(4) 永遠の別れと巡り合い(完)
(三話のつづき)
4 帰って来た真希ちゃん
大吾が、事務所を開いた翌五月だった。
高坂から夕方電話が架った。
「神野、今夜時間無いですか?」
「おお、どうかしたの?」
彼とは、事務所開きの時に会っていた。
彼は音楽好きの大吾に かなり高価なカセットラジオを祝いに持ってきてくれた。
「うん、会ってから話しますわ。何処で待ってたら良えですか?」
「そうやなぁ、飯食おうか。久し振りやから、最近できた天満の松坂屋の前」
「そうや、自分の事務所からも近い処やなぁ。六時に行くわ」
「分かった」
高坂とは、月に一度くらいの割合で顔を合わせ 卒業以来ずっと続いていた。
前の人生の時の様に上六の養老の滝ではなく スナックバーに飲みに行く事も有ったが、殆どが喫茶店で、彼の近況を聞きながら何かとアドバイスを与えたりしていた。
彼は、二年前から実家の兄の塗装工場を手伝っており 実質的には、彼が工場の切り盛りをしていた。
以前の人生でも 彼が工場に必要な資金を借り入れる時 大吾は、保証人になっていた。
今回も、ほぼ同じタイミングで 彼は、銀行融資を受ける事になり 大吾は彼の保証人を引き受けた。
彼から電話が有った時、また兄貴の事で問題が起きたのかなと想像した。
彼の兄は、父親のいない家では家長的存在で 周りに見栄を張る性質の様である。
高坂から見ても無駄が多く、彼は何時も兄の不満を大吾に漏らしていた。
大吾は、松坂屋のビルの七階にある 中華料理店錦城閣に彼を伴った。
「神野、お前凄いなぁ。こんな処で飯食うの」
「まぁ、山三からの事やし仕事の関係も有るさかいな。しょっちゅう云う訳や無いで。
それはええけど 話有るんやろ」
「うん、金谷さんの事や」
「えっ、真希ちゃんが、どうかしたん?」
「それがな、国へ帰って暫らくは良かったんや。
家もちゃんとしとったし、金に困る事もなく、真希ちゃんも向こうで学校へ通って大学まで行ったらし いんや。
ところが、半年前に姉の旦那が、仕事の事で贈賄か収賄かで捕まったらしいんや。
全財産没収で、旦那の親戚にまで累が及んだらしい」
「そうかぁ、韓国は、何かあったら無茶苦茶やからなぁ。
僕も淑子さんの旦那の話しは、聞いて居て丁度 朴政権になって、日本との関係が良うなるし 良えと 思うたけどなぁ」
「一寸調子に乗りすぎたみたいやで。
ひょっとしたら、誰かに嵌められたかんかも知れんなぁ」
「うん、有り得る。贈賄や収賄、韓国では当たり前やからなぁ。
罪をなすりつけられスケープゴートにされたんかも知れんなぁ」
「うん、旦那は刑務所に入って それで真希ちゃんと姉の淑子と弟の三人で逃げて来たらしい」
「三人云うたら、母親は?」
「亡くなりはったんやて。
事件が有って そのショックでらしい」
「ふうーん、物静かな ええ人やったのに。
それで、真希ちゃん等 今何処に居てるの?」
「うちや、僕の家に取敢えず置いてる。
三人とも、一週間前から」
「何でや、もっと早う教えて呉れんかいな」
「それがな、真希ちゃんに お前の事話したんや。結婚してることもな。
そしたら電話せんといて云うて、それから泣いてばっかりや」
「そうかぁ、分からんでもない。よっしゃ、よう教えてくれた。
お前処も三人に転がり込まれたら大変やろ。
何時までも云う訳にいかんやろうし、何か考えようか」
「おおきに、助けたって」
「礼を言うのは、僕の方や。
戻って来たあの子等をよう預かってくれた。この通り」
と大吾は頭を下げた。
彼女達が、韓国に引き上げるについて 大吾には何の責任もなかった。
只、真希の事が、頭にこびりついて離れなかった。
彼女は、大吾が引き取ってくれたらと思っていたに違いない。
しかし、六年前の大吾には、周りが賛成するだけの背景が整っていなかった。
学校を卒業したばかりの 駆け出しサラリーマンでしかなかった。
誰も大吾の本当の事は知りようもなかった。
戻って来た人生で 真希と終生を共にしてもと考えだしていた大吾は、大きな心の痛手を負ってしまった。
佐智との出会いによって、一時大吾は、真希の帰国の賜物だと思った事も有った。
いや、ずっとそう思っていた。
佐智には、真希との事は、全て有りの侭に話してあった。
大吾は、今回の彼女達の事について 佐智に話し了解をとっておこうと思った。
そして、曾ての事を全て、佐智に話ておいて良かったと思った。
大吾は、彼女達が帰国してからも 韓国の政治、社会状況を注意深く見守って居た。
朴政権が続く間は、淑子の旦那も順風満帆だと考えていた。
その先は、多分やりにくくなるだろうが、淑子の旦那の器量しだいだと考え、一先ずは一件落着と考えていたのだ。
「高坂、今晩どうするか考えるから待っといてくれるか。
僕から言うまで 此の事は、彼女達には伏せといて。
それまで、すまんけど もうちょっと面倒見たってぇな」
「すまんなぁ、何とか頼むわ」
「なぁに、さっきも云うたように お前が謝る事無いって。
任せて、あんじょう行く様に考えるから」
と云って一先ず別れた。
大吾の脳裏に真希との懐かしい思い出が甦って来た。
彼女の自分を見上げる可愛らしい笑顔が目に浮かんだ。
彼女は、自分と二つ違いで 今は二十五歳、きっと美しい女性になっているだろうと思った。
大吾は、取敢えず三人が暮らせるアパートを探し 暫くは、その家賃といくばくかの生活費の面倒を見ることに腹を決めた。
姉の淑子は、元のキャバレーか もし駄目なら大吾の知っているラウンジでも紹介すればよいと考えた。
そうすれば自分で妹たちの生活を支えることが出来るだろう。
弟の康治も働き口は見つかるに違いない。
高坂に頼めば何とかするのではないかと考えた。
只、真希には、水商売に入って欲しくなかった。
彼女の仕事を見つけるのが、一番大変だと思った。
今は、関係のない大吾が、何時までも彼女たちの面倒を見る訳にもいかなかった。
真希の為にも良くない事だと思った。
その夜 みやこ楽器の仕事から戻った佐智に 彼女たちの事を話した。
「へぇー、それは大変ねぇ。
それで今 高坂さんが、面倒見てはんの。ふぅーん」
佐智は、何かを考える様に語尾のあいまいな返事をした。
「佐っちゃんには、悪いけど、僕 暫くの間 彼女たちの面倒見ようと思うんや」
「それで、どないしやはるの?」
「うん、取敢えず 三人が住めるアパートとその家賃払ったろうと思うんやけど」
「そらぁ、かまへんよ。
それくらいの事やったら、うち処 何とかなると思うし。
そやけどずっと云う訳にもいかへんでしょう」
「うん、姉の方は、元々水商売やから もとのホステスしたら良えと思うし、多分自分もそうする積りや ろう。
弟の康治君の事は、高坂に何とかせえ云う積りや。
男の子の働き口位直ぐ見つかるやろう。
そうしたら、直ぐ三人の生活するだけの金は、稼ぐと思うけど」
佐智は、肝心の真希の事が出てこないので少し苛立った。
「そうやろねぇ、一、二ヶ月面倒を見たら 自分たちで何とか しはるようになると思うわ」
と云って大吾の次の言葉を待った。
大吾は暫く黙っていたが
「それで、一番頭が痛いのは、真希ちゃんや。
あの子には、水商売なんかして欲しくないんや。
此の儘ほっといたら、多分姉の引きで水商売に入ると思うんや」
佐智には、大吾の気持ちがよく分かった。
「大吾さんの気持ちよく分かるわよ。
何処か良い勤め先が見つかると良いけど、国籍の問題で すっとい かないわねぇ」
「うん、多分ね。
姉の淑子が、何時までも彼女をほっとかないと思う。
金を稼ぐ手っ取り早い方法は、自分が一番よく知ってると思ってる人やから」
佐智は、大吾が真希に対して恐れていることが分かった。
「大吾さん、あなた 本当に良い人。
さすが、うちが愛した人だけの事があるわよ。
うち大吾さんの力になる」
「えっ、僕の力に?」
「そうよ、あなたの愛しい妻ですもの。
うちが愛する夫でしょう。
出来るかどうかわからないけど、みやこの部長に相談してみる。
みやこで使って貰えたら一番いいわよね」
佐智は、既にみやこの販促宣伝のリーダーとして実力を発揮していた。
「佐っちゃん、それは有難い。是非お願いするとして、その前に彼女との事で朝倉さんに相談してみる事 を思いついたよ」
「なぁに、何だか知らないけど さすが 私の旦那様。考えることが早いわ」
佐智は、何を相談するのか分からなかったけど 既に大吾が、シナリオを組み立てたと思った。
「朝倉さんに彼女が、帰化できる方法を相談してみる。
若し上手いこと行けば、みやこさんも 佐っちゃんの口利きですんなり受け入れてくれると思うんやけ ど」
「さっすがぁー。うちもそこだけが心配やったの。
じゃぁ、朝倉さんとこの相談早くしてあげて。
お願い、ねっ」
と佐智子は、自分の事の様に大吾に手を合わせた。
大吾は、すぐさま朝倉氏に電話をかけた。
日曜日の午後朝倉氏宅を訪れると
「よう、大吾はん。新しい事務所どないだす?
こないだ、山三の社長の友達から、君のこと聞いたで」
「また、何でですか?」
「一緒に飲んどったんやけど、そいつがな、世の中 中々上手いこといかんもんや云いよって。
どうしたんや?て聞いたら 山三に異彩を放つ若い社員が居って、社長が目っこ入れとったらしいん や。
ところが辞めてしもうたらしい。
直属の部長は、降格もんや云うて怒鳴りつけられたらしい。
その社員の名前何ちゅうんやて儂が聞いたら、神野言い寄ったんや。
それでな、儂もつい調子に乗って、そいつは、儂の義理の息子や云うたったら、吃驚しとったわ。
儂 嬉しいてな」
「はぁ、有難うございます。
山三では、朝倉様のご援助で心置きなく頑張らせて頂くことが出来ました」
といつもの調子で昂ることなく応えた。
「大吾はんは、何時も奥ゆかしいなぁ。儂とえらい違いや。
儂の義理の息子云うて気い悪うせなんだか?」
「とんでもないです。朝倉さんに そのように言われて嬉しく思ってます」
「それで、今日は、何か相談があるて?
大吾はんのこっちゃったら 儂に出来る事やったら 何でも」
「はい、一寸私事で的外れかも知れませんが」
「私事やろうが公事やろうが、そんなこと頓着する事おまへん。
何でも言うてみて」
「はい、実は、始めて近鉄の大食堂でお目に懸かった時 一緒に居りました女の娘の事なんです」
「ああ、あの時の綺麗な御嬢さん。
あれは、良さそうな娘やったなぁ」
朝倉氏は、遠くに目を泳がせて懐かしむように思い出していた。
「その彼女が、事情が有って、韓国からこちらへ戻ってきておりまして-----」
大吾は掻い摘んで状況を説明した。
「それで、そのお嬢さんとの事は、佐智はんにも 話した云うとったなぁ。
ほんで佐智はんが、自分の勤めてるみやこ楽器で働けるよう骨を折る云うてはんのかいな。
まぁ、何ちゅうか あんたら若いのに人間出来とるのう。
男のあんたはともかく 佐智はん中々見上げ たもんや。
それで、相談云うのは?」
「はぁ、実はご存じの彼女の国籍の事で、何とか日本国籍を取れないかと思いまして」
「大吾はん、そら外務省や。
わしの力では、どうにもならんわ。
手を尽くしてみても 一寸。
そうやなぁ可なり時間がかかるやろうなぁ。
法律通りやったらまぁ、三年、五年の話しや」
朝倉氏は、腕組みして暫く目とじて何かを考えていた。
そして突然
「君、そのお嬢さん 今でも愛してるんか。
それと佐智はんもその事気い付いてはんのか」
「はい、妻は居りますが、人間として愛する気持ちは失っておりませんし、佐智もその事は気が付いてる と思います」
「そうか、美しいのう。
まさか君が妾にするような事もあるまいし、あくまで そのお嬢さんの行く末を 思うての事と思うけ ど」
と云って、朝倉氏は、再び目を閉じて黙考した。
目を開いた時 何か大きな決心をした様である。
「君は、そのお嬢さんの人間を信じてる?---やろうなぁ」
「はい」
「よっしゃ、こうしよう。儂のお母ちゃんにも相談するけど 儂らの養女にする。
これやったら、外務省のやつらも文句ないやろ。
この筋書きやったら、儂の筋辿って超特急ひかりやな。
それでも三、四ヶ月はかかるやろう。
まぁ、こんな事は、儂が知ってる専門の弁護士に頼む事にするけど」
と云った。
大吾は、まさかそう云う事になるとは、想像もしていなかった。
「-------」大吾は、言葉を失って、ただ頭を下げた。
大吾の気持ちはそれで充分に伝わった。
「大吾はん、顔を上げなはれ。
これはな、全て君を信じてるからや、それと佐智はんの優しい心根。
儂もそれに一口載せてもろうただけや。男が泣くな」
と云って優しい笑顔を見せて大吾をねぎらった。
朝倉氏は、手を叩いてお手伝いさんに妻を呼ぶように伝えた。
暫くして朝倉氏の老妻が表われ、一部始終と自分の決心を伝えた。
彼女に否やはなかった。
「大吾さん、ほんまに宜しおしたなぁ。
あの時のお嬢さんが、私らの養女になるやなんて。
ほんまに人の世のめぐり合わせて不思議なもんだすなぁ。
きっと観音菩薩の御心だっせ。
観音様は、心の綺麗な人を放っとからしまへんのや。
お父ちゃん、ほんまに良え事決めはりました。
さすが、若い頃うちが選んだだけの事は、おましたわ」
と大吾たちの為に喜んでくれた。
大吾は目頭を熱くして、暫く俯いていた。
そして
「有難うございますと」しっかりと頭を下げた。
奥さんは、大吾をしみじみと見やりながら
「大吾さんは、ほんまに良えお人。
それに佐智さんも。
うち、あの時のお嬢さん、よう覚えてますよ。
ほんまに 美しい可愛らしいお人やった。
大吾さんは、どうやら周りの人みんなを幸せにする為、生き てはるみたい」
と云った。
「さぁ、これでお母ちゃんもオーケーや。
それでな、そのお嬢さん何て云うたかな。ああ、真希はん。
儂とこの養女になるのが方便でもええし、ずっと養女の侭でもどっちでもかまへん。
入籍したら暫くは、この家で一緒に暮らしてもらわなあかんで。
先は、真希はんと あんたが、よう相談して決めたら良え。
それで良えか、お母ちゃん」
「ええ、ええ。お父ちゃんの云わはる通りでよろしおます。
そやけど、ほんまに あのお嬢さんみたいな娘さんが、此処に一緒に住んでくれたら
そらぁ嬉しおすわ」と云った。
大吾は、家に戻ると直ぐに佐智にその事を話した。
この頃佐智は、後方の販促宣伝課の関係で日曜日が休みになっていた。
「佐っちゃん、聞いて驚くな」
「なによ、勿体ぶってないで早く話してよ」
「いやぁ、ほんまに魂消たなぁ。
朝倉さんが、真希ちゃん養女にするて」
佐智は、一瞬耳を疑った。
「大吾さん、もう一回云って」
「朝倉さんの養女に真希ちゃんが成るのっ!」
「大吾さん、あんたから そんな事頼んだん?」
「まさか。僕は、真希ちゃんの日本国籍を取るための最短の方法を聞いて 出来れば その事で力を借り ようと思って話をしに行ったんや」
大吾は、話の経過を説明し 朝倉家の養女に至った顛末と 朝倉氏が、決断してくれた大吾と佐智の想いに感銘して呉れた事を説明した。
そして朝倉氏夫妻が、大吾以上に佐智の心根に打たれての事も話した。
佐智は、大吾の話す 朝倉夫妻の心に胸を熱くした。
「大吾さん、良かったわね。
きっと うちの事より大吾さんを信じてらっしゃるのよ。
真希さんもきっと喜ぶわよ。
この話は、早く真希さんに伝えてあげて」
佐智は、真希への思い遣りを顕わしつつ、一方で朝倉氏を交えて大吾と真希の事が、公に成った事に安堵するものが有った。
それから、二人は、真希たちの事での今後の手順を話し合った。
その夜 大吾は床の中で 佐智の思い遣りに感謝した。
そして、佐智を胸に抱いて瞼を熱くした。
佐智は、大吾をあやす様に何時までも彼の背を撫で続けた。
大吾は、戻って来た人生の二つ目の目標を見つけたと思った。
朝倉さんの奥さんが云っていた
「大吾さんは、周りの人を幸せにするために生きてるのね」
大吾は、佐智に背を撫でられながら眠りに落ちた。
佐智は、大吾の背を撫でながら 自分の事でなく真希の将来を大吾が考えていると感じていた。
大吾は、翌日高坂に電話かけた。
彼は、作業着を着た侭塗装工場の仕事を済ませ 夜の七時頃に事務所にやって来た。
大吾は、昨日までの顛末と彼の決断を説明した。
高坂は、真希ちゃんが、結婚式の時見知っていた朝倉家の養女になる事を 驚天動地の想いで聞き入った。
そして大吾の人脈の深さに感心した。
高坂は、今の大吾なら 三人の為に暫くの間アパートを借りてやり 生活の面倒を見る事について
それくらいの事は出来るだろうと考えていた。
姉の淑子が、水商売に戻る事は、彼女の口からも聞いていた。
弟の康治の事は、曾ての高校の同級で生徒会長がやっていた山本の会社の高津電気で働かせることに決めていた。
真希の事については、やはり姉の淑子が水商売に着かせる事を臭わせていると話した。
自分は、何処か事務員でも工員でも良いからと思い探していたと話した。
大吾の妻の佐智が、彼女の勤める みやこ楽器に斡旋しようとして居る事に付いて、彼女の心の広さに感心もし、大吾の過去の私事を夫婦で共有して居る事に羨望と心を打たれる物が有った。
大吾は暫くの間、自分が三人の住まうアパートを探し生活の面倒を見る事。
真希の仕事の事は引き受ける。
この事だけを伝えて欲しい。
只 真希が、朝倉さんの養女になる事と みやこ楽器の事は、暫く伏せておく事。
真希の事は、まだ是から色々と複雑な手続きもあり、早くて三ヶ月くらいの猶予がいるという事を説明した。
大吾には、彼女の姉の淑子の事が頭に有った。
大吾は、淑子を悪い人間だと思っていなかったが、心の中の何処かで信を置いて居なかった。
彼女がしゃしゃり出てくることを恐れた。
「高坂、お前が 彼女らに話してくれた後で 自分から改めて話すさかい。
日曜日にするかな。
そうやなぁ、自分処行こうか?三人が揃うてる方がええやろ」
「おお、分かった、あの子らに 家に居るように言うわ。何時?」
「僕は、何時でもかまへんけど。
うーん、それより 三人と一緒に昼飯食おうや。
飯代は、僕出すよって。
場所は、この前の錦城閣、あそこがええやろうなぁ」
「おお、あそこやったら 申し分ないわ。
俺の処は、兄貴夫婦も お母んも居るさかいな」
「午後一時予約しとくから皆連れてきてくれる?頼むで」
日曜日になったその日 高坂は、姉の淑子、真希、康治の三人を引き連れてやって来た。
大吾は、店の入口で三人を迎えた。
真希を目にして大吾は懐かしさで瞼を熱くし 胸が一杯になった。
彼女達の身に着けている物は、質素だった。
恐らく大した荷物も持てずに戻って来たのだろう。
「神野君、お久しぶり。お元気そう。悟兄さんから、あんたの事聞いたわよ」
「お姉さんも お元気そうで。色々大変だったでしょう」
と当たり障りなく応えた。
淑子は、馴れ馴れしかった。
一方、真希と弟の康治は、淑子の後について ひっそりと遠慮がちに頭を下げた。
「真希ちゃん、久し振りや、それと康治君も。
こんなん可笑しいけど 二人とも大きくなったなぁ。
懐かしい」
と云って大吾は、二人の手を握って、ハグをした。
康治は、嬉しそうだった。
真希は、既に涙ぐんでいた。
大吾がハグをしたとき、真希の身体が震えているのが分かった。
大吾は、真希の目を見て優しく微笑み、自分の真っ白なハンカチで涙を拭いてやった。
そして彼女だけに聞こえる小さな声で
「真希ちゃん、お帰り。
又会えたね。元気を出して」
と云った。
真希は、胸が一杯になり 大吾に縋り付く様にして嗚咽した。
大吾は、背を撫でてやりながら、彼女の気持ちの静まるのを待った。
姉の淑子が、羨ましそうに見ていた。
大吾は高坂を促して、真希を彼に委ね 錦城閣の受付係に予約の氏名を告げて 席に案内してもらった。
五人は、川の見える窓側の席に朱色の円卓を囲んで座った。
窓からは、最近建ち始めた背の高い新しいビルが 沢山見えた。
見下ろすと 真希とよく行った堂島川沿いの公園、ベンチで寛ぐアベックや家族ずれの楽しそうな姿が、目に入った。
しばし大吾は、真希との事を思い出していた。
円卓に着いて淑子は、相変わらず饒舌だった。
「神野君、出世しはったみたいやね。
悟兄さんから色々聞いたわよ。
奥さん貰いはったて」
真希の心情も考えず大吾の結婚を話題にした。
真希は、姉の話しでの大吾の話題の事も有ったが、始終俯いていた。
大吾は、そんな彼女が、痛ましく胸が詰まる思いで見ていた。
五年ほどの間に 彼女は、大人びた女性になっていた。
美しいと思った。
いい女になったと思った。
そして心根は、変わっていないと思った。
変わって居ないで欲しいと思った。
大吾は、暫く真希に心を取られ口数が少なくなっていた。
高坂は昔と同じで、話が途切れると懸命に場を盛り上げようと頑張ってくれた。
「高坂から聞いてくれたと思うけど、僕の口から改めて説明させて貰いますわ。
お姉さん 良いですか?」
「はい、宜しくお願いします」
淑子は、姿勢を正し しおらしくなった。
大吾は、真希の養女の事と みやこ楽器に就職させる段取りをしている事以外全てを話した。
「お姉さん、暫くは、真希ちゃんとの御縁でこれだけさせて頂きますが、出来るだけ早く自立できるよう 頑張ってください」
「神野さん、いろいろとお世話に成ります。
有難うございます。
真希の事も宜しくお願い致します」
と云って、丁寧に頭を下げた。
どうやら、大吾が、真希の面倒を見ると思っているらしかった。
真希もそう感じているのか俯いて恥ずかしそうにしていた。
料理が運ばれて来て
「さぁ、皆 此処は、結構おいしいよ。
勘定は、皆が帰って来たお祝いやから僕の奢り。
康治君も遠慮せんと食べてや」
「有難うございます。頂きます」
と云って彼は手を合わせて箸を動かし始めた。
「お姉さんも食べてや、高坂 お前もな」
と意識してぞんざいな喋り方をした。
横に座った真希には
「さぁ、真希ちゃんも。
これからの真希ちゃんの仕事の事は、僕がゆっくりと考えてあげるから心配せんと安心して」
と小さな声で云って、料理を小皿に取り分けてやった。
真希は、慎ましく頭を下げた。
真希は大吾が、仕事の事と云って呉れた事にほっとした。
内心、大吾の愛人になりたいと云う思いがあったが、その疚しさが無くなって嬉しかった。
真希は、小さな声で俯いたまま
「大吾さん、有難う」と言葉にした。
姉の淑子が向かいの席から
「真希、あんた良えなぁ。
神野さんみたいな良え人が居って、羨ましいわ」と云った。
彼女は、大吾が、個人的に真希の面倒を見てくれると決めつけていた。
高坂は、食事をしながら 康治君の高津電気への就職の事を改めて話し、淑子が曾て働いたことのあるキャバレーの面接を受けた事を大吾に話した。
そして、身元引受人が自分になって居る事を説明し、やむ得ないと云う表情で大吾を見た。
大吾は、分かってると云うように頷きかえした。
「神野さん、真希の事は、任せて云わはったけど、住むのは、三人一緒?」
「ええ、勿論ですよ。
真希ちゃんの仕事決めるまで少し時間がかかりますけど。
でもご心配なく、僕が責任を持って進めていきますから」
真希は、大吾が皆の前で云って呉れた事に安堵し、嬉しかった。
彼の声を聴きながら 曾ての彼との事が、脳裏によみがえり 懐かしさで再び涙が溢れそうになったのをぐっと堪えた。
それから一週間後 真希たち三人は、大吾が用意した今里のロータリーを東に行き 北に折れた一角に最近できた、二階建ての文化住宅に移り住んだ。
大吾は、少し離れていたが、郁ちゃんの家が近くに有って このあたりを良く知っていた。
部屋は、外付けの鉄板階段を上がった二階であった。
玄関を開けるとすぐ台所と窮屈な浴室と手洗が有り、六畳と押入れの付いた四畳半の二間である。
大吾は、そこに最小限の生活用具と三重ねの寝具を入れてやった。
各自の衣類は、現金で用意した。
曾ての給料の三カ月分が、礼金と前家賃と購入品で消えたが、仕方がない事と諦めた。
大吾が、この事で生活に困ることは無かったが、彼にとっては真希を助ける事以外は、無駄な出費であった。
二、三か月の間、止むを得ないと思った。
「佐っちゃん、悪いなぁ。暫く僕サラリーなしや」
「何言ってんのよ、私の旦那様。
うちかて働いてんのよ。
うちはね、大吾さんの役に立てて嬉しいの。
でも大吾さんは、ほんとに優しいのね」
と云いながら、心の中で その優しさが、真希を辛くしなければ良いのにと思った。
「おおきに、ほんまに感謝してる。この通り」
大吾は手を合わせた。
大吾は、心の底から今度の事で佐智に感謝していた。
「佐っちゃん、云うまでもないけど 妬きもち妬かんでや。
僕の今してる事に疚しい事は一切ないから」
「大ちゃんの あほ。
何をいまさら。
それに妬きもちなんか妬かへんわよ」
「なんや、妬いてくれへんの。寂しいなぁ」
「その代り もし変なことしたら、只じゃ済みませんからね。これよ」
と云って彼女は、笑いながらナイフで突き刺す真似をして凄んで見せた。
「うわぁ、怖わぁ」
大吾は、身を捩って手を上げ身体を震わせて怖がった。
佐智は、いきなり
「大吾、好き、好きよ」
と云って大吾の胸に顔を付け、彼を抱きしめた。
「佐っちゃん、おおきに。
愛してる。ずっと、死ぬまで」
と云って二人は抱き合った
姉の淑子は、大吾が気にしたほどの事もなく 古巣のキャバレーに戻った。
以前彼女が働いていた頃の顔ぶれは 誰もいなかったが、事務所の古株の男性社員は、何人か残っていた。
弟の康治は、毎日大吾が用意した文化住宅から高津電気に通った。
真希だけが、大吾が仕事を見つけるまでと云う事で家事をこなした。
大吾は、一ヶ月したら淑子と康治の給料が入り 生活費は彼女達で賄えるようになっるだ
ろうと思った。
只、家賃だけは、暫らく大吾が払わなければ仕方ないと考えた。
大吾は、彼女達が文化住宅に住みだすと直ぐに 仕事を終えてから、真希の処を訪れ、彼女を近くの喫茶店に連れだした。
そこで、まだ姉に口外しない前提で 彼女に、朝倉家の養女になる話を進めている事と併せ 佐智の紹介でみやこ楽器に就職する予定を話し 三、四ヶ月辛抱するように伝えた。
そして、手続きをスタートさせる為 次の日曜日に彼女を連れて朝倉家に行くことを伝えた。
その時にパスポートと外国人登録証を用意しておくように説明した。
真希は、嬉しかった。
彼女の人生で只一人愛した大吾が、自分の事を真剣に考えて呉れて居る事の嬉しさに涙がこみ上げ、俯いて鼻を啜りあげた。
「真希ちゃん、泣かないで」
「だって、嬉しいんやもん。
大吾さんが、うちの事一生懸命してくれはるから」
「真希ちゃん、色々あったけど 又会えたやんか。
もう二人一緒になる事は出けへんけど 昔、真希ちゃんを幸せにする云うたやろ。
僕はその事、今でも変わらへん」
大吾は、今でも愛してると云いたかったが、口には出せなかった。
「さぁ、涙拭いて」
と大吾は、白いハンカチを差し出した。
朝倉夫妻の話をした時 真希は、昔を思い出しながらも驚きを隠せなかった。
「真希ちゃんと初めてデイトした日の事覚えてるやろ。近鉄の大食堂でご飯食べた時の事」
「勿論よ、大吾さんとの事 忘れるわけないでしょう」
「そうやろなぁ、其の時に前に座ってはった、年輩のご夫婦、帰りしなに僕に名刺くれはった人」
「覚えてます。上品な奥さんの事も お二人のお顔も覚えてる」
「実は、僕が働き出してから、この四年間、色々お世話になってるの。
まぁ、息子みたいに可愛がってくれてはる。
旦那さんは、政府関係の金融筋の人で 僕が融資を受ける世話をしてくれはってね。
ほんま に僕の恩人や」
「へぇー、大吾さんは、今そんな偉い人と付き合いが有るんですか」
「うん、お世話になりっぱなしやけど。
真希ちゃんの事もよう覚えてはってね、旦那さんも、奥さんも真 希ちゃんの事を あの綺麗な慎まし いお嬢さんて云うてはった」
「そんな。そやけど 嬉しい」
真希は、ようやく昔懐かしい八重歯を覗かせた笑い顔を見せた。
大吾は、そんな真希を前にして抱きしめたくなった。
それから、大吾は朝倉夫妻が 彼女を養女にする事になった経緯を話した。
「うちが、そんな偉い人の養女に?信じられへん。
まるでシンデレラ姫の話しみたい」
養女の件は、朝倉氏と話が付いているので 後は手続きだけと説明しても 真希は、信じがたい様子であった。
真希は、一つ屋根の下に朝倉夫妻と暮らす事になると聞いた時、実感が湧かず、またどうしていいのかも分からない不安が頭の中に広がった。
「真希ちゃん、人と人の事は、考えて出来る事じゃないよ。
僕は、朝倉夫妻が心の広やかな優しい心の持ち主だと信じているし、真希ちゃんも素直で正直な人やと 信じてる。
だから僕は、真希ちゃんが好きになったし、もし国に帰る事が無かったら----」
大吾は、それ以上は、口にしてはいけないと思い言葉を飲み込んだ。
「大吾さん有難う。それ以上は云わないで。
うちは、運命と思って諦めてますから」
と云って、再び俯いて涙をこらえた。
俯いたまま
「でも、でも、うち、今でも、大吾さんを----」
と云って顔を覆って泣き出した。
大吾は、ハンカチを彼女の手に握らせ 自分の手を重ねて強く握りしめた。
真希は、真っ赤に泣きはらした目を上げて
「御免なさい。大吾さん許して。でも今でも好き」
と云って大吾のハンカチで涙をぬぐった。
そして
「大吾さんが、良い奥さんと一緒に成りはって、心から喜んでます。
うちの事で、一緒に大吾さんと考えて呉れはって嬉しいです。
大吾さんを好きに成ったこと誇らしいです」
と云って、涙で濡れたハンカチを丁寧に畳んで大吾に差し出した。
大吾は、真希の最後の言葉に気持ちが少し癒された。
「真希ちゃん 僕はね、これからずっと真希ちゃんが、日本の国で幸せに生きて行けるように応援するか ら気持ちを強く持って。
真希ちゃんの後ろに いつも僕が居ると思って」
真希は、背筋を伸ばし真っ直ぐ彼を見て
「大吾さん、有難う。
うち、人生で大吾さんに巡り合って良かったと思ってます」
と云ったその眼に彼女の決意が見てとれた。
日曜日の昼過ぎ、二人は、帝塚山の朝倉家を訪れた。
真希は、立派な屋敷の佇まいを見て少し気後れがした。
大吾は、物慣れた様子で、門扉の脇のブザーを押した。
直ぐ何時ものお手伝いさんが、にこやかな顔で出てきて二人を応接に案内した。
真希は、落ち着かない気持ちで 壁に懸かった大きな赤い富士山の絵を見ていた。
大吾の手が、そっと膝に置かれたので顔を向けると 彼が頷いて
「大丈夫。落ち着いてね」
と微笑みながら言った。
真希は、背筋を伸ばし座りなおし
「はい」と答えた。
暫くして、朝倉氏と奥さんが部屋に入って来て 立ち上がっていた二人に
「いやぁー、真希さん言いはったな。
綺麗になりはって、背も大きならはった。
大吾はんから聞いとったけど、苦労しはった見たいやな。
まぁ、気楽にして座わっとくなはれ」
と相好を崩していった。
奥さんも
「ほんまに、良えお嬢さんに おなりやした。どうぞ、どうぞ」
と云って二人を促した。
大吾と真希は、立ったまま
「お世話をお掛けいたします」
と大吾が云い、
「この度は、大吾さんから お話を伺って私のような未熟者に法外なお心を頂き 何とお礼を申し上げてよいか分かりません。
厚かましく お伺いさせて頂きました事お許しください」
と折り目正しく挨拶をした。
綺麗な日本語である。
彼女は、暫く日本を離れていたが、言葉使いを忘れてはいなかった。
「なんの、なんの。さぁ、さぁ、堅苦しい事は抜きにして掛けとくなはれ」
朝倉氏は、手でソファーを指し示しながら 二人を促した。
二人ともソファーには、浅く腰を下ろし背筋を伸ばし 両手をきちっと膝に揃えて座った。
和服姿の朝倉氏夫妻は、にこやかな表情を崩さず、奥さんは、背筋を伸ばし慎ましく二人を見守って居た。
「大吾はん、あの話、真希さんにしてくれはって、どないでした」
「はい、それは彼女も唯々驚くばかりで、まだ信じられない様子でございます。夢のようだと申しており ます」
「さよか、真希はん夢やのうて、あんたさえ良ければ 云うとった儂らの養女になってもらおうと思うて まんのや。なぁお母ちゃん」
「はい、はい。真希さんみたいな 良え人が私らの養女になってくれはるんやったら、其れこそ 夢のようだす。なぁお父ちゃん」
と仲睦まじい長年連れ添った、夫婦ぶりを見せた。
「大吾はん、儂 あれから直ぐ 儂のよう知っとる弁護士に話し しましたんや。
まぁ色々難しい問題も有る見たいやけど 責任持って最短で進むようにする云うて請け負うてくれまし た。
ややこしい問題は、儂も伝頼んで外務省に渉り付ける云う事で まぁ二人三脚だんな」
「お手数をかけて申し訳ありません」
「何云うてはりまんね、儂等の養女の事やおまへんか、当然ですわ。
大吾はんの役につ事やったら厭う事やおまへんで」
真希は、その話を聞きながら
「本当に有難うございます。御親切 身に染みて嬉しゅうございます」
と はっきりした口調でお礼を言った。
しかし、これから如何したら良いのか、どうなるのか、まるで分らなかった。
朝倉氏は、彼女のこれからの不安を察して
「真希はん、何も心配する事おまへんで。
取敢えずは、籍を入れる為に 三ヶ月程は、待ってもらわなあきまへんやろ。
事が成ったら 暫らくは、儂らと此処に住んでもろうて それから先は、大吾君と相談しながら、
真希はんの好きなようにしはったら宜しおまんのや。
そうだっしゃろ、大吾はん」
「はぁ、有難うございます。何れに致しましても 決してご迷惑のかからない様に 私が、責任を待たせ て頂きますので」
「何を詰まらんことを、大吾はんと真希はんの事は、儂がよう分かってしてるこっちゃ。
儂は何にも心配しとりまへんで」
「ほんまに、お父ちゃんの言いはる通りだす。
あたしは、最初にお目に懸かった時から お二人の事気に入っとりましたんや。
其れからの大吾さんのことは、何回もうちに来てくれてはって、もう良う分かっとりますのや。
仕事の事から何でも。
それに真希さんの事で相談に来やはった時も その心根に嬉しゅうなってしもうて、なぁお父ちゃん」
「そうやで、お母ちゃんの云う通りや。
大吾はんの心根に 儂らも何ぞ手伝わなあかんと思うて決めたこっちゃ。
大吾はんが、相談に来る度んび 何時も儂は、嬉しゅうなっとりまんのや。
まぁ息子みたいなもんや。
それも出来の良え息子や」
「ほんとに、お言葉身に余る光栄です。有難うございます」
と大吾が頭を下げるのと共に真希も頭を深く下げた。
「それにしても、真希はんは、ほんまに良え縁 持ちはったなぁ。大吾はんと」
「そうだす、いろいろ伺うとりますけど、ほんまに大吾さんとは良い御縁待ちはりました。
大切にしとおくれやっしゃ。あたし等も応援させて頂きますよって」
奥さんの言葉は、二人の、いや佐智を合わせた三人の複雑な関係を頭に入れた 配慮の行き届いたものであった。
目の前の真希には、大吾の結婚、妻の佐智の事には触れなかったが、それら全てを婉曲に含ませたものであった。
大吾が、妻の佐智に全てを話して有る事は知っていたが、多分真希にも全てを伝えているに違いないと考えていた。
大吾は、その様な人間だと思っていた。
真希は、朝倉夫妻の話を聞きながら、この人たちの為にも役に立つ自分に成らなければと思った。
そして、ここまで夫妻に信頼される大吾を頼もしくも素晴らしくも思いながら、自分の人でない事に一抹の寂しさを覚えた。
その日、真希が持参した外国人登録証とパスポートを朝倉氏に見せ、書類作成、手続きの一連の作業は、大吾が進めさせてもらう事にし、弁護士の人にも会わせてもらう事にした。
大吾は、朝倉氏に出来るだけ負担のかからない様 心がける事を考えた。
彼は、多忙であったが、此の為に何度も朝倉氏の家を訪ね、又数回弁護士の事務所も訪れた。
幸い今の大吾は、自由に時間のコントロールが出来た。
真希が 晴れて朝倉家の養女となったのは、それから三ヶ月を過ぎた九月の初めだった。
朝倉氏の影響力は大きかった。
相当な時間短縮を実現させていた。
大吾が、弁護士に対する費用を負担するように申し出ると
「何云うてはりまんね、これしきの事。
大吾はん等若い人が幸せになるんやったら 如何って事おまへん。
それと真希はんが、儂等の養女、娘になるかも知れまへんやろ」
と答えたが、かなりの費用を費やした筈である。
大吾は、真希に身の回りを整える当座の費用として現金を待たせてたが、二人が一週間ほど前の日曜日に朝倉氏宅を訪れた時、朝倉氏は、真希の為に支度金を用意してくれていた。
真希は、丁寧に辞退したが
「何言うてはりまんね、養女迎かえんのに当たり前のこっちゃ。
これからは、何かに付け遠慮したらあきまへんで。分かりましたか、真希ちゃん」
と親しげに云った。
「はい、有難うございます。叔父様」
真希は、どう呼んでいいか分からなかったが、取りあえず、この様に云った。
後で大吾に相談すると 取敢えずは叔父様で良いだろう、其の内お義父さんと呼ぶ気に成ったらそう呼べばいいのではないかと応えた。
真希は身の回りの荷物を小さな旅行鞄に詰めて 大吾に付き添われて朝倉家に入った。
朝倉家では、彼女を迎える支度は全て整えていた。
彼女の為に 二階の八畳の部屋にベッドを始め取敢えずの家具を入れてあった。
お手伝いの中年の女性も真希の事はよく説明されており 彼女を最初から
「お嬢様」と呼んだ。
真希は、彼女の名前で
「絹さん」と呼ぶことにした。
やはり奥さんには
「叔母様」であった。
姉の淑子には、最初に大吾と二人で朝倉家を訪れた翌日、大吾が出向き経緯の全てと その結果 真希が、日本国籍を持つことを説明した。
淑子は
「何で、そんな大事な事 うちに相談せえへんかったん。
姉妹やし家族やろう。
大吾君も大吾君や。
勝手に人の家族の事うちに相談なしに進めて」
とふて腐れた。
大吾は、その事も淑子の性格も分かっており、事前の相談は、話をややこしくし むしろ話がぶち壊れる事を懸念していた。
是からの事、遠い将来を考えた時に 真希にとって日本国籍を持つことが、最もよいと考えていた。
そして、姉の淑子の今日の事も予期していた。
「お姉さん、真希ちゃんの仕事の事は、僕が責任持つと云ってたでしょう。
真希ちゃんを、僕の嫁さんが勤めてる楽器店に入れるのには 日本国籍でないと上手く行かのですわ。 その為に一生懸命考えて走り回ってたんですわ。
それも上手く行くかどうかわからへん。
この辺分かってくださいよ。
別に皆さんと縁が切れる訳でもないし、同じ大阪の近い所に住んでる事やし 何時でも顔合わせること が出来るやないですか」
「大吾さん、そない言いはるけど よその人の戸籍に入るんやろ。
それに住むとこも別々やんか」
「日本の国で仕事したり、結婚したりの似た話 ようあるんと違いますか。
真希ちゃんが、これから日本で生きて行く為の方便やと もっと軽う考えたらどうです。
それに、皆さん何時までも一緒に暮らすわけでもないでしょう。
お姉さんも、まだお若いし、真希ちゃんだって、お二人とも結婚する事に成ったら、何れ別れて暮らす ことになるやないですか。
康治君だって同じでしょう」
と大吾は、過去によく知っていた偽装結婚の事を思い出しながら、心にもない方便と云う言い方をした。
決してそのようなもので有って欲しくは無かった。
朝倉氏の事は、知人の老夫妻と軽く流し詳しい説明は、敢えてしなかった。
いずれにしても此の事が、淑子の影響で方便になってしまうか、本物の養女に成るかは、真希次第だと思ったが、大吾は、真希の人間性を信じ、又どんなことが有っても自分が、彼女を支えて行こうと心を決めた。
若し今後 朝倉家と真希を通じて淑子との間に問題が起こるような事があれば、自分が防波堤になって、問題を解決しなければならないと思った。
そして、真希と姉の淑子、弟の康治は、肉親の情で結ばれている事を 軽んじてはいけないと
肝に銘じた。
多分その事は、真希が朝倉家の養女として 朝倉家と深く結ばれれば結ばれるほど、彼女にとっては、
背負って往かなければならない重い荷物だと思った。
大吾は、姉の淑子に対する思いを 自分の考え過ぎで有って欲しいと願った。
「まぁ、大吾さんが、真希のため頑張ってくれはったんやから うちも言い過ぎたかもしれへん。
それに、大吾さんには、何から何まで お世話に成りっ放しやし感謝してます。おおきに」
と淑子も気分を直し納得した様であった。
傍らで、大吾とのやり取りをはらはらしながら聞いて居た真希は、ほっとした。
姉の淑子の気持ちも痛いほど分かった。
そして、自分が朝倉夫妻の許に行くことの寂しさも有ったが 大吾さんが、きっと傍に居て支えてくれるだろうと思いながら、大吾への思慕が強く湧き上がって来た。
5 朝倉家の真希
真希の朝倉家での暮しが始まった。
彼女は朝、誰よりも早く起き家事に精を出した。
「真希さん、もっとゆっくり寝てはったら宜しおすのに。
そんな事は、お手伝いの絹さんがしますよって」
と奥さんは云ったが
「暫くの間だけです。もう少ししたら、私も勤めに出かける事になりますから。
大吾さんの奥さんが、勤めている会社で面接受けさせて貰いました。
多分採用は、間違いないって聞いております」
「そうね、そうだったわ。
しかし大吾さんも 奥さんの佐智さんも よう出来たお方。
真希さんもそうやけど、大吾さんの回りの人達は、皆よう出来たお方ばっかり見たい。
真希さん、御免なさい。
こんな風に云って、あなた 辛くならない?」
真希は、義母様の言葉に はっと胸を突かれた。
そして、とりわけ明るい声で
「義母様 ちっとも。
私は大吾さんと出会えたことを嬉しく思っていますし 大吾さんが、あんなに良い 奥さんと一緒に成 らはって喜んでます。
佐智さんも良くして下さって お友達 いいえ妹の様に大事にして頂いております」
と応えた。
朝倉夫人は、真希の健気さに瞼が熱くなる思いだった。
女心として 決してそのように単純に割り切れるものではないと思った。
真希は、お手伝いの絹さんの仕事を見て居て、其れに踏み込むような事はしなかったが、義父様と義母様の身の回りの事を注意して見ながら、進んで手掛けるようにした。
「真希さん、あなた 偶には お姉さんたちと会いたいでしょう。
気にしなくてもいいから、何時でも行ってらっしゃい。
良かったら、この家へも一度お呼びしたら」
と真希への配慮を示した。
「はい、義母様 有難うございます。
其の内に お言葉に甘えて行かせて頂きます」
真希は、姉たちを呼ぶ事はしなかったが、偶に姉の休みの日などに 姉の処に出かける事が有った。
朝倉夫妻は、裏表なくよく気が付き 真摯な真希を自分たちの娘として この上なく愛するようになっていった。
二人の息子を亡くし子供が居なかった所為も有ったが、女の子を初めて恵まれた事の様に真希を愛くしんだ。
夫妻は、内心思っていた。
若し大吾が独身で 真希が、彼と結ばれることに成れば どんなに素晴らしかったかと。
しかし運命の神は、真希にそれをもたらさず 朝倉夫婦に真希を与えた。
真希は、決して不満は抱いて居なかったが、何時も心の内で大吾を想っていた。
真希は、佐智と共に みやこ楽器で働き出した。
仕事は売り場での接客だった。
日本人とは少し違う美しさを持った彼女は、来店する男性客に人気が有った。
彼女目当てに足繁くやって来る客もいた。
しかし、真希は そつなく応対しながら 彼らには、目もくれなかった。
みやこ楽器に 京都の老舗雅楽器店から修行に来ている猿渡雄介と云う男が居た。
彼は、猿渡家の長男で代々続いてきた家業を継ぐ事になっていた。
彼は、みやこ楽器で販売のスキルを身に着けるため店長付きであり 真希が、佐智の紹介で面接を受けた時、彼もそれに立ち会っていた。
一年前 猿渡が、みやこ楽器にやって来た時 彼は、美しい宣伝課の佐智に目を付けていたが、彼女が既に結婚して居る事を知って諦めた。
真希が、みやこ楽器で働き出した或る日
「神野さん、一寸お話が有るんですが、今日良かったら店終わってから付き合ってくれません」
「あら、何かしら。
今、ここでお話し出来ない事?」
「ええ、一寸。じっくり聞いて貰いたい事が有るんですわ」
「まぁ別にかまへんけど。
わたしは六時には終わるのよ」
「それじゃ、僕も店長に云って早く上がらせて貰いますから、店出て東に入っ処に御門云う喫 茶店が有りますやろ。
そこで待っててくれはりますか」
彼は、社員ではなかったので こんな我儘が許された。
「御門ね、あそこなら良く知ってるわよ。分かった」
佐智は、大吾と初めて落ち合った御門を懐かしく思い出した。
夕方で、会社を引けたサラリーマンやアベックで店は混んでいた。
席の空くのを待って居ると猿渡がやって来て、佐智の肩に手を置いた。
彼は、のっぺりと間延びした お公家さんのような顔立ちであった。
「すんません。席、未だ空きませんか?」
「レジの人に頼んでるから、空いたら云うて呉れるでしょう」
佐智は、彼があまり好きではなかった。
勿論 大吾が居り男性は、大吾以外に全く興味がなかった所為も有る。
「ああ、そうですか?
そやけど残念やなぁ。
神野さんとデイトで此処に来てるんやったら良かったのに 他の話しですわ」
「あら、そうなの?」
佐智は、つっけんどんに答えた。
席が空いて、二人は向かい合って座った。
猿渡は、まじまじと佐智の顔を見ながら
「神野さん、何時見ても綺麗やなぁ。品が有って落ち着いてはって。
神野さんみたいな人が、うちに嫁入りしてくれはったら 僕も鼻が高いんやけど 残念ですわ」
「猿渡さん、お話はそんな事や無いんでしょう。
早う本題に入ってくれはらへん」
「すんません。実は、その事なんです」
「その事って?」
「ええ、うちに 嫁入りして欲しいと思う人見つけたんです」
「へぇー、良かったじゃない。
そやけど、其れと うちと何ぞ関係が有りますの?」
佐智は、冷たく言い放った。
「そんなに冷たく云わんで下さいよ。
その人にとっても良え話やと思うんですけど」
佐智は、何様のつもりやと少し不愉快だった。
猿渡は、何代も続く自分の家を誰もが、羨んでいるだろうと思っているらしく まるで女性を物の様に喋っていた。
「その人と、うちと関係が有るんですか?」
と云いながら、ははぁーん、真希ちゃんの事やなと思った。
「実は、朝倉真希云う人 神野さんの紹介で来てはりますやろ。
あの人 家柄も良さそうやし、僕も一目見た時から気に入ったんですわ。
あの人やったら、両親も絶対反対せんと思いますし、何とか神野さんの口添えをお願いでけへんかと思 いまして」
「猿渡さん、真希さんの家柄良さそうやて、何で分かるんです?」
「ええ、調べさせてもろうたんです。
朝倉さん言いはったら、政府系の金融筋の人で要職についてはった らしいですな。
真希さんの年からして可なり年が行きはってから生まれた子供みたいやけど」
佐智は、一層不快さが募った。
「猿渡さん、そんなお話やったら、うち ようしません。
朝倉様には、主人もあたしも お世話に成ってますけど お嬢さんの縁談をお持ちする程の立場や あ らへんの。
もし、どうしてもと云うんやったら、調べはった朝倉様に直にお話し しやはったらどうですか?
うちは、仲立ちは絶対に出来ませんから」
ときっぱりと断った。
「きついなぁ。分かりました、よう分かりました。
そしたら 最後にもう一つだけ 頼み聞いてくれはりません?」
「まだ、有るんですか?」
「真希さんに 僕が、お付き合いしたいって云うてる事 伝えて欲しいんです。
あきませんか?」
「あなたねぇ、男でしょう。ほんまに好きやったら自分で云いはったらどうなん。
うちは、そんな事 嫌や。
うち、これで失礼します」
とさっさ席を立ってしまった。
猿渡は、その剣幕に驚きながらも 粘着質な眼差しで佐智の後姿を見送った。
彼は諦めて居なかった。
真希にダイレクトに会って断られたらと思い 後日朝倉家に電話をして直接訪ねる事にした。
彼は、この話に仲介者を立てる事をしなかった。
最大の仲介者に断られていたことも有った。
朝倉家を訪ねた猿渡は、自己紹介を済ますと
「みやこ楽器で、先輩の神野佐智さんにお世話になって居ります」
と切出した。
「おぅ、おぅ。佐智はんなぁ」
と朝倉氏は、相好を崩して応えた。
「実は、神野さんのご紹介で入社された真希さんの事でお伺いさせて頂きました」
「ふぅーん。真希がどないかしましたんか?」
「いいえ、全く私事でございます。
出来ましたら、真希さんとお付き合いさせて頂けますよう 如何かと存じまして」
「ふぅーん、それで?」
「お許し頂けましたら ゆくゆくは、当家の嫁としてお迎えしたいと考えております」
「猿渡はん、結構な お話しだんなぁ。
ところで この話、佐智はんは、知ってはりまんのか?」
「はい、良くご存知です」
「ふぅーん」
朝倉氏は、佐智が知って居て 何故彼女から知らせてこないのか不思議に思った。
「それで、佐智はんが儂を訪ねる様にと?」
「いいえ、それは----」
猿渡は、言葉を濁らせた。
「佐智はんは、どない言いはったんだす?」
「実は、神野さんに仲立ちをお願い致しましたが、色よいご返事が頂けず それで直接伺った次第でござ います」
朝倉氏は、ははぁーん 佐智はん突っぱねたな、こらあかんわと思った。
「猿渡はん、真希の事で もし佐智はんが断ったんなら こら難しおっせ。
それと猿渡はん、お宅程の御家柄やったらこんな話、ちゃんと手順踏んで しかるべき仲介者立てなあ かんのとちゃいまっか。
申し訳おまへんけど、この話聞かんかった事にさせてもらいますわ」
猿渡は、がっくりと肩を落とし朝倉家を辞した。
そして、佐智の朝倉氏からの信頼の厚さを思い知った。
親には、言えない話だと思った。
最初は、自分の力で上手く事を運び親の鼻を明かしてやろうと思っていた。
佐智から、この話を聞いた大吾は、内心 珍しく「ざまぁみやがれ」と思った。
大吾は、過去の人生で、佐智が猿渡家に嫁ぎ 苦労し辛い思いをしている事を知っていた。
そして佐智の初めての男が猿渡だった事を。
今回 佐智から聞いた猿渡の印象は、大吾も不愉快なものだった。
先の人生で、なぜ佐智が猿渡とその様になったのか不思議に思ったが、みやこ楽器での佐智との直接の接触でまた違った展開になったのであろうと思った。
今回の事で佐智が、猿渡の人間性と京都の旧家の事を考えて そんな世界に真希を縁付けたくないと考えて呉れた事が嬉しかった。
朝倉氏は、猿渡が来たその晩、早速大吾に電話を掛けてきた。
「大吾はん、真希の縁談の話し佐智はんから聞いてまっか?」
「はぁ、聞きました。
それで、義父さんは、どうしてそれを?」
「聞きはりましたか。
その猿渡とかいう京都の公家大根が、儂のとこへ来よりましてな、佐智はんに断ら れて直談判に来よ りましたんや。
儂は、佐智はんが、あかん云うたら あかんのや云うて追い返してやりましたわ」
と電話の向こうで豪快に笑った。
大吾は、朝倉氏の佐智に対する信頼の厚さを嬉しく思った。
そして、自分と佐智と真希の事を一つものとして考えて呉れて居る朝倉氏に
「有難うございます」
と期せずして礼を言い電話の向こうの人に頭を下げた。
真希が、朝倉家の養女となってから 大吾と佐智は、朝倉家を訪れる事が多くなっていた。
また、真希も佐智に連れられて、仕事の帰りに寄り 夕食を共にして行く事が有った。
母の加代は、真希の事を大吾から聞いて居たので 初めて佐智が彼女を伴って来た時
「真希ちゃん、お帰り」
といって優しく出迎えた。
真希は、涙ぐんで
「お母さん-----」
と絶句して加代の胸に我知らず むしゃぶりついていた。
「真希ちゃん、苦労しはったのね。辛ろおましたやろ」
と云いながら泣きじゃくる彼女の背中を撫でながら
「でも、又会えたわね。
皆で真希ちゃんの事を大切にしていきますよって 安心しておくれやす。
うちも、朝倉さんには、お世話に成ってますさかい 真希ちゃんが居はるとき朝倉さんの御宅に
一度ご挨拶によせてもらいます」
真希は、加代の言葉を聞きながら、皆に暖たかく包まれている自分を幸せだと思った。
傍らで見て居た佐智は、少し複雑な思いがしたが その光景を目にして嬉しかった。
加代も以前 良く自分に懐いてくれた真希が可愛かった。
真希は、度々この家を訪れて佐智も居たが 皆で夕飯を食べている時は、とっても居心地の良いものを感じていた。
皆が真希を囲んでくれ、自分の実家にいるような 心の安らぎを感じた。
帰る時は大吾が、最近買ったコロナを運転して朝倉家まで送ってくれた。
朝倉夫妻も 真希が、大吾の家で皆に暖かく囲まれて居る事を良く知っており、彼女の為に喜んだ。
とりわけ夫人の春代は、その事が嬉しかった。
朝倉家にすっかり慣れた真希は、大吾への想いはあったが、皆に囲まれて幸せな日々を送っていた。
彼女のそんな思いは、表情にも言葉にも良く表れていた。
当初の遠慮じみた気持ちも遠のき、実の肉親のような気持ちで朝倉夫妻に接する事が出来た。
朝倉氏が云った
「戸籍の上でのこっちゃ。
後は、真希はんの好きなようにしはったらええ」
又、大吾が、姉の淑子に云っていた
「方便」
と云う事など全く関係のない暮しを 真希自身の気持ちで送る事が出来た。
真希に一度 朝倉氏を通じて縁談の話が有ったが、真希に応じる気配はなかった。
朝倉夫人も真希の大吾への想いを知っていたので、彼女が何時迄もとは思いながら 敢えてそれを勧めようとはしなかった。
真希が、みやこ楽器に勤め出し一年が過ぎていた、二十六歳である。
美しい彼女に浮いた話もなく結婚する様子もないことを周りの人は、不思議がった。
二つ歳の離れた佐智を 真希は姉のように慕っていたし 佐智は、真希の大吾への思慕を複雑な思いで感じながらも 妹の様に彼女を愛しんだ。
人が見れば、仲の良い姉妹の様だった。
休みが一緒に取れた時は、二人で買い物に出かけ一緒にお茶を飲んだ。
6 佐智の流産
大吾と一緒に成って二年目を迎えた頃 佐智に月の物の変調が続いた。
こんな事は、屡だったが今回は、一向に訪れる気配がなかった。
佐智は、何時も通っている聖マリア病院で検査を受けた。
「神野さん、おめでとうございます。ご懐妊です」と告げられた。
佐智は、嬉しさに涙が溢れてきた。
診察した医師は
「暫く様子を見ましょう。又、二週間後来てください」と云った。
家に戻った時 玄関の式台に出迎えた加代は、佐智の表情を見て もしやと予感した。
「お母さん、お母さん。出来た、出来た、出来たわよ」
と云って 靴を脱ぐのも もどかしく加代に飛びついた。
加代は、彼女の背を労わるように叩きながら
「良かった、良かったわね。
佐智さん。おめでとう」
と瞼を熱くした。
佐智は、加代の顔を見て
「先生がね、ご懐妊ですとはっきり云わはったんよ」
と云って 瞼を潤ませている加代に再び抱きついた。
「佐智さん、兎も角 今夜は、お赤飯炊いてお祝いしまひょ。
あなたは、着替えて少し休みなはれ。
あんまりはしゃぎ過ぎたらあきまへんで。
大事な身体やさかい」
と優しい気遣いを見せた。
佐智は、自分の部屋に入り着替えを済ますと鏡台に向った。
新婚旅行の最後の日、出雲大社に詣で
「赤ん坊を授かりますように」
と祈った時の事を思い浮かべた。
「出雲の神様 有難う。きっと神様もお忙しかったんでしょうね。
でも有難うございました」
と独り言葉に出した。
大吾が帰った時、母と佐智の楽しげに話す声が聞こえた。
二人は、如何して大吾を驚かそうかと話して居た処だった。
直ぐ佐智が、出迎え
「お帰りなさい。お疲れ様」
と元気な声を掛けた。
「あれっ、如何した?
今日は休んだの?」
「ええ、一寸ね」
大吾が着替えを済ませ座った食卓はには、良く冷えたビールと いつもとは違う ご馳走が並んでいた。
そして、布巾を掛けた木桶が テーブルに座っていた。
「おっ、今日は、えらいご馳走やな」
「そうでしょう」
佐智と加代は互いに目を合わせた。
「じゃじゃーん。今日は、お祝い」
佐智は木桶の布巾を取った。
「何、何、何で?」
「大吾さん、喜んで。
やっと出雲の神様が、私達に赤ちゃんくれはったの」
「えっ、子供出来た?ほんまか?」
「ほんまも ほんま。大ほんま。
今日ね、病院行ったら先生が、赤ちゃん出来た事 はっきり言わはった」
「ええーっ、それは でかした。祝杯や」
大吾は、ビールの栓を抜いて三人のグラスに並々とビールを注いだ。
「かんぱーい、佐っちゃんの赤ん坊に、母さんの孫に」
と云ってぐうーっと飲み干した。
大吾の目じりが薄らと光って見えた。
佐智は、ああ、大吾さん喜んでくれてはると思った。
大吾は、佐智には子供が出来ないと思っていたので、彼女の為に浮かべた涙であった。
「それで、順調なの?
佐っちゃんの身体と赤ん坊?」
「うちは、大丈夫よ。
先生は、暫く様子を見るから二週間したら 又病院に来なさい云わはった」
「母さん、僕と姉さん産んだ経験者やから 佐っちゃんのこと頼みますわ」
「はい、はい、大ちゃん。
任せとくなはれ。
ちゃんと気いつけますよって」
「お母さん、宜しくお願いします」
賑やかな食卓だった。
アルコールの強い佐智は、三杯目のグラスを口に持って行った。
「佐っちゃん、今日は少しセーブして。
お腹の中が落ち着くまで気を付けてな。
大事な身体や」
と注意した。
「ほんまや、うち調子に乗ったらあかんなぁ。
分かりました」
と云って 飲みかけのグラスを置いた。
佐智は、やっと身籠った自分を気遣ってくれる大吾が嬉しかった。
「母さん、佐っちゃんは 仕事の方 辞めた方が良くない?」
「大ちゃん、まだ大丈夫だす。
後二、三か月様子見て それから決めはったら宜しいけど、
来月病院に入った時 先生とも よう相談しはったら良えと思いまっせ」
「そうやなぁ、病院の先生が付いてはるから大丈夫やろ。
気楽にするこっちゃな。
その方が大事や」
大吾は、安心させるように笑顔で さらりと言ってのけた、が内心の不安は払拭出来なかった。
佐智は、仕事を続けながら 聖マリア病院で診察を受けた。
主治医は
「うん、大丈夫。次は二週間していらっしゃい。
未だ仕事は続けて大丈夫ですよ」
と云ってくれた。
二週間毎の診察を続け、佐智の妊娠は十五週目を迎えていた。
仕事を終えて何時もどおり夕飯と風呂を済ませベッドに入った佐智は、妙な腹部の張りを感じ寝付けなかった。
夜中、激しい腹痛が襲ってきた。
傍らで寝ていた大吾が飛び起きて
「佐っちゃん、大丈夫か?」
「大吾さん、あかん。助けて、お腹が痛い」
と額をびっしょりと冷たい汗で濡らし 苦しそうな声を上げた。
佐智は、救急車で聖マリア病院に搬送された。
そして待機していた医師と看護婦達に処置室に運び込まれた。
彼女は、大量の出血と共に流産してしまった。
医師は、詳細なチェックと事後の処置を施してくれたが、
其の儘二、三日入院して様子を見るとの事だった。
大吾の懸念は的中した。
そして、過去の人生でも彼女は、流産したのではないかと思った。
勿論彼女は、知る由も無かった。
大吾は、流産の事とそれに到る何らかの疾患が 有るのではないかと疑ったが、その知識は持ち合わせて居なかった。
後は、医師の診断に委ねる他ないと思いながら 大きな不安が残った。
その夜、病室に運ばれた佐智の落胆は大きかった。
涙が止め処なく溢れた。
付き添っている大吾に
「御免なさい、あなたの赤ちゃん産めなかった。許して」
と自分を責めた。
「佐っちゃん、いいよ、赤ん坊なんか。
僕は、佐っちゃんさえ無事にいて呉れたら良えんやから。
済んでしまった事くよくよ考えないで、身体に悪いから。
僕の為にもお願い。
一度妊娠したんやから又出来るよ。
その為にも元気な身体になるんや。
又きっとチャンスが有るから」
「有難う、大吾さん」
彼女は、握られていた手を強く握り返した。
大吾は、頬を付けて彼女を優しく抱き包んだ。
大吾に手の甲を優しく撫でられながら しばらくして佐智は眠りに落ちた。
大吾は、明日主治医の都合を確かめ詳しい事を聞いてみようと思った。
翌朝 大吾は、佐智が勤めるみやこ楽器に電話をかけた。
事情を説明して 自分の判断で二週間休ませて貰う事を告げた。
大吾の事務所の方へも何かあれば 病院の方へ連絡するようにと知らせておいた。
主治医は、出勤するとすぐ病室にやって来て彼女を診察した。
昨夜の事は、既に詳細を知らされていた。
彼は、大吾に
「ご主人、真に残念な事でした。
奥様は、二、三日入院して頂けば、お帰りになる事が出来ますよ。
暫くは、ご自宅で安静にされると良いでしょう」と云った。
「先生、後で少し時間を頂けませんか?
今後の事を詳しく教えて頂きたいものですから」
「結構ですよ。
そうですねぇ、午後二時からでもいいですか」
「はい、お待ちさせて頂きます」
「分かりました、では二時に私の部屋にお越しください」
主治医は、大吾の懸念を察して自分の部屋で待つと云ってくれた。
主治医の話しは、流産の因果関係について今の処 どれと云って特定する事は難しいが、暫く様子を見ると云う事で終わった。
又 母体については、今の処 別条はなく、御心配なら出来る限りの検査をしてみると云う事だった。
ただ、彼女は、妊娠しにくい身体であり 今後、又子供が出来るかどうかは、何とも言えないと云った。
結局、大吾の疑問は何一つ払拭されなかった。
大吾は、この時代の医学では、そうかも知れないと思った。
検査薬も内視鏡、MRI、CTスキャン等の検査機器もまだ使用されていなかった。
大吾は、この時代を恨めしく思った。
大吾が部屋に戻ると、佐智が心配そうな顔で
「先生、如何云うてはった?」
「うん、安心して。
佐っちゃんの身体は、大丈夫だって。
みやこの方は、朝電話で事情を話しておいたから念のため二週間ほど休みをもらう?
先生に仕事の内容を話したら 一週間も休んでたら大丈夫云いはったけど」
「うん、帰ったら何時から仕事に戻るか考える。
うち 又子供出来るんやろうか」
「それも聞いてみた、暫く様子見る言うてはった。
退院してから検査で、ちょこちょこ来ることになるやろうなあ」
大吾は、少しでも佐智を安心させる為
「僕、事務所へ顔出してくる。夜又来るから」
とさらっと云って病院を後にし自宅に向かった。
「大ちゃん、佐智さんどないでした?」
「うん、流産、子供あかんかった。
そやけど母体は、如何も無いって。
まぁ それが一番や」
「ほんまになぁ、残念やけど、大ちゃんの云わはる通りや。
出けへんかと思うてたのが、出来たんやから 又次が有るわなぁ。
大ちゃん、気い落としなや。
精一杯佐智さん労わってあげなはれ」
と逆に励ましてくれた。
大吾は、着替えて愛用のコロナで事務所に出た。
松村君が
「社長、奥さん如何でした」
「うん、嫁さん大丈夫やったけど、子供流れた」
「それは がっかりですわ。
社長のお子さん楽しみにしてましたのに。
まぁ 奥さん お元気で何よりですね」
「うん、松ちゃん おおきに、気にかけて呉れて」
「いいえ,とんでもないです。
其れより真希さんから電話が有りました。
奥さんの事 会社で聞いて、心配して電話かけて来はりました。
社長に様子聞いてからお見舞いに行く云うてはりました」
「ああ、そうなの。おおきに。後で電話するわ」
曾て 金谷真希さんに思いを寄せていた松村君は、大吾から彼女と大吾の関係や その後の一部始終を聞いて居た。
高校の時 彼女が突然いなくなって落胆していた彼だったが、その後 大吾の仲人で郁ちゃんと所帯を構えており、来年子供が生まれるらしい。
彼は、大吾と真希の昔の関係を聞いて羨ましく思ったが、自分では歯が立たない相手だと思った。
彼が尊敬する先輩で良かったと思ったが、まぁ 昔の話しだと思って気にすることは無かった。
今は、先輩の大吾のお蔭で 可愛らしい郁ちゃんと一緒に成れて幸せだった。
真希も同級の松村君が、大吾の事務所に居る事を大吾から聞いて居た。
大吾は、みやこに電話を掛け 売り場の朝倉さんを呼んでほしいと頼んだ。
暫く待つうちに
「はい、大吾さん、わたし真希。
佐智お姉さん どうですか?
店長から流産しはった事は聞きました。
お子さんは残念でしたけど うち お姉さんの事が心配で大吾さんの事務所に電話したんです」
「ああ、有難う。松村君から聞いた。
佐智は、大丈夫だから。
かなりショックうけているようだけどね」
「そうですか、分かります。
何時も赤ちゃんが欲しい、中々出けへん云ってはりましたから。
うち病院にお見舞いに行こうと思って電話かけたんです。
様子分からへんので 大吾さんに聞いてからと思いました」
「有難う、佐智の事 気遣ってくれて。
後二、三日したら家に戻るから それから顔 出して呉れたらいいよ。
店長には 二週間お休み頂くように頼んであるから」
「えっ、そんなに?かなり具合が悪いんですか?」
真希は、過去に忌まわしい経験をしており その時の経験から直ぐに元気になって仕事に復帰できるものと思っていた。
「いいや、ドクターは、一週間ほどで云うとったんやけど 僕が後々の事を考えて勝手に二週間にしたん や」
「ああ、吃驚したぁ。
それじゃ、今度の水曜日 仕事休みやから ゆっくり家の方へお伺いします。
お姉さんにも 伝えてくれはります?」
「有難う、言っとくよ。それじゃね」
夜、病院に戻った大吾は
「どうやな、少しは落ち着いた。
身体の具合可笑しくない?」
「ううーん、体調は大丈夫みたい。
そやけど悲しい」
「何言うてんのや、一回流産した位で。
世間には、ようある話やろ。
佐っちゃんも女やから それぐらい知ってるやろう」
「そやかて うち---」
「分かってる、もうそれは云うなよ。
子供の事はええから 早う僕の為に元気になって。
そうそう、真希ちゃんが、心配して電話かけてきたよ。
病院に見舞いに来る云うたんやけど、二、三日で帰れるから云うて、今度の水曜日にしてもらった。
あの子 仕事休みの日やし 家でゆっくり女同士話したらええやろ。
みやこの店長にも暫くお休み頂く云うといた」
「大吾さん、いろいろありがとう」
「今夜は、佐っちゃん寂しいやろうから 僕ずっと傍に居るよ。
それと家に寄った時 おふくろが、着替えやなんか用意してくれたから持ってきた。これ」
と云って 大きなボストンバッグをベッドの下に入れた。
「お母さん、あんなに喜んでくれはったのに申し訳ない。許してね大吾さん」
「もーぅ、それを云うたらあかん。
佐っちゃん、晩ごはん済んでるやろ。
アイスクリームと苺買ってきたから 一緒に食べようか、ミルクも有るよ。
苺ミルク旨いで。佐っちゃんの好きなやつや」
佐智は、弱々しく笑って頷いた。
「一寸待ててや、苺洗ってくる」
大吾は、母親が用意してくれた食器と苺をもって湯沸場に行った。
その後ろ姿を見ながら
「ああ、お母さんも 大吾さんもよう気が付きはる」
と思いながら また悲しさが込み上げてきた。
二人で苺ミルクを突きながら
「佐っちゃん、トランジスタラジオと序に 女性自身 買うて来たで。
直ぐ帰れるけど ちょっとは、退屈するやろう」
「大吾さん、何で そんなによく気が付くの?」
「僕もな---」
入院した時と云いかけて言葉を飲み込んだ。
過去の人生の話しである。
「僕もどないしはったん?」
「いや、僕も一遍くらい入院してゆっくりしてみたいと考えた事あんのや。
その時あれもこれも ラジオで好きな音楽聞いて本読んで,ギター弾いてなんて考えとったんや」
「大吾さんらしい、入院の段取りまで考えてはんの」
と初めて可笑しそうに笑った。
大吾は嬉しくなって
「佐っちゃん、キスしよう」
「うちもしたい」
と云って 佐智は唇を突き出した。
幸い個室だった。
苺ミルクの良い香りがした。
「佐っちゃん、美味しい。
佐っちゃんのキス 苺ミルクの味や」
と云って 大吾は、舌の先で ぺろりと佐智の鼻の頭を舐めた。
「うわぁー、いやや、くすぐったい。やめてよぅ」
佐智は、首をすくめて声を立てて笑い
「大ちゃんの あほ」と云った。
大吾は、そのまま佐智を抱きしめた。
大吾の目に涙が滲んでいた。
大吾は「おしっこ」と云って気付かれぬ様に部屋を出た。
大吾は、先の人生で三十五歳までは、佐智と年賀状のやり取りをしていたが、勤めの関係で東京に赴任した時から佐智との音信は、途絶えていた。
それから先彼女が如何なったか知らなかった。
大吾は、トイレの鏡を見ながら もしかしたらと?と云う想いに駆られた。
大吾は顔を洗って病室に戻った。
その夜は、遅くまで二人で昔の話をし、再会したときの思い出を語り合った。
大吾は、詰所でパイプ椅子と毛布を借りて佐智のベッドの横に並べて眠った。
佐智は眠ってからも 握った大吾の手を離さなかった。
大吾は毎日、事務所に出る前と夕方、病室に顔を出した。
検温に来た看護婦が
「神野さんの旦那さん 優しい方ね。
羨ましい。私もあんな方と結婚したい」
「有難う、あなたも早く良い人見つけて幸せになって。
私みたいに」と答えた。
退院の日は、大吾がコロナで迎えに来た。
そして、二人で主治医に今後の注意と指示を受けて帰った。
帰ってからは、母の加代が何かと行き届いたケアをした。
佐智が、病院から戻って二日目の午後 真希がやって来た。
佐智は、開け放った縁側で籐椅子にもたれ寛いでいた。
夏の日差しは強かったが、縁側は日陰になり涼しい風が吹きわたっていた。
「おじゃましまーす。真希でーす」
と玄関の方から彼女の声が聞こえた。
母の加代が出迎えた。
「まぁ、まぁ。真希ちゃん、よう来てくれはりました。
佐智さん居りますよって上がっておくれやす」
後ろから佐智が
「真希ちゃん、ごめんね、心配させて。こっちへ来て」
と先ほどまで座っていた縁側に真希を案内して、自分の向かいの籐椅子に彼女を掛けさせた。
「真希ちゃん、お昼は?」
「お母さん有難うございます。済ませて来ましたので」
と云いながら
「これ叔父様からのお見舞いです。
叔父様も叔母様も心配されて、佐智さんの様子見て来るように言われました」
「それは、それは、ご丁寧に。
赤ちゃんは残念だしたけど 佐智さんは、だいぶ落ち着かはりました。
来週から仕事に出る言うてはりますの。
大ちゃんは、あかん云うてはりますけど」
「真希ちゃん、そうなんよ。
うち もう大丈夫云うてんのに大吾さんが、もっとゆっくりせえ云いはんの」
「お姉さん、大吾さんの云う通りよ。
今日、佐智さん処行く云うたら店長が、仕事の事心配せんと 二週間充分休養するように伝えてくれ云 いはりました」
「嬉しいわ、皆さんが気にかけてくれはって。
でも、もう大丈夫よ。後は、うちの気持ちの問題」
加代が、冷たいカルピスのグラスをテーブルに置きながら
「真希ちゃん、うち これから買い物に出かけますよって ゆっくりして行っておくれやす。
朝倉様には、ようお礼云うておくれやっしゃ。ほな」
と云って出かけて行った。
「お姉さん、赤ちゃん残念やったわね。
あんなに欲しい欲しい云うてはったのに。
そやけど気を落としたらあかんよ。
これから 幾らでも機会が有るんやから。
流産したり、子供堕したりしても また産むこと出来るんやから。
大吾さんも多分赤ん坊の事より お姉さんの事の方を心配してはると思う。
実はね---こんな話するかなぁ」
「なぁに、こんな話って?」
「うん、誰にも云った事無いけど。
お姉さんに軽蔑されるかもしれへん-----」
と云って言葉をとぎらせた
「なによう、云いだしたんやから。
最後まで聞かせてよう」
「分かりました、話します」
と云って、前に置かれたカルピスを一口飲んで椅子に座りなおして話出した。
「実は、うちも韓国で一回流産したの。
そして二回目は堕ろしたの」
佐智は目を瞠っていた。
それから真希は、韓国での辛い出来事と経験を話しだした。
真希は、韓国に帰って二十歳になった時 淑子の夫に無理やりに犯された。
日曜日で姉の淑子が、用事が有ってすぐ戻るからと外出した。
淑子の夫は、休みの日で家に居た。
真希は、自分の部屋で微睡でおり ドアが開いたのを知らなかった。
胸に圧迫感を感じて目を開けると、淑子の夫がのしかかっていた。
真希は、抗ったが強い男の力には勝てず為す術もなく涙を流し ひたすら ことの終わるのを待った。
真希は、ただ一度の事で身籠ったが、幸いと云うべきか流産した。
淑子の夫は、秘かに自分の知り合いの医者に彼女を連れて行き 事後の処置をさせた。
其れから同じ事が、もう一度繰り返され再び彼女は身籠った。
淑子の夫は、前回の医者に秘かに金を出して子供を堕ろさせた。
その癖 彼は、淑子に子供を身籠らせる事が出来無かった。
真希は、子供ができやすい体質なのかもしれない。
真希は、悔し涙を溢しながら
「お姉さん、こんな嫌な話聞かせて御免なさい。
でもね流産しても赤ん坊は、又できるんだから。
此の事を云いたかったの」
佐智は、自分の事を想って辛くて忌まわしい話をしてくれた彼女に涙が出た。
「真希ちゃん、辛い経験ね。
でも有難う、私に話して呉れて」
「ほんとに嫌、辛かった。
うち その時大吾さんを恨んだ」
「えっ。どうして?」
「だって大吾さん、うちが韓国に帰る時も 決してうちの身体に手を付けはれへんかった。
うちの初めての男が、あのいやらしい奴。
大吾さんは、多分うちの将来を考えてくれたんやと思うけど、悔しい。
その事が有ってから うち 男の人が気持ち悪くて嫌いになった」
と云って、目じりを指先で拭った。
「真希ちゃん、大吾さんは勿論そんなこと知らないわね」
「だって、そんな事云えないでしょう、恥ずかしくって。
でも御免なさい、大吾さんの事まで引っ張り出して」
「いいの、あなたの気持ち女だからよく分かるわ。
でも御免なさい、私の為に辛い話をさせて。
それに今も辛い思いしてる事 うち分かってるの。
本当に御免なさいね」
「お姉さん、全然そんな事無いです。
うちは、日本に戻ってきて大吾さんに助けられ お姉さんにも優しくして頂いて 感謝は勿論の事、
その事が嬉しくて とっても幸せなんです。
朝倉の叔父様も叔母様も自分の子供の様に大切にして頂いております。
お母ちゃんが亡くなって、お父ちゃんも居なくて 今では、自分の両親だと思っています。
だから うちが、今辛い思いをしているなんて決して思わないでください。
其れだけで充分です」
ときっぱりと言い切った。
佐智は真希が、唯一人愛した大吾に 貞節を守っているのではないかと云う気がした。
佐智は、流産した後 直ぐに身籠った話を聞いて少し気持ちが楽になった。
「お姉さん、今の話し大吾さんには、絶対に言わないでね。約束して下さる?」
「ええ、よく分かってます」
加代が帰って来て夕飯を一緒にと勧めたが、真希は大吾が戻って来る前に引き上げた。
佐智は、彼女の過去の事を知っている自分の前で 大吾と顔を合わせてる姿を 見られたくなかったのだろうと思った。
佐智は、大吾と話し月曜日から仕事に出る事にした。
お盆休みが近づいており二週間も休んでおれば 殆ど休んでばかりになると思った。
むしろ早く仕事に復帰して自分を取り戻したいと考えていた。
佐智が、仕事に復帰して半年が過ぎた。
その間 病院での検診を受けていたが、妊娠の事は芳しくなかった。
佐智は、大吾には定期検診と云う事で 詳しい事は云わず出来るだけ明るく普段と変わりなく接した。
年が明け三度目の診察をしてもらったが、医師の診断は同じだった。
翌月の検診の時
「神野さん、やはり妊娠する事は無理かもしれません」
と云って 色んな検査結果と観察上の所見を説明された。
家に戻ると玄関の式台に母の加代が、心配そうな顔で出迎えた。
加代には、それとなく知らせてあった。
佐智は、母の顔を見ると
「お母さん」
と云って加代の肩に顔を付けて泣き出した。
「うちあかん。先生に子供無理や云われました」
「佐智さん、そんなに気い落としたらあかんよ。
先生が、あかん云わはっても 何年もして出来る事も有るし 神さんの授かりものやから。
こないだ大ちゃんが云うてはった。
佐っちゃんに子供でけへんかっても別にかまへんて。
佐っちゃんが大事やて」
佐智は、それを耳にしながら不思議な思いに駆られた。
何故大吾が、母にその様な事を云ったのか、最初身籠った時も確かに喜んでいてくれたが、
必要以上に自分の身体を気遣ってくれた。
それと大吾から二人の間の子供の事が話題に出た事が 無かったことに思い当った。
何故だろうと不思議な疑問が頭の隅に残った。
佐智は、夜仕事から帰った大吾に 悲壮な思いで病院での検査の結果を話した。
「大吾さん、お医者さんは、子供は無理やろう云いはった」
「あそう、別にかまへんやん、子供居らんでも。それで ほかの体の異常は?」
「それは、何とも無いって」
「それなら安心、其れで充分やない」
「そやかて うち辛い。
ほんとは、大吾さんも子供欲しいと思うてはるやろうし お母さんかて孫の顔見たいと思うてはると思 うけど」
「いいよ、佐っちゃん。そんなに落胆しなくても。
僕は、佐っちゃんと一緒に成ったんやから、佐っちゃんが、一緒に居てくれるだけで充分。
もし何かのはずみで子供が出来たら それは神様からのプレゼントや」
とさらりと言ってのけた。
「御免なさい」
「なんで?お願いやから そんな事気にせんと元気な佐っちゃんの顔を見せてよ」
佐智が、俯いて涙ぐんでいると
「佐っちゃん、赤ん坊が欲しい?」
「えっ?」
「僕が赤ん坊になる」
と云うと 大吾は、佐智の膝に頭を乗せて 彼女の顔を引き寄せ唇を突出し
「ママ、キス、キス頂戴」
と甘えた言葉で佐智の胸を弄った。
佐智は瞼を熱くさせながら 彼の頭に頬を付け 胸に抱き身体を揺らせた。
大吾は、何時もそうされるのが好きだった。
佐智もその事で癒される思いがした。
大吾は、そうされる事で この世で自分だけが知っている孤独感が癒された。
佐智は、仕事に戻り その中で身籠る事が難しいと云われたことを忘れようとした。
そして次第に本来の自分を取り戻して行った。
しかし、子供が生まれないと云う事は、絶えず頭の隅にこびり付いていた。
それは、次第に大吾さんに子供を 自分に出来なけければ誰かに産んでもらってでも
と云う思いとなった。
佐智は暫く経ってから、病院に足を運んだ。
そこで人工授精の事を尋ねた。医師は
「十五年ほど前から日本でも可能になりましたよ。
最初は、東京の慶応大学病院で成功しましてね。
今では、大阪のいくつかの病院で出来るようになりました。
人工授精には、配偶者間のものと非配偶者間の物が有ります。
あなたの場合は、あなたの卵子を正常な状態で取り出すのが難しいようですから 非配偶者間のケース となるでしょう。
しかし あなたが、お望みなっている事とは、意味合いが異なってきます。
配偶者間のケースであれば問題ないのですが、別の女性が産んだ子供は、あなたのものにはならないの です。
飽くまで子供を産んだ女性のものです。
若しご主人の精子を第三者の女性に託したとしても
産まれた子供の事での法律的な問題、裁判で解決しなければならない問題に発展する事があります。
それでもとおっしゃるのであれば、うちの病院では人工受精は、扱いませんが、
ご紹介する事は出来ます。
そして、あなた方の方で第三者の女性をお探しにならなければなりません。
これは、通常と異なった方法です」
と教えてくれた。
佐智は、自宅に帰ってから じっくりと考えて見た。
人工受精でなく 大吾さんが誰かに子供を産ませ、その子を引き取る事を考えた。
頭の隅に真希の顔が浮かんだ。
そして「あほな」
と自虐的に顔をしかめて苦笑を漏らした。
「幾等なんでも朝倉さんにそんな見っともない。
非常識な話出来るわけない」
と思いながら、又出来たとしても
「自分が、耐えられるだろうか?
真希ちゃんを 子供を産む道具にするような酷い話ではないか。
彼女の心はどうなるの」と思った。
とても大吾さんには言えない とんでもない話だと思った。
そして、有る決心をした。
自分が身を引けば全てが解決し、大吾さんも真希ちゃんも幸せになれると思った。
ゴールデンウィークが始まる四月の終わりだった。
佐智は、真希の公休日 会社が引けてから真希を喫茶店に誘った。
「真希ちゃん、うちからこんな事云うの心苦しいけど、あなたも そろそろ結婚考えはらんとあかんのと ちゃうやろうか」
「お姉さん、何でまた急に?」
「そうやなぁ、うちが云うたらあかん事かも知れへんなぁ。
ほんまは、うちが居らへんかったら 真希ちゃん大吾さんと一緒に成れたのになぁ」
と云いながら 真希が結婚しないのは、大吾への思慕と愛する人への貞節に有ると確信していた。
「お姉さん、しょうも無い事云わんでください。
何時か云うたけど お姉さんみたいな良え人が、大吾さんの御嫁さんになってくれはって
うち 心の底から喜んでるんです。嘘や無いです」
「真希ちゃん、堪忍してね。真希ちゃんに辛い思いをさせて」
「そんなん。その事は、ずっと前にお話した筈です。
そうやけど、何でまた急に そんな事云わはるんですか?」
真希は、先程と同じことを繰り返した。
「何でて。
実は、うち この間病院で診てもらったの。
中々赤ちゃんが出けへんから。
そしたら、子供産むの無理やて先生云わはったん。
うち大吾さんの役に立たたへん女やと思い出したん。
真希ちゃん、子供堕ろした事有る云うてはったやろ。
御免ね、又嫌な話して」
「ううーん。とっくの昔の済んだ事です」
「それで、今頃 真希ちゃんが大吾さんと一緒に成ってはったら
きっと良え赤ちゃん出来てるのにと思うたん」
真希は、突然姿勢を正して
「お姉さん!大吾さんと別れる積り?
そんな事は、絶対あきませんで。
うち許さへん。
お姉さんが、大吾さんと別れたら
うちが、大吾さんと一緒に成るとでも思うてるんですか。
とんでもない。
そんな事しはったら うち 一人で韓国に帰ります。
うちは、どうせ一度汚れてしまった女です。
韓国で妓生でも何でもして独りで生きて行きます」
佐智は、何時にない真希の剣幕に驚いた。
「いいや、真希ちゃんそうやないの。
子供が出来る真希ちゃんの身体が羨ましくなったの」
佐智は、話しながら、最初の決心を真希に突っぱねられ 歯切れが悪くなった自分が嫌になった。
そして、もし真希が、大吾さんの子供さえ産んで呉れるのであれば と云う不遜な思いが、
頭をもたげた。
自分は、最初から その下心が有って真希ちゃんに会ったように思われた。
真希は、表情を和ませ
「お姉さん、うち大吾さんの子供産むだけやったら産んでもかまへんよ。
義父さんと養母さんに相談せなあかんけど。
お姉さんも知ってはるかも知らんけど、人工受精ってあるでしょう。
それやったら、お姉さんも悩まんでええのと違うかしら」
真希は、本当は人工受精でなく一度は、大吾と身体を共にしたいと思ったが、
許されない事だと思っていた。
そして、方法はともあれ 自分と大吾の子供が出来る事に喜びを見い出した。
真希の表情は、その事を口にしながら明るかった。
佐智は、彼女の顔を眩しそうに見ながら羨ましくなった。
彼女は、こんなに逞しい女だったんだ。
今まで見た事の無い真希だった。
自分が、とても口に出来なかった事を 彼女は堂々と明るく口にした。
一方で嫌な下心を 彼女に云わせることになった自分を疎ましく思った。
「真希ちゃん、私って嫌な女ね。
ああ、如何したらええのやろう。
うち真希ちゃんに何にもしてやられへんのに とんでもない事を真希ちゃんに云わせてしもうた」
「お姉さん、良いの。
お姉さんが、うちの事分かってくれてはるから、
ここまで来たら はっきり言わせて貰います。
うち大吾さんを愛してます。
そやから、人工授精して大吾さんの赤ちゃん産ませてください。
お姉さん達の為やけど うちの為なんです。
大吾さんへの うちの気持ち分かってくれてはるんやったら そうして下さい」
真希は、きっぱりと言い切った。
佐智は、聞きながら健気な真希の想いに涙が溢れてきた。
「嫌やぁ、お姉ちゃん。
うち喜んでるのに悔し涙?」
と真希は、半ば茶化すように言って 自分のハンカチを差し出した。
「有難う、真希ちゃん。
わたし悪い嫌な女ね。許してね。
今云ってくれた真希ちゃんの言葉 そっくり大吾さんに伝えさせてもらうわ。
多分、私がそんな話をあなたとした事で 大吾さんに叱られると思うけど」
「お姉さん、大吾さんに話すの もう少し待って下さらない。
私が義父さんと義母さんに話してからの方が良いと思うの。
若し大吾さんに話しても 簡単にオーケーしはらへんと思うわ。
いや、めっちゃ怒りはると思う。
義父さんと義母さんに対する面目も有るやろうし。
そうやから、うちの口から先に大吾さんの知らん話で 佐智さんが、赤ちゃん出けへん云うて悩んで はったんで うちから切り出したことや云うて 両親に話します」
真希は、是だけの事を一気に話した。
佐智は、彼女の考えの深さと鋭さに感じ入った。
大吾の立場と佐智への配慮を一瞬に慮った事に、やっぱり大吾さんの好きになる女は、さすがだと感服した。
真希は、養父母とその事を話しあった。
「なんやて、また大吾はんが、とんでもない事考えはったんか?」
「お義父さん、そうやないんです」
と云って 佐智との話の経緯を誤解のないように説明した。
「お話を聞かせてもろうて、真希さんの気持ちよう分かりました。
そやけど あなたって 豪い人やなぁ。
自分の結婚考えんと好きな人に一生尽くしはる。
とてもとても 私には出けしませんわ。
真希さんが、納得してはるんやったら 私は何にも云いません。
女の幸せは色々やから」
としみじみと言葉にした。
義父の連太郎は、艶の良い頭をつるりと撫でながら、天井を仰いで
「ううーん、そうか。この年になって女が分からんようになったわ。
お母ちゃんが、納得してるんやったら男の儂は、何にも云う事ないなぁ」
と詠嘆した。そして
「大吾はんは、羨ましいお人や。
真希と佐智はんの二人に慕われて。
昔やったら、本妻と妾、二号さんで済んで、簡単な話やったかもしれんのに
今はそうも行かへん。
男にとっては、やり難うなったもんや。
今やったら愛人か」
「お父ちゃん、あんた羨ましがってはりますのか。
ひょっとして何処ぞに お妾さんでも囲うてはったんやおまへんか?」
「いや、いや、とんでもない。儂は決してそんな事したこと有らへんがな。
ずっとお母ちゃんだけを愛して来たんやがな」
と慌てて手を振りながら応えた。
彼女は知っていた。
十二、三年ほど前に仕事の関係で彼と、二年程 東京と大阪に別れて暮らしたことが有った。
彼は、今で云う愛人を囲っていたことを知っていたが、その事に触れたことは無かった。
それを思いだし、少しちくりと刺して心の中で舌を出していた。
「お父ちゃん、お父ちゃんは女の気持ち、いいえ真希さんの気持ちは よう分かってはらしまへんのやろ うなぁ。
それと大吾さんの想い。
あたしは、お二人、いいえ、佐智さんも入れて三人の健気さに涙が出そうなくらい打たれとりますの や。
真希さんが納得してはるんやから、思う通りにさせてあげるのが 一番やと思います。
そうしてあげたら、これから先も きっと大吾さんも佐智さんも真希ちゃんを大切にしはって、三人と も幸せにならはると思いまっせ」
「お義母さん、おおきに。有難うございます」
真希は、涙を溜めて、義母に頭を下げた。
佐智は、真希から義父母への話が、無事に済んだことを聞いて、大吾にその事を話した。
大吾は、今までに見せた事の無い強い怒気をにじませて
「佐っちゃん、ええ加減にしいや。
その話は、終わりや云うっとったやろ。
一寸は、真希ちゃんの気持ち考えたったらどうや。
そんな話ようするわ。
自分に子供でけへんから真希ちゃんの腹貸せ。あほか」
とこんな調子であった。
佐智は、目に涙を一杯溜めて
「大吾さん、これは、大吾さんを想うてはる真希ちゃんの気持ちでもあるのよ。
真希ちゃんは、今でも大吾さんを愛してはる。
そやから未だに結婚もしはらへん。
うち分かってるから、大吾さんと離婚してもええと思うてたんよ。
あんた、女の気持ちよう分かってはらへん。
子供の出けへんうちが、どんだけ辛いか。
うち あんたを愛してるから辛いんやないの。
一緒に住む住まんの問題やあらへん」
佐智も何時になく語気激しく反論した。
大吾は、佐智と真希の二人の話しの経緯を聞いて次第に怒りが収まって来た。
「大吾さん、うち真希ちゃんと話してて、真希ちゃんが云うてくれはった、自分の幸せの為やと聞いて納 得出来た気がしたけど、未だに自分が、めっちゃ悪い女や云う気が消えへん。
うち如何したらええの」
と声を上げて泣き出した。
「佐っちゃん、ごめんな。僕も言い過ぎた。
明日の晩、朝倉さん処一緒に行こうか。
叔父さんと叔母さんにも入って貰うて話しするのが一番ええと思う」
と云ってるところに 当の朝倉氏から電話が架って来た。
「大吾はん、夜分で悪いけど 大事な事やよって あんたに云うとかなあかんと思いましたんや」
と真希と話した顛末を説明した。
「はぁ、私たちの事で、御心労を煩わせ申し訳ありません」
「いいや、あんたらだけやない。
娘の為でもあるんや」
朝倉氏は、真希の事を娘と云った。
「実はその事で、今も佐智と揉めとりまして 明日の晩お伺いさせて頂こうと思ってたところでした」
「多分、あんたが怒るかも知れんと思うたけど、まぁ、待ってますよって来とくなはれ」
と云う事で、一先ずは、明日の晩に朝倉家を訪ねる事にした。
大吾は内心、一昔前だったら真希を二号さんに据えて それなりに仲良く暮らせたかもしれないと、
自分勝手な思いが頭を過ぎった。
佐智は、夜ベッドに入ってからも子供が出来ない自分を責め、真希を不憫に思い中々寝付けなかった。
翌晩 朝倉家での話は、真希の云う通りになった。
真希の顔は明るく嬉しそうだった。
大吾も佐智も、心の中で真希に感謝した。
朝倉夫妻には
「本当に この度の事は、朝倉様のご体面を蔑ろにする恥ずかしい事だと思います。
私と佐智、それに私に縁のあります真希さんの為に ご英断を頂きましたこと感謝のしようもございま せん」
大吾と佐智は、そろって深々と頭を下げた。
佐智は、穴が有ったら入りたいような不甲斐なさと 恥ずかしさを感じた。
「大吾はん、儂らの体面なんぞ そんなもん何ともあらしまへん。
まだ娘の真希に子供が生まれたわけやないけど 出来たら仰山産んでもろうて
その内の男の子に朝倉の家 継いでもろうたら宜しいがな。
朝倉の家に大吾はんの血が入るのや。
こんな上手い話 おまへんで。なぁお母ぁちゃん」
「ほんに、お父ちゃんの云わはるとおりだっせ。
子供の居らんかった私らに 大吾さんは、娘の真希さんを授けてくれはって、
次は、孫を授けてくれはる。
ああ、早うお顔みたいもんや。
真希さんが産んで お母さんの佐智さんが、育ててくれはる 心の優しい人ばっかりの御縁や、
きっと観音様のご加護が有ると思いまっせ」
佐智は、この様に喜んで話を進める朝倉夫妻に 頭の下がる思いだった。
反面子供の出来ない自分が恨めしく 真希の明るい顔を見て羨望を禁じ得なかった。
「佐智さん、子供出けんかて あなたの優しい心根が、こんなに皆を一つにして良え御縁を広げてくれて ますのや。
ほんまに佐智さんは、観音様の生まれ変わりみたいなお方だすなぁ。
私は、佐智さんに会えたことは、観音様のお導きやと思うてます」
と朝倉夫人は、心の深い所で佐智への労わりを見せた。
「叔母様 有難うございます」
佐智は、俯いて肩を震わせた。
大吾も俯いていた。
朝倉氏も目を瞬かせた。
「お姉さん、うち お姉さんの役に立つように頑張ります。
うちの幸せも見つけてくれはって嬉しいです。
お礼を言います」
と真希は頭を下げた。
7 真希の出産
身籠りやすい体質の真希は、大吾の子種を忽ち受け止め、話の有った一年後、双子の男の赤ん坊を産み落とした。
先に生まれ出た方を真太郎と名付け 次男を、一と名付けた。
二人の子供は、一卵性双生児で全くそっくりであった。
長男の真太郎は朝倉家の跡取りで 次男一は、神野家に引き取られ神野一となる。
真希が、二人の男の子を産み落とした時の朝倉連太郎の喜びようは、尋常でなかった。
自分の跡取りが出来た事で狂喜した。
「真希、儂の娘真希が、儂の跡継ぎを産んで呉れたんや。
でかした、でかした」
と真希と赤ん坊を抱き締め顔中を涙で濡らした。
老妻の春代は、真希が娘になって呉れた事を 改めて観音様に手を併せ感謝した。
佐智は、暇が有れば朝倉家へ出向き 真希と二人の子供を愛しみ見守った
母の加代は、佐智の居ない処で
「真希ちゃんが、大ちゃんの子供産んで呉れはったんや。
真希ちゃん おおきに」
と手を合わせていた。
大吾は、複雑な気持ちだった。
妻の佐智の為に単純に喜べなかった。
「佐っちゃん、子供が出来て嬉しいけど 佐っちゃんが、何時までも一緒に居て呉れる事が僕にとって一 番幸せな事や、愛してる。
僕は、佐っちゃんが知らない遠い昔から ずっと愛してた。
僕が今生きているのは、佐っちゃんを愛する為なんや」
と不思議な事を云った。
佐智が、大吾の目を見た時 あの時折見せる霞の懸かったような瞳に出会った。
そして涙が溢れていた。
「大吾さん、有難う。わたし生まれてきてよかった。
生きていてよかった」
と云って大吾の胸に縋り付いて声を上げて泣いた。
泣き咽びながら 抱き包まれた身体が、大吾に吸い込まれるような不思議な心地良さと安堵感を覚えた。
そして、子供が出来ない事に辛い思いをしたのは、一体何んだったんだろうと思った。
結果的には、自分が居た事で真希ちゃんが、多少幸せになり、朝倉夫妻が喜ぶ事になった。
だから良かったのかも知れない。
そして真希ちゃんが産んだ子供は、大吾さんの子供に違いない。
自分は、これから引き取る事になる一を立派に育てて 大吾さんの深い愛に応えなければならないと思いながら、大吾が云った
「佐っちゃんが、知らない遠い昔から----。僕が生きているのは-----」
と云う言葉と その時見せた霞がかかったような瞳が、甦って来た。
真希は、幸せだった。
人工受精であっても 愛する大吾の子供を産んだことで夢のような心地がした。
身籠り、日増しに成長していく胎児を感じだしてからは、大吾そのもののように思えた。
胎児の心音が二つ聞こえ 双子であると告げられた時は、もっと嬉しかった。
一人は自分の手元で育てられ、自分の物になると云う喜びだった。
大吾も佐智も月に一度は、朝倉家に顔を出して真希を気遣い、お腹の子供たちの成長を見守ってくれた。
今度の妊娠は、過去の忌まわしいものではなく晴々しいものだった。
妊娠して、初めて聖マリア病院に行った時、義母様が付き添ってくれた。
医師に、初めてですかと聞かれたとき どう答えようかと逡巡したが、専門家が見れば分る事だと思い「六年前に一度、今度は、二度目です」と正直に答えた。
義母様は、その事に何の表情も見せなかった。
過去にその様な事が有っても当然だろうと思っているようだったが
真希は「済みません」と彼女に小さな声で云った。
「ううーん」春代は、小さく首を横に動かしただけであった。
春代には、韓国で起きた事は、何も話して居なかった。
とても言える事ではなかった。
産み月が近づいて来ると 出産の時は、大吾に付いて居て欲しいと思ったが、それは叶えられる事でも
願うべきことでもなかった。
不思議な事に出産に対する不安は全くなかった。
何事もなく産まれると信じていた。
出産して、くしゃくしゃの二人の赤子を抱いた時、どっと涙が溢れ出た。
そして、大吾の顔が瞼に浮かんだ。
二人とも男の子ですよと云われたが、男でも女でもどちらでも良かった。
大吾の子供に違いなかった。
ずっと付き添ってくれたのは、義父と義母だった。
義父は、男の子二人と聞いて顔をくしゃくしゃにして喜こび、亡くした二人の息子を神さんが、返してくれたと云った。
義母は
「良く頑張ったわね」
と云って優しく労ってくれた。
佐智は、少し遅れて、産室の外で待っていたが
「真希ちゃん、有難う。身体の方は大丈夫」
と労わってくれた。
その日 大吾さんは来なかった。
きっと佐智さんを気遣っての事だろうと思った
大吾が来たのは、翌日の夜、仕事を終えてからだった。
病室の真希の顔を見ながら
「男の子やて、良く頑張ってくれたなぁ。有難う」
と云って頭を優しく撫でてくれた。
そして、じっと真希の目を見つめながら
「ごめんね」と小さな声で云った。
真希は、涙が溢れ出た。
大吾は、傍らの椅子に腰を下ろし真希の手を両手で優しく包み、暫く無言で彼女を見つめ続けた。
彼の瞳は、靄がかかったように霞んで見えた。
そして、その眼から涙が零れ落ちた。
真希は、こんな時 何時も大吾の胸に飛び込んだ昔を思い出した。
そして
「大吾さん、愛してる」とぽつりと呟いた。
大吾は、小さく頷いた。
病室は、二人だけだった。
気を取り直した真希は
「あなたの息子たち見る?」
「うん、真希ちゃんと僕の息子な」
と云ってくれた。
この言葉で真希は、日本に戻ってきて良かったと思った。
「看護婦さんに云うて、二人で見に行きましょう」
と云ってガウンをはおり大吾に寄り添うように歩き出した。
育児室のガラス越しに
「抱きたい?」
「今日は良いよ、もう少し大きくなってからね」
「うちは?」
「あほ」
真希は舌を出して笑った。
が本当は抱きしめて欲しかった。
大吾が帰った後、真希は
「真希ちゃんと僕の息子な」
と云った大吾の言葉を想いだして幸せだった。
満二歳になった時 一を引き取った。
双子の兄弟は、顔形ともそっくりだった。
表情は、大吾に似ており 真希に似て色が白かった。
佐智は、十年に亘り勤めていた みやこ楽器を退職して育児に専念する事にした。
真希は、妊娠が分かった一ヶ月後 みやこ楽器を退職していた。
佐智は、毎日の世話をするうちに 自分が産んだ子供ではなかったが、大吾の子供と云う想いと可愛らしさが募った。
この子が、あの流産した時の子供だったらと云う想いは有ったが、一月も経つと全く自分が産んだ子供の様に思えてきた。
初めて「ママ」と呼んでくれた時は、涙が溢れた。
大吾は、そんな佐智を見て胸が詰まった。
大吾が休みの時は、何時も子供と三人で外へ出かけた。
朝倉家の真希の許へも 一を連れて三人で行った。
息子の一は片言で真希の事を
「おばちゃん」と呼んだ。
真希の子供真太郎は、佐智の事を
「おばしゃま」と呼んだ。
大吾の事は「おじしゃま」だった。
真希は、大吾の事を
「おとうさま」とは呼ばせていなかった。
佐智への配慮だった。
大きくなった時に話せばよいと考えていた。
二人の息子たちは、精神的なつながりが有るのか 極めて仲が良かった。
若し着ているものが同じだったら どちらがどちらか分からなかった。
大吾は、真太郎が自分をどう呼ぼうが一向に気にしなかった。
只、産んだ母親の真希の幸せだけを思った。
大吾は、過去の人生で真希は、その後どうなっただろうかと考えた。
大吾への思いは、残って居なかっただろうと思った。
韓国に帰り、誰かと結婚し幸せになったかどうかは分からない。
家族を襲った不幸は、同じように起きていただろうと考えたが、
真希の人生は、違っているだろうと思った。
日本へは、戻らなかったのではないかと考えた。
大吾が、二十六歳のころ、友人の高坂からは、真希の事を聞かなかったからである。
自分の息子になった一についても 彼を育てる佐智の幸せの方をより願っていた。
真太郎には、傍らに父親が居ない事への気がかりは有った。
真希がきっとうまく育ててくれると思い、そう願った。
佐智と真希は互いの子育てを通じて親密の度合いを増して行った。
二人の関心は、自分たちが育てる子供たちに向いていた。
神野家も朝倉家もどちらも 子供達からすれば、おばぁちゃんが、よく彼女たちのサポートをしてくれた。
加代と春代の二人のおばぁちゃんは、どちらも二人の子育てをして経験的に大事な知識を持っていた。
初めて子育てをする若い母の二人は、大いに助けられた。
只真希の方のおばぁちゃんは、七十歳になって居り お手伝いの絹さんは居たが、実質的には家事の切り盛りは、出産の翌年から真希が熟すようになって居た。
真希は多忙だったが、一向に苦にならなかった。
彼女は、よく気が付き 義父と義母の世話、家事を絹さんと手分けして巧みに熟した。
絹が奥様と呼ぶのは 真希の方だった。
絹は、何時しか真希を尊敬し 又、好きになっていた。
真希の気配りと思い遣りは お手伝いの絹にも別け隔てがなかった。
大吾の母の加代は、齢を重ねつつあったが若々しく元気だった。
家事は依然として加代が切り回しをしていたが、家が広いため掃除、洗濯は佐智がした。
真希の家の事を見ながら、何れ母の加代に替わって自分が、切り回さなければいけないだろう
と考えていた。
その時は、絹さんのようなお手伝いさんを探そうと決めていた。
大吾の投資会社は、順調に業績を伸ばしていた。
大吾の株の売買は、殆ど損をする事がなく大きな利益を生み出していた。
証券界に混乱が起きた時の大吾の読み(彼はいつも結果を知っていた)は、間違いなく、そんな時には必ず大きな利益を上げた。
大吾の存在は、次第に注目され出していたが、彼は表立つ事を何時も避けようとしていた。
投資会社を立ち上げた翌年 大吾は、山三を退職する時に言い含めておいた 芦田君を事務所に引き入れた。
彼には、自分が目を付けておいた会社と株の動きを追跡させた。
芦田君から見るとそれは不思議な選択に思えたが、後になると それは、まさに神の選択のように感じられた。
彼は、大吾の自宅の鍵の掛かった引き出しにあるものを知らなかった。
それは、大吾だけが知っている未来の世の中の動きであった。
大吾は、そろそろ始まるバブル景気に備えて 新興のこれから二十年間は、生き残る会社に目を付ける事を考えた。
8 佐智逝く 享年38歳
真希が二人の男児を産み落としてから 七年の歳月が流れていた。
子供達は、二人ともすくすくと成長して小学校に通っていた。
二人とも自分たちが住む区域の公立学校に通った。
祖父の連太郎は、私立の小学校を希望したが、真希は敢えて公立に通わせた。
上流階級でなく普通の子供達と交わらせたいと考えての事である。
二人の子供は、見分けがつかないくらいよく似ていたが、次男の一は、左利きで これだけが唯一と云って良い身体的違いだった。
二人の兄弟は、住むところが別々で周りの人間環境が異なっていた。
長男の真太郎は、母の真希と祖父母の連太郎、春代に囲まれ、お手伝いさんの絹が居た。
当然、母真希の大きな影響を受けた。
真希は、二人の子供を産んでから 精神的な落ち着きとゆとりが現れた。
朝倉家の跡取りの長男を産んだことで、朝倉家の娘として自信に満ちた女になって行った。
お手伝いの絹から奥様と呼ばれ家の中心的な存在であった。
義父母が高齢になりつつある所為も有って 家事の切り回しは、殆ど真希に委ねられていた。
真希は、絹を巧みに使いながら、手分けして家事をこなした。
真希は、絹を使用人でなく 同等の立場で扱った。
絹とは、一回り以上の歳の開きが有ったが、彼女の尊敬を勝ち取っていた。
絹は、真希の奢らない慎ましさが好きだった。
真希が、朝倉の家に入って来た時からすぐ好きになった。
以前から度々訪れる大吾にも好感を抱いており、真希が彼との縁に繋がる事を知って より好意の度合いが増していた。
真太郎の傍には父親が居なかったが、真希を慕う人たちに囲まれて育って行った。
真希は、真太郎を愛しんだが厳しく躾けた。
小さな子供であったが、自分の事は自分でするように躾けた。
絹にも義父母にも そのようにするように頼んでいた。
そして、人に対して感謝の言葉
「有難う」を云わせるようにしていた。
真希自身が、日本に戻って来てから大吾、佐智、朝倉夫妻に受けた恩の上に 何時も感謝の念を忘れて居なかった。
そして、今の幸せな自分に対し 自分を産んで呉れた亡き母に対する感謝だった。
子供を産めなかった佐智は、心の深い所で大吾に対する負い目を感じていた。
大吾の強い愛に包まれていてもそれは、消えることが無かった。
真希ちゃんのお蔭で 惣領の一を授かったものの 自分に対する負い目は消えなかった。
大吾から最後にその事を諭されてからは、それを表すことは決してなく 惣領の一を立派に育て上げる事が、自分への償いだと思っていた。
次第に佐智は、一を自分が産んだ子供の様に感じ始めたが、やはり流産した時に身籠った子供が、無事生まれており 今の一だったらと云う想いは拭えなかった。
佐智は、この頃から時折身体の変調をきたしていた。
下腹部が張った感じて腰が重たく、時折痛みを感じた。
生理の変調をきたすことが多かった彼女は、体質的なものだと思っていた。
食欲が落ちると云った事も無く、体重の変化も殆どなかったので病院の定期検査は、半年に一度にしていた。
そろそろ病院へと思っていた矢先、背骨を激痛が襲った。
耐えられない痛みに苦しむ彼女を大吾は、定期診断を受けている聖マリア病院へ慌てて連れて行った。
佐智の主治医は、深刻な顔をして日赤病院に紹介状を書いて精密検査を受ける手筈を整えた。
日赤病院での精密検査の結果、子宮肉腫が脊椎に転移した末期の骨癌であることが分かった。
子宮肉腫は、かなり以前に発生していたようであったが、佐智にその自覚症状は無かった。
生理の不順は、体質の所為だと思っていた。
腰の痛みや腹部の圧迫感は、不順な生理の所為だと思っていた。
大吾が流産の時に感じた不安は、現実のものとなっていた。
大吾は、自分の知識不足を悔やんだ。
後年の医療技術が有れば彼女の症状は、もっと早く発見できていたと思い、今の時代を恨めしく思った。
佐智は、日赤病院に緊急入院した。
大吾は、殆ど彼女のベッドに付ききった。
医師は、彼女の激しい痛みを和らげるためにモルヒネの投与をした。
佐智は、自分が死ぬことを悟っていた。
眠りから目覚め自分を見守る大吾に
「私、もうすぐでしょう?---」と弱々しく問いかけた。
大吾は、目に涙を溜め無言のままだったが
「いいの、あなた--- ありがとう」と云って弱々しく笑みを浮かべた。
大吾は、事務所の仕事を凍結していた。
自分が、現在投資している株式に大きな変動の無い事が分かって居た。
佐智の養父惣太郎は、毎日やって来て終日病室で彼女を見守った。
真希も 度々訪れた。
一は、真希の許に預けられ、事務所の松村君が、小学校への送り迎えをした。
引き換えに惣太郎が、病院に近い大吾の家に寝泊まりした。
加代は、苦悩する惣太郎の為に心を砕き 身の回りの世話をした。
惣太郎は、毎日自転車で朝出かけ 夜帰って来る病院通いを続けた。
佐智は、昏睡と目覚めを繰り返した。
目覚めた時には必ず昼夜を問わず大吾が、傍に居て彼女の手を優しく握っていた。
夜中に目覚めた佐智は
「大吾さん、ありがとう」と云った。
そして、弱々しい言葉で
「大吾さん、--うち--幸せ-やった。
---大吾さんに会えたお蔭で--うちは、幸せに--生きられた---」
「僕もな、僕も佐っちゃんと会うために 生まれてきたと思っている」
大吾は、戻って来たと云いたかった。
「大吾さんは---うちが---知らない昔から---うちを愛してくれてる--云うてはった。
---うち分かった--ような気がしてる。
---大吾さんは、--中学校の時に神様が、----この世に--遣わして呉れはったんやと思う。
----そう思った時--いつも不思議だった---大吾さんの事が--納得できた---」
大吾は、目に涙を浮かべ そっと頷いた。
「大吾さん---うちに会いに来てくれて---ありがとう」
と云って 再び深い眠りに落ちた。
一日おいて目覚めた時は、夕方だった。
惣太郎が、大吾と共に傍に居た。
惣太郎は、声を震わせながら
「おお、佐智 気が付いたか。
儂や、お養父ちゃんや」
「お養父ちゃん----御免なさい----心配かけて」
「何云うてんのや、元気になってくれ」
「ううーん----うち--もう直ぐお母ちゃんの処へ---行く。
やっと--お母ちゃんに会える。
----お養父ちゃん、---ありがとう。
うち大切に---育ててくれはって。
--大吾さんに会えたのも--- お養父ちゃんのお蔭や---思うてる。
---うち---ずっと幸せやった---」
惣太郎は、佐智の痩せ衰えた手を 両手で包み込んで咽び泣いた。
「大吾さん、---お義父ちゃんの事---お願いします---」
と云って 其の儘眠りに落ちた。
死期が近づいたと思った大吾は、真希と子供達を呼び寄せた。
翌日の昼ごろ佐智は、再び意識を取り戻した。
真希と子供たちが心配そうに覗きこんでいた。
「一---一でしょう-----」
「お母さん」
一は、佐智に武者ぶりついた。
そして、身を揉むようにしながら
「僕を置いて行ったらあかん、死んだらあかん」
佐智は、弱々しく 一の背を撫でながら
「一には---もう一人---お母さんが居る-でしょう。
---真希--小母さん。
---一を --産んで--呉れた-お母さんよ。
-----真太郎さん--と---仲良く---ね。
早く--大きくなって---お-父さんを---助けるのよ。
----お母さん--に替わって---お父さんの---事--頼むね---」
真希は、二人の子供たちの間にしゃがんで
「お姉さん---」と云って 涙を溢れさせた。
「真希さん----ありがとう。
-----わたし--あなた--に--会えて---嬉しかった。
---大吾さん--と-子供たち--の事--お願い。
大吾さんと---一緒--に--成って---あげて---。
そうして呉れ---たら--わ たし--もう--思い残す--こと--ない--の。
------分かって----」
佐智の目じりから一筋の涙が糸を引いた。
佐智は、朦朧として行く 意識の中で 自分に注がれる人々の情愛を良く受け止めていた。
何度も暗い闇から 夕暮れに引き戻され その都度 ぼんやりとした意識を取り戻した。
しかし、自分の意識を言葉にすることが出来なくなっていた。
只、大吾と惣太郎の強い気持ちが 意識を取り戻す度に自分を包み込んでいるのが分かった。
闇が訪れ 再び夕暮れを感じた時 ぼんやりと目に映ったベッドの周りを囲む人々に目をやると弱々しく痩せ細った腕を差し出した。
大吾と惣太郎は、その手を握りしめた。
佐智は、それが大吾と惣太郎だとよく分かっていた。
幸せだった。
再び闇が訪れたとき 佐智は、安堵の息を大きく吸い込んだ。
そして、暫くしてからその息を漏らし帰らぬ人となった。
立ち会っていた主治医が、佐智の命の終焉を告げた。
その顔は、安らかで美しかった。
暫く、病室には、咽び泣きと嗚咽が溢れていた。
ベッドを取り囲んだ、大吾、惣太郎、真希と二人の子供達 そして部屋の中に立ち並んだ大吾の母、朝倉連太郎、春代、松村君と郁ちゃん。
誰もが目を赤く泣き腫らしていた。
神野佐智は、三十八歳で彼女を愛した人達に看取られ、早すぎる生涯を閉じた。
佐智の葬儀は、実家である惣太郎の許で行った。
一人残された惣太郎への大吾の配慮であり、佐智の母 佐恵の位牌もそこにあった。
真希は、喪主の大吾と悲嘆にくれる惣太郎に替わって、松村君と郁子の力を借りながら、全ての世話をした。
近所の人達も 惣太郎を労わり 何かと手伝ってくれた。
安宅社長は、通夜から葬儀の間中 惣太郎の傍で彼を支えた。
安宅社長は、惣太郎の佐智に対する深い愛情をよく分かって居た。
葬儀が終わって、三日間、大吾と母の加代は、一人になった惣太郎の許に留まっていた。
大吾は、佐智を失った苦渋に耐えながらも 惣太郎を気遣った。
そして、一人になった惣太郎の事を母に相談した。
「母さん、佐っちゃんのお養父さんの事やけど 僕らの家に一緒に住んで貰らったらどうやろ う?」
「そうやねぇ、惣太郎さん お一人やし気がかりやなぁ。
うちは構いまへんで、大ちゃんの云わはる通りで。
只、惣太郎さんが、遠慮しはると思いますけど」
「うん、まぁ暫くの間云うて話しするけど、慣れたら ずっと居はるかも知れん。
戻る云わはったら戻ってもうたらええと思うんや」
惣太郎は、最初はうんとは云わなかったが、暫く気分転換にと云う大吾の勧めで 一緒に住まう事になった。
母の加代は、惣太郎を優しく労り 歳の近い友人として親しんだ。
惣太郎は、加代と大吾の優しさに居心地の良いものを感じたが、傍に佐智と佐恵の居ない寂しさに 一月ほどして戻って行った。
惣太郎には、やはり位牌の飾られた仏壇の前が落ち着いた。
帰ってからは、朝夕、仏壇の前で二人に語りかけた。
日がな一日中、仏壇の前に座って居る事も有った。
惣太郎は、佐智が逝ってから 一年経たぬその年の十二月に亡くなった。
佐智の死が、惣太郎の生きる気力を奪い取ったようである。
大吾は、独りになった惣太郎を気遣い二日に一度は、必ず電話を掛けて居た事で彼の死に気づくことが出来た。
仏壇の引き出しに、大吾と安宅社長に宛てた遺書が収められていた。
大吾には、佐智を愛しんでくれた感謝と 惣太郎の家を処分して自分たち三人の供養に充てて欲しいと記してあった。
安宅社長には、長年世話に成った感謝が記されていた。
大吾は、遺書に従って惣太郎と佐智、佐恵が眠る天王寺の一心寺で二人の供養をした後、惣太郎の遺言に従って 家を処分した全てを寄進し 三人の永代供養に付けた。
大吾と真希は、佐智の命日に欠かすことなく二人で一心寺に詣でた。
第3章
1 真希との結婚 真希38歳
大吾は、佐智を亡くし戻って来た人生での大きな心の痛手を被った。
過去の人生で佐智との音信が途絶えたのは、佐智子が亡くなった時期に近かった。
彼女に子供が居ない事は知っていたが、時期は兎も角 同じように流産し 体内に癌を抱えていたのかも知れないと思った。
子供がなく、京都の老舗の雅楽器店に嫁いだ佐智は、果たして幸せであったのだろうか?
若し幸せでなかったとしたら、今の人生での自分は、佐智を多少とも幸せにしてやれたのではないか思った。
朝倉夫人が、自分に
「大吾さんは、周りの人を幸せにしはる」
と云って呉れた事を思い出した。
確かに今の処 松村君と郁ちゃんは、幸せそうで 自分の影響が有ったと思っていた。
芦田君の事は、まだ分からない。
彼がもし 山三証券に居続けたとしたら 彼の定年間際の十八年後に山三が廃業に追い込まれ その煽りを食うだろうと思ったが、彼の事は全く何も知らなかった。
松村君と芦田君の経済面での将来の事は、自分の責任に有ると考えていた。
只、今の事業は、誰も知らない社会の状況を知っている自分は、この先二十年間は破綻する事がないと考えていた。
佐智が逝って後、一は真希の許へ預ける事にした。
母の加代は、孫が居なくなる事が寂しかったが、大吾は、母の齢と一の事を考えて そのようにした。
真希も喜ぶだろうし、一も産みの母の許で育つ方が良いと考えた。
大吾が休みの日は、真希と二人の子供を連れて遊びに出かけた。
朝倉夫妻は、そのような二人を見て何処か安堵する所が有った。
真太郎も一も 大吾の事をお父さんと呼んでいた。
真希は幸せだった。
真希は、佐智が今際の真際に口にした
「大吾さんをお願いします。
一緒に成ってあげて。
それで 私は、思い残すことがなく逝けます」
と云った言葉を胸に仕舞い込んでいた。
しかし、大吾の佐智への想いが有る限り それは、難しい事のように思えた。
佐智が逝く真際に真希に云っていた事は、少し離れていた大吾の耳には、よく聞き取れていなかった。
大吾は、真希を幸せにする為に 又、子供達に両親の揃った生活を送らせる為に 真希と結婚する事が良いと考えていた。
そして、佐智を愛していたとは言え、大吾は真希も愛していた。
佐智は、その事を良く知って居り苦しかっただろう。
真希は、大吾を愛しているがゆえに ずっと結婚することなく貞節を守って来た。
真希もきっと辛かっただろう。
佐智は、自分が逝く事で その苦しみから解放されたのかも知れない。
大吾は、佐智と真希を幸せにしたのかどうか分からなくなった。
しかし今残された真希は、これから幸せに出来ると思った。
彼女に「きっと 真希ちゃんを幸せにする」
と約束した事を思い出した。
佐智の一周忌が明けた、その年の五月 大吾は、真希に一緒になる事を切り出した。
連休が続く休みの日だった。
子供達は、小学校三年生になって居り 大吾は、真希と子供達を阪神パークに連れて行った。
二人の子供をジェットコースターに載せ二人は、ベンチに座った。
「真希ちゃん、どう 結婚するかな?
誰も反対するもの居らんやろう」
真希は、やっと大吾が口にしてくれたと思った。
「大吾さん、やっと云うてくれはった。
うち、ずっと待ってた」
「うん、佐っちゃんも 多分その事を喜んでくれると思うよ。
朝倉さんのお義父さんも、お義母さんも。
僕のおふくろだって真希ちゃん待ってると思う」
真希は、嬉しさに涙が込み上げてきた。
考えて見れば、大吾を好きになって二十年が経っていた。
随分長い道のりであったが、束の間の様にも思えた。
それは、韓国に帰っていた五年間を除き 殆ど大吾が傍に居てくれたからだと思った。
大吾は、朝倉家に戻ると朝倉夫妻に
「叔父様、叔母様、真希ちゃんと結婚させて頂く事にしました。
今日、子供達を遊園地に連れて云った時、二人で話し合ったんです。
お許し頂けますでしょうか?」と問いかけた。
「大吾はん、やっとそう決めてくれはりましたか。
儂は 何時か、何時かとずっと待っとりましたんや」
「ああ、お父ちゃん、嬉しい。
こんな嬉しい事は、おませんなぁ。
お二人は、不思議な御縁を辿りはりましたが、観音様が、ようやくまともな姿にしてくれはりました。 おまけに私らも仲間に入れて呉れてはります」
「お母ちゃん、お前の観音さん豪いお方やなぁ。
大吾はんと真希には、大方二十年かけて願いを聞き届けてくれはったんと違うかな。
よう忘れんと」
と云いながら 顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
眼元に涙が光っていた。
「有難うございます。
これでお二人には、僕の義父上、義母上になって頂けました」
「何言うてはりまんね。
やっと大吾はんが、儂らの息子になってくれはりましたんや。
大吾はんは、儂らに息子と娘と孫を授けてくれはった。
----おい、お母ちゃん、男の観音さん何ちゅうね」
「お父ちゃん、知りはりませんか?
観音様は、男にも女にもなれますのや」
「へぇー、さよか。
便利な仏さんやなぁ。
それやったら観音さんのご利益や」
「まぁ、まぁ。
日頃仏さんに手を合わせた事も無いお父ちゃんが、都合のええ。
罰が当たりまっせ」
と云って 上品な笑い声をあげた。
「義父上と義母上に こんなに喜んで頂いて嬉しいです。
有難うございます」
傍らの真希は、うれし涙を湛えながらも 表情は、晴れやかだった。
大吾は、朝倉家の現在長女である真希と結婚するに当たり 朝倉家の跡取りである真太郎の将来と相続、朝倉連太郎の心中を考えて 身軽な自分が朝倉家に婿養子として入る方法を取った・。
「大吾はん、儂らの事を考えて呉れてはる事は嬉しおますけど、そんな事は如何でもよろしいこっちゃ。 お互いに気持ちの問題や。
儂は義理やろうが、他人やろうが、大吾はんも真希も 儂の実の息子、娘やと思うてます。
それに相続云うてもこの家と土地の他 大したもんはおまへんのや」
「義父上、しかし真太郎くんには、朝倉様の名跡を継いでもらわなくてはなりません。
神野真太郎 になったのでは、上手く行かないと思いますが」
「それは、有難いこっちゃけど 神野さんの名跡は、どうなりまんね」
「僕は、身軽です。
親父は居りませんし、おふくろだけですから。
僕が決めれば済む事です。
仮に真太郎君を朝倉様の籍に残しても 戸籍上 父母の居ない子供になって 可愛そうなことになりま す」
「うーん、大吾はんは、よう考えてはるなぁ。
そうしたら、お言葉に甘えて 大吾はんの云う通りにさせて頂きますわ」
「ほんまに、私らの気が付かんとこまでよう考えてはりますなぁ。
そうなると 朝倉大吾さんと朝倉真希。
私らは、正真正銘の二人の子持ちになりますのやなぁ。
ほんまに、男の観音様に この通り手を合わせます」
と云って 春代は大吾に手を合わせた。
「誠に有難いこっちゃ。ほんなら、大吾はんも この家に住んでくれはりまんのか?」
「はぁ、そうさせて頂いてもと思いますが、出来るだけ近い処で家を捜し 越して来ようと思います。
今の家を処分すれば費用は十分賄えると思います」
大吾は、齢を重ねた朝倉老夫婦のこれからの事を慮っていた。
「うーん、大吾はんは、奥ゆかしい。
年寄りの儂らのことまで考えてくれてはりまんのか。
痛み入ります」と頭を下げた。
大吾にすれば、独りになった惣太郎の時の事、そして母の加代の事も考えた。
まさか 自分の母を連れて この家に入る訳には、いくまいと考えていた。
真希は、お昼に阪神パークで話が有ってから幾らも時間が経っていないのに これだけの事を考えた大吾は、かなり前から自分との結婚を考えてくれていたと思った。
翌月の六月十五日、大吾の誕生日に 二人は式を挙げた。
大吾は内輪だけの手軽なものにしたかったが、真希には純白のウェディングドレスを着せてやりたかった。
また、朝倉夫妻の事を考えて参会者は、彼らに一任した。
大吾の側は、叔父夫妻、三好夫妻、事務所の松村夫婦、芦田夫婦、友人の高坂夫婦、横浜の姉夫婦と母であった。
真希は、姉の淑子と弟の康治、それに高校時代親しかった橋本さんを呼んだ。
橋本さんとは、朝倉家の養女となって みやこ楽器で働き出してから友達付合いを再開していた。
朝倉氏は、控えめな大吾の事を考えて 曾ての仕事上の親しい友人で現在も交友のある数名と朝倉夫人の友人三名だけに絞っており 敢えて親戚関係は、呼ばなかった。
朝倉氏自身高齢で他界して居る人が多かった所為も有った。
それでも総勢は、三十名ほどになった。
挙式は、大阪城の北 堂島川に臨む太閤園である。
大吾は、真希を少しでも幸せな気持ちにしてやりたいと思い此処を選んだ。
挙式は、チャペルで真希の国柄を意識しての事であった。
敢えて仲人は立てなかった。
真希の事での縁付けは、全て大吾自身によるものだったから当然と云える。
披露宴での大吾と真希の事柄については、義父の連太郎が今の自分たちの気持ちを添えて披露した。
新婚旅行は、一週間のハワイ旅行にした。
大吾は過去の人生で、何度も海外を経験し ハワイも訪れていたが、すべて真希への思い遣りだった。
真希にとっては、これまでの人生で夢のような最も幸せな瞬間だった。
ワイキキの浜辺に面したワイキキシェラトンに泊まった夜、真希は初めてベッドを共にした大吾に
「大吾さん、ありがとう。
うちをこんなに幸せにしてくれて。
我慢した甲斐が有りました」
と他人行儀に云った。
「よかったなぁ、真希ちゃん。
色々あったけど 僕も真希ちゃんと一緒に成れて幸せだと思ってるよ。
今を生きてる甲斐が有るよ」
「大吾さん、もう何処へも行ったらあかん。
ずっと うちと一緒に居て。死ぬまで」
と云った。
大吾は、真希の目を見て頷いた。
真希は、人生で初めての男性として 大吾に自らの身体を開いた。
とめどなく涙が溢れた。
真希は、此の旅行での大吾との交わりで身籠り 女の子を産んだ。
真希が佐智と名付けた。
真希は,韓国から日本に戻って来る時 曾て大吾が、自分の思い出としてくれたテープを 肌身離さず大切に持っていた。
二年程前に朝倉の家で、テレビを見ていた時大吾が、口ずさんでくれた懐かしい歌が流れだした。
(時がゆけば幼い君も 大人になると気づかないまま 今春が来て、君は綺麗になった。去年よりずっと 綺麗になった----)
それは、イルカのなごり雪と紹介された。
テレビを食い入るように見ながら はっとし全身に鳥肌が立った。
「どうして、昔大吾さんは、これを歌いはったんやろう?
これまで 聞いたことがなかったのに」
と不思議さが残った。
その時から秘かに大吾に神秘的なものを感じ始めたが口に出すことは無かった。
遠い昔 大吾と付き合い出してから、時折見せる 大吾の遠くを見ながら 瞳が、霞みがかるのを自分の知らない何かを秘めていはると思っていた。
真希は、テープレコーダーを買ってきて 初めて大吾が送ってくれたテープを再生した。
テレビで見た イルカのなごり雪が有り、BLOWINNG IN THE WIND,
WHERE HAVE ALL THE FLOWERES GONEなどが録音されていた。
真希は、直ぐレコードを買ってきて聞いた。
レコード店で尋ねた時 新しい曲だと云われた。
その事で大吾に抱いていた謎が 解けたように思った。
しかし、途轍もない事なので自分の胸に仕舞い込んだ。
何時か話せる時が来ると大吾は云っていた。
そんな事が有っても大吾に対する愛は、揺るぐことがなかった。
大吾は、旅行から戻ると不動産屋に頼んでおいた 幾つかの物件を見て回った。
しかし朝倉家と常に歩いて行き来できるほど近くはなく 何れもかなり離れていた。
旅行から帰ってからも真希は、大吾とは別々に朝倉家で子供たちと暮らした。
子供たちの学校の事が有ったからであり、朝倉夫婦の寂しさを慮ったからであった。
近くに新しい住まいが出来た時に、子供達を連れて引っ越す積りにしていた。
大吾は、朝倉家に来て寝泊まりして行く事が多かった。
「大吾はん、住むとこまだ見つかりまへんか?
儂は、真希と孫らが一緒に居るさかい喜んどりますけど」
「はぁ、済みません。中々思うような物件が無くて お義父さんには、ご迷惑をおかけして居りま す」
「迷惑やおまへんで。
わしは、このまま見つからん方がええと思うとりますのや。
一緒に大吾はんの御母さんと来てくれはったらと思うとりますけど 大吾はん気い遣いはるやろうか ら。
其処でな、儂考えたんだす。
この家の土地は、二百五十坪おますわ。離れ云うか別棟ここに建てはったらどないだす。
御母さんと大吾はんら六人で住みはるんやったら三、四十坪あったら宜しおますやろ。
二階建てやったら 東側の庭潰したら丁度ええと思いまんのや」
「はぁ、ここに?」
「そうだす。別棟建てはったら もう一緒に住んでるのと同じですわ」
「大吾さん、そうしておくれやす。
お父ちゃんと、この間から話してましたんや。
真希ちゃん どう?」
「それは、ええ考えです。
子供達にも、お義父さん、お義母さんにも。
ねっ、大吾さんそうさせて貰いましょう」
大吾は、敷地の東側に延べ四十坪の漆喰壁で塗り固めたモダンな日本建築の二階家を建てる事にした。
この頃では、斬新な建物だった。
レイアウトとデザインは、大吾が自らし、工務店に図面を作らせた。
一階は、広やかな二階天井までの吹き抜ける玄関ロビー、ダイニングキッチン、リビング、子供たちの部屋と母の部屋、浴室、洗面室、トイレが有り 二階は、大吾の書斎と二人の寝室であった。
庭には、母屋と行き来できる 屋根の付いた渡り廊下と十坪ほどの菜園を朝倉夫人と自分の母の為に作った。
今住んで居る北山町の土地建物は、じっくりと値が上がるのを待つことにした。
土地の値段は、毎年急激な上昇を続けていた。
新居は、十二月に完成し 母と真希、子供たち三人と大吾の六人が移り住んだ。
漆喰壁で塗り固められた建物は、住みやすさを良く考えたものであった。
庭には、シンプルな真っ白な漆喰壁を背景に蜜柑と柿の木を植えた。
石畳の歩み廊下の隅に大吾の好きな梔子が、ひっそりと植え込まれていた。
建物と菜園が完成した時
「大吾はんは、ほんまに多才やなぁ。
どっからそんな知恵湧いてきまんね。
儂も畑弄りが出来るんで喜んでますわ」
「お父ちゃん、何言うてはりますのや。
あの菜園は、大吾さんのお母さんと私の為ですのや。
お父ちゃんのもんやおまへんで。厚かましい」
と口元に手を当てて笑い楽しそうだった。
新居に移り住んで年が変わった四月二十九日、昭和天皇の誕生日である。
祭日なので双子の兄弟も家に居た。
真太郎と一は、小学校の四年生になった。
大吾と真希のハネムーンベビーの佐智は、生まれて間なしで真希の胸に抱かれていた。
母の加代は、美しい銀髪の六十八歳になっていた。
家族六人は、リビングのテレビの前で天皇祝賀を見ていた。
明るい春の日差しの下 多くの人が、皇居に集まり日の丸の小旗を振って天皇の誕生日を寿いでいた。
少し猫背気味の天皇は、歳を取ってから口元をもぐもぐさせる表情を見せ、手を挙げて何時もの神妙な顔つきで応えて居られた。
皇后様は、にこやかな笑顔で陛下に並び手を小さく振りながらお応えになっていた。
皇太子と美智子妃殿下もにこやかな表情でお応えになっていた。
日本の平和なひと時である。
長男の真太郎が
「お父さん、天皇さん 何で笑わないの?」
「ああ、そう云うたら 何時もやなぁ。
今の天皇陛下は、戦争で沢山の人を死なせた責任をずっと感じてはるのかも知れんなぁ。
目の前の沢山の人達を見ながら、本当は、心の中で泣いてはるのかもしれへん」
「ふうーん。戦争云うても 僕らが生まれるずっと前でしょう。
お父さんが、幾つの時?」
「うん、丁度アメリカとの戦争が始まった年に生まれて、日本が負けて終わったのが、四歳の時かな。
お父さんはね、満州、今の中国で生まれたから 日本に引き揚げて来る時の事よく覚えているよ」
次男の一が
「おばあちゃんも 一緒やったの」
「そうでっせ、おばあちゃんはね、お父さんと お父さんのお姉さん連れて 大きな貨物船に載せられて 日本の国に戻ってきましたんや。
それは、それは辛い思いをいっぱいしましたなぁ。
大吾さんのお父さんは、戦争が負けて 其のままロシアに連れていかれました。
とうとう帰って来はらなんだ」
加代は、大吾の父親の事を居なくなったとは言わなかった。
「ふーうん」
二人の兄弟は、全く同じ顔をして同じように頷いた。
「帰ってからも一杯苦労をしましたけど、お父さんも横浜のお姉さんも、自分の力でよう頑張って、おば あちゃんを助けてくれはりました。
苦労も多かったけど おばあちゃんは、大吾さんとお姉さん産んで 良かったと思うてます。
お父さんが、自分の力でよう頑張って呉れはったから 今こうして皆で幸せに生きてますやろ。
真太郎さんも一さんも これから自分の力で生きて行けるように頑張りなはれや。
早う事大きなって、お父さんとお母さん助けてあげなはれや」
「うん、大きくなったら 一ちゃんと一緒に力合わせて お父さん、お母さん助ける。
なぁ、一 (はじめ)ちゃん、指きりげんまやで」
二人の兄弟は、小さな小指を絡ませて
「指切った。嘘ついたら---」と向かい合って声を出した。
加代は、二人の孫の健気さを見て目頭を熱くした。
佐智を抱いた真希は、自分が腹を痛めた二人を見ながら そっと大吾の膝に手を置いた。
大吾は、自分の手を重ねて、ゆっくりと撫でさすった。
大吾の目じりが、微かに濡れていた。
門のチャイムが鳴り インターホーンから
「お邪魔致します。松村でーす」
と云う声が流れてきた。
大吾はリビングの隅のインターホンのスイッチ押しながら
「おお、松っちゃん。今開けるから 一寸待ってや」
と云って 彼らを迎えに出た。
松村君と郁ちゃんが、二人の子供を連れて にこやかな顔で頭を下げた。
「社長、お休みの処お言葉に甘えお邪魔致しました」
「おう、おう。早よ入って。
今日は、儂の子供らも皆居るで」
と先に立って玄関に向かった。
玄関わきに、蜜柑の木が濃い緑に小さな五弁の白い花を一杯つけていた。
玄関の式台に真希が赤ん坊を抱いて出迎えた。
「松村さん、いらっしゃい。
郁子さんも みんなもどうぞ。さぁ、上がって」
松村享蔵は、曾て自分が想いを寄せていた 同い年の金谷真希さんの成熟した美しさが眩しかった。
「失礼します。さぁ、二人とも上がらせて貰いなさい。
靴をちゃんと揃えなさいよ」
享蔵が、二人の子供と郁子を促して真希に導かれてリビングに入って行くと
母の加代が
「まぁまぁ、松村さんと郁子さん、ようお越しやした。
僕ちゃんとお嬢ちゃんもいらっしゃいませ」
とにこやかな笑顔で一行を迎えた。
小さな佐智を抱いた真希が、二人の息子に
「二人とも 小父さんたちに御挨拶しなさい」
と云うと双子の兄弟は、弾かれたように立ち上がり
「真太郎です。よろしく」
「一です、よろしく」
と二人並んで同時に頭を下げた。
「僕、松村亮太です」
「あたし、松村ユミ。よろしくおねがいします」
と恥じらいながら 松村君の二人の子供達が、たどたどしく挨拶をした。
加代は、多くの子供たちを前にして
「ああ、大ちゃんの周りに こんなに沢山の人が居てはる」
と嬉しくなった。
郁ちゃんの子供達は、最初母親にくっ付いて座っていたが、いつの間にか子ども同士寄り集まって テレビのアニメを見出した。
大吾が
「郁ちゃんも、ええお母さんになったなぁ。早いもんや」
「はい、大吾お兄さんのお蔭です。
いい旦那さんと くっつけて頂ました」
「松っちゃん、覚えてるか?
自分が、郁ちゃん見初めた時の事」
彼は、照れ臭そうに
「社長、覚えてますけど 今更 引っ張り出さんでくださいよ。格好悪い」
「そんな事無いよ。
儂はな、おっ こいつ中々やり居ると思うて見てたんやで」
「いやぁ、今でも穴が有ったら入りたい気分ですわ」
大吾は、母の加代と真希と郁ちゃんの前で その時の事を語り始めた。
松村享蔵は、大吾の新居披露の時招かれ、郁ちゃんを見初めた。
結婚直前の佐智と一緒にきびきびと接待をする彼女に一目惚れで ぞっこん参ってしまった。
「先輩、あの娘先輩の親戚の人ですか」
「いいや、郁ちゃんか。どうかしたんか?」
「郁ちゃん云うんですか。
可愛らしい よう動く娘やなぁと思いまして」
「松っちゃん、お前タイプか。
あそこに郁ちゃんの両親居てはるで。
お前行って挨拶してこいや」
「分かりました」
と答え松村君は、お銚子を二本ほど下げて、上座の方から順に酌を始めた。
大吾が、それとなく見ていると
「松村と申します、神野先輩に高校の時からお世話になって居ります」
と云いながら男女十人目位でやっと郁ちゃんの両親の処へたどり着いた。
十人ほどの返盃を生真面目に飲み干してた彼は、顔を真っ赤にしてかなり酔いが回っていた。
「松村享蔵と申します。御嬢さんの郁ちゃんの高校の先輩で---」
と云いかけると
郁子の父、学が
「はぁ?郁子は女子高やけど中学校の先輩ですか?」
と怪訝な顔をして問い返した。
「ああ、済みません、云い間違いました。
神野先輩に高校の時からお世話になって居ります」
と慌てる風もなく訂正した。
「そうですか、松村さんと云いましたな。
君は、郁子と知り合いですか?」
「いいえ、全然。
今日初めて お目に掛からせて頂きました」
「どうして、郁子の名前知ってるんですか?」
「はぁ、先ほど 神野先輩にお聞きしました。
あのよく働いてる お嬢さん、親戚ですか?云いましたら 郁ちゃんか 云いはりましたんで。
頭に残って居りました」
それとなく見ていた大吾が銚子を持ってやって来て
「松村、お前えらい長話、何ごちゃごちゃ云うとるんや」
「いや、いや、大吾さん。
この人面白い人やなぁ自己紹介 上手い事間違えて郁子の事引っ張り出しはったわ」
「ははぁーん。
お前郁ちゃんの話の為に銚子二本空けて ここまでたどり着いたんか。
中々策士やなぁ。一寸見直したわ」
「いや、先輩。策士やなんて飛んでもない。
えらい酔っぱらってしまい、郁子さんと先輩のこと間違えてしもうたんですわ」
と身体をゆらゆらと前後に揺らせながら 大吾の言を否定した。
「いやぁ、如何して、如何して。
そのようには見えませんでしたよ。
中々、堂々としたもんで」
大吾は、改めて彼の事を郁子の父親に紹介した。そして
「親父さん、僕が、郁ちゃんの親御さんいてるから挨拶してこい云いましたら 真に受けてほんまに挨拶 に来たみたいですわ。
松村、お前郁ちゃんに一目惚れしたんと違うか?」
「先輩、そんな、一目惚れやなんて。
はい、おっしゃるとおりです」
と応えた。
十人分の返盃ですっかり酔っぱらっていた。
松村君は、中々図太い癖に当の郁ちゃんには、しり込みしたらしい。
「お前、厚かましい癖に 郁ちゃんによう声かけんのか。
可愛らしいなぁ」
と云って 大吾は、ごしごしと彼の頭を擦った。
「郁ちゃーん」
と声を上げて大吾は彼女を呼んだ。
郁ちゃんは
「はぁーい。お兄さん」
と気持ちの良い返事をしてやって来た。
「郁ちゃん、僕の高校の後輩で松村君。
頭の隅に入れて置いてやって」
「三好郁子です。
大吾お兄さんに いつもお世話に成ってます」
郁子は、明るい声で松村君を見ながら挨拶し
「はい、どうぞ」
と彼の杯に酌をした。
松村君は、打って変わった緊張した面持ちで正座し両手で杯を受けた。
父の学も母の木綿子も 彼に好感を持った。
この席に呼ばれた大吾の後輩と云う事も有った。
二人は、大吾の結婚式で再び顔を合わせ披露宴の後 初めてお茶を一緒にした。
「お母ちゃん、松村さんと喫茶店に寄ってから帰るから」
「はい、分かったわ。早く帰ってね」
木綿子は、既に顔を合わせていたので 安心して二人を見送った。
それから 二人の交際が始まった。
二人は、同い年で 馬が合ったのか一年後結婚した。
仲人は、勿論大吾夫妻だった。
松村君は、惚れた女房と子供も出来て幸せの様である。
仕事も自分の片腕を務めて呉れて居るし 幸せの先が見えたように思った。
二人は仲の良いおしどり夫婦だったが、どちらかと云えば郁子の方が強そうだ。
郁子の母の木綿子は、以前大吾に つい昔の好きだった人の事を話したことが有った。
始めの頃の郁子の大吾に対する思慕が、自分の様に壊れなければと心配したことが有った。
しかし、今では、大吾を兄と慕い、大吾の縁で松村君と恋仲になり夫婦になって呉れた事に安心と喜びを見出していた。
エピローグ
大吾と真希は、夏の暑い日差しの下 大阪城公園の天守閣広場にいた。
木陰になった堀端のベンチに並んで腰を下ろし 広場を行きかう人たちを二人して眺めていた。
大吾の頭は五分刈りで、頬から顎にかけて白くなった髭を生やしている。
真希も、頭髪に白いものが混じっていた。
大吾六十五歳、真希六十三歳である。
二人が、出会って四十六年の歳月が流れていた。
天守閣は、綺麗に塗り施され、昔は無かった、エレベーターのガラスのコアが出来て居た。
しかし他は、昔と殆どが同じだった。
「真希ちゃん、今日は蛇が、おらんようやな」
「大吾さんも 其れ考えてはりましたん?わたしも同じ事 思い出してたの」
と云いながら 二人は、隣の木立の上の方を見上げた。
「真希ちゃん、暑いから かき氷食べようか」.
「良いわね。行きましょう」
二人は四十六年前と同じ辺りのパラソルが架ったテーブルの椅子に腰を下ろした。
「真希ちゃんは、イチゴシロップのみぞれやろ。僕は、氷金時」
彼女は懐かしそうに目を細め 大吾を見上げて微笑んだ。
向かい合って、かき氷を食べながら
「大吾さん 四十六年前と同じね」
「うん、あの頃は、二人とも若かったなぁ。」
「ううーん、うちだけよ。大吾さんは、多分今と同じ。外見は若いけど 中身は今と同じ」
「そうやなぁ。でも今は寂しくないよ。真希ちゃんが、僕と同じ年ぐらいで一緒に居てくれるから。
僕の事を知ってるからね」
「大吾さん、愛してる。あの時からずーっと。ずっと愛してきた」
「僕も色々あったけど同じや。デパートの大食堂でエビフライ食べた時から」
「あかんしたい」
「真希ちゃん、ここでは、そらあかんやろ」
「そうやなぁ、ここではあかんなぁ」
と云って、二人は、顔を見合わせくすりと笑った。
さっきまで座っていたベンチの処で、子供たちが集まって騒いでいた。
「蛇やぁー。蛇捕まえたぁー」
完




