(2)離別
戻ってきた人生で終世を共にしても良いと思っていた真希は、突然母国に帰ってしまった。
(一話の続き)
八月も終わりかけていた。
会社が休みの日曜日 大吾は自宅で真希を傍らに 以前に好きだったフォークをあれこれ ギターを爪弾きながら口ずさんでいた。
いつもは、彼女の居る時にギターを弾くことは無かった。
と云うのも、ついうっかり この時代にない曲を弾いてしまうからである。
彼女が、始めてこの部屋に来た時、壁に吊り下げられたギターを見て
「大吾さん、ギター弾きはるんですね」と云った。
「うん、偶にね。でも下手くそだから 人に聞かせるようなものじゃないよ」
とお茶を濁していた。
今日は傍らで真希ちゃんが、洋画誌のスクリーンを見ながら 時折顔を上げて大吾が断片的に口ずさむ歌に耳を傾けた。
最近では、かなり彼女には気を許し 過去の事を垣間見せる事が少しあった。
「大吾さん、ねっ、ねっ、これ見て。
この人めっちゃ綺麗しぃ。
それと此の男の人 格好いい」
大吾が、ギターを抱えた儘見ると、若いデボラカーの尼僧姿と髪を乱したロバートミッチャムの映画「白い砂」である。
「そうやなぁ、品のある英国美人。
男の方は、シニカルで僕好きやなぁ」
「ふぅーん、ほんまやなぁ。
上品で綺麗やなぁ」
大吾は、デボラ・カーがイギリス人でこれまでに出演した この時の時代以前の二、三の代表作とロバートミッチャムの生い立ちを話して聞かせた。
そして、また何時ものように遠くに目を泳がせた。
真希は、それに気づき
「ああ、また 何かを思い出してはる」と感じた。
大吾は、後年のデボラカーとロバートミッチャムが出演した 大戦中に恋に落ちた米兵と英国人のデボラカーが、四十年後に再開する二人のドラマを思い出していた。
ロバート・ミッチャムが、今は独り身で成人した娘を持つ彼女に懐かしさと、甦って来た恋心を打ち明けた時
「それ四十年も昔の事よ」
と云ったセリフと その夜ベッドを共にしみじみと睦み合い、語り合うシーンを思い起こしていた。
大吾の目には、涙が浮かんでいた。
「大吾さん、大吾さん、大吾さぁーん」
真希に呼ばれて、はっと我に返った。
大吾が、しばしば表す事が有ったので彼女には分かって居た。
今では、そんな時の不思議な大吾が堪らなく愛しくなり 決まって大吾に寄り添い彼の胸に顔を埋めた。
大吾は、両手で優しく彼女を包み込んで身体を揺らしてくれた。
真希には、安堵が広がり 何時までも此の儘で居たい気持ちになった。
大吾はこの時 何時も髪に優しく頬を付けてくれた。
大吾の寂しさは、此の事で癒されていた。
頬を離した大吾は
「御免な、又、僕独りぼっちになって」
「分かってるしぃ、うち大丈夫やで。大吾さんは、独りぼっちとちゃう」
と微笑みながら云った。
「それより さっきギター弾きながら歌とうてはった最後の曲、何ていうの。ええ歌」
「あれか、僕も知らんけど何処かで聞いたみたいで 頭 離れんようになったんや。
多分フォークソングやなぁ」
「フォークソング?何やよう分からんけど歌とっても素敵。うちにも教えて」
それは、イルカの「なごり雪」だった。
あと十年程したら世に出るはずである。
「ねぇっ、もう一回歌って」
「うん」
大吾は、ギターをつま弾きながら
(時がゆけば 幼い君も 大人になると気づかないまま 今春が----)
のくだりを口ずさんだ。
「嗚呼、綺麗、うち好き。もう一回 全部歌って」
「全部?もう一回?」
「お願い、ねっ」
と真希は両手を合わせた。
大吾は、やばいと思いながらも 真希に聞かせてやりたかった。
大吾が歌いだすと真希は、目を閉じてうっとりとして聞いていた。
そして大吾が歌い終わると、ふぅーと息を吐き出した。
「大吾さん、ギター下手くそや云うてはったけど とっても上手。
弾きながら歌うなんて信じられへん。
それに此の歌、これ橋本さんにも教えてあげたい。かまへん?」
「うーん、どうかな、僕と真希ちゃんの二人だけの物にして置こうよ。
これは、真希ちゃん以外の人に歌ってほしくないから」と云った。
真希は、察した。
この部屋の事を秘密だと云ったのと同じ事があり、時折見せる大吾の遠くを見る目と関係が有るのだと。
「分かった。そしたら、もっと誰もが歌える歌で 大吾さんが好きなの歌って」
「いいよ、さぁ何が良いかなぁ。外国の歌でもかまへん?」
「ええ、聞かせて」
大吾は、We have all the flowers gone を言語で口ずさんだ。
これは、この頃すでにアメリカでリリースされていた。
聞き終わって「嗚呼、とってもいい歌。これレコード欲しい」
「さぁ有るかどうか 探してみよう」
真希ちゃんは、ハミングで今のメロディーを歌いだしていた。
そして「この曲なんか、文化祭の時に大吾さんのギター弾き語りと、ピアノ伴奏で歌いはらへん。
多分他の曲も もっと大吾さん知ってはると思うし。それと一緒に」
「嫌やぁ、僕 大勢の前ではよう歌わんし 僕のは、自分一人か小人数で楽しむものやから。
もっと歌上手かったら別やけど」
「あかんかぁー」
真希は、自分の提案が受け入れなくて残念そうだった。
「真希ちゃん、もう少し他の歌弾いてみようか。僕の好きなやつ」
「嬉しい。聞かせて」
大吾は、彼女のリクウェストに応え、ギターを爪弾きながら口ずさみ始めた。
テネシーワルツと愛しのクレメンタインで 何れも英語だった。
「いい歌、うち二つとも聞いたことが有る。後のやつ 雪山賛歌でしょう」
「ああ、その通り。昔からアメリカで歌われてる歌や。
西部劇の主題歌になって人気が出たんや。
荒野の決闘云うタイトルやけど、僕は映画を見て好きになったなぁ」
大吾は、映画のあらすじとクレメンタインの事を話してやった。
この部屋に居て真希は飽きる事が無かった。
大吾は真希の質問には、何でも分かりやすく説明してくれた。
今では、大吾が何でも知っている事が当たり前になり その都度凄っごいとか 不思議と言った感嘆詞を口にする事は少なくなっていたが、心の底では不思議だという思いは消えていなかった。
時計は、夕方の五時に差し掛かって居り 真希が来て既に六時間を経過していた。
昼前に大吾のブランチで、彼にコーヒーを入れてもらい 真希も台所に立って食パンを焼き目玉焼きを作って一緒に食べた。
殆ど毎週と云って良いくらい来るので勝手は分かって居た。
「真希ちゃん、今日は、晩ごはん食べて行き」
「でもお母さん帰ってきやはるやん」
「別にかまへん。おふくろも 真希ちゃんが、気に入ってるみたいや。
何時も可愛い云うてるで。
ほんでな、あんたら二人結婚するんやろて、こないだ云うてた」
真希は、目を輝かせ
「ふぅーん、それで大吾さん どない応えはったん」
「まぁ、そのうち 多分そうなると思う云うた」
「なぁーんや せいのない」
「そやかて、僕らまだ二十歳にもなってへん。
真希ちゃん十七やないか。結婚するのは、早すぎるやろう。
まぁ心配せんどき、真希ちゃんは必ず幸せにするから」
彼女は、一応安心した様子である。
しかし 大吾には、この人生を彼女と共に生き切るかどうか まだ分からなかった。
云った通り必ず彼女を幸せにしてやるつもりであった。
彼女がこの部屋に来だしてから 大吾は、彼女の感受性の豊かさに気づき始めていた。
言葉には、大阪弁に甘えたさを交えた子供っぽいところが有ったが、TPOはしっかり心得ており 初対面や目上の人に話すときは、ほぼ標準語で丁寧言葉を使った。
彼女の感受性の豊かさは、美しいものや 寂しさ、悲しみ、喜びの中に有る 精神的なものを汲み取る力が備わっているように思われた。
その事は、何度も孤独感に襲われた時、彼女がそれを感じ取り 自身で意識することなく大吾を癒して呉れた事である。
この部屋に来るようになって彼女は、少しずつ成長をしているとも感じた。
「僕、晩ご飯の用意するわ」
と大吾が立ち上がると
「そんなら うちも手伝う」
と云って別に汚れてもいない手の平を 二、三度擦り合わせパンパンと打ち鳴らし立ち上がった。
大吾は、流し台横の籠から野菜を取り出し 冷蔵庫から母親が昨日仕事の帰りに買ってきた牛肉と糸こんにゃくを取り出しテーブルに並べた。
横で見ていた真希は 「これ、肉じゃがでしょう」と云うと
「当たりぃー。よう分かったなぁ」
「お姉ぇちゃんが作りはんの見たことがあるねん」
と云って、嬉しそうに笑った。
「そやけど、大吾さん、お料理も出来はんの?びっくりやなぁ」
「うん、まぁね。それより真希ちゃん ご飯炊いて」
「OK任せて。家で何時も手伝ってるから大丈夫よ」
大吾が教えた流し台の下の米櫃から米を取り出しながら
「幾つ?」と聞いた。
大吾は、三本の指を立てた。
真希は、ガス台の下から釜を取り出し一合枡で三杯の米を入れ手際よく米を砥ぎだした。
大吾がそれとなく見ていると、美味しいご飯の炊き方を心得ているように優しく丁寧にとぎ、手の平で自分なりの水加減をしていた。
そして「よっしゃ、これでOK」
と独り言を云ってガスコンロに釜を乗せ点火した。
テーブルに立ちジャガイモの皮むきをしている大吾を見て
「うちも手伝う」
と云って大吾が用意した野菜の切り出しを始めた。
大吾は、この娘は、かなり家事を手伝っているなと思った。
材料が整え終わると
「大吾さん、うちに肉じゃがの作り方、味の付け方教えて」
大吾は「材料は、これだけ。切ってあるからそれは、見てわかるやろう」
と云いながら調理の仕方、味の付け方を自分の調理の手順に従って説明して行った。
真希は横で聞き見ていて、説明の淀みなさと手際の良さに感じ入った。
うちと あんまり変わらん歳をしてはって まして男 一体この人どうなってるんやろう。
途轍もない人やと またぞろ不思議な思いが湧き上がってきた。
「この火の通り加減が、難しいなぁ」
と独り言を云いながら、蓋を取り竹串でジャガイモを刺し加減を確かめた。
「うん、もう少し。あと三分ほどかな。まだ水分が残っているから大丈夫」
傍らの真希を見て
「この辺は注意しとかんと鍋を焦がすから、まぁ一寸難しいとこや」
と云って彼女の頭を撫でて
「大体分かった?後は火を止めて置いとくと ジャガイモと人参が中の熱と蒸気で柔らくなるからね。
これで終わり」
とにっこり笑った。
「大吾さん、こんなお料理 何時覚えはったん」
「うん まぁ、おふくろの見よう見まねかな」
「ほかにも 沢山お料理出来はんの?」
「おふくろが作るものならね」
その実、母親の作らないものも 和、洋、中、エスニックと何でも出来たが、韓国料理は、あまり作らなかった。
母親に時々珍しいものをつくり食べさせる時は、料理本で勉強したと嘘を言った。
料理は過去の人生での趣味で その経験だった。
暫くすると母親の加代が階段を上がる足音が聞こえた。
「オカッサン,コンバンワ」
「あら、ルイスさん、どこかお出かけ?」
「ハァーイ、コレカラYMCAアルバイトデース」
「頑張ってね」
「ハァーイ、アリガトゴザイマス」
隣部屋の外人留学生との話声が、聞こえてきた。
真希が、何度か来てアパートの前ですれ違った事もある 二人の若い外人女性である。
彼女たちは、真希に
「ハァーイ」と云って手を振って笑いかけた。
真希は外人と話した事が無かったので、笑顔を返し丁寧にお辞儀をした。
今、大吾の母親が、屈託のない声で彼女たちと喋っているのを聞いて少し驚いた。
その会話には、何時もの関西弁は感じられなかった。
「お母ぁさん 外人さんと喋ってはる。関西弁使うてはらへん」
「うん おふくろ、関西弁は、あの子らに通じにくいと思うてんのと違うかな。
関西弁は、おふくろの癖や。京都が好きやから 嵌ってるんやろう」と説明した。
真希は、巧みに使い分ける母親の機転に感心した。
「大ちゃん、只今。あら、真希さんお越しやす」
「お母ぁさん、お邪魔してます。お仕事お疲れ様でした」
「そんなん、どうってことあらしまへん」
と笑顔を見せて後ろ向きになり 白いサンダルを脱いだ。
地味だがすっきりしたワンピース姿である。
手には、夏物の籐で編んだバッグを下げていた。
「一寸待ってておくれやっしゃ」
と云って自分の部屋で着替えをし 洗面所で手を洗って出てくると
「大ちゃん、晩ごはんの支度してくれはったんやねぇ、助かるわ」
「ああ、真希ちゃんが、ご飯炊いて手伝ってくれたよ」
「まぁ、真希さんが、それは、それは」
真希は、はにかみながら
「上手く炊けたかどうか分かりませんけど」と応えた。
「母ぁさん直ぐ飯にする」
「ええ、真希さんが炊いてくれはったご飯 よばれます」
と云って椅子に腰を下ろした。
真希は、直ぐガラスのコップに良く冷えた麦茶を注いで母親の前に置いた。
「まぁ、おおきに」
と云って母の加代は、美味しそうにコップ半分ほどを一気に飲んで ホット息を付き真希を見ながら
「ご馳走様、美味しおした。喉、渇いてましてんな」と微笑み返した。
真希は、母親の若い娘に対する労りと直ぐ出る感謝の言葉を好ましく思った。
「真希ちゃん、早よう座って一緒にいただきまひょ」
と先に真希を促した。
先程から大吾と真希は立ったままだった。
大吾が真希の背中を押して促し 自分も隣に腰を下ろした。
真希は、この家に貰われてきたような奇妙な感覚を持った。
そして、大吾が兄であるような気がした。
真希は、何度か来ているうちに一頃の母親の前での緊張感もほぐれ 親近感を抱くようになっていた。
真希は、箸を運びながら
「大吾さんが、この肉じゃが お母さんの見よう見まねって云うてはりました」
「そうですのや、この子 感が良えのか直ぐ覚えはんの。
私の肉じゃがより美味しおっせ」
確かに美味しかった。
「それも おますけど、真希さん 上手にご飯炊いてはる。お若いのに感心ね」
「いいえ。家で しょっちゅう手伝わされてますので何んとか」
と慎ましく応えた。
「まぁ、そうなの。ほんとに美味しおすわ」
と云って目を細めて真希と大吾を交互に見やった。
「母ぁさん、偶に据え膳もええもんやろ」
「ほんまに、ええもんやなぁ」
と云って笑い、皆もつられて笑い合った。
母親は背筋を伸ばし上品にゆっくり味わいながら食べた。
喋るときは、口の中の物を飲み込んでから必ず箸を止めていた。
食後のお茶は、真希が煎れた。
「お母ぁさんの湯飲み これで良いですか」
と聞きながら 大吾の母の前で粗相のないように注意した。
暫く三人で取り止めのない会話を交わしたが、必ず真希が中に入れるような話題と話しだった。
「ほな、この辺で。あたし、こっちでラジオ聞きますよって。
そろそろ私の好きな番組がかかりますよって。
真希ちゃん ゆっくりしていっておくれやす」
と母親は、真希に声を掛けて自分の部屋に引き取った。
「真希ちゃん こっちで珈琲飲もうか」
「ええ、うち麦茶にします。大吾さん 珈琲うち煎れる。お母ぁさんは?」
「おふくろ 珈琲飲まへんし 飯食べたら後は、何にも口にせぇへんから気使わんでも良えよ」
真希が、珈琲を入れて部屋に運ぶと
「真希ちゃん、僕タバコ吸うけどかまへんか」
「えぇーっ、大吾さんタバコ吸いはんの。知らんかった」
「うん、一人になった時 時々。今無性に欲しくなったなぁ」
「うちは別に気にせぇへんから 遠慮せんといて」
そう云えば、大吾と頬を付けたとき 偶にタバコの臭いがすることがあった。
それは、姉の淑子が吸うのでその臭いを覚えていた。
今の真希は、大吾のそれくらいの事には、驚かなかった。
それ以上の驚きが数えきれないくらいあった。
それよりも 母親が帰って来た時の隣の外人の女性が気になった。
真希が見かけた女性の一人は、金髪でスタイルが良く 目が青くてとても美しく見えた。
「大吾さん、さっき お母ぁさんが喋ってはった 外人さんと喋りはった事ある?」
「うん、しょっちゅうだよ。何で?気になんの?」
「うん、まぁ。とっても綺麗な人やから」
「そうやなぁ、美人とは云わんけど 綺麗やなぁ。金髪で、目が青かったり、鼠色やったり。
見慣れたらそうでもないけど 最初はめっちゃ綺麗に見えんのと違うやろか。
僕は、あの子らの目見てるうちに猫の目想像して 後で一人くすくす笑ろうてしもうた」
「お話して、どうやった?」
「明るくて、結構楽しいよ。しゃぁけど まぁ心が通うものはないな」
と簡単に答えた。
真希は、この部屋に来たかどうか聞きたかったが、とてもそんな事は切り出せなかった。
実は、何回か来ていた。
大吾はその時は、玄関のドアを開けたままにして 部屋の戸を閉める事は無かった。
部屋に入れてレコードを聴いた。
彼女たちは、大吾が豊富に揃えている自分たちの国のシンガーの歌をとても喜んだ。
その事もあって休みの時などドアをノックし
「ダイゴ イルー」と声を掛けた。
大吾は、彼女たちから 今の彼女たちの国の事を聞けることが大いに役に立った。
彼女たちも 彼から日本の事を教わって喜んだ。
彼女たちは、何度か来ているうちに 慣れてきて自分の国の男友達と同じように彼にハグをし、親近感を表す挨拶のキスをした。
豊かな胸と唇を感じるとき 大吾は性的な欲望を感じた。
しかし、それ以上に踏み込むことはなかった。
この部屋の本棚と多くの書籍を見ても彼女たちには、本の内容は分からず 不審に思う事は無かった。
大吾は、彼女達に気楽に接することが出来た。
大吾を大学生だと思っているようだったが、あえて否定もせず彼女達の思うに任せた。
言葉の壁が、大吾の微妙な心情を伝える障害になって それ以上の気持ちを持つ事になりようがなかった。
大吾には、真希ちゃんの聞きたい事は分かって居た。
今の真希を苦しめる後ろめたい事は 無かったが、部屋に来た事は云わずに置いた。
それを言えば 彼女はきっと悩むに違いないと思った。
何時か機会が有れば 真希を僕の恋人として紹介し 一緒にこの部屋でお喋りして 真希が、彼女たちと友達に成るのが最も良いと思った。
大吾は、学校が夏休みの間 平日の夜は、高瀬謄写印刷所のアルバイトに精を出した。
真希は、日曜日には必ずと云って良いほど終日、大吾のアパートで過ごした。
母の加代とは、食事を一緒にする所為もあり すっかり馴染んで気心が通じ合っていた。
大吾の母と云う事も有ったが、真希は、母の加代が好きになっていた。
加代は、大吾の生まれた満州での事を良く話してくれた。
特に終戦になってからロシア兵、彼女は露スケと云ったが、彼らが進駐してきた時の体験、大吾と彼の姉との小さな二人の子供を連れて引き上げる時の苦労話を話した。
しかし、内地に戻ってからの話しは、全く聞かなかった。
大吾からは、子供時分の話しとして、母の実家に居候していた事は聞かされていたが、母の加代から聞いたことは無かった。
そして彼女の夫の事も。
真希は、触れたくない想いが有るのだろうと想像した。
大吾も彼の父親の事は、話題に上せなかったが一度だけ 彼が、まだ小学生の頃 母と別居して九州に帰ったと聞いたことが有った。
真希は、彼女の母親も大吾の母も 種類は違うが辛い苦労をして来たのだと思った。
只、真希の目には大吾の母が、今は幸せそうに見えた。
それは、きっと大吾さんの所為だと思った。
そして在日の自分の母は、出口のない苦労を背負い続けるのだろうかと思うと やるせない思いで胸が詰まった。
それでも母は、大吾さんと出会った私の事を 喜んで呉れていると思うと少しは救われる気がした。
真希が在日韓国人である事は、大吾の口から母の加代には知らされているのだろうが、母の加代が それに触れる事もなく、全く頓着しない別け隔ての無い様子で、接してくれる事が嬉しかった。
真希は、母に自分と大吾と彼の母親との事を安心して話すことが出来た。
母が、自分の事を喜んで呉れて居るのも そんな事を察してくれている所為かも知れないと思った。
十一月に入って、真希の家で亡き父親の法事が有った。
親戚は、殆ど居らず 父の友人とごく親しい近所の人達だけの細やかな集まりだった。
大吾は、真希の友人と云う事で法事に加わった。
彼女の姉と弟には既に面識はあったが、母親と会うのは初めてであった。
大吾は、過去の人生でも、この法事に招かれたことをよく覚えていた。
その時は、挨拶を交わしたくらいで、殆ど喋らなかった。
その時の 姉の淑子と弟の康治が居た記憶は残っていたが、母親の記憶は、残って居なかった。
今日の法事では、大吾の気持ちは、真希を産んだ母親に多く注がれていた。
今の彼女を育てた人に対する関心が強かった。
真希は、甘えたっぽいが、心根の優しい聡明な人間だと感じていた。
最初に母親を見た時 真希に似ていると思った。
色が白く、頬骨は高かったが 目が切れ長で鼻筋が通っていた。
真希の母親は、同国人とは韓国語で話していたが、大吾が知っている多くの韓国人とは違い 至極物静かで穏やかな話振りであった。
大吾が、初対面の挨拶をした時、彼女は目を細め、訛りは有ったが
「何時も真希がお世話になって、有難うございます」
と深々と頭を下げた。
そして大吾の手を包み込むようにとって ゆっくりと撫でさすった。
大吾は、母親の真希への想いが、どの様なものか分かる気がした。
以前の記憶がないのは、多分大吾が余り喋らなかったのと 彼女が、物静かだった所為かも知れない。
姉の淑子は、騒々しい位に良く喋った。
今の家を支える立場からしてそうなるのは、当然のことなのだろう。
大吾は、その場の話しは よく聞いて居たが、笑みを絶やさず問いかけられた時以外、自分から喋る事は殆どなかった。
母親と目が合った時、彼女はいつも目を細めて頷く様に微笑んだ。
心の中で 「真希をよろしくお願いします」
と云っているようだった。
大吾も、微笑み頷きかえした。
大吾の両側には、真希と弟の康治が、あたかも兄を慕うが如く座っていた。
色々と多忙であったにも関わらず、大吾は三学年を トップの成績で終えていた。
四年生になってからは、全ての生徒会活動から身を引いて、同僚や後輩の相談事にだけ乗るようにした。
実務が伴う事は、すべてを辞退した。
只 後輩の松村君の生徒会会長としての応援弁士と指導は、してやった。
大吾の応援で松村君は断トツの当選を果たした。
松村君は、大吾の今度の人生での片腕として力を発揮することになる。
大吾は、既に彼を 頭の隅でその様に考えていた。
大吾は、熱血漢で国語を教える三宅先生と 体育の教師川邉先生を大切にした。
三宅先生は、江戸時代の思想家で、人間的な心情を信頼した伊藤仁斎に傾倒しており その研究に生涯をささげると豪語していた。
川邉先生は、毎日書芸展の審査員を務める前衛書家で 大吾は彼の個展に何時も顔を出した。
以前の人生では、先生の書とあわせ 日本酒のラベルデザインのアルバイトをした事があった。
今、学校の彼の周りで真に関心を持てる人は、曾てからの友人高坂と真希ちゃん、松村君と教師の三宅、川邉先生の合わせた5人と高瀬さん一家だけだった。
進学コースに居た彼には、熱血漢の三宅先生が、公立大学への進学に懸命に肩入れをしてくれたが、大吾にはその気が無かった。
大学へ行き 経験のない世界に進む気はなく 時間の浪費だと考えた。
卒業まじか、三宅先生の肝いりだった数人の生徒が、彼を囲み会食した。
国田、高坂、山本、米田と大吾だった。
何れも成績が優秀だったが、国田女子以外大学に進む意志の無い事を知って 三宅先生は、悔し涙を浮かべた。
大吾は、経験していない大学生活を送るより まず自分の記憶を生かした株式投資で金を稼ぎ出す事だと考えていた。
金を稼いでどうするかの目標はなかったが、真希ちゃんとの幸せな生活を築こうとする思いが、次第に強くなっていた。
卒業してからの勤め先は、すでに今の直属部長が、彼の正式採用を決めていたので、まずベースとなる就職の心配はなかった。
しかし、山三證券は、将来投資で稼ぐ為の学習期間だと決めており 長居する積りはなかった。
5 山三證券正社員となって
大吾は、二十一歳の三月 五年を費やした定時制高校を卒業した。
真希は、一学年下の四年生だった。
山三の勤務はそのままで、四月一日付を持って部長付きの情報整理係となった。
元々そんな役職はなかったが、大吾の正社員採用を決めていた部長の緒方達三が、大吾の能力を見込み自分の直轄とした。
部長は、最初は彼を重宝な手駒として使う事を考えていた。
しかし、大吾が勤めだして暫くするうちに 彼が持っている非凡な才能に気が付き途轍もない宝の山を引き当てたと思った。
大吾の日常は、日経新聞他の全国紙、業界専門誌を丹念に見ることから始まった。
パソコンのない時代唯一の情報源であり、大吾の過去の記憶を正確に埋めていくものであった。
大吾は、過去の人生の世の中の出来事を全て記憶して居る訳でなかったが、新聞を見ながら気付く事で 記憶を呼び起こし正確なものにすることが出来た。
今の人生に於いて投資で稼ぐには、暫くコツコツと金を貯めて 三、四年の辛抱が居るだろうと考た。
大吾は、貯えを少しでも多くする為に 高瀬さんの処より もう少し実入りの良いアルバイトをする事に決めた。
大吾は、自宅にグラフィックデザイン用具を一式整え 架空(大吾にとっては、すでに経験済み)の会社パンフレットの表紙デザインを何点か作った。
それは、愛和電気、日産車両、熊ヶ谷工機、丸菱観光、橋山毛織などで 過去の人生で大吾が手掛けた会社のものだった。
社名は、全て日本にしておいた。
三ヶ月ほどかけて それをつくり上げ 千日前に在る株式会社公宣に持ち込んだ。
全く飛込みである。
しかし、過去の人生では、高等学校を卒業してから この会社に就職して デザイナーとしてこれらのパンフレットを手掛けていた。
後しばらくすれば、この会社が、大吾が持ち込んだパンフレットの会社の受注をする事を知っていた。
大吾は、電話帳で公宣の番号を調べ電話を掛けた。
そして、一日 山三の休暇を取り作品を持って公宣を訪ねた。
待って居たのは、懐かしい深田社長と河村専務、河村信吾さんの三人だった。
自己紹介が終わった後
「あなた、グラフィックデザインのアルバイトがしたいって云ってんだけど、うちの事 何処で聞いたの」
外人と見紛う恰幅の良い銀髪を回りに残し禿げ上がった頭の深田社長が、関東弁で聞いた。
大吾は、彼の優しげな眼を見ながら 懐かしさで胸が一杯になった。
横に座った背の低いずんぐり体形の河村専務は、彼の癖で膝を貧乏ゆすりさせながら 眼鏡の奥から胡散臭そうな目で大吾を眺めていた。
大吾は、彼が親分肌の気の良い人間であることを良く知っていた。
「はい、何処で聞いたわけでもないんです。このあたりよく来るもんですから。窓に広告宣伝とサインが出てましたので 若しかしたらデザインのアルバイトがないかと思いまして」
「君、経験 あんの?」つっけんどんに 河村専務が聞いて来た。
「いいえ、経験はありません。取敢えず自分が作った作品は持ってきておりますが」
「見せてみ」と河村専務は、膝を貧乏揺すりさせながらぶっきらぼうに言った。
大吾は、手提げの紙袋から三ヶ月かけて作った作品を取り出して机に並べた。
それは、デザインされた原稿にトレーシングペーパーを掛け その上から印刷写植文字のスタイルと級数、印刷の為の色指定が、直ぐ印刷に回せるように記入されていた。
「神野君とおっしゃたね。君これは自分で作ったんだろうね」
深田社長は、訝しげな顔をして大吾を見た。
河村専務は、少し表情を変え
「信吾、これどうや?これ印刷屋に回せるか?」
先程から、大吾の作品を丹念に見ていた信吾さんは
「完璧だっせ。専務」と答えた。
信吾と呼ばれた人は、河村専務の弟である。
深田社長は、まだ大吾を疑っているようだった。
「神野君、僕が課題だすから 一週間で仕上げて見せてくれるかい」
「はい、結構です。只これと同じような会社パンフレットで、出来れば建設機械が有難いです。
その方が、自分の得意なように思えますので」
と答えた。
それは、先の人生で自分が経験していたからであった。
深田社長の課題は、ニチエイ工機の建設機械タワークレーンだった。
深田社長は、今その会社をアタックしている処だった。
一週間後の夕方 山三が引けてから 大吾は出来上がった作品を持って公宣を訪れた。
大吾の作品を見た深田社長は、感嘆した時に見せる 彼の癖の首をぐるっと回し目を見開いて
「神野君、君は素晴らしいなぁ。
どうだい、アルバイトじゃなく うちのデザイナーで来てくれないかな」
「社長、有難いですが、僕には今の山三証券を辞められない事情が有りまして アルバイトと云う事でお 願いできたらと思います。駄目でしょうか?」
「神野君 君、何とか考えてや。給料は、今の山三以上に出すで」
「専務、有難うございます。
決して、今の会社の給料に不足が有っての事では有りませんので。
只二、三年金を貯めてアメリカに行こうと思っております」
大吾は、考えても居なかった出任せを言った。
「さよかぁ、そう云う事やったら仕方ないなぁ。
社長、今社長が手掛けてはる仕事考えて アルバイトして貰う云う事で どないだ。
儂は、それで良えと思いまっけどなあ」
「うん、だけど勿体ねぇなぁ。
神野君の事情もあるだろうから止む得ないか」
と云って深田社長は了承した。
社長、専務、それと信吾さんの三人は、大吾とその仕事を気に入ったようである。
大吾は、無理を言って新聞の広告版下の方は、除外して貰った。
時間の割に金に成らない事と急き物が多い事を知っていたからである。
そして、皆が知らない未来の事を知っていることに 今更ながら自分で驚き 今後の自信を深めた。
「社長、喜代行きまひょか。神野君と」
「ああ、良いね。君時間は大丈夫かい」
「はぁ、別にかまいませんが」
「そうかい、そりゃぁ良かった。専務がね、君に ご馳走したいってさ」
「はぁ、有難うございます。お相伴させて頂きます」
大吾は、懐かしい相生橋を入ったところの スタンド割烹喜代に連れて行かれた。
過去の人生で良く連れて行ってもらった店である。
白木の格子戸を引き 店に入るとカウンターの奥から
「まぁ、深田社長に専務。信吾さんも。今日は、若い方もご一緒なんですね」
と岸恵子を一回り小さくしたような そっくりの顔立ちの女将さんが声を掛けた。
カウンターの奥で十八歳になったばかりの汲みちゃんが、一行を見ていた。
大吾は懐かしかった。
汲みちゃんとは、過去の人生でランデブーをしたことが有った。
何度か店で顔を合わせるうちに 彼女は、自分と同じ年頃の大吾に首ったけになってしまったが、大吾が仕事で地方に長期出張した事で 彼女との関係は終わっていた。
公宣のアルバイトは、深田社長の営業が実りだした半年後から忙しくなった。
愛和電気、熊ヶ谷工機、日産車両、橋山毛織の会社案内の表紙は、大吾が最初に持参したデザインを殆どそのまま使うことが出来、中身のページのレイアウトを加え完成させた。
デザイン料は、一点に付き 平均して大吾の山三の給料の半月分に相当した。
夜と昼の仕事で忙しかったが良い収入になった。
公宣の仕事が二年目に入ると大吾だけでは、手に余るようになってきた。
深田社長から再度、社員としての打診が有ったが、大吾はこれを断わり デザイナーを直接採用してくれるように頼んだ。
深田社長と信吾さんは不安だった。
大吾は、新しいデザイナーが来れば協力させて貰うと云う事で 募集を掛ける事になった。
面接は、大吾も立ち会う事になったが、山三の仕事の関係で、六時以降か日曜日にしてもらった。
この頃は、既に大吾に対する社長、専務、信吾さんの信頼は揺るぎのないものになっていた。
デザインだけでなく企画編集の大吾の才能が高く評価されていた。
深田社長は、何かに付け大吾に相談する事が多くなっていた。
河村専務は、どちらかと云えばケチな方であったが、深田社長の要望も有って大吾に顧問料を出す事にした。
大吾は、時間を自分が動けるようフリーにしてもらった。
新規に採用されたデザイナーは、大阪市立工芸高校を卒業して 三年の経験を持った二十二歳の有本正と言う男だった。
彼の最初の就職先は、印刷会社で版下ばかりを描かされ恵まれなかった。
大吾は、基本構成と下絵だけをつくり 彼に仕上げをさせた。
彼は、やっとデザインが出来る事になり 懸命に取り組んだ。
真面目な性質だった彼は、大吾の意を汲んで大吾の手足になって働き 次第に大吾を尊敬するようになった。
大吾は、成果物評価の50%をアルバイト収入として受け取る事にした。
大吾の年収は、山三の給料と併せ 二倍を上回っていた。曾て大吾が出向した地方の建設工事機械の会社へは、新しく採用された有村君が出向した。
大吾は、大阪に居て彼の制作する物の方針を決め監修を続けた。
大吾は、山三の正社員となって直ぐ社内に株式投資の口座を開いていた。
ややこしい手続きもなく全て緒方部長が取り計らってくれた。
大吾は、早速自社の株を挨拶の積りで五万円購入し、曾て大吾が決めていた会社の株を二社に分け二十万円分購入した。
この二十万円は、六カ月先に転売し差益を併せ再投資する積りであった。
今の株価は、十年後には大凡十倍に成る筈で この間に上手く買い替えをして行けば決して損することは無いと思っていた。
社内口座は、社内既定の半年を辛抱しなければならなかったが、 売買を始めれば大きな利益を生むものと確信していた。
自社の株は、多少気が引けたが 山三が倒産危機に見舞われる半年前に全て現金に買えた。
この時点では、誰も山三が倒産の危機に見舞われるなど知らなかった。
これは、やがてやって来る証券不況の最中 山三倒産の危機に 暴落する株を一気に買う為の資金であった。
大吾は、この時を自分の投資人生の足掛かりにする心算だった。
大吾の頭の中には、過去の人生で 二十二歳で再会した 野沢佐智さんのことが、しっかりと記憶に残っていた。
この人生に戻って来てからは、野沢佐智さんと共に過ごすことが最大の夢だった。
しかし、真希ちゃんと再会し過ごしているうちに この人生を彼女と共にしても良いと云う思いが、次第に強くなっていた。
以前には、分かりようもなかった彼女の人となりと 自分に対する彼女の思いの強さを改めて知らされた。
彼女と居る時は、何時も大吾の寂しさは癒されていた。
何時か自分の本当の事を話しても 彼女は受け入れてくれるだろうと云う思いが強くなっていた。
大吾が高校を卒業した年、真希は十九歳で四年生を迎えていた。
しかし、この年の五月、大吾と真希にとって 正に青天の霹靂とも云うべき出来事が持ち上がった。
姉の淑子が、日本に来ていた韓国人と結婚する事になったのである。
最初は淑子の店の客であったが、一年間付き合う内に 二人は、相思相愛の仲になった。
彼は、淑子を国へ連れて帰ると云った。
淑子が、自分の母と弟妹の状況を話すと 彼は家族共々連れ帰り面倒を見るとの事である。
この時期 韓国では、朴氏が政権を握り日本の援助の下 目覚ましい発展を遂げつつあった。
淑子の夫に成る人は、日本と韓国を行き来するビジネスマンだった。
真希は、大吾が学校を卒業する前から 殆ど毎日曜日、大吾のアパートに来ていた。
母親の加代共々すっかり家族同様になっており 母親の加代も何れ大吾の妻に成るものと決め込んでいるようだった。
大吾が、山三證券の正社員となって働き始めて間もない日曜日の午後、真希が訪れた。
彼女が来ることは、昨夜遅く電話が有った。
その時の真希の電話の声は、沈んでいた。
「真希ちゃん、如何したの?えらい元気のない声して」
「うん、明日 お昼から大吾さんとこ行く。その時話します」
大吾にとっては、彼女と付き合い出して 大凡二年間 耳にしなかったほど声は沈んでいた。
玄関ドアを開けた時の彼女は、すっかり窶れ病人の様だった。
「真希ちゃん、どないしたん?」
「うん、大吾さん、もう うち もう----」
真希は、母親の加代が居るのを気にする事もなく 大吾の胸に飛び込んで泣きじゃくった。
「真希ちゃん、何が有ったか知らんけど ともかく上がって こっちへおいで」
大吾は、彼女を抱きかかえる様にして自分の部屋に連れて行った。
母の加代は、心配そうな顔で大吾を見ていたが、彼は目顔で母が来るのを押しとどめた。
カーペットにぺったりと座り込んだ彼女は、涙で濡れた髪を顔に張り付かせて
「大吾さん、うちら韓国へ帰る事になってしもうた。
うち嫌や。大吾さんと別れんの嫌や」
と云って、再び激しく泣き出した。
大吾は、彼女を両腕で抱き包みながら
「何が有ったか知らんけど 気持ちを落ち着けて話を聞かせて」
と耳元で囁いた。
彼女は、一部始終を大吾に話した。
大吾は、悔いた。
過去の人生で 彼が知らなかった事であった。
真希の家族全員に起こった 此の事を知らなかった。
その行く末がどうなったかも知らなかった。
大吾は、どうして良いか分からなかった。
大吾が、真希だけを引き取って、取りも直さず彼女を妻にしてと思ったが、まだ二十一歳になったばかりの大吾と十九歳の真希との事を 誰も「うん」とは云わないだろう。
彼女の話しでは、姉の淑子の夫に成る人は、れっきとした社会人で それなりに経済力もある人の様である。
大吾の事は、自分自身しか知らない事であった。
彼女の将来は兎も角、目の前の真希の打ちひしがれた様を見て こんなに幼い少女に辛い思いをさせている自分に悔いた。
真希の父親の法事の時 大吾の手を両手で包み込んで撫でさする 彼女の母親の姿が思い起こされた。
あの時、彼女は自分に「真希の事を宜しくお願いします」
と云っていたと今でも思っていた。
しかし、今では真希の家族全員が、大吾の手の届かない処へ去ったと思わざるを得なかった。
「真希ちゃん、僕がお母あさんや姉さん、それに姉さんの旦那さんに成る人に会って 真希ちゃんと結婚 すると云っても構わないけど、誰もうんと云ってくれないだろうなぁ」
「大吾さん、お願い、そうして。
お母ちゃんと姉ちゃん、それと姉ちゃんの旦那さんにも会って話して」
「分かった。やるだけのことはやってみよう」
大吾は、難しい事だと思いながらも 彼女を納得させる方法はそれしかないと思った。
万が一、彼らが、二人の事をオーケーしたとしても 真希と母親が離れ離れになる事の二人の気持ちまでは分からなかった。
姉、淑子の結婚式は、夫に成る人の仕事の都合で九月と決めてあるようだった。
そして、真希の家族全員が韓国へ帰るのは、その前にと云う事であった。
大吾は、翌週の日曜日に真希の家を訪ねた。
前もって話しておいたので姉の淑子も その日は、家に居た。
母親は、大吾に感謝しつつも
「どうか、真希を一緒に国に帰らせてください」と頭を下げた。
傍らの真希は、泣きはらした目を真っ赤にしながら項垂れていた。
姉の淑子は、彼の夫に成る人の事、国へ家族が帰るための支度金、帰ってからの住まいの事など全ての面倒を見てもらえる事を大吾に話した。
そして
「大吾さん、貴男も真希もまだ若いんやから これから先どうとでもなるでしょう。
それに韓国云うても 近いし貴男も国に遊びに来てくれたらええし。
真希も手紙書いたらええのんと違う」
と云って、これ以上 首を突っ込まないで欲しいような口ぶりだった。
暗に旦那に成る人には、会わせたくない様子でもあった。
それからの真希は、大吾の時間のある時は、殆どと云って良いほどアパートにやって来た。
夜、学校を休んで大吾と過ごすことも有った。
二人だけになる時は、沢山あり互いに求め合っている事は分かっていながら 大吾は、彼女の将来の事を考えて彼女に手を出す事は、しなかった。
大吾は、彼女が国へ帰る前に この時代にまだ世に出ていない何曲かの歌をギターの弾き語りでテープに吹き込んで
「真希ちゃん、これ僕の想いで。
絶対に誰にも聞かせないで。
後五、六年ほどしたらきっと誰かが歌い出すから。
何時か話す時が来ると云った事覚えて居るやろう。
その時に思い出して」
と云って渡した。
真希の家族が韓国へ旅立つ時、大吾は伊丹空港まで出向き飛行機を見送った。
大吾と真希は、辺りの人も憚らず抱き合って別れを告げた。
真希は 「嫌や、うち大吾さんと別れるの嫌や。嫌や」
と云って身を揉んで泣きじゃくった。
彼女の母は、目に涙を浮かべ そんな二人の姿を見ていた。
大吾は、真希との事が終わったと思った。
大吾にとっては、悔いの残らない人生をと思っていたが、消える事の無い悲しい思いが残った。
真希が去って半年が過ぎていた。
大吾の山三での勤務は、順調に進んでいた。
金を殖やそうと始めた公宣のアルバイトも忙しくなり始めていた。
今では、すっかり妹分になってしまった郁ちゃんも 入社三年目を迎え二十一歳になっていた。
大吾は、真希が去ってからの寂しさを 妹のような郁子との付き合いで癒した。
郁子も当初は、好きで堪らない兄のような大吾であったが、次第に本当の兄の様に彼を尊敬するようになった。
彼女の両親にも大吾を 恋人とは違う別格の兄の存在として話した。
郁子の両親も若い大吾を親戚の叔父であるかの如く遇した。
母親の木綿子は、娘の為に残念に思いながらも 娘の大吾に対する別な愛を感じ内心ほっとしていた。
大吾は、郁子の家にも度々招かれた。
そんな時の話し相手は、彼女の父親と母の木綿子だった。
区役所に勤める父親の学は、歴史好きだった。
大吾も歴史が好きで、良く話が合った。
何度か話をするうちに 郁子の父親 学は、若い大吾の造詣の深さに驚いた。
母親の木綿子は、娘の郁子の事にかこつけ 大吾だけの時に今なお自分の心にある、過去の想い人の話をした。
木綿子が、曾て誰にも話した事の無い想いだった。
大吾は、自分の経験と重ね合わせ彼女の気持ちがよく分かった。
「お母さん、辛いけど良い思い出じゃないですか。
もし今度生まれ変わったら その人にどうしたいか考えた事有ります?」
「そうねぇ、ああしたら良かった、こう云えばよかった、限がない位一杯。
やっぱり 貴男がさっき話したように もっと自分の気持ちをはっきりぶっつけたら良かった」
とテーブルの上を指でなぞりながら呟くように言った。
木綿子は、どうして自分が娘の郁子と年端の変わらない目の前の若者に こんな話が出来るのかと不思議に思った。
そして、顔を上げた時、彼の目が涙で霞んでいるように見えた。
木綿子は、それを目にして我知らず瞼が熱くなった。
「大吾さん、御免なさいね。詰まらない話を聞かせてしまって」
「いいえ、詰まらなくないですよ。お母さんが話してくださって 僕嬉しいんです」
木綿子は、大吾を対等な男性として意識したが、目の前の若者の顔を見て不思議さだけが残った。
大吾は、真希が去ってから 休みの日など良く郁ちゃんを誘ってやった。
郁ちゃんは、勿論の事 弟の英樹も誘った。
英樹も実の兄の様に大吾を慕った。
「郁ちゃん、明日英樹君と一緒に映画見に行かない」
大吾は、土曜の会社を引けた帰り道 郁子に云った。
この頃では、大吾が、早く帰れる時は何時も彼女と一緒だった。
「うわぁ、大兄ちゃん、映画に連れてくれはんの。
行く、行く。英樹もきっと大喜びやわ」
「英樹君は予定ないやろうか?」
「大丈夫、あいつは何時も暇やから。
予定有っても大兄ちゃんとやったら絶対にキャンセルするわよ」
「そしたら、又十一時半、上六の停留所で待ってる。
郁ちゃん電車に乗ってたら僕もそれに乗るから 降りんでもええで」
大体こんな風で、何時も昼ご飯を食べて彼方此方へ行った。
映画の時も有り、中の島のフェスティバルホールの時も有り、美術館や動物園までも行った。
彼らは、最後の喫茶店で大吾と話が出来る事を楽しみにしていた。
その日は、千日前の老舗グリル重亭でカツレツ定食を食べた。
郁子は「大兄ちゃんと一緒やったら 色んな美味しいもの食べられるから幸せ」
と云いながら、大吾に連れてもらった飲食店の名前を 指を折りながら数え上げた。
「ええなぁ、姉ちゃん。いつも お兄ちゃんと一緒で」
と英樹が羨ましそうに言った。
「大兄ちゃん、今日は弟の食い助が一緒から うちお勘定払う。
何時も大兄ちゃんにお金使わせてばっかりやから 今日は、うちに払えて お母ちゃんがお金くれはっ たん」
「そんなん、別に気い使わんでも良えのに」
結局その日の勘定は、郁子が払うことになった。
二人は、重亭のカツレツに舌鼓を打った。
大吾には、先の人生からの懐かしい店であった。
帰り道、英樹君が
「お兄ちゃんの家 上六やろ。いっぺん行きたいなぁ」と云った。
「うちも、大兄ちゃん。うちも行きたい。あかん?」
「別にあかんことないけど---。
まぁ しゃぁないか。妹と弟の頼みや」
大吾は、この頃では、二人にすっかり気を許していた。
結局、次の日曜日に二人が来ることになり その後、二人は度々大吾の部屋を訪れた。




