、儂 床屋に行ってさっぱりしてくるわ」

と云って惣太郎が出かけた。

佐智は、後片づけを終えて夕食の支度をしておいた。

朝早くから部屋の片づけと掃除は済ませてあったので、奥の三畳の物置部屋から客用の大きなテーブルを出して居間の真ん中に据え、座布団を並べた。

そして、当たりを見回して

「よっしゃ、これでええわ」と独りで呟いた。

大きなテーブルに片肘を付いて顎に手をかけ 縁側から前栽の垣根の上に広がる晴れ渡った空を見上げながら、満ち足りた気分で 

「大吾さん」と呟いた。


六時半ごろ大吾が電話を掛けてきた。

佐智は飛びつくように受話器を取り

「着きはった?」

と相手を確かめる事もなく声を掛けた。

「ああ、僕、僕。今バス停」

「すぐ行くから、待っててくれはる」と云うや

「養父ちゃん、大吾さん着きはった。迎えに行って来る」

と云って飛び出して行った。

惣太郎は、佐智の後姿を見ながら

「佐恵 お前の娘は、幸せになりそうや。安心しぃ」と呟いた。

大吾が、バス停の交差点で待って居ると 佐っちゃんが、手を振りながらやって来た。

彼女は、もどかしげに信号が変わるのを待ちながら何度も手を振った。

信号が変わり跳び出そうとするのを大吾は手で制した。

今日の大吾は、濃紺のブレザーに明るいグレーのズボン姿で、淡いブルーのシャツにネクタイを締めていた。

手には、鞄と清酒の一升瓶を下げていた。

佐智が始めて目にするスタイルだったが、スポーツ刈りの頭に良く似合って本当にスポーツ選手のように見えた。

「お待たせ」

「うーん。大吾さん、何時ものジーンズもええけど、今日はスポーツの選手みたいで恰好良い。

 別の大吾さんみたい」と云って

「お養父(とう)ちゃんにお酒持って来てくれはったん?

 お義父ちゃん喜びはるわ。うち持つ」

と云って手を差し出した。

「いいよ、重たいから」

「そしたら、鞄持つ」

と云って大吾の手提げ鞄を手に取って 胸に抱きかかえた。

黄昏時、にこやかに話しながら寄り添って歩く姿は、家路を急ぐ若い新婚の夫婦の様だった。

水打ちをした玄関の前に惣太郎が出迎えていた。

寄り添って近づいてくる二人の姿を 目を細めて見ながら、早く一緒になって欲しいと思った。

惣太郎は、がっしりとした体躯を和服に包んで にこやかな笑顔で彼を出迎えた。

紺色の麻の単衣に角帯を締めた姿は、散髪したての短く刈り込み白いものが混じり始めた頭によく似合っていた。

「大吾はん、ようお越しになってくれはりました」

「お養父(とう)さん、はじめてお目にかかります。神野です」

「いやいや、堅い挨拶は抜きにして、早う入っとおくれやす。

 お仕事で疲れてはりまっしゃろ。

 上がってゆっくりしとくなはれ」

と先に立って式台を上がり大吾を待った。

大吾が靴を脱ぐ後ろから佐智が顔を覗かせて 横に置いた清酒瓶を持ち

「大吾さんが、お養父ちゃんにお酒持ってきてくれはった」

「それは それは、有難いこってす。

 うぇっ、こら剣菱や。儂の一番好きなやつや。

 早速、後で みんなで頂かせて貰おうや」

居間の敷居の処で 大吾は座りなおした。

惣太郎も慌てて少し離れて座わると

「この度は、お招き頂き有難うございます。

 お養父さんの事は、何時も佐智さんから良く伺っております。

 お目に懸からせて頂き嬉しく思っております」

「ほんまによう来てくれはりましたなぁ。

 (わし)がずっと前に電話で あんさんの声聞いた時に思うとりました通りのお方や。

 佐智から話を聞いて、儂は心から喜んどります。

 どうか今後とも末永(なご)うこの()と付き合うたっとおくれやす」

傍らに座っている佐智の目には、涙が浮かんでいた。

それは、養父(ちち)の喜ぶ姿に対してであり、二人の対面と交わす言葉への感動であった。

大吾は、養父の惣太郎に謹厳なイメージを抱いていたが、目の前の惣太郎は、大工の棟梁のようで親しみのもてる親父さんだった。


 惣太郎は、この時期 長く勤めてきた近くの安宅製粉の工場長を退職し嘱託として、社長の技術関係の相談に乗っていた。

安宅製粉は、惣太郎が故郷の実業高等学校を卒業後 大阪に出て勤めた会社である。

その頃は製餡の会社であった工場に機械技師として働き出した彼は、戦時中 軍の徴用工として大阪工廠で働らかされた。

彼と同年代の現社長は、終戦間際に応召され満州で終戦を迎えたが、運よく直ぐ復員することが出来た。

そして、帰って来てから父親の製餡工場を継いだ。

惣太郎も終戦になってから安宅製餡に戻ったが、暫くは大した仕事もなく小豆の買い出しに出かけたり 色々と雑用をこなしていた。

父親の製餡工場を継いだ現在の社長は、終戦後 暫くして新たに製粉業として会社をスタートさせた。

彼は、戦後の食糧事情の国策の波に乗り、四年後に安宅製粉株式会社を設立した。

製粉を本格的に始めた会社で、惣太郎は、熱心に新しい機械と取組み、その後ずっと会社の発展と共に工場長として会社に尽くしてきた。

安宅製粉の社長は、彼の人となりを愛し惣太郎を大切にした。

連れ合いを亡くして 暫くして定年を迎えた彼を役員として残るよう慰留したが、惣太郎は新しい時代には自分は、向かないとして断った。

そんな惣太郎を非常勤の嘱託として むしろ自分の話し相手として彼を残した。

惣太郎の亡くなった連れ合いとの仲人をしたのは、先代社長の彼の父であり 惣太郎は、郷里の実業学校を卒業して以来 先代社長に大層世話になっていた。

今の惣太郎は、年金に加え定年退職の退職金と僅かであったが、毎月の嘱託料で経済的に困ることは無かった。


 すき焼きの鍋を囲みながら 惣太郎と大吾、佐智は、大吾が持ち込んだ剣菱で杯を交わし合った。

佐智も酒は、結構強かった。

「佐っちゃん、お酒強いなぁ。僕は もうあかん。

 お養父(とう)さん、僕は酒強い方じゃないから ぼつぼつ上がらせて貰います。

 どうぞ遠慮なくやってください」

「さようか、ほんなら お言葉に甘えさせてもろうて。

 しゃぁけど旨いなぁ。こんな旨い酒飲むの久しぶりや、なぁ佐智。大吾はんのお蔭や」

と云って嬉しそうに又、杯を空けた。

佐智は、まめに大吾の給仕をした。

食事をしながら佐智から、中学校時分の大吾の話が出た。

体育の時間に休んで教室で二人きりになった時の話しも有った。

「お義父ちゃん、大吾さんその時から変わりはった。

 うち不思議に思うてたけど、今の大吾さんにならはった見たい」

「ふうーん。大吾はんの最近の事は、佐智からよう聞いとりますけど 佐智が不思議に思うたその時 神 さんが舞い降りはったんかも知れんで」

「お養父さん、そんなあほな。

 佐っちゃん、僕なんにも変わってへんて。

 それよりお義父さん、佐ちゃんから安宅製粉にいらしたとか聞きましたけど」

と云いながら 大吾は、安宅製粉が、彼の子供の頃から在ったのを思い出した。

自分の記憶の中に 母親の父(祖父)が同郷のよしみで安宅製粉の先代社長を知っており 子供の頃にその人を見た記憶が甦って来た。

「そうだんね。郷の実業学校出てから ずっと安宅さんでお世話に成りましたんや」

「お義父とうさん、僕子供の頃に先代の人の顔見た記憶が有りますわ。

 祖父が同郷で その関係やったかも知れません」

「へえぇ、それは又奇遇でんなぁ。なんと、なんと」

大吾は、戦後安宅製粉になってから、その後の会社の変化と成長を惣太郎の口から聞いた。

その話を聞いて あまり意識になかった製粉業界に関心を持った。

大吾の記憶の中で日清製粉が様々な食品分野に進出し揺るぎない企業となる事、その他 数社の大手製粉会社の事は知っていた。

「お養父さん、戦後乱立していた製粉業界もだいぶ落ち着いて来たようですし 安宅製粉さんも勝ち組に なられたみたいですね。

 これから、まだまだ成長されるのではないですか」

「ほーう、大吾はんもそう思いはりまっか。

 実は、儂が会社辞める時 社長が役員で残れ云うたんだっけど、どうも儂の器ではと思うて辞退したん ですわ。

 社長は、それでも嘱託や云うて残してくれてはりますけど」

と云って、惣太郎は、大吾に安宅製粉の事を色々と話して聞かせた。

「そやけど、大吾はん お若いのに大したもんや。

 とても佐智と同い年とは思われへん。

 佐智、お前もこれから大吾はんに付いて行こう思うたら ぼやぼやしとったらあかんで」

「あ養父さん、これは仕事の話しで佐智さんとの事は また別ですから。

 そんなに佐っちゃんを脅かさないでくださいよ」

「お養父ちゃん、大吾さんも あない云うてくれてはるから心配せんといて。

 うちは、お義父ちゃんより 大吾さんと仰山話ししてるから うちなりに分かってる積りよ。

 ちゃんと勉強します」

大吾は、彼女が中学校の頃 成績で決して目立つことは無かったが、戻って来て改めて付き合い出してから彼女が聡明な人間だと気付いた。

何事にも自分をひけらかす事なく いじけたところは微塵もなかった。

早くから母親に死に別れて育ったにもかかわらず 人を思いやれる豊かな感情を持っていると思った。

それは、きっと養父と今は亡き彼の妻の影響だと思った。

佐智から野沢姓のいきさつを聞いた時、惣太郎の事を立派な人物と感じていた。

今 彼を目の前にし、彼から長く勤めた安宅製粉との関わりを聞くにつけてもそれが、裏付けられたと思った。

「お養父さん 佐っちゃんを手塩にかけて育てて頂き 改めて僕は、お義父さんにお礼を言いたいと思い ます。

 僕の好きになった佐智さんを作り上げて頂き有り難うございました」

と大吾は、テーブルに手を突いて頭を下げた。

「大吾はんにそない云われたら 儂 身が縮む思いがしますわ。

 そやけど嬉しおます。

 佐智を育てた甲斐がおました。

 妹の佐恵が居ったら聞かせてやりたい今の大吾はんの言葉だす」

と云って目を(しばた)かせた。

「お養父ちゃん、おおきに。

 さぁ、お酒飲んで。うちも呼ばれるし。大吾さん、もう一杯だけつき会うてくれはる?」

と云って大吾の杯にも酒を満たした。

居間の時計は、十一時になろうとしていた。

「大吾さん、もっといて欲しいけど 明日仕事でしょう。

 お養父ちゃん、これからも大吾さん来てくれはるやろうし、うちバス停まで大吾さん送る。

 かまへん?」

「ほんまや、つい時間忘れて大吾はん引き留めてしもうた。

 どうも気の付かんこって、堪忍しとくなはれ」

「いいえ、とんでもないです。

 ほんとに今日は、いろいろとお話を伺い有難うございました。

 これからも宜しくお願い致します」

と丁寧に礼を言って座を立った。

佐智は、大吾のバッグを胸に抱いて先に立った。

惣太郎は、玄関の外まで大吾を見送り 娘と大吾の後姿を 通りを曲がり二人が見えなくなるまで見送った。

大吾は何度も振り返り頭を下げた。

佐智は、通りを曲がってから大吾の腕を取ってその手を強く握った。

「佐っちゃん、今日は有難うな。

 お養父さんと話せて楽しかったし良い話が聞けたよ」

「うちこそ。お養父ちゃん大吾さんに会えて喜んではった。

 お養父ちゃんが喜んでくれはるのが、うち 一番嬉しい」

大吾は、惣太郎を愛しむ佐智の気持ちがよく分かった。

「佐っちゃん、良かったな」

と云って二人は、腕を組んでバス停に向かってゆっくりと歩いた。

 



2 証券不況


 政府が秘していた証券各社の財務状況を 西日本新聞がすっぱ抜いた。

その中でも急速に業務を拡大していた山三の状況が、もっとも厳しく此の儘では倒産というところまで進んでいた。

新聞報道を見た投資家たちが、一斉に山三に殺到 取り付け騒ぎに発展した。

政府は、これ以上の市場の混乱を防ぐため 山三に十億円の緊急融資を行い 初の赤字国債を発行、証券各社にそれぞれ必要な融資を行うことにした。

日銀特融である。

政府の素早い対応により 証券市場は、沈静化することになった。

 

大吾は、過去の記憶の中で TVの”その時歴史は動いた” と云う番組の事をよく覚えていた。

時の大蔵大臣田中角栄、日銀総裁宇佐美旬、山三証券の主力銀行であった興銀、三菱、富士の三行のトップが、顔を併せ緊急会談をした。

三菱の頭取田実渉が 

「証券取引所を暫くクローズしたらどうか」という発言に 

田中角栄が「手遅れに成ったらどうする。お前はそれでも頭取か」と一喝した。

大蔵大臣田中角栄と日銀総裁宇佐美旬は、記者会見に臨み

「無制限、無担保で融資する」

と発表、此の事で市場が静まった。

大吾は、これをテレビで見ていて田中角栄と云う政治家に強い感動を覚えた。

大吾は、過去の記憶を基に この時の出来事とその落ち着き先がどうなるか良く心得ていた。

山三を始めとする証券各社の株価は暴落、先を争って人々は、自分の持株を売りに走った。

山三の株は、すでに額面を割っていた。

大吾は、それを待っていた。

山三の自分の口座を通じ手持ちの金のすべてをつぎ込んで買いに回った。

この時、彼は事前に親戚の叔父に多額の借金をした。

会社の人たちは、彼の頭を疑った。

特に上司の緒方部長は

「神野君 君、何考えてんのや、うちの会社危ない言うのに。

 うちの株仰山買うたかて会社が、保証できるかどうか分からへんで。

 儂かて売りたいところやけど 立場上そうもいかへんから 頭痛めてるところや」

「部長、部長の云わはる通りかもしれません。

 そやけど僕は日本の国を信じてます。

 もし政府が何もしなければ、戦争に負けて二十年かけてせっかく立ち直った日本が、元の木阿弥に還っ てしまいます。

 まぁ、ここ一週間ほど眠れないと思いますけど僕は信じます」と云った。

緒方部長は、目の前の若者を不思議なものを見るような目で見た。

この若者に比べて自分は、自分の国を信じた事が有っただろうか。

只々世の波に乗って来ただけで目の前の若者のように国を信じる度胸はなかった。

彼は今の自分の地位と家族の事を心配していた。

会社の事は、念頭に浮かばなかった。

大吾は、山三証券が半年ほどで業績を回復し出し 五年もすれば、山三が日銀特融を完済することを知っていた。

彼は、株価が買った時の二倍になったら 山三株を手放すつもりだった。

恐らく その後も山三の株は、上昇し続けると思っていたが、自分の勤める会社での火事場泥棒のようなことは、避けようとした。

おそらく その頃には社内の人が争って買うことだろうと思った。

政府の方針が発表され山三証券に十億円の特融がなされた時 部長の緒方は、自分を不甲斐なく思った。

そして目の前の若者に恥ずかしくなった。

そして、ずっと以前に彼が面接の時 口にした

「政治家の言動と日本の国 云々---」を思い出してはっとした。

日ごろから彼は、大吾を特異な若者とみていたが、この事が有って後 大吾を新たな目で見るようになった。

この時以来、緒方部長は、彼に仕事の事で意見を聞くことが多くなった。

半年を過ぎたころ大吾が、緒方部長に

「部長、僕会社の株を手放そうと思いますが---」

「えっ、山三に何か具合の悪い事でも起こんのか?」

「いいえ、そうじゃないんです。

 今度の事で会社の不幸に付け込んだ火事場泥棒のような事は、したくないんです」

緒方部長は、目の前の大吾を 何度不思議な若者と思ったか知れない。

「そんな事ないよ、君。

 君の事は、役員の間でも評判になっていて会社を信じている人間として 社員の鏡やいう人が居る位  や。君の先見の明と度胸の賜物やないか」

「いいえ、いいんです。今手放しても充分くらい儲けさせて頂きましたから。

 これで親戚に借りていた借金も返すことができますから」

「なんや、君借金してたんか。

 若いのに金持っとるなぁと思ってたんやけど、そうやろなぁ。

 それで うちの株 何ぼ程持ってんのや」

「額面で百万円ほどになります」

「ええーっ、百万! 今、君 それ時価で五十万ほど譲ってくれへんか。

 本当やったら 全部欲しいけどそんな金ないし」

「勿論かまいませんよ。

 部長が買うてくれはるなら僕も嬉しいです。

 それと、入社のときお世話になった清水課長の課にも声をかけて上げて下さい。

 多分、まだまだうちの株は、上がるでしょうから」

「君は、若いのに不思議な人間やなぁ。人間が出来ている」

と感心した。

大吾は、大卒三年目の芦田君に密かに自分の持ち株を手放すから、借金してでも買うように勧めた。

芦田君は、五万円の借金と持ち金で七万円ほどにしたが、大吾は、三万円を貸してやり十万円にしてやった。

そして

「芦田さん、あと半年辛抱してはったら、きっと元取って大きなお釣りがくると思うよ。

 とりあえず借金返して、あとは自分で考えはったら良えと思う。

 僕の金は、急がなくても何時でもいいから」

芦田君は、今回の山三の危機での大吾の噂をよく知っており

「神野さんの言うとおりにやりますわ」

と大吾を先輩のように思いながら全面的に信頼した。

大吾は、自分が起こすことになる投資会社のスタッフとして 彼に布石を打っておいた。

この時期、山三の株価がもどしつつあるとは言え 社内で利益を得ている人は無かった。

会社の危機が迫っていた時期に密かに手持ち株を手放した人が多かった。

大吾は、叔父から借りた借金を お礼金を添えて返済した。

手元の現金は、既に二百万円を超えていた。

手元金の内五十万円を製粉関係の会社に投資した。

製粉業界は、乱立しており大手の株価でもかなり下落していた。

大吾が投資したのは、日清製粉をはじめとする 確実に生き残り大きく成長する三社であった。

大吾の持ち株の時価は、すでに五百万円に達していた。

彼は、これをこまめに売買し、あと二年、二十六歳までに倍に増やそうと考えていた。

大吾はその時に山三を退職して自分の投資会社を立ち上げるつもりであった。

 


3 佐智との結婚 


 大吾と佐智は、昭和四十二年に結婚した。

大吾が、今の人生で佐智と再会を果たしてから 早四年を超える歳月が流れていた。

この前年 大吾は、曾て真希と初めて食事をした近鉄百貨店の大食堂で同席し、いつでも相談に来なさいと云ってくれた名刺の人に電話をかけた。

朝倉連太郎氏で、名刺には住宅金融公庫大阪支店専務理事と記されていた。

住宅金融公庫は、この頃 都市銀行で殆ど扱われる事のなかった住宅融資を専門に取り扱う政府系の特殊法人である。

翌年、佐智と挙式する予定だった彼は新居を購入する積りだった。

名刺をもらった時からすでに六年が経過しており 大吾は、多分退職しているだろうと思っていた。

大吾が会社から電話を掛けると、やはり定年退職後で 電話を受けた事務の女性は、上司の男性に電話を引き継いだ。

大吾が掛けた電話の相手が、退職していた専務理事であったからであろう。

大吾は再び、名刺をもらった時の経緯と現在の自分の勤め先を話すと、丁寧に自宅の電話番号を教えてくれた。

大吾は夜の電話は避け、日曜日の午前中 朝倉氏の自宅に電話をかけた。

この日なら家にいる確率が高いと思った。

朝倉氏は、よく覚えていた。

「いやぁ、あの時の方やなぁ。

 神野君、よう覚えてますとも。

 何時かきっと電話があると思うとりましたんや」

大吾が自宅に電話した経緯を話すと

「今井君やろ、あいつは儂の懐刀でな、ちゃんと物の判断の出来るしっかりした奴っちゃ」

大吾は、自分の近況と電話の目的を伝えた。

「おお、分かった、分かった。

 それで結婚する云うのは、あの時の綺麗なお嬢さんかいな」

「いいえ、彼女は事情があって、自分の国 韓国に帰りました。

 結婚相手は、中学校時代の同級生です」

「そうなんかいな。

 あの()、韓国人やったんか。

 ええ()やったけどなぁ。

 そやけど君のこっちゃ、きっと今度の人も良え人やろう。

 ともかく、儂の家へ来なはれ」

朝倉氏の住いは、豪壮な家が立ち並らぶ帝塚山であった。

大吾は、翌週の日曜日の午後、朝倉氏宅を訪れた。

塀に囲まれた、門脇のブザーを押すと玄関横の勝手口のほうから お手伝いさんと思しき中年の女性が現れた。

大吾が来意を告げると

「はい、旦那様から伺っております。どうぞこちらへ」

と言って彼を玄関に案内した。

一間半もあろうかと思われる式台があり お手伝いの女性は、スリッパを大吾に勧め応接に彼を案内した。

十畳ほどの応接で 重厚な板壁に林武の赤富士の大きな額が掛けてあった。

廊下にスリッパの足音が聞こえたので 大吾は居ずまいを正し座りなおした。

羽目板張りのドアが開き 朝倉氏がにこやかな笑顔で入ってきた。

大吾は立ち上がり丁寧に挨拶をした。

「いやぁ、神野君。よう忘れんと来てくれはった。

 おお、おお、立派な若者になったなぁ」

「はぁ、お陰様で。

 あの時以来 山三證券で頑張らせて頂いております」

「そうや、山三やったなぁ。

 ほんまに紙一重、国の梃入れで切りぬけられて良かった。

 儂も国の仕事に長い事関わって来たけど、あの日銀特融なんて考えられもせんかったで。

 ほんまに政府の大英断や。

 もしあれが無かったら、日本の国は、十五年ほど後戻りしっとったやろうなぁ。

 山三も今頃、影も形もなくなっとわ。まぁ、良かった。良かった」

と喜んでくれた。

奥さんが、お手伝いさんではなく 自分で珈琲を乗せたお盆を持って部屋に入って来た。

大吾は瞬間的に立ち上がり

「ご主人のお言葉に甘え、お邪魔致しております」

「まぁ、暫く見ないうちに立派に おなりやした。

 お父ちゃんから電話が有ったって聞き お待ちしてましたんや」

「はぁ、そんなに立派なんてものじゃないですが、奥様にお目にかかり懐かしさで一杯です。

 その節は、天の邪鬼(あまのじゃく)な私どもを良く見守って頂き有り難うございました」

「あの時ご一緒のお嬢さんは、お元気にしてはりますか?

 ほんとに慎ましい控えめな綺麗な方でおましたなぁ」

「はぁ、それが、先程もご主人にお話したんですが、韓国の自分の国の方へよんどころない事情が有って 帰りました」

奥さんは、目を見張ったかと思うと申し訳ない事を聞いたとでも思ったのか顔を曇らせて

「それは、それは、貴男も大変でしたわね」

と当たり障りなく応じた。

「ところがやで、お母ぁちゃん。

 神野君な 今度中学校の同窓の()と結婚するらしいんや」

「あらまぁ」

今度は、嬉しそうな驚き顔であった。

「そうなの、どんな方かしら。

 神野さんが、お付き合いされる方一度お目に懸かりたいわ。

 きっと素敵な方なんでしょうね。ねぇ、お父ちゃん」

「うん、儂もそう思うて云うとったところや」

「はぁ、有難うございます。

 折を見て彼女共々、御挨拶に上がらせていただきます。

 その節は宜しくお願い致します」

「どうぞ どうぞ、早くお連れしてね。

 私 楽しみにお待ちしとりますよって。

 じやぁ、お父ちゃん、私これで失礼してよ。

 神野さん、どうぞごゆっくりしていっとくれやす」

と云って下がって行った。

大吾は、奥さんの物腰の柔らかさと 親しみに溢れた言葉にすっかり嬉しくなってしまった。

「ところで神野君、今日は儂に相談があるんやろ。

 遠慮せんと何でも言うてや」

「はい、ではお言葉に甘えさせて頂きます。

 今度結婚するにつきまして、新しい家を買いたいと思っております。

 朝倉様の名刺が住宅金融公庫となって居りましたので 住宅資金の借り入れをお願いしようと思ってお りました。

 ただ、御退職されていらっしゃいますので 御無理なお願いかと思っております」

「何の無理な事ちっともおまへんで。

 そんな事やったらお安い御用や。

 退職した云うても、儂から声かけたら何にも問題あらへん」

「有難うございます、それをお聞きして ほっと致しました」

「それで、何ぼ程要るんや?」

「はい。今は、母親と一緒にアパートに住んで居ますが、出来れば母と一緒に住める少し広い家が欲しい と思っております」

「ふむ、ふむ、そぉか。中々見上げたもんやなぁ。

 それで奥さんに成る人も一緒に住みはんのか? 

 嫌がらはらへんのか?」

「はぁ、お蔭様でしょっちゅう勤めの帰りにアパートに来て 僕の居ない時は、二人で喋って帰って行く らしいです。

 何処か馬の合う所があるのかも知れません。

 お蔭で要らない心配せずに助かっております。

 母と一つ家に住む事についても全然気にしていないようです」

連太郎は、目の前の若者と喋りながら戦争で亡くした 二人の息子の事を思い出していた。

出征した時の上の息子は、丁度 目の前の彼位の年だった。

朝倉夫婦には、子供は亡くした息子の二人だけだった。

その後子供が出来ず、ずっと二人暮らしであった。

「ええなぁ、今時、珍しいお人や。

 君は、女選びが上手(うま)そうやなぁ」

「そういう、朝倉様も良い奥方を選ばれていらっしゃいますね」

「あれか、あれは若いころ儂に惚れよって、儂のわがまま我慢しとるだけや。

 神野君、君はうちのお母ちゃん良え女や云うて呉れるか。

 まぁ、儂も惚れとるかな」

と照れ笑いして 艶良く光った頭をつるりと撫でた。

満更でもなさそうである。

大吾は、齢を重ねた二人が互いに

「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼び合っているのを見て、最初から好ましい思いで見ていた。

「君と話てると つい話が、横道へそれてしまうなぁ。

 肝心の話進めよか。

 それで金額の話しやな」

「はい、今心当たりは天王寺区の北山町に少しまとまった土地付きの古い住宅が有ります。

 土地は五十坪少しあり建物は古いですが、これを買えたらと思っております。

 何れ余裕が出来たら建て替えようと考えております」

「ほう、えらい豪勢やな。それで何ぼ位かかるんや」

「とりあえず物件の収得と経費で一千万円程必要かと考えておりますが」

「一千万?君今給料何ぼや?」

「はい月三万五千円程で年間賞与などを合算して年収六十万円程になります。

 それと別に株式投資をしておりますので三十万円程が入ってきます」

「なんとまぁ、君と話てると驚く事ばっかりやなぁ。

 証券会社やから株の投資もするやろう。

 それで今何ぼ位、株持ってるの?」

「額面で三百万円位ですが、時価では大体五百万円位に成ると思います」

「株だけでサラリーマンの年収の十倍の資産?

 君幾つや?」

「はい、二十五歳になりました」

「二十五なぁ、それでどこの株買うてるんや」

大吾は、七社ほどの企業名を挙げた。

「君、それ全部優良株や。

 全部ダウ大幅に上回ってるとこばっかりや無いか。

 君は、その年で何処から金引っ張って来たんや」

大吾は、中学校を卒業してからの事を話した。

そして最後に 山三倒産危機の時の事を話した。

「神野君、君は、紙くず同然の山三の株を 日本の国 信じて借金までして買い集めたんか。

 おまけに半年たってまだまだ上がる云うのに会社の人にばら撒いた?

 君は、何ちゅう人間や。

 山三の社長、感激しとったやろうなぁ。

 儂が社長やったら表彰もんや。神野君、儂は君に惚れた。

 儂も戦後二十年以上政府に勤め、お国の為に尽くして来た積りや。

 儂は嬉しい。若い君が日本の国を信じてくれて。

 有難う、おおきに」

と云って厚ぼったい手を差し出して大吾の手を握った。

「はぁ、有難うございます。

 朝倉様にそう仰って頂いて光栄です。

 是からも頑張らせて頂きます」

と云って頭を下げた。

「神野君、分かった。これ以上は、何にも聞かへん。

 君は、大した奴っちゃ。

 儂が電話しとくさかい、公庫の今井に会うて要るだけ借りたらええ。

 保証人は儂や。一応紙には、保証人書いとかなあかんさかいな」

大吾は、丁寧に礼を言って朝倉家を辞した。

大吾は、結局一千万円を借りた。

評価も審査も難なくパスした。

すべて朝倉氏の力であった。

それでも、大吾は、僅かとはいえ同居する事になる、母と妻になる佐智の収入を記載した。

大吾は、融資が確定すると(かね)てより目を付けておいた、天王寺区北山町の物件の交渉に入った。

環状線の桃谷駅から近く 周囲には、古くからの比較的大きな住宅が沢山あった。

土地は、五十二坪で建物は古かったが、しっかりした木造の一部二階建てだった。

大吾夫婦と大吾の書斎、母の部屋を取っても 余りある充分な間数であった。

前栽には、古くからの樹木が沢山植わっていた。

大吾は、当座は部分的に改造して 四、五年後に建て替える積りだった。

大吾は、二、三年後から地価の上昇が始まると考え 物件の拾得を急いだ。


一千万円の融資は、購入代金、不動産手数料、登記諸経費を含めた後 百五十万円程を改造費と家具備品の購入に回すことが出来た。

その年の十月 住まいの全てを完了し大吾は、先に母と新居への引っ越しを済ませた。

母には、広くなった家の面倒を見て貰うため 長く務めた山田ボタンを辞めてもらった。


大吾は、妻になる佐智を伴って 住宅金融公庫の融資を受けたお礼の為に朝倉氏宅を訪れた。

帝塚山の朝倉氏宅の門扉脇のブザーを押すと この間のお手伝いさんが、微笑みながら出迎え応接に案内した。

暫くすると、朝倉氏と奥さんが一緒に現れた。

電話で、婚約者の佐智を同道すると伝えてあったからだ。

廊下の足音を聞きつけ、二人は立ち上がってドアの開くのを待った。

「いよおぅ、今日は、二人揃ってきて呉れはったんや。待ってたよ」

「良う来てくれはりました」 

旦那と奥方である。

「はい、有難うございます。婚約者の佐智です」

大吾は、傍らに立つ佐智を紹介した。

「初めまして、野沢佐智と申します。

 この度は、朝倉様に大層お世話頂きました事、重ね重ねお礼申し上げます」

「朝倉様、本当に有難う御座います。

 お蔭様で、先般お話しさせて頂きました物件を手に入れさせて頂く事が出来ました。

 朝倉様の一方ならぬご尽力の賜物と私ども二人して感謝いたしております」

大吾と佐智は、立ったまま深々と頭を下げた。

「いやぁ、二人して丁寧な。

 そやけど、神野君、さすがや。

 なぁ、お母ちゃん、見たか佐智さんと云いはったなぁ。

 大吾君に劣らん立派な物言いや。

 立居振舞の良え事、それと美人や、惚れ惚れするなぁ。

 儂がもっと若かったら思うわ。羨ましいこっちゃ」

「お父ちゃん、お二人に一寸失礼よ、ねぇ。

 そやけど、お綺麗な方。

 神野さんが、選びはった方 早くお目に懸かりたかったの。

 ほんまによう来てくれはりましたなぁ」

二人は、佐智が大層気に入った様子であった。

真希の事も知っていた二人であった。

「さぁ、お掛けになって。

 そんなに鯱こばってないで気楽にしておくれやす」

二人は、ソファーに腰を下ろした。

佐智は、背筋を伸ばし膝に両手を揃えて浅く座った。

大吾は購入した物件の概要と母親共々移り住む予定などを手短に説明した。

「なるほど、なるほど」朝倉氏は、頷きながら

「ところで、結婚式は 何時挙げはりまんのや?」

「はぁ、来年の四月頃と考えております」

「さよぅか。ところで神野君、儂も結婚式呼んでもろうて良えんかな?」

「お父ちゃん、急にそんな事云うたら 神野さんお困りにならはりまっせ」

「いいえ、奥さん、とんでもないです。

 実は、今日彼女もご一緒させて頂き、こちらから厚かましいです が、お願いしょうと思っていたとこ ろなんです。

 朝倉様から、おっしゃって頂き まことに光栄に存じます」

「ほんとに宜しくお願い致します」

と二人揃って頭を下げた。

「まぁ、そうなの。

 お父ちゃん、嬉しい事ね。

 私たち呼んでくれはるんやて。

 神野さんとは、近鉄の食堂で----」

と云いかけて

「ほんとにご縁があるのねぇ」

と言葉を濁しながら云った。

「はい、六年前、近鉄の大食堂でひょんな事でお目に懸かりまして以来 有難い御縁だと思っておりま  す。

 朝倉様との御縁は、彼女にも全て話しておりますので、どうかお気遣いなく」

「そうかいな。

 なるほどなぁ。

 神野君、君は見上げた奴っちゃ。

 それにお嬢さん、あなたも。

 ふむ、ふむ。なぁお母ちゃん」

「ええ、ほんまに。お父ちゃんの云いはる通りでんなぁ」

朝倉夫妻は、妙に感心していた。

実のところ、大吾は、佐智に朝倉氏との出会いについて 真希との事を言おうか如何か迷っていたが、意を決して全てを話すことにした。

佐智は、それを聞いた時 少し動揺したが、大吾が全てを話して呉れた事で逆に安心した。

韓国に帰って行った真希の事を今でも愛しているかどうかは、聞く事を控えた。

若し大吾にその心が有ったとしても 彼が自分を想っていてくれる気持には微塵も偽りはないと信じていた。

佐智は、過去に好きになった男性はいなかったが、そう信じた。

大吾は、もし真希が韓国へ帰るような事が無ければ、彼女と一緒に成ったかも知れないと思ったが、むしろ佐智との縁の深さと 彼女に対する過去からの想いの強さを改めて思った。

大吾と佐智は、挨拶を済ませ朝倉家を辞した。

朝倉夫妻は、門の所まで出て二人を見送った。


 大吾は、仲人を誰に頼むかと云う事で佐智と相談した。

大吾自身は、彼女の義父惣太郎に会った時に聞いた 安宅製粉と惣太郎の関わりから安宅製粉の社長に頼むのが良いと心に決めていた。

それは、惣太郎への思い遣りからであった。

今では、唯一の肉親である佐智の行く末を 惣太郎と最も縁の深い安宅社長が取り結ぶとなれば、これ程惣太郎にとって喜ばしい事はないだろうと考えた。

「佐っちゃん、仲人の事やけど、心当たり有る?」

「大吾さん、それは、大抵花婿側の人にするんやないの?」

「必ずしもその必要はないみたいやで」

「うちの方は、あんまり付き合いないし やっぱり大吾さんの方で決めるのが良えのと違う。

大吾さんの方やったら何ぼでも居てはりそう」

「うーん、ただ僕の方は、あっち立てれば、こっち立たずで(かえ)って難しそうや。

 学校の先生云うても、二人とも知ってるのは中学校の坂本さんやけど、あんまりぱっとせんしなぁ。  坂本さん、最近の僕らの事何にも知りはらへんし 学校の事以外あんまり世間知りはらへんのと違う」

「うちも、坂本先生に云うたら悪いけど あんまりご縁感じへん」

「僕思うんやけど、養父(おやじ)さんと縁の深い安宅社長どうやろうか。

 安宅社長やったら お養父(とう)さんと佐っちゃんの事よう知ってはると思う」

「そやけど、大吾さんの事知りはらへんのと違う」

「いいや、多分 お養父さん僕の事話してはると思うで。

 それと挨拶に出向いた時、僕のお爺ちゃんと先代社長との御縁や、僕が子供の頃お目に懸かった記憶な んか話したら吃驚しはると思うわ」

「そうや、大吾さん、此間(こないだ)養父(とう)ちゃんにそんな事云うてはったなぁ」

「うん、それと僕も 今後の仕事の事で安宅社長と お近付に成っときたいんや」

「分かった。お養父ちゃんに話してみる」

佐智から その話を聞いて惣太郎は、嬉しかった。

そして、大吾の自分に対する思いやりの深さに心を打たれた。

「佐智、お前 ええ人と一緒に成れて良かったなぁ。

 儂嬉しいし、大吾さんに改めて感謝するわ。

 お前からもよう云うといてや。

 儂 明日にでも安宅はんに会うて仲人頼んでくるさかい。

 安宅はん、きっと喜んで引き受けてくれはるわ。

 それと大吾さんの事もよう話してくる」


安宅製粉の社長は、快く引き受けてくれた。

惣太郎が、娘の仲人を頼みに来た事が余程嬉しかった様である。

また惣太郎が話した大吾と云う若者に大いに興味を持った。


日を改め 大吾と佐智は、安宅製粉の社長を訪ねた。

二人が、挨拶を済ますと

「佐智さんの親父さんから お二人の事は良く聞いてますよ。

 それに佐っちゃんの事は、子供の頃から何度も見てるし 何時も親父さんから話を聞いて居たよ。

 そやけど、ええ娘さんになったなぁ」

「はい、社長さんの事は、よく覚えております。

 小学校の時お正月に お年玉頂いた事も覚えております」

「そう、そう。惣太郎さんが、年始でうちの家に佐っちゃん連れてきたことが有ったなぁ。

 ほんまに あの頃から可愛らしい子やった。

 神野さんは、僕の親父に会いはった事が有るらしいね」

「はい、僕がまだ小っちゃな子供の頃です。

 多分小学校の一年か学校に上がる前だったかもしれません。 

 私の祖父と先代様が同郷だったと聞いて居りました。

 その時の先代様のお顔、今でも覚えております」

「なるほどねぇ。しかし縁て不思議だねぇ。

 僕の親父は、七年ほど前に亡くなったけど、神野さんは、僕の親父のもっと若いころを憶えてられるん だ。

 それで、神野さんの御祖父さんのお名前は?」

「はい、嶋原市三と申します」

「市三さん?市っちゃん?

 ああ、そう云うたら親父から そのお名前聞いた記憶が有りますよ。

 へぇー、なるほどねぇ」

大吾は、安宅社長の話を聞きながら、佐智との縁を再び思い起こした。

「神野さんは、山三證券にお勤めとか」

「はい、頑張らせて頂いております」

「いいや、中々。頑張っているどころじゃないみたいですね。

 惣太郎さんから聞きましたよ、山三さんの 危機の時の話。

 僕は、感動しましたよ。

 今時の若い人には珍しい度胸と云うか信念と云うか。

 その時 山三株で儲けた話も然る事ながら、その株の処分の仕方 中々、普通の人には出来ない事です よ。

 さぞかし山三さんの社長も自分処の社員に鼻を高くされたと思いますよ」

「はぁ、有難うございます。

 皆さんがお困りになっている時、なんだか自分だけ悪い事をしたような気持ちになったもんですから」

「そこ、其のところですよ。

 神野さんには、もっと深いお考えが有ったかも知れませんが、その時のお気持ちに 僕は、神野さんの 人柄を見たように思いますよ」

大吾は、安宅社長の言葉に 彼の鋭さと奥行きの深さを感じ

「はぁ、有難うございます」とさらりとした礼を述べた。

安宅社長は、大吾に大いなる期待と好感を持ったようである。

大吾は、まだまだ上昇し続ける山三の株を 早い時点で社内に分けた事を良かったと思った。

朝倉氏も安宅氏もその点を評価していると感じた。


 暮れの三十日、大吾は、餅つきをした。

石臼、餅つきの道具一切は、母の実家にあり使って居なかったので 大吾の家に運んできた。

二人の小さな叔父の子供達も泊りがけでやって来た。

佐智の養父ちちも手伝いにやって来た。

郁ちゃんと弟の英樹くんも呼んだ。

庭にドラム缶を半分に切った(かまど)に懸けた(せい)()の周りで 叔父の子供達と郁ちゃん兄妹が、佐智の養父ちち惣太郎を囲み楽しそうに騒いでいた。

惣太郎も楽しそうだった。

大吾は、開け放した八畳の縁側に腰を掛け その光景を眺めながら八歳頃の記憶を呼び戻していた。

祖父が、餅つきをしていた懐かしい思い出だった。

「大吾はん、米 蒸しあがったら、一緒につきまひょか」

「僕は初めてですけど 教えてください」

「なぁに、簡単ですわ。一寸やったら 直ぐ慣れま」

子供達と郁ちゃん兄妹が 

「ほい」「よいしょ」「ほい」「よいしょ」と掛け声を掛け 餅をつく大吾と惣太郎の周りに集まって わいわいと賑やかに掛け声をあげた。

縁側では、並べた餅蓋に米粉まぶしながら、母の加代と佐智が座り楽しげに喋りあっていた。

つきあがった餅を 加代が、子供たちに教えながら手際よく丸めて行った。

郁子も、ぺったりと座り込んで

「お母さん、私にも手伝わせてください」

「はい、どうぞ どうぞ。やっておくれやっしゃ。郁子はん」

「佐智はん、餡子と きな粉つけてくれはりますか。

 そうやなぁ、全部で五十位」

「そんなに沢山?」

「そう、郁子さんとこも持って帰ってもらわなあかんし、うちの弟とこも。

 それに佐智はんとこも持って帰ってもらわなあきまへんやろう」

大吾が、叔父の子供達と郁子の弟に

「雅ちゃんと啓ちゃん。突き立てのお餅ち おばちゃん所行って食べ。

 あんころ餅旨いで。

 英樹君も行き」

と云うと子供達は跳んで行った。

「ほんまや、めっちゃ美味しい。

 姉ちゃん、僕こんなん始めてや」と英樹

「おばちゃん、おいしい、なぁ啓冶」と叔父の子供

「郁子はんも 一緒にお上がり。佐智はんかて」

「いただきまぁーす」

と郁子が 待ってましたとばかりにつき立てのお餅を頬張った。

「郁子さん、こっちの餡の付いたのもどうぞ」佐智が勧めると

「はい、いただきまーす。

 英樹 ほんまに美味しいなぁ」

と目を細めて忽ち平らげてしまった。

母の加代と佐智は、顔を見合わせて微笑みあった。

佐智は、お母さん お幸せそうと思った。

大吾と惣太郎は、四家族分の大量の餅を搗きあげた。

夕方、郁子と弟は二枚の餅蓋と餡子ときな粉餅の重箱を持ってタクシーで帰って行った。

二人は、大吾兄さんと佐智姉さんに見送られて嬉しそうだったが、郁子は一寸寂しかった。

佐智姉さんが羨ましかったが、それでも大吾が、兄のように自分を大切にしてくれている事で幸せだった。

叔父の子供達もタクシーを呼んでもらって餅蓋と重箱を持って帰って行った。

大吾は、タクシーの運転手に行き先と少し多めに金を払って送り届けるように頼んだ。

「お養父(とう)さん、よろしかったら今夜は、佐っちゃんと泊まって行ってください。

 出来たらお正月の間もずっと居てくれはったら 良えと思いますけど」

「ほんまに、惣太郎はん、是非そうしておくれやす。

 こんな広い家で大吾と二人寂しおますわ」

「お母さん、有難いでっけど儂も正月のまわりせなあきまへんよって。

 なぁ佐智どないや」

「お養父ちゃん 今夜は、泊めてもらいましょ。

 門松もう出してはったやろ。

 うち、お節お母さんと一緒に作らせて貰いますよって」

佐智と母親の加代は、結構馬が合っているようで早々と仲のいい嫁、姑になっていた。

「お養父(とう)さん、是非そうしてくださいよ。

 僕もお養父さんと色々お話したい事ありますし」

「さよか、ほんなら お言葉に甘えさせてもろうて。

 なぁ佐智ご厄介にならせて貰おうか」

「お養父ちゃん、それがええし。

 大吾さんのお母さんとお養父ちゃん一緒やと、うちほんまの家族みたいやしぃ」

惣太郎は、大吾の母の顔を見て軽く頭を下げた。

母の加代もそれに応えた。

二人とも満更でもなさそうだった。

大吾と佐智は、顔を見合わせ頷いた。

夕食は、四人で炬燵テーブルを囲んで食べた。

佐智は、養父ちちの寛いだ楽しそうな様子を見て幸せだった。

やはり女の方が強いのか 大吾の母親は自分の家と云う事も有ったが、ゆったりと構えて喋っていた。

惣太郎は遠慮がちだった。

「惣太郎さん、自分の家やと思うて 気楽にしとくなはれ。

 私も佐智はんが、二人目の娘になってくれはることで喜んどりますのや」

「ほんまにそうだんなぁ。大吾さんも儂の息子や。

 こんなに嬉しい事は、おまへんわ」

と云って次第に普段の惣太郎に戻った。

食事が終わって

「お母さん、私 後片付しますから ゆっくりしてください」

「佐智はん、そんなんかまへん、かまへん。置いといておくれやす」

「お母さんは、お養父とうちゃんとお話 しといてください。

 うち大吾さんに手伝ってもらいますから。ねぇ、大吾さん」

「そうや、母さん。

 今日は、お養父さんと母さんにサービスするわ。

 お養父さん、ゆっくり寛いで おふくろと酒飲んどってください。

 母さんも飲んで、久し振りやろ」

「ほんまに、私も もう少しお酒呼ばれたい。

 ほんまに久し振りやわ」

大吾と佐智が、台所で片づけをしていると 楽しそうな惣太郎と加代の笑い声が聞こえてきた。

佐智は、大吾の顔を見て首をすくめ舌先を出して笑った。

大吾は、佐智の頭を叩く真似をして笑いながら睨んだ。

片づけを終えて大吾は、

「母さん、お養父とうさんと佐っちゃんは、二階の八畳で休んでもらいましょか。

 僕、布団敷いて来るから」

「あたしも お手伝いします」

「じゃぁ、お願いね。

 惣太郎さん、お風呂入っておくれやす。

 大ちゃん、あんたの浴衣と褞袍(どてら)惣太郎さんに出してあげて。

 私、お風呂の用意しますよって」

大吾と佐智は、二階の八畳の部屋に入った。

「大吾さん」 

「佐っちゃん」

暫く二人は抱き合っていたが

「あかん、お布団敷かな。これ以上は、式あげてからや」

と云って佐智は身を離した。


惣太郎は、湯船につかり目を閉じて

「大吾はんのお母さん、ええおふくろさんや。

 佐智も上手い事行くやろう。良かったなぁ佐恵」

と呟いた。

 

翌朝、食卓を囲みながら

「お養父ちゃん、お正月の間ご厄介になるやろ。後で うち 家に帰って着替え取って来るから」

「佐智、やっぱり儂 正月は、家に居らして貰うわ。昨夜(ゆうべ)、風呂に入れてもろうてる時、

 佐恵の事思い出してなぁ。佐恵が寂しがっとると思うと仏壇に手、合わせとうなったんや。

 佐恵にお前の事よう話してやりたいと思うてなぁ」

と目を瞬かせた。

「惣太郎はん。妹さんの事何時も思うてはりますねんなぁ。

 無理に御引止めすんのも何やさかい、あとで、タクシー来てもらいまひょ。

 お餅持って帰ってもらわなあきまへんやろ」

「お母さん。折角云うてくれはったのに、えらいかって云うて済んまへん。

 堪忍しておくれやっしゃ」

昼前に二人は、帰って行った。

家の中が、急にひっそりとなった。

開け放った縁側に母親の加代は、座って庭を眺めていた。

風がなく穏やかな日差しが心地よかった。

大吾が傍に来て

「母さん、何考えてんの?」

「ああ、大ちゃんか、おおきになぁ。

 お母ちゃん、今幸せや。

 美千代も大ちゃんにも親らしいこと何にもしてやられへんかったけど、二人とも自分の力で立派になっ てくれはった。

 美智代も一流会社の人と結婚できたし、大っちゃんの佐智はんも良えお人みたいや。

 うちと一緒に住むことに嫌な顔しはらへんやろ。

 こんな立派な家にすませて貰うて、ほんまにおおきに」

としみじみと云った。

大吾は、母親の肩に手を掛けた。

加代は、その手を優しく撫でた。

「母さん、あそこの椿の横に梔子(くちなし)植えようか。

 僕、梔子好きやねん。あの甘い匂い。

 都城の時、緑ちゃんの家の井戸端に咲いてたやろ。 

 杉浦さんとこの風呂の水汲みしてるとき よう梔子の匂い嗅いだことが有ったわ」

「へぇー、大ちゃん そんな事覚えてはるの。

 あの時も貧乏やったなぁ。

 学校のお弁当 何時も恥ずかしい思いさせたなぁ」

「ううーん、別に恥ずかしい思うたことないよ。

 そやけど母さん、育ててくれて、いや生んでくれて有難う。

 今の僕が有るのは、母さんのお蔭や思うてる」

と云って、自分の手を撫でる母の手に手を重ねた。

母の手は、柔らかく暖かかった。


 正月の二日、朝から佐智がやって来て 明日の新居披露パーティーの準備を手伝った。

少し遅れて、郁子もやって来た。

彼女の父親からの大きな鯛の焼き上げたのを持ってきた。

「大吾のお兄さん、これお父ちゃんからの差し入れです。

 いつもお世話になって有難うございます、云うてはりました。

 明日は、お母ちゃんと弟も皆で必ず寄せて頂きます云うてはりました。

 お前も一生懸命手伝うてこい云われました」

「うわぁ、すごく大きい鯛。

 郁ちゃん おおきに。郁ちゃんも手伝うてくれはんのや」

「はい、お姉さん。何でも言うてください。

 お母さんも宜しくお願い致します」

「いいえ、いいえ。ほんまにおおきに。

 よう気の付きはる行き届いた親御さんや。

 そやから郁ちゃんも こんなに良えお嬢さんに成らはったんや。ねぇ佐智はん」

郁子は、親を褒められ嬉しそうだった。

そして、大吾さんの御母さんは、ほんまに()え人やなぁと思った。

郁子は、すっかり佐智に懐いてしまった。

佐智も自分の妹の様に郁子を(いつく)しんだ。

郁子が、大吾を好きな事は分かって居り 可憐な乙女心を思いやった。

大吾さんて幸せな人と思いながら そんな大吾が、自分の一生の伴侶となる事が嬉しかった。

「郁ちゃん、向こうの部屋で大吾さんの御手伝いしてあげて。

 お膳拭いてはるでしょ」

「はい、お姉さん」

佐智は、郁子の心を察して大吾の傍に行かせた。

「おっ、郁ちゃん 手伝うてくれんのか。

 そらぁ助かるわ。

 郁ちゃんと仕事したら楽しいなぁ」

「うちも、大吾兄さんと一緒で嬉しいです」

「そやけど、郁ちゃんの親父さんもお母さんも ほんまに良え人やなぁ。

 何べんも郁ちゃんの家行ったやろ。

 ほんまに親戚みたいになってしもうたやんか」

「ほんまに、大吾さん処と親戚みたいになれて嬉しいです。

 うちだけやなしに、お父ちゃんもお母ちゃんも英樹も皆大吾さんの事が好きです。

 大好きです」

郁子は、家族に(かこつ)けて自分の心情を吐露した。

大吾は、よく分かって居たので、彼女の頭をごしごしと撫でてやった。

佐智は、遠くの二人の会話を背中で聞いていた。

披露パーティーの料理の準備は、大変だった。

おおよそ二十人分の料理である。

お造りは正月であったが、惣太郎が懇意にしている市場の魚屋さんが明朝届けてくれることになっていた。

母親の加代は、盛り付けの手間と食器の数を考えて膳を三つのグループに分けた。 

それぞれの真ん中に台をしつらえ 大皿に料理を盛り付ける手はずを整えていた。

披露パーティーの料理は、大鉢に盛り込んだハム、ソーセージ、蒸し海老を添えたサラダ。

小芋、大根、蓮根、人参、筍、椎茸、こんにゃくの煮物。

吸い物、茶わん蒸し。

クラゲと胡瓜の中華風酢の物。

それと三好家差し入れの大鯛。

明朝届くお造りの大船が三つ。

メインは揚げたての天婦羅料理であった。

子供たちの為に 佐智が買ってきた果物と不二家のケーキを 部屋の隅のテーブルに並べた。

給仕係は、佐智と郁ちゃんがする事になっていた。

天婦羅の時は、料理に慣れている惣太郎が、してくれることになった。


明けて三日の披露パーティー。

惣太郎は、準備の手伝いの為 朝早くからやって来た。

惣太郎は、何処で借りたのか白い板前装束を用意して居た。

お昼前には、招待した人々が、次々と到着した。

大吾は、披露パーティーの始まる前に 庭で一同の記念写真を撮った。

主賓は、安宅製粉の社長夫妻と朝倉夫妻だった。

それに大吾の叔父夫妻と子供達。

郁ちゃんの三好家一同。

山三の芦田さん、大吾の友人の高坂と後輩の松村君も呼んでいた。

大吾にとっては、神野家と野沢家の顔合わせの場でもあり、将来自分の人生をサポートして貰う人々の集まりでもあった。

特に仲人をしてくれる安宅社長と大吾の新居購入に尽力してくれた朝倉氏の顔合わせは、大切だと考えていた。

朝倉氏は、政府に繋がる人物であったし 政府系の金融機関のみならず その交友は、民間にまで及んでいた。

安宅社長は、小なりとはいえ地域の経済人であった。


この日二人の子供達を連れてやってきた 母の弟である叔父は

「あのだらけの大吾が、立派になったもんや。

 おんと親父が居ったら見せたりたかったなぁ。

 ねえが苦労して大きした甲斐があった云うもんや」

「何云うてんの、あんたとこで長い事世話になって。

 これからもっとだいに頑張ってもろうて ご恩返しさせてもらわな」

「そうや、こないだ大吾が貸した金に仰山利子つけて返してくれたで。

 あんな事やったらもっと貸しといたら良かったわ。

 まぁ、冗談やけど。

 真面目な話 大吾に言うてわしも株の仲間入りさせてもらおうか思うてんね。大きな金は、よう 動かさんけど」

「一度 大ちゃんに相談しはったら。

 きっとあんたの役に立ってくれはると思うで。

 あの子も あんたらのお世話になった事忘れてへんから」

「まぁ、大吾も嫁さん貰うこっちゃし、いずれ子供出来て うちの雅子と啓冶の為にも ええ親戚になっ てくれるやろうから楽しみや。

 ねえ良かったなぁ」

やはり姉弟きょうだいである。

加代もくだけた物言いで いかにも親しげである。


その日、大吾は心を込めた引き出物を用意して居た。

手提げの紙袋の中には、その頃庶民には手の届かない由緒ある高価な食べ物が入っていた。

大吾は、先の人生で 毎年新年会に招かれた化粧品店の引き出物の事を良く覚えていた。

「大吾さん、何時の間にこんな事覚えはったん?」

「姉の結婚式かな?なんせ一流商社の社員やったからなぁ」

と上手く辻褄を合わせた。


 四日の日から大吾は、山三に出勤した。

新年の挨拶を緒方部長にした時 大吾は、結婚する事を告げ清水課長共々、夫妻での出席をお願いした。

「ほーう、それは、それは。

 新年早々 おめでたい話で何よりや。相手の人は?」

「はい、中学校の同級生で、三年ほど前から付き合い出しておりました」

「中学校の同じクラスの人、僕は、若しかしたら三好君かと思うたけど違うたんやな。

 君ら二人仲良かったもんなぁ」

「はぁ、郁ちゃんとは、家族付き合いさせてもらってます。

 すっかり兄貴分にさせられました」

「ところで仲人は、もう決めたの?」

「はい、婚約者の親代わりみたいな親戚筋の人で 子供の頃から世話になっていたみたいです。

 彼女が、是非にと云うものですから」

「そうか、残念やったなぁ。

 君の仲人やったら喜んでさせてもろうたのに。

 家内にも君の事は、しょっちゅう話とったんや」 

と心残りの様子だった。


結婚をしてから佐智が仕事を辞めるか如何か大吾が聞いてきたが、佐智は結婚後も出来る限り仕事を続けたいと云った。

大吾に異論はなく、むしろ金銭的な問題で無く 女性として仕事を持つ方が良いと云った。

幸い家の事は、母親が居てるので心配することは無いとも云った。


 四月の大安の日に、二人は天王寺区にある生玉神社で挙式、晴れて夫婦となった。

大吾が戻ってきた人生で 佐智と再会を果たしてから 四年十ヶ月の歳月が流れていた。

 

二人は披露宴を済ますと、そのまま昨年オープンした梅田の新阪急ホテルにチェックインした。

大吾は、何時ものジーンズ姿で大きなボストンバッグを下げていた。

佐智も大吾に似せてスラックスにストローハットの軽快ないでたちである。

晴れて夫婦になった二人は、誰はばかることなくダブルベッドの部屋をリザーブした。

クロークカウンターでの記帳は、神野大吾と神野佐智であった。

「大吾さん、うち今日から 神野佐智やなぁ。

 何やら落ち着かへんわ」

「そうやなぁ、僕も佐っちゃんが、神野やなんて信じられへん」

部屋に入った二人は、どちらからともなく抱き合っあった。

大吾は、佐智の顔をまじかに見つめ

「佐っちゃん----」

「なぁに?」

「うん、僕たち夫婦になったんや。

 長い事我慢してたけど やっとやなぁ」

「ええ、そうやねぇ。

 二人ともよく我慢したわねぇ」

交際を始めて四年 二人は、身体を交えることが無かった。

大吾も佐智も幾度となくそうしようと思ったが、互いに一線を越える事が無かった。

大吾は、多分処女である佐智を気遣った。

佐智は大吾に はしたない女であると思われたくなかった。

「佐っちゃん、服脱いでシーツの中に入ろう」

「いいわよ。そやけど大吾さん先に潜って。

 うちの脱ぐとこ見られたくないから」

大吾は、ボクサーパンツ一枚になってシーツに潜り込んだ。

佐智は、衣装ロッカーの前で身に着けた物を取り バスタオルを巻いてそっと大吾の横に身を滑り込ませた。

二人はシーツを頭から被り顔を見合わせ「クスリ」と笑いあった。

「佐っちゃん、バスタオルとって」

「大吾さんがとって」

佐智は、シーツの中の所為で恥ずかしさが遠のき 少し大胆になっていた。

大吾も、気持ちが楽になっていた。

大吾は、佐智の素肌を抱き寄せた。

彼女の身体は、んやりとしていて 少しほてり気味の大吾の肌に心地よかった。

「佐っちゃんの身体、冷たくて気持ちがいい」

「うちも、大吾さんの身体、暖かくて良い気持ち」

二人は互いの身体を弄りあいながら、果てしない口づけを交わし合った。

やがて二人は、シーツから顔を出して

「ふぅーっ」

と大きな息を吐いた。

大吾は、佐智の顔を見て

「暑くて、熱つ 熱つや」

と云って頬を崩した。

「ほんまに」

大吾は、シーツの下で、佐智の身体をおもい切り抱きしめて

「佐っちゃん 一緒にお風呂入ろう」

「そうね、うち大吾さんの身体流したげる」

「よっしゃ、バスタブにお湯入れてくるわ」

大吾は、ベッドを滑り出てバスルームに入った。

大吾の股間は、元気一杯になっていたが、佐智に気付かれるのが何となく恥ずかしかった。

蛇口を調節してお湯を出し 大吾は、バスタオルを巻いてベッドに腰を下ろした。

佐智は、シーツを胸元まで引き上げ ヘッドボードにもたれて微笑んだ。

シーツに潜り込んで 戯れた所為で お互いに緊張感が解れていた。

「佐っちゃん、お風呂から上がったら いよいよやで」

「大吾さん、お願いします」

大吾は、佐智が処女である事を それとなく分かって居たので慎重になっていた。

佐智も大吾の自分に対する 思いやりと気遣いに気が付いていた。

大吾が、女を知っているであろう事は、分かって居る積りだった。

二人は、バスルームで互いに身体を流し合い湯船に浸かった。

「佐っちゃんの身体 綺麗」

「有難う、誰よりも?」

「えっ そうやなぁ、誰よりも。

 僕嘘よう付かん。

 只信じて 佐っちゃんと出会ってからは、一度も無いよ」

「信じる。うち 大吾さんが、愛してくれているの分かってるから信じる」

佐智は、自分の事は云わなかった。

大吾の自分への気遣いで分かってくれていると思った。

「佐っちゃん、有難う」

大吾は、両手でお湯を救い上げて顔をざぶりと洗った。

二人は、風呂上りの身体のほてりをベッドに横たわり鎮めた

「佐っちゃん 気持ち落ち着いた?」

「気持ちは落ち着いてるけど 昂奮してる。

 変な答えでしょう」

「うん、意味よく分かるよ。

 やっぱり最初は、シーツ被ろうか」

「大吾さん 優しいのね」

二人はシーツの中で 目を見合わせた。

「大吾さん、優しくしてね。うち少し怖い」

「分かってる。分かって居る積りだよ」

大吾は、佐智を前にして胸の高鳴りを憶えたが、かなり冷静な自分を感じていた。

大吾は、彼女を愛しむように穏やかに優しく 初めて経験する彼女を絶えず慮かった。

佐智は、大吾に導かれ次第に身体と心を解き放って行った。

一瞬疼痛が走ったが、束の間だった。

甘美な快感が全身を満たし頂点に達した時、目じりに涙がこぼれた。

大吾と一つになれた喜びに涙が溢れ出た。

大吾はその涙を指先で拭ってくれた。

「佐っちゃん」

「大吾さん、有難う」

「良かったね」

「うん」

二人にとって充分な言葉だった。

佐智は、大吾の胸に顔を埋めて微睡んだ。

大吾は、何時までも佐智の頭をそっと撫で続けた。

佐智は、夢を見た。

養父(ちち)の惣太郎の背におぶさって広い野原が広がっていた。

野原かと思っていると それは何時の間にか 海辺になっていた。

養父だと思っていたが それは大吾だった。

自分は子供で大吾は、大人だった。

目を開けた時、自分を見つめる大吾の顔が有った。

しばらく ぼんやりと見つめていたが、自分と同じ若々しい大吾の顔だった。

「少し眠った?」

「ええ。大吾さん。

 うち眠ってたの?

 何だか夢見てたみたい」

「良い夢だった?

 気持ちよさそうに眠ってたから」

「そぉ、とっても不思議な良い夢。

 お養父(とう)ちゃんと大吾さんの夢。

 うちが子供で お養父ちゃんも大吾さんも大人。

 うち おんぶしてもらってて その人が、お養父ちゃんだったり大吾さんだったりするの。

 可笑しな夢。でもとっても素敵な夢だったわ」

佐智は、自分を見つめる大吾の目が涙で霞んでいるように見えた。

大吾の頭の中に歳を重ねた自分が、少女の佐智をおぶっている姿が浮かび 覚えず目頭が熱くなった。

「大吾さん、どないかしはったん?」

「ううーん、佐っちゃんと一緒に成れて こうしてる事が嬉しくてね」

大吾は、過去の自分と 今の自分が重なり合って複雑な気持ちだった。

本当は、今の自分の儘で彼女と一緒に居たかった。

しかし、真希の時とは違って 彼女には、年齢のギャップは感じなかった。

佐智は、じっと大吾の目を見つめていた。

「大吾さんて 本当に不思議な人やね。何か神秘的な感じがする時が有るの。

 でも素敵、うち大吾さんが大好き。

 うち 今最高に幸せ。

 恥ずかしいけど口にしたい事が有るの」

「口にしたい事って?」

「あのね、分かってると思うけど 大吾さんは、私にとって初めての男の人。

 そやから幸せなの」

「そうやなぁ。分かって居た。僕も嬉しい」

大吾は、佐智を抱きしめ髪に鼻を埋めた。


二人は、シャワーを済ませ ホテルのコーヒーショップで食事を済ませた。

昼の結婚式の事も有ったが、明日からの旅行に備えて早めにベッドに入った。

佐智は、大吾の胸に抱かれて満ち足りた気分で眠りについた。

大吾も気持ちが安らぎ何時しか眠りに落ちた。


 大吾が目覚めた時 佐智は、鏡に向かって身づくろいを済ませかけていた。

「大吾さん お目覚め?お早う」

「もう起きていたの。僕よう眠ってたのかな」

「そうよ、軽く鼾かいていたわ。とっても気持ちよさそう」

「鼾?煩くなかった?」

「ううーん、大丈夫、心地よい響き。

 大吾さん、昨夜(ゆうべ)は有難う。

 何だか うち自分が違う人間になったみたい」

「そんな事無いよ。

 佐っちゃんは、佐っちゃん。

 でも若奥さんやなぁ」

「お蔭様で、やっと女にして頂きました」

と云って 彼女は舌先を覗かせた。

大吾は気のせいか それがとってもコケティッシュに感じられた。

薄化粧の所為かな?

いや、やはり少し変わったのかなと思った。


 ホテルの朝食を済ませ 二人は、大阪駅から特急列車かもめで 新婚旅行に旅立った。

列車の席に並んで座った二人は、やはり此れまでと違っていた。

身が一つになり血がつながったような一体感を感じていた。

大吾も佐智も互いの肌に触れるものが、全て自分の物のように思えた。

佐智は、人の目を憚る事無く ずっと大吾に身を寄り添わせていた。

最初の目的地は、安芸の宮島だった。

翌日からは、秋芳洞、萩とまわり最終地は、松江の宍道湖を訪れた。

松江での宿泊は、湖畔にある百年以上の伝統を持つ旅館、皆美館を予約していた。

大吾は、皆美館と先の人生で、仕事の関わりが有り懐かしかった。

旅の最後をこの由緒ある旅館で二泊した。

小京都と称される松江の城下を巡り、堀川を遊覧船で遊んだ。

また小泉八雲の記念館も訪れた。

宍道湖の夕景は素晴らしかった。

二泊したおかげで 旅の最後をゆっくりと過ごす事が出来た。


五泊六日の旅は、大吾と佐智を一層固く結びつけた。

二人は、もはや他人ではない離れがたい一つ身である事を強く感じていた。

旅を通じて佐智は、何度も大吾と一緒に成れた事をこの上ない幸せだと思い 彼との巡り合わせを神に感謝した。

大吾も、戻ってきた人生と併せ この世に生まれてきた事を感謝した。

そして再会を果たした最初の日に 期せずして二人が口にした

「神様の御引き合わせ」と云った事を思い出した。

その時に自分の目に滲んだ涙に 佐智が、差し出したレースの縁飾りの白いハンカチが、瞼に浮かんだ。

二人は、旅の最後の地の床の中で、その事を語り合った。

「大吾さん、二人が今こうして居るのは、ほんまに神様のお蔭やなぁ」

「僕もそう思う。

 佐っちゃんと再会してから 何度思ったかもしれないよ」

「うちもよ、此処縁結びの神様の出雲でしょう。

 明日、ちょっと足を伸ばして出雲大社にお参りして お礼云いましょう」

「そうやなぁ、旅行の最後に相応しいよ。

 佐っちゃん、良え事云うなぁ。

 僕考え付かんかった。

 さすが僕が選んだ佐智ちゃんや」

「おおきに、うちが選んだ大吾さんよ。

 もうだれにも渡さへん、鎖につないどくわよ。

 出雲の神様、いや八百万の神様、ほんとに有難うございます」

と佐智は云って、大吾に唇を付けた。

二人は旅の間、幾度も睦合ったが、その夜の佐智は特別の思いを込めたものであった。

佐智は、大吾の分身が身に宿る事を念じていた。

 

 帰阪した、二人は、八日間の最後の休暇を自宅で寛いで送った。

二階の三つの部屋は、大吾の書斎と、佐智の部屋、二人の寝室として使っていた。

母は、一階の六畳を自分の部屋として使った。

大吾の書斎には、鍵のかかった引き出しがいくつも有った。

佐智は、気が付いていたが、その事には触れなかった。

何時か、大吾がその事を話すだろうと思っていた。

その引き出しには、大吾の記憶を確かなものにする為の2005年までの時系列を追って記された、多くの出来事を整理した幾冊もの大学ノートと資料がしまわれていた。

又 大吾は、戻って来てからの人生の記録を克明に記録して居り、それは日記と云うようなものではなかった。


佐智が、部屋に入って来た時 大吾は結婚式以来の記録を綴っていた。 

「何書いてはるの?」

「ああ、これ、僕の記録」

その傍らには、例の大学ノートが開いてあった。

1963年のページであった。

それは、その年の過去の出来事が、丹念に記されていた。

大吾は、何気なくノートを閉じた。

その表紙には、1963年4月~9月②と書いてあった。

佐智は、以前この部屋に来た時に気が付いていた。

大吾が、彼女に見せない様に何時もさりげなく仕舞い込むのを彼女は不思議に思っていたが、敢えて聞く事はしなかった。

又、旅行から戻ってからも、夜遅くまで一人で部屋に籠り 書き物をしている彼に気が付いていた。

佐智は勇気を奮って大吾に尋ねた。

「大吾さん、何時も遅くまで書き物してはるけど うちが見たら具合悪いもの?」

「うん、まぁね。

 何時か時が来たら話すけど 今はまだその時期や無いと思う。

 佐っちゃんには悪いけど この事はそっとしておいてくれへんか。

 誓って云うけど、佐っちゃんとの関係が 如何こうなるものじゃないから安心して」

「ううーん、そんなこと心配せぇへん。

 うち 大吾さんの事で知っとかなあかん事が、有ったらと思うてんの」

「有難うね。

 何時か分からへんけど きっと佐っちゃんに話す。

 それまでは、知らない事にしといて」

「分かった」 

佐智は返事をしたが、大吾の表情が何時もと少し違うように思った。


 大吾と佐智は、旅行から帰った翌週の月曜日から仕事に戻った。

大吾は山三へ、佐智はみやこ楽器である。

家の事は、母の加代がしていた。

佐智が、仕事を続けたいと云った時 大吾もその方が良いと賛同してくれており 彼女は、入社五年目を迎え古参として売り場の主任を務めるようになっていた。

佐智は、売り場での事を大吾に話し、よく相談もした。

畑違いであるにもかかわらず 大吾は、驚くほど的確に彼女の相談事に応えた。

彼女の管轄下の従業員の事、楽器のディスプレーの事、客のクレームの事、特に驚いたのは、その時々の有名アーティストが奏でる楽器と売り場の商品配列、そのPOPディスプレーのやり方だった。

会社の誰もそんな事を考えて居なかった。

大吾のアドバイスで上司に提案すると 一様に感心し提案を即実行に移してくれた。

それによる売り上げは、目に見えるものが有った。

大吾は、社会の出来事と販売を巧みに結び付けていた。

佐智は、そのお蔭で 専任の販売促進リーダーに抜擢され 広告代理店の人達と交わる機会が増えた。

佐智は、毎日の事を大吾に話し、彼はその都度、彼女にアドバイスを与えた。 

大吾は、楽器の種類によって打つべき宣伝媒体の種類を教えた。

広告代理店の人間もそれは考えていたが、場所を選んだイベントまでは、思いつかなかった。

大吾は、間もなく台頭してくるフォークを念頭に アコースティックギターに力を入れるように進めた。

そして、彼が知っており 今はまだ表面に出ていないアーティストにイベントの仲間入りをさせた。

彼らは、作曲し 作詞し 演奏した。

そしてイベントを見に集まっている人たちに一緒に歌わせた。

ギター演奏の手解きもした。

彼らのギャラは、今のところ廉かった。

イベントは、三か月間 毎週同じ場所で開催され常連も出来ていた。

其の期間のみやこ楽器のギター売り上げは 前年比を遥かに上回った。

みやこ楽器は、イベントのアーティストに みやこ楽器提供を明示した楽器を無償で与えた。

広告代理店のスタッフは、そのイベントのシナリオに感嘆していた。

広告代理店がやったのは、会場の交渉と、設営、進行と後片付けだけだった。

すべての指示は、神野佐智がやっており 大吾がそのバックアップをしていた。

佐智は、自分の会社での成功にたいし 大吾に対する尊敬の念を新たにしながらも、それは尊崇と云える気持ちにも変わっていた。

佐智は、大吾に対し計り知れない神秘的な思いを一層深めていた。

そして、鍵の掛かった引き出しの事が、頭に浮かんでいた。

二人だけの時の大吾は、猫が腹を曝け出してじゃれる様に 全く無邪気そのものだった。

彼は、佐智に良く甘えた。

そんな時

「ああ、この人は、うちをほんまに好いていてくれはる」

と思うと、愛おしさと母性本能を突き上げられ抱きしめて、頬刷りをしてしまうのだった。

大吾が人前で、そんな気振りを見せる事は無かった。

自分の母に対しても思いやりのある言葉を投げながら、決して矜持(きょうじ)を崩すことは無かった。

佐智は、大吾が自分だけに甘えて呉れる事をこの上なく嬉しく思った。


 只新婚旅行から数えてふた月、月が経っても 佐智に妊娠の兆しはなかった。

佐智は、出雲大社に詣でた時 大吾の子供を身籠りますようにと心を込めて祈願し、祈るような気持ちで大吾と交わった事を絶えず思い出していた。


 大吾は、佐智と結婚した翌年の三月、山三証券を退職して自分の投資会社を開く事にした。

大吾、佐智ともに二十七歳である。

山三を退職した翌日、大吾は朝倉氏の許へ其の報告に出向いた。

「えっ、山三辞めた? 

 また何でだんね。

 大吾はんは、山三のエースで 将来は、幹部になる人やと思うてたのに」

「有難うございます。そのように仰って頂きまして。

 実は、自分の投資会社を立ち上げようと考えております」

「自分の会社なぁ、その若さで。

 誰ぞバックアップする人でも居てはりまんのか」

「はぁ、強いて云えば、姉の旦那が商社に居りますので、何かあればと思っております」

「さよかぁ、独立なぁ。

 まぁ大吾はんのこっちゃ、色々考えた上での事やと思いまっけど。

 よっしゃ、儂に出来る事があったら何なりと云うとくなはれ。

 儂も歳やけど力にならして貰いますさかい」

「何時も親切なお気遣い痛み入ります。

 暫く頑張らせて頂きますので、どうか宜しくお見守り下さい。

 また身勝手なお願いに上がるかも知れませんが、その時は宜しくお願い致します」

「何のなんの、いつでもどうぞ。

 儂は、大吾はんの来んの待ってますよって。

 ところで佐智はんは、元気にしてはりまっか」

「お蔭様で、結婚してからも みやこ楽器の仕事を続けさせて頂いてます。

 宣伝部のリーダーにならせて頂いたようです」

「ほーう、女の人でリーダーになぁ。

 まだ大吾はんと同い年でっしゃろ。

 あんたら二人とも図抜けてはん なぁ」

「はぁ、偶々提案した販促の企画が当たったようですが、さぁ、これからどうなります事やら」

「なぁに、大吾はんが付いてはる。

 その販促の企画とやら、きっと大吾はんのアドバイスがあったんと違いますか?」

朝倉氏も大吾の多彩さを認めている様であった。

「それはそうと、子供は未だ作りまへんのか?」

「はぁ、頑張って居りますが、その方の兆しが一向になく、佐智も多少気に病んでおります」

「さよかぁ、まぁ神さんの授かりものや。

 慌てんと綺麗な奥さんやから、これからも たんと頑張りなはれ」

と云って綺麗に禿げ上がった頭をつるりと撫でて

「これは、儂も下世話な事を口にしてしもうた。

 佐智はんに こんな事云うたらあきまへんで」

と照れ笑いをしながら

「いや、お母ぁちゃんがな、佐智はん、まだ子供でけへんのかと しょっちゅう云うもんやさかい。

 あいつ佐智はんの事えらい気に入っとるみたいや」

「有難うございます。今日は奥様は?」

「うん、お華の集まりとか云うて出かけとりますわ。

 外で羽伸ばしとりまんのやろ。

 儂ら戦争で子供亡くしてしもうたさかい、この歳になって退屈云うか まぁ寂しいもんですわ。

 儂は、大吾はんの顔見て 話聞かせてもらうのが楽しみになっとりまんのや」

と何時になくしんみりとした声音であった。

大吾が(いとま)する時 朝倉氏は門の処まで見送ってくれた。


 大吾が、今の人生に戻って十三年が経過していた。

大吾は、今の人生で生涯を終えるのではないかと思い始めていた。

また、そう有って欲しいと願う一方、先の人生での妻や子供達はどうしているだろうか? 

自分の亡きあと何時までも元気で 長生きをして欲しいと思った。

 

大吾は、土佐堀通りの北浜と淀屋橋の中間にあるK電鉄が所有するビルの三階に事務所を構えた。

何故そのビルに決めたかと云うと過去の人生でK電鉄とは、仕事上の関係が有り 彼の記憶を呼び戻し自分の事業機会に役立たせる事が有ると考えたからでもあった。

大吾が、山三証券に入社以来 始めていた株式投資で 彼の資産は、在職六年間の間に二千万円を少し超えていた。

これは、平均的サラリマンの年間所得の二十倍を遥かに上回っていた。

大吾は、持っていた現金のうち五百万円を資本金に入れ 株式会社としてスタートさせた。

これには、将来土地を含む不動産に対する投資の目論見も有った為である。

遠い将来、バブル崩壊までの上り詰める不動産に対し 自分だけが知っている知識を生かそうとしていた。

大吾は、会社を設立した時 高校の後輩である松村君を卒業後勤めていた会計事務所を辞めさせ 自分の仕事を手伝わせていた。

彼は、大吾の苦手な数学的才能が有った。

大吾は、彼に卒業後も物の考え方、投資に対する基本的な事を教えており 何れ自分が、会社を立ち上げた時参加するように話していた。

そして一年後 山三の芦田君を誘い入れスタッフとしていた。

松村君と芦田君は、大吾の結婚式の時にも呼んでいた。


大吾は、二年目に入って、中小企業金融公庫から融資を受ける事にした。

この時も朝倉氏の力を借りた。

彼は、政府系の金融機関にパイプが有り 彼の息のかかった人間が沢山いた。

朝倉氏は、夫婦共々大吾を自分の息子の様に可愛がり 見返りを期待することなく力を貸してくれた。

大吾は、佐智と共に結婚式が済んで以来 度々朝倉家を訪れ何かと珍しい土産物を持参し 朝倉氏の骨折りに感謝を表した。

そして、朝倉氏の役に立ちそうな自分だけが知っている情報を大吾の予測として その基となる背景と共に説明したりした。

彼の予測は、何時も的中していた。

朝倉氏は、彼から(しばしば)電話で問いかける事も有った。

大吾が、土佐堀に事務所を開いた時は、わざわざ開所の祝い金と一升瓶を持参してくれた。

今回の借り入れについては、その時に

「神野はん、事務所で金が要る時は、何時でも云うとくなはれや。

 儂が何ぼでも口利(くちきき)ますよって」と云っていた。

大吾は、五百万円を借り入れ、名目は兎も角、殆どを投資に回した。

本当は、もっと多くの借り入れが可能であったが、目立たない様にと考えた。




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