09.二人で過ごす夜
夜が静かだということを、ユイは忘れかけていた。
戦争が始まってからというもの、夜は一日の終わりではなくなった。
昼間に聞こえていた砲撃音が、暗闇の中ではもっと近くに感じられる。風が窓を揺らすたびに誰かが顔を上げ、遠くで物音がするたびに、眠りかけていた人々が目を覚ます。
眠ることはできても、安心して眠ることは難しい。
目を閉じていても、意識のどこかで、いつでも逃げ出せるように身構えている。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
だからこそ、今夜の静けさは、不思議なものに感じられた。
「……本当に、静かだね」
ユイは、宿の窓辺に立って呟いた。
窓の外には、小さな村の風景が広がっていた。
街から離れたこの村は、戦闘の激しい地域から比較的遠い場所にある。もちろん、ここだって完全に安全というわけではない。戦争が続いている以上、いつ何が起きてもおかしくない。
それでも、この数日間、村を脅かすような大きな戦闘は起きていなかった。
家々には明かりが灯り、通りには、明日の仕事に備えて荷物を片づける人々の姿がある。
どこかの家から、子どもの笑い声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、ユイは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
笑っている。
誰かが、今、この瞬間に笑っている。
それだけのことが、ひどく貴重なものに思えた。
「……ユイ?」
背後から声がした。
振り返ると、レンが部屋の入口に立っていた。
「どうしたの? ずっと窓の外を見ているけど」
「ううん。何でもないよ」
ユイは、慌てて首を振った。
「ただ……こういう夜って、久しぶりだなと思って」
「こういう夜?」
「うん。何も聞こえない夜」
レンは、窓の外に目を向けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
静かな夜だった。
風が木々を揺らす音。
遠くで扉が閉まる音。
誰かの家から漏れてくる、かすかな話し声。
それらは、ユイがこれまで過ごしてきた夜とは、まるで違っていた。
「……僕は、こういう夜を知っているのかな」
レンが、ぽつりと言った。
ユイは、彼の顔を見た。
「え?」
「昔も、こんな夜があったのかなって。自分の記憶がないから、分からないけど」
彼は、窓の向こうを見つめていた。
「誰かと一緒に、静かな場所で過ごしたことがあったのかな」
その横顔は、いつもより少しだけ寂しそうだった。
レンには、過去がない。
少なくとも、思い出せる過去がない。
自分が誰と暮らしていたのか。
どんな家に住んでいたのか。
どんな食事を好み、どんなことで笑っていたのか。
そのすべてが、彼にとっては空白なのだ。
ユイは、何か言ってあげたいと思った。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
きっと、昔もこういう夜があったよ。
誰かがあなたを大切に思っていたはずだよ。
そう言ってあげたい。
けれど、それは本当なのだろうか。
自分がそうであってほしいと願っているだけではないだろうか。
ユイは、少し考えてから口を開いた。
「……もし、昔にそういう夜がなかったとしても」
レンが振り返った。
「今は、あるよ」
「……え?」
「今、こうして一緒にいるでしょ」
ユイは、少しだけ笑った。
「昔のことは、分からない。でも、今のことなら、覚えていられるよ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
まるで、これからもずっと一緒にいると約束しているような言い方ではないか。
まだ、そんなことを言える立場ではないのに。
それでも、レンは嬉しそうに微笑んだ。
「……そっか」
彼は、もう一度、窓の外を見た。
「じゃあ、僕は今夜のことを覚えていたいな」
その言葉を聞いて、ユイは胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
彼が、今夜のことを覚えていたいと言ってくれた。
自分と一緒に過ごしている、この時間を。
過去に何があったとしても、これから何が起こるとしても。
今、この瞬間だけは、彼にとっても大切なものなのだ。
そう思うと、どうしようもなく嬉しかった。
けれど、嬉しいと思ったことを、そのまま顔に出すのは難しかった。
「……じゃあ、忘れないように、ちゃんと眠らないとね」
ユイは、わざと少し明るい声で言った。
「明日も早いんだから」
「うん。そうだね」
レンは頷いた。
それから、少しだけ考えるような顔をした。
「……ところで、ユイ」
「なに?」
「僕たち、今夜は同じ部屋なんだね」
ユイは、固まった。
「…………え?」
聞き間違いだろうか。
いや、間違いなく聞こえた。
「お、同じ部屋って……!」
「うん。宿の人が、ここしか空いていないって」
「そ、それは聞いたけど!」
ユイの顔が、急に熱くなった。
この宿には、避難民や救助活動に携わる人々が多く滞在している。使える部屋には限りがあり、今日は男女別に部屋を分ける余裕がなかった。
そのため、二人は同じ和室を使うことになったのだ。
もちろん、布団は別々に用意されている。
それだけだ。
ただ、それだけのことなのに。
「……レンは、何とも思わないの?」
ユイが恐る恐る尋ねると、レンは首を傾げた。
「何か、問題があるの?」
「……っ!」
何か言わなければ。
いや、何か言ったところで、彼には伝わらないかもしれない。
ユイは、額に手を当てた。
「……もういい。あなたには、まだ早かったみたい」
「何が?」
「何でもない!」
レンは、ますます不思議そうな顔をした。
ユイは、窓の外へ顔を向けた。
静かな夜だった。
戦争から少し離れた場所で、久しぶりに安心して眠れる夜。
そのはずなのに、どうして自分は、こんなにも落ち着かないのだろう。
隣にいるのは、記憶を失った少年だ。
自分が何者なのかも分からず、誰かを助けることだけを考えている、少し世間知らずな少年。
そんな相手に、何を意識しているのだろう。
ユイは、小さく息を吐いた。
それでも、心臓はなかなか落ち着かなかった。
◇
夕食は、宿の一階にある小さな食堂で用意された。
といっても、豪華な料理が並ぶわけではない。
野菜の煮込みと、硬めのパン。それから、少しだけ温めた豆のスープ。
戦争の影響で、食材は不足している。
それでも、宿の主人は、できるだけ温かいものを食べてもらおうと工夫しているらしかった。
「……おいしい」
レンが、スープを一口飲んで言った。
向かい側に座っていたユイは、思わず顔を上げた。
「本当に?」
「うん。温かいし、野菜も柔らかい」
「……そっか」
ユイは、少しだけ嬉しくなった。
特別な料理ではない。
自分が作ったわけでもない。
それでも、彼が嬉しそうに食べていると、こちらまで安心する。
そんな自分に気づいて、ユイは少しだけ戸惑った。
これまで、自分が食事をするときには、食べられることそのものに感謝していた。
明日も食事ができるとは限らない。
だからこそ、目の前にあるものを、できるだけ大切に食べる。
それが、戦争が始まってから身についた習慣だった。
けれど今は、少し違う。
レンが何をおいしいと思うのか。
どんなものを好きなのか。
そんなことを知りたいと思っている。
「……レンって、好きな食べ物とかないの?」
ユイが尋ねると、レンは考え込んだ。
「好きな食べ物……」
「うん。甘いものが好きとか、辛いものが好きとか」
「……分からないな」
レンは、困ったように笑った。
「食べたことがあるものなら、おいしいかどうかは分かるんだけど、昔から好きだったものが何かは、思い出せないんだ」
ユイは、少しだけ視線を落とした。
そうだった。
彼は、ただ記憶を失っているだけではない。
自分が何を好きだったのかさえ、分からないのだ。
食べ物の好みなんて、些細なことかもしれない。
けれど、人の好みには、その人が過ごしてきた時間が少しずつ積み重なっている。
家族と食べた料理。
友達と買いに行ったお菓子。
初めて食べて、驚くほどおいしいと思ったもの。
そうした記憶が、知らないうちに、自分という人間を形作っている。
レンには、その積み重ねがない。
少なくとも、思い出せるものは何もない。
「……じゃあ、これから探せばいいよ」
ユイは言った。
「これから?」
「うん。これから、いろいろなものを食べてみればいいじゃない。好きなものが見つかったら、それが今のあなたの好きな食べ物だよ」
レンは、目を見開いた。
そして、少しずつ笑顔になった。
「……そっか」
「そうだよ。昔のことが分からなくても、これから好きになることはできるでしょ?」
ユイは、そう言ってから、スプーンを置いた。
自分で口にしておいて、少しだけ不思議な気持ちになった。
過去がなくても、これから好きなものを見つけることはできる。
自分のことさえ分からなくても、新しい何かを好きになることはできる。
それは、当たり前のことかもしれない。
けれど、レンにとっては、当たり前ではないのだろう。
彼は、しばらくスープを眺めていた。
「……じゃあ、まずは、このスープから覚えておこうかな」
「え?」
「今日、ユイと一緒に食べたスープ。おいしかったから」
ユイは、固まった。
まただ。
また、そういうことを、簡単に言う。
別に、特別な意味などないのだろう。
レンにとっては、今日の食事がおいしかったというだけの話だ。
それなのに、ユイはその言葉を聞いただけで、胸の奥がいっぱいになってしまう。
「……そ、そう」
顔が熱い。
絶対に、今、顔が赤くなっている。
ユイはスープを口に運び、何でもないふりをした。
しかし、レンは、そんな彼女の様子に気づいていなかった。
「……ユイは、好きな食べ物があるの?」
「えっ?」
「さっき、好きなものを探せばいいって言っていたでしょう?」
ユイは、少しだけ考えた。
「……あるよ」
「何?」
「甘いもの。特に、お菓子とか」
そう答えると、レンは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、いつか一緒に食べに行こう」
ユイは、息を止めた。
「……いつか?」
「うん。戦争が終わったら、この村にもお菓子屋さんがあるかもしれないし。もしなかったら、別の場所でもいい」
レンは、何でもないことのように続けた。
「ユイが好きなものを、僕も食べてみたい」
その言葉を聞いた瞬間、ユイは、胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。
戦争が終わったら。
いつか。
そんな未来の話を、彼とすることができる。
それは、特別な約束ではないのかもしれない。
彼は、明日のことさえ確かではない世界で、ただ、いつか一緒にお菓子を食べたいと言っただけだ。
それでも。
ユイには、その言葉が、ひどく大切なものに思えた。
「……約束だからね」
気づけば、そう口にしていた。
レンが顔を上げる。
「え?」
「戦争が終わったら、一緒にお菓子を食べに行くの。忘れちゃ駄目だよ」
レンは、少しだけ驚いたあと、穏やかに笑った。
「……うん。約束」
ユイは、そっと笑い返した。
その瞬間、彼女の中で、何かが少しだけ変わった。
明日を考えることが、怖いだけではなくなった。
明日の先にも、自分が楽しみにしていていいことがある。
そう思えたのは、久しぶりだった。
◇
食事を終え、二人は部屋へ戻った。
畳の上には、二組の布団が並べられていた。
ユイは、部屋に入った瞬間、再び落ち着かなくなった。
食事のときは、ほかの宿泊客もいた。
けれど、今は違う。
部屋の中には、自分とレンしかいない。
別々の布団が用意されている。
それは分かっている。
分かっているのに、意識してしまう。
「……ユイ、どっちの布団を使う?」
レンが尋ねた。
「えっ!?」
思わず声が裏返った。
「……ど、どっちでもいいよ!」
「でも、窓際と壁際があるよ?」
「だから、どっちでもいいってば!」
レンは、少しだけ考えたあと、壁際の布団を指さした。
「じゃあ、僕はこっちにするね」
「……うん」
ユイは、ほっと息を吐いた。
しかし、その安心も長くは続かなかった。
「……レン」
「うん?」
「寝る前に、何かしたいこととかないの?」
言ってから、何を聞いているのだろうと思った。
しかし、レンは真面目に考え始めた。
「寝る前に……?」
「ほ、ほら、何か。読書とか、散歩とか……」
「……特にないかな」
「そ、そっか」
「でも」
レンは、窓の外を見た。
「もう少しだけ、外を見ていたいかも」
ユイは、彼の視線を追った。
窓の向こうには、夜の村が広がっていた。
遠くの家から、柔らかな光が漏れている。
誰かが歩いている。
どこかで犬が鳴いている。
戦争の音は、今夜は聞こえなかった。
「……私も」
ユイは、小さく答えた。
「もう少しだけ、起きていようかな」
二人は、窓辺に並んで腰を下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
けれど、その沈黙は、気まずいものではなかった。
ただ、同じ景色を眺めていた。
同じ夜を過ごしていた。
それだけのことが、今は心地よかった。
◇
「……レンはさ」
ユイは、窓の外を眺めたまま口を開いた。
「自分の過去を知りたい?」
レンは、少しだけ考えた。
「……うん」
その返事は、迷いのないものだった。
「知りたいと思う。自分が何者なのか。どうして、こんな能力を持っているのか。どこから来たのか。家族がいたのかどうかも」
ユイは、黙って聞いていた。
「……でも、少し怖いんだ」
レンは、静かに続けた。
「もし、僕が普通の人間じゃなかったら。誰かが、何かの目的で作った存在だったら。僕が今までやってきたことも、これからやろうとしていることも、全部、何かに決められていたものだったら……」
そこで、彼は言葉を止めた。
窓の外を見つめていた。
その横顔には、いつもの穏やかさとは違うものが浮かんでいた。
自分が何者なのか分からないこと。
自分の命が、どうしてこんな形で存在しているのか分からないこと。
それらは、彼の中で、簡単には整理できない問題なのだろう。
「……僕は、自分で何かを選んでいるつもりだったんだ」
レンは、自分の手を見つめた。
「誰かが困っていたら助けたいと思うし、ユイと一緒にいたいと思う。それは、僕が自分で考えて決めていることだと思っている」
ユイは、彼を見つめた。
「でも、もし、その考え方さえ、誰かに与えられたものだったら……。僕は、本当に自分で生きていることになるのかな」
その問いに、ユイはすぐには答えられなかった。
彼の不安を、簡単に否定したくはなかった。
大丈夫だよ。
あなたはあなたなんだから。
そう言えば、少しは安心するかもしれない。
けれど、それだけでは、彼の抱えている疑問に答えたことにはならない。
ユイは、少し考えた。
「……レン」
「うん?」
「私も、自分が何者なのか、全部分かっているわけじゃないよ」
レンは、顔を上げた。
「え?」
「昔のことだって、覚えていることもあれば、忘れてしまったこともあるし。自分がどうしてこんな性格なのか、考えても分からないことだってある」
ユイは、自分の手を見つめた。
「私だって、どうしてこんなに危険な場所へ行ってしまうのか、全部分かっているわけじゃない。誰かを助けたいと思う気持ちも、いつからそうなったのか、はっきりとは覚えていないし……」
彼女は、少しだけ笑った。
「でも、今、誰かを助けたいと思っていることは、本当だよ」
レンは、黙って聞いていた。
「昔の自分がどうだったとしても、今の自分が何をしたいかは、考えることができると思うんだ。もちろん、過去を知ることも大切だと思う。でも、過去が分からないからって、今の自分まで、誰かに決められていることにはならないんじゃないかな」
ユイは、少しだけ言葉を探した。
「……うまく言えないけど」
苦笑する。
「あなたが誰かを助けたいと思うことも、私と一緒にいたいと思うことも、今のあなたがそう思っているなら、それは、あなたの気持ちなんじゃないかな」
レンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうなのかな」
「うん」
ユイは頷いた。
「少なくとも、私はそう思うよ」
レンは、彼女を見つめた。
その瞳には、まだ迷いが残っていた。
けれど、ほんの少しだけ、安心したようにも見えた。
「……ありがとう、ユイ」
「……どういたしまして」
ユイは、そっと笑った。
その言葉を聞いて、レンは少しだけ目を伏せた。
「……君と話していると、自分が何を考えているのか、少し分かる気がする」
ユイは、息を止めた。
「……え?」
「僕は、自分のことが何も分からないと思っていた。でも、君と話していると、分からないことばかりじゃないのかもしれないって思えるんだ」
レンは、窓の外を見つめた。
「……君と一緒にいると、明日も、ここにいたいと思う」
ユイは、何も言えなかった。
胸の奥が、ひどく温かかった。
明日も、ここにいたい。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
彼は、自分と一緒にいることを、そう思ってくれているのだ。
ただの気まぐれではなく。
過去が分からないから仕方なく、ということでもなく。
今の自分と一緒にいることを、望んでくれている。
そう思うと、嬉しくて、少し怖かった。
この気持ちに名前をつけてしまったら、きっと、今までと同じではいられなくなる。
それでも、ユイは、この時間が終わってほしくないと思った。
◇
夜が深くなってきた。
宿の周囲は、すっかり静かになっていた。
ユイは布団に入り、天井を見つめていた。
眠ろうとしても、なかなか眠れなかった。
隣の布団では、レンが横になっている。
彼も、まだ眠ってはいないようだった。
「……レン」
ユイが小さく呼びかける。
「うん?」
すぐに返事があった。
「……起きてたの?」
「うん。ユイも?」
「……うん」
少しだけ、沈黙が流れた。
それから、ユイは、ふと思いついたように言った。
「……ねえ。昔の記憶が戻ったら、私のことは忘れちゃうのかな」
言ってから、後悔した。
そんなことを聞いて、どうするつもりだったのだろう。
彼が何者なのか、まだ分からない。
記憶が戻るかどうかさえ、分からない。
それなのに、記憶が戻ったあと、自分が忘れられることを心配している。
まるで、彼の隣にいることを、当然のように考えているみたいではないか。
ユイは、毛布を引き上げた。
「……ごめん。今の、忘れて」
しかし、レンはすぐには返事をしなかった。
少し考えてから、静かに答えた。
「……分からない」
ユイは、目を閉じた。
「……そっか」
「でも」
レンの声がした。
「もし、記憶が戻ったとしても、今のことまで、なくなるわけじゃないと思う」
ユイは、ゆっくりと目を開けた。
「……え?」
「僕が昔、どこで暮らしていたとしても。誰と一緒にいたとしても。今、ユイと一緒に過ごしていることは、本当にあったことだから」
レンは、天井を見つめたまま続けた。
「……だから、忘れたくないと思う」
ユイは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
忘れたくない。
そう言ってくれた。
自分と過ごした時間を、彼は忘れたくないと思ってくれている。
それが、どんな意味を持つのか。
今のユイには、まだ分からない。
けれど、嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
「……私も」
ユイは、小さく答えた。
「私も、忘れたくないよ」
それきり、二人は何も言わなかった。
やがて、レンの呼吸が少しずつ穏やかになっていった。
眠ったのだろう。
ユイは、隣の布団を見つめた。
暗闇の中では、彼の表情はよく分からない。
けれど、彼がここにいることは分かる。
今夜は、どこかへ行こうとしていない。
自分の隣で、眠ろうとしている。
その当たり前のような事実が、ユイには、ひどく大切なものに思えた。
自分は、この人と一緒にいたいのかもしれない。
明日も。
その先も。
できることなら、ずっと。
その思いが、胸の奥で、静かに形を持ち始めていた。
◇
しばらくして、ユイは喉の渇きを覚えた。
起き上がり、部屋の隅に置かれた水差しへ手を伸ばす。
そのとき、隣の布団から、小さな衣擦れの音がした。
レンが、寝返りを打ったのだろう。
ユイは、何気なくそちらへ視線を向けた。
窓から差し込む月明かりが、レンの胸元を淡く照らしている。
その瞬間、ユイは手を止めた。
衣服の下で、何かが光っていた。
ほんのわずかな光だった。
暗闇の中でなければ、見落としてしまいそうなくらいに淡い。
青白い光が、ゆっくりと明滅している。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
まるで、何かが呼吸をしているようだった。
「……え?」
ユイは、目を凝らした。
気のせいだろうか。
月明かりが、衣服の隙間から反射しているだけなのかもしれない。
しかし、光は確かに、レンの胸元から生まれているように見えた。
彼女は、そっと近づいた。
触れていいのだろうか。
起こしてしまわないだろうか。
そんなことを考えながら、ユイは膝をついた。
光は、まだ明滅していた。
彼の胸の奥で、何かが静かに動いている。
ユイは、思わず息を止めた。
以前、ハナが検査器具を近づけたときにも、同じような反応があった。
あのときは、一瞬のことだった。
けれど、今は違う。
光は、何度も繰り返し、確かに明滅している。
まるで、彼の身体の中に、もう一つの生命が存在しているかのように。
「……レン」
小さく名前を呼んだ。
彼は、目を覚まさなかった。
ユイは、少しだけ迷ったあと、そっと衣服の上から胸元に触れた。
温かかった。
人間の身体なら、当たり前の温かさだ。
けれど、その奥にある光は、当たり前のものではなかった。
ユイは、ゆっくりと手を離した。
何も分からない。
これが何なのか。
どうして光っているのか。
彼の命と、どんな関係があるのか。
何一つ、分からない。
ただ、胸の奥に、嫌な予感が広がっていた。
レンは、自分が何者なのかを知らない。
自分がどうして生き返るのかも知らない。
そして、彼の身体の中には、何かがある。
それは、彼の命を守っているものなのかもしれない。
あるいは、彼の命を縛っているものなのかもしれない。
ユイには、まだ判断できなかった。
彼女は、眠っているレンの顔を見つめた。
彼は、何も知らないまま眠っている。
今日、どんな話をしたのか。
どんな約束をしたのか。
明日も一緒にいたいと、自分がどれほど願っているのか。
そんなことを知らないまま、穏やかに眠っている。
ユイは、そっと毛布を掛け直した。
「……おやすみ、レン」
小さな声で、そう言った。
そして、自分の布団へ戻った。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
さっき見た光が、何度も頭の中によみがえる。
青白い光。
ゆっくりと繰り返される明滅。
あれは、何だったのだろう。
ユイは、毛布を握り締めた。
怖かった。
彼に何かが起きているのかもしれない。
自分には、それを止める方法がないのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
けれど、隣にはレンがいる。
彼は、今もここで眠っている。
その事実を確かめるように、ユイはもう一度、そちらへ目を向けた。
月明かりの下で、レンは静かに呼吸をしていた。
先ほどの光は、もう見えなかった。
まるで、何も起きていなかったかのように。
ユイは、そっと目を閉じた。
明日になったら、ハナに相談しよう。
彼の身体に何が起きているのか、もう一度調べてもらおう。
そう決めた。
それでも、最後に心の中で願ったのは、そんなことではなかった。
どうか。
どうか、彼が明日も笑っていますように。
何も知らないままでも。
自分が何者なのか、まだ分からないままでも。
この先に、どんな秘密が待っていたとしても。
どうか、彼が生きていてくれますように。
ユイは、その願いを胸の奥にしまい込んだ。
そして、静かな夜の中で、ようやく眠りに落ちた。
その頃、隣で眠るレンの胸元では、誰にも見えない淡い光が、一度だけ明滅していた。
それは、彼が何者なのかを示す、小さな手がかりだった。
けれど同時に。
彼の命が、いつまでも今のままではいられないかもしれないことを、静かに告げる光でもあった。




