08.救えないという選択
レンが生き返れるのか。
その問いを聞いた夜、ユイはすぐには眠れなかった。
隣の寝台からは、規則正しい寝息が聞こえていた。
レンは眠っている。
少なくとも、そう見えた。
彼の胸は静かに上下し、時折、寝返りを打つ。昨日までと何も変わらない、ごく普通の眠りだった。
それなのに、ユイは何度も彼のほうを見てしまった。
生き返る。
死んでも、もう一度目を覚ます。
そんなことが本当に起こるのだと、ユイは自分の目で確かめた。けれど、目の前で起きた奇跡を、どこまで信じればいいのか分からなかった。
一度起きたことが、二度目にも起こるとは限らない。
明日も同じように笑っていることと、明日も必ず目を覚ますことは、似ているようで違う。
その違いを、ユイは考えないようにしていた。
考えてしまえば、今まで当たり前だと思っていたことまで、不確かなものに変わってしまいそうだったからだ。
「……レン」
声に出さず、名前だけを心の中で呼んだ。
返事はない。
それでもユイは、胸の奥に小さな寂しさを覚えた。
自分でも、おかしいと思う。
出会ってから、まだそれほど日が経っていない。
彼の過去も知らない。好きなものも、嫌いなものも、どんな場所で育ったのかも分からない。
それなのに、彼がいなくなることを想像すると、胸が苦しくなった。
ユイは毛布を引き上げ、目を閉じた。
今は、まだ考えなくてもいい。
彼はここにいる。
それなら、明日も一緒にいられるかもしれない。
その小さな希望を抱えたまま、ユイはようやく眠りに落ちた。
◇
翌朝、救護所はいつもより慌ただしかった。
夜半から降り続いた雨の影響で、川沿いの道が一部使えなくなったらしい。上流にある古い橋も、崩落の危険があるため、通行が制限されていた。
問題は、その橋を渡らなければ避難できない人々がいることだった。
「向こう側の集落から、避難民が移動しているそうよ」
ハナは地図を広げながら説明した。
「橋が完全に使えなくなれば、別の経路を探さなければならない。でも、迂回路はかなり遠い。負傷者や子どもを連れて移動するのは難しいわ」
ユイは地図を覗き込んだ。
川は、街の東側を大きく迂回するように流れている。
橋が使えなくなれば、避難民は川沿いを長く移動しなければならない。しかも、雨が続けば、道そのものが通れなくなる可能性もある。
「……今すぐ行ったほうがいいんじゃないですか?」
ユイが尋ねると、ハナは頷いた。
「そうね。こちらから人手を送るわ。ただし、橋の状態を確かめてから。決して無理はしないこと」
最後の言葉は、ユイとレンに向けられていた。
二人は顔を見合わせた。
「……分かりました」
ユイが答える。
レンも頷いた。
「僕たちにできることを、探してきます」
ハナは、少しだけ表情を和らげた。
「お願いね。ただし、橋が危険なら引き返すこと。人を助けるために向かった人が、新たな救助を必要とすることになってはいけないわ」
その言葉に、ユイは胸の奥がちくりとした。
以前なら、危険だと言われても、すぐに引き返すことはできなかったかもしれない。
助けを必要としている人がいると知れば、とにかく現場へ行きたいと思ってしまう。
けれど、今は少しだけ違う。
自分が危険に飛び込めば、隣にいる人まで危険にさらしてしまうことがある。
自分一人の問題ではないのだ。
ユイは、隣に立つレンを見た。
彼は、いつものように穏やかな顔をしていた。
その横顔を見ながら、ユイは小さく息を吐いた。
「……レン」
「うん?」
「今日は、ちゃんと二人で帰ろうね」
レンは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「うん。約束する」
その返事を聞いて、ユイは少しだけ安心した。
約束。
たった一言なのに、それがあるだけで、人は少し先の未来を信じられるようになる。
ユイは、そのことを大切にしたいと思った。
◇
橋へ向かう道は、ところどころぬかるんでいた。
雨は弱まっていたものの、地面は水を含み、踏み出すたびに靴が沈む。
ユイは足元を確認しながら進み、レンは周囲の建物や道の状態を見ていた。
「……この辺り、前にも通ったことがある気がする」
レンが、ふと呟いた。
「え?」
「いや……気のせいかもしれない」
彼は、古い石壁を見つめていた。
そこには、ひび割れた壁の一部に、かすかな刻印が残っていた。
何かの文字のようにも見えるが、風雨に削られ、判別できない。
レンはその刻印から目を離せなかった。
懐かしい。
そう感じたのだ。
けれど、何が懐かしいのか分からない。
この道を通ったことがあるのかもしれない。
この壁を、どこかで見たことがあるのかもしれない。
そう思っても、記憶は戻らなかった。
残るのは、触れたはずのない過去に、指先だけが触れたような感覚だった。
「……レン?」
ユイが呼びかける。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと、気になるものがあっただけ」
「何か思い出したの?」
「……分からない」
レンは少しだけ苦笑した。
「思い出せそうで、思い出せないんだ」
ユイは、それ以上尋ねなかった。
彼が何かを思い出しかけるたび、苦しそうになることがある。
だから、無理に思い出してほしいとは思わなかった。
過去が分かれば、彼が何者なのかも、少しは明らかになるのかもしれない。
それでも、彼が苦しむ姿を見たいわけではない。
「……思い出したら、教えてね」
ユイは、そっと言った。
「でも、無理に思い出そうとしなくてもいいから」
レンは、彼女を見つめた。
「……うん。ありがとう」
二人は、再び歩き始めた。
橋が近づくにつれ、人々の声が聞こえてきた。
◇
橋の手前には、すでに多くの避難民が集まっていた。
古い石橋は川幅の広い場所に架かっており、橋脚の一部が雨水で削られていた。水かさは増し、濁った川の流れが、橋の下を速く通り過ぎている。
橋の中央付近には、亀裂が走っていた。
「……これは」
ユイは思わず足を止めた。
橋を渡る人々は、恐る恐る歩いていた。
荷物を抱えた男性。
小さな子どもを背負った女性。
足を引きずる老人。
彼らは、向こう岸へ渡るために、ゆっくりと列を作っていた。
橋の手前では、避難誘導をしていた男性が声を張り上げていた。
「一度に渡らないでください! 荷物はできるだけ減らして、間隔を空けて!」
しかし、避難民の列は途切れなかった。
皆、不安そうに橋を見つめながら、それでも前へ進もうとしていた。
戻る場所がない。
ここを渡らなければ、いつまた戦闘に巻き込まれるか分からない。
その不安が、人々の足を前へ進ませているようだった。
「……ユイ」
レンが、彼女の隣で立ち止まった。
「橋の状態、かなり悪いね」
「うん。これ以上、たくさんの人が渡るのは危険かもしれない」
二人は、避難誘導をしている男性のもとへ向かった。
ユイが状況を尋ねると、男性は疲れた顔で答えた。
「向こう岸には、まだ避難できていない人たちがいるんだ。こっちへ来る人もいるし、向こうへ渡らなければならない人もいる。だが、橋がいつまでもつか分からない」
「別の道はないんですか?」
「あるにはある。だが、かなり遠い。今からあちらへ回れば、途中で日が暮れてしまう。小さな子どもや怪我人を連れて行くのは難しいだろう」
ユイは、橋を見つめた。
助けたい人がいる。
けれど、安全に渡れるかどうかも分からない。
橋を渡れば、避難民を早く移動させられるかもしれない。
しかし、もし橋が崩れれば、かえって多くの命が危険にさらされる。
選択を間違えれば、取り返しのつかないことになる。
どうすればいいのだろう。
ユイは、橋の亀裂を見つめた。
そのとき、レンが口を開いた。
「……まず、渡る人を減らしたほうがいいと思います」
男性が振り返った。
「何?」
「一度にたくさんの人が渡ると、橋にかかる負担が増えます。子どもや怪我をしている人を優先して、少人数ずつ渡す。橋の状態も、何人かで確認しながら進めれば……」
「そんなことは分かっている!」
男性は、思わず声を荒らげた。
レンは言葉を止めた。
男性はすぐに、自分が大きな声を出したことに気づいたようだった。
「……すまない」
彼は、疲れたように額を押さえた。
「こちらも、分かっているんだ。安全に渡すことが大切だってことは。だが、向こうにいる人たちは、ずっと待っている。こちらへ来ようとしている人たちも、何時間も歩いてきたんだ。これ以上待たせるわけにはいかない」
その声には、苛立ちよりも、苦しさが滲んでいた。
彼は、何も考えずに人々を橋へ渡らせているわけではない。
どうすればいいのか、必死に考えている。
それでも、正解が見つからないのだ。
レンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……すみません。簡単に言いすぎました」
男性は、何も答えなかった。
ユイは、そのやり取りを見つめていた。
正しいことを言えば、問題が解決するわけではない。
危険だと分かっていても、危険を避けられないことがある。
誰もが安全を望んでいる。
それでも、安全だけを優先すれば、間に合わなくなる人がいる。
どちらを選んでも、誰かが困る。
そんな現実を前にして、ユイは自分が何をすればいいのか分からなくなった。
けれど、ただ立ち尽くしているわけにもいかなかった。
「……私たちも、手伝います」
ユイは男性に言った。
「避難する人の誘導をします。橋の状態を見ながら、危険があればすぐに知らせます」
男性は、少し驚いたように彼女を見た。
やがて、静かに頷いた。
「……頼む」
◇
二人は、橋の手前で避難民の誘導を始めた。
ユイは、子どもや怪我人を優先して橋へ進めるよう案内し、レンは橋の状態を確認しながら、人々の歩く間隔を保つよう声をかけた。
誰もが不安そうだった。
橋の途中で立ち止まる人もいた。
後ろから来る人に押され、足を踏み外しそうになる人もいた。
そのたびに、ユイたちは声をかけ、落ち着いて進むように促した。
「大丈夫です。ゆっくりでいいので、前の人と間隔を空けてください」
ユイは、何度も同じ言葉を繰り返した。
自分自身も、怖かった。
橋の亀裂を見るたび、足元が頼りなく感じられる。
もし今、橋が崩れたら。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
それでも、彼女は人々を誘導し続けた。
ここで自分が怯えてしまえば、周囲の人々も不安になるかもしれない。
だから、落ち着いていなければならない。
自分にできることを、やらなければならない。
そう考えていた。
そのとき、橋の向こうから、幼い声が聞こえた。
「お父さん、早く!」
小さな女の子が、父親の手を引っ張っていた。
父親は、足をかばうように歩いている。片方の靴は濡れ、服には泥がついていた。
「待ちなさい。走っちゃ駄目だ」
「でも、怖いよ!」
女の子は、泣きそうな顔をしていた。
ユイは、その声に反応して橋の中央を見た。
「……ゆっくりで大丈夫だよ!」
声をかける。
「急がなくていいからね。前の人について、ゆっくり歩いて!」
女の子は、こちらを見た。
少しだけ安心したように、頷く。
父親は、申し訳なさそうに頭を下げた。
ユイは、小さく笑い返した。
その瞬間だった。
橋の奥から、鈍い音が響いた。
石が軋むような音だった。
ユイは顔を上げた。
橋の中央付近に、これまでよりも大きな亀裂が走っていた。
「……危ない!」
誰かが叫んだ。
橋の上にいた人々が、一斉に足を止めた。
その直後、橋脚の一部が崩れた。
大きな音がした。
橋の中央が沈み、石の破片が川へ落ちていく。
人々の悲鳴が、雨上がりの空気を切り裂いた。
◇
ユイは、反射的に走り出していた。
橋の中央には、まだ何人もの人が残っている。
小さな女の子。
その父親。
足を痛めた老人。
そして、何人もの避難民。
彼らは、崩れ始めた橋の上で、動けなくなっていた。
「こちらへ! こっちです!」
ユイは声を張り上げた。
橋の手前へ戻るよう、人々を誘導する。
しかし、橋の一部が崩れたことで、渡り切ることも、引き返すことも難しくなっていた。
レンは、橋の状態を見つめた。
その顔から、いつもの穏やかさが消えていた。
「……ユイ!」
レンが叫ぶ。
「そっちは危ない! いったん戻って!」
ユイは、橋の上を見た。
女の子が、父親の腕をつかんで泣いていた。
そのすぐそばで、老人が転倒している。
誰も、すぐには動けなかった。
足元の石が、今にも崩れそうになっている。
ユイは、唇を噛んだ。
どうすればいい。
このままでは、全員が危険にさらされる。
けれど、ここで誰も動かなければ、取り残された人たちは助からないかもしれない。
「……私が行く!」
ユイが叫んだ瞬間、レンがその腕をつかんだ。
「待って!」
「でも、あそこに……!」
「分かってる!」
レンは、橋の中央を見つめていた。
彼の手に、力がこもる。
「僕が行く」
ユイは、息を呑んだ。
「……駄目!」
「ユイ、ここで君まで危険な場所へ行ったら、助けられる人が減る」
レンは、彼女を見つめた。
「君は、こっちで誘導を続けて。僕が、あの人たちを連れてくる」
「でも……!」
その先の言葉が、出てこなかった。
レンが何を考えているのか、分かっていたからだ。
彼は、自分が死んでも生き返ることを知っている。
もし橋が崩れても、自分は生き返ることができる。
そう考えているのかもしれない。
けれど。
それは、本当に正しいのだろうか。
彼が死んでも生き返るからといって、死んでいいわけではない。
それに、彼が生き返るまでの時間に、何が起こるか分からない。
ユイは、彼の腕をつかんだ。
「……レン。お願いだから、無理をしないで」
声が震えた。
彼は、彼女の手を見つめた。
それから、少しだけ微笑んだ。
「……大丈夫」
ユイは、その言葉が嫌いだった。
大丈夫だと言われても、何の保証にもならない。
大丈夫だと思っていても、何かが起きることはある。
それでも、彼はいつもそう言う。
ユイは、彼を見つめた。
「……絶対に帰ってきて」
ようやく、それだけを口にした。
レンは、目を見開いた。
そして、静かに頷いた。
「うん」
彼は、彼女の手をそっと離した。
「絶対に帰ってくるよ」
◇
レンは、橋へ向かって走り出した。
ユイは、彼の背中を見つめていた。
止めなければならなかったのかもしれない。
もっと強く腕をつかんでいれば。
彼を行かせないために、何か別の方法を考えられたなら。
そんな考えが、次々と頭の中に浮かんだ。
けれど、今はもう、彼を追いかけることはできなかった。
橋の手前には、まだ多くの避難民がいる。
彼らを安全な場所へ導かなければならない。
レンが、自分に託してくれた役割だった。
ユイは、ぎゅっと拳を握った。
「……皆さん、落ち着いて! こちらへ移動してください!」
声を張り上げる。
橋から戻ってきた人々を誘導し、子どもたちを安全な場所へ連れていく。
その間も、何度もレンの姿を探した。
橋の中央。
崩れかけた石の上を、彼が慎重に進んでいる。
転倒した老人を助け起こし、父親と女の子を支え、少しずつ橋の手前へ誘導していた。
ユイは、息を詰めて見守った。
どうか。
どうか、無事に帰ってきて。
何も起こらないで。
自分の願いが、どれほど身勝手なものなのか分かっていた。
目の前に助けを求めている人がいる。
レンが助けに向かったのは、その人たちのためだ。
彼の判断が間違っているとは思えない。
それでも、ユイは願わずにいられなかった。
彼に、帰ってきてほしい。
自分のところへ。
何事もなかったように笑って、ただいまと言ってほしい。
それが、どれほど自分勝手な願いだとしても。
◇
老人と父親、そして女の子が、橋の手前へたどり着いた。
周囲にいた人々が、彼らを支えて安全な場所へ移動させる。
「……よかった」
ユイは、思わず呟いた。
残るは、レンだけだった。
彼は橋の中央で、最後の避難民を誘導していた。
そのとき。
再び、大きな音が響いた。
橋の中央付近が崩れ落ちた。
「レン!」
ユイの叫び声が、雨上がりの空に響いた。
石の破片とともに川へ落ちていく。
濁った水が、橋の下で激しく跳ねた。
レンの姿が、見えなくなった。
ユイは、動けなかった。
今、何が起こったのか。
彼が、どこへ行ってしまったのか。
理解したくなかった。
「……レン?」
声が、震えた。
返事はない。
橋の向こうから、誰かが叫んでいた。
救助を呼ぶ声。
人々を後ろへ下がらせる声。
しかし、ユイには何も聞こえなかった。
目の前から、レンがいなくなった。
ただ、それだけのことが、世界のすべてを奪ってしまったように感じられた。
ユイは、橋へ走り出そうとした。
その腕を、誰かがつかんだ。
「駄目だ!」
避難誘導をしていた男性だった。
「橋が崩れている! 今、君が行ったら……!」
「離してください!」
ユイは、必死に腕を振りほどこうとした。
「レンが……!」
「分かっている! だが、今は危険だ!」
「でも……!」
その先の言葉が、出てこなかった。
以前にも、同じことがあった。
助けると約束した人がいた。
手を伸ばせば届きそうな場所にいた。
それなのに、戻れなかった。
今も、同じだ。
助けなければならない人がいる。
自分の大切な人が、危険な場所にいる。
それでも、自分は何もできない。
ユイは、男性の腕の中で、力が抜けていくのを感じた。
「……嫌だ」
声が、かすれた。
「……また、なの?」
また、何もできないのだろうか。
また、助けられなかった人のことを、ずっと考え続けなければならないのだろうか。
また、自分だけが、ここに残されるのだろうか。
ユイは、目を閉じた。
そして、祈った。
どうか。
どうか、彼だけは。
彼だけは、帰ってきて。
◇
レンが目を覚ましたのは、それからしばらくしてのことだった。
最初に感じたのは、冷たさだった。
身体の下に、硬い地面がある。
耳元では、水の流れる音が聞こえていた。
レンは、ゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけている。
何が起こったのか、すぐには思い出せなかった。
橋。
崩れた石。
避難民。
そして、ユイの声。
彼女は、自分に何と言っただろう。
――絶対に帰ってきて。
その言葉を思い出した瞬間、レンは身体を起こそうとした。
「……っ」
全身が重い。
頭の奥が、ひどく痛んだ。
それでも、彼は立ち上がろうとした。
戻らなければ。
ユイが待っている。
彼女は、自分が帰ってくることを願っていた。
ならば、帰らなければならない。
レンは、壁に手をつきながら立ち上がった。
自分がどうやって助かったのか、まだ分からなかった。
橋が崩れた瞬間、確かに自分は、もう戻れないと思った。
身体が強く打ちつけられた感覚。
息ができなくなった感覚。
そのあと、何もなくなったこと。
そして、今、再び目を開けていること。
その一つ一つが、現実のものとは思えなかった。
けれど、今は考えている場合ではなかった。
レンは、ゆっくりと歩き始めた。
自分の足で。
もう一度、ユイのもとへ帰るために。
◇
ユイは、救護所へ運ばれてきた負傷者を確認していた。
橋の崩落で怪我をした人々は、次々と治療を受けていた。
多くの人が助かった。
老人も、父親も、女の子も無事だった。
そのことを聞いて、ユイは少しだけ安心した。
けれど、彼女の心は、まだ橋の上に取り残されたままだった。
レンは、戻ってこない。
生き返る。
彼は、死んでも生き返る。
自分の目で見たこともある。
それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
もし、生き返らなかったら。
その考えが、頭から離れなかった。
レンは、どうして自分の命をあんなにも簡単に危険へさらすのだろう。
自分が死んでも生き返るから?
それとも、誰かを助けることのほうが、自分の命よりも大切だから?
ユイには、分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
彼がいなくなるのは、嫌だった。
彼が自分の命を失うことが、怖かった。
そのことを、もう否定できなかった。
「……ユイちゃん」
誰かが呼んだ。
振り向くと、橋の救助に向かっていた男性が立っていた。
「……まだ、見つかっていないの?」
ユイは、恐る恐る尋ねた。
男性は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも怖かった。
「……川沿いを捜している。もう少し、待ってくれ」
その言葉を聞いて、ユイは頷いた。
「……はい」
待つしかない。
そう分かっていた。
けれど、何もしないで待つことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
ユイは、何度も入口を見た。
誰かが歩いてくるたび、顔を上げた。
そのたびに、違う人だった。
レンではなかった。
そして、また次の足音が聞こえた。
ユイは、顔を上げた。
入口に、一人の少年が立っていた。
濡れた服。
泥だらけの靴。
少し疲れた顔。
そして、見慣れた瞳。
「……レン?」
ユイの声が、震えた。
レンは、彼女を見つけると、少しだけ笑った。
「……ただいま」
その瞬間、ユイの中で、何かが切れた。
「……っ、レン!」
彼女は駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。
レンは驚いたように目を見開いたが、すぐに彼女を抱き返した。
「……おかえり」
ユイの声は、涙で濡れていた。
「おかえり……!」
何度も、そう繰り返した。
レンは、彼女の背中へそっと手を置いた。
「……ごめんね。心配させて」
ユイは、首を横に振った。
「違う……違うの……!」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
謝ってほしいわけではない。
彼を責めたいわけでもない。
ただ、彼が戻ってきてくれたことが、嬉しかった。
それだけで、胸がいっぱいだった。
「……本当に、よかった」
ユイは、彼の服を握り締めた。
「……本当に、よかった……」
レンは、何も言わなかった。
ただ、彼女が泣き止むまで、そばにいた。
◇
その夜。
ハナは、レンの身体を改めて調べていた。
身体の傷は、ほとんど見当たらなかった。
橋の崩落に巻き込まれたとは思えないほど、外見上の損傷は少ない。
しかし、レンの反応には、いつもとは違うところがあった。
「……意識が戻るまで、どれくらいかかったか覚えている?」
ハナが尋ねる。
レンは、首を横に振った。
「……分かりません。気がついたら、川沿いにいました」
「そう」
ハナは記録用紙に目を落とした。
これまでにも、レンの身体には異常な反応が見られていた。
胸元の回生核と思われる反応。
通常の身体とは異なる回復速度。
そして、死んだはずの身体が、再び活動を始めるという不可解な現象。
今回も、その能力によって生き返ったのだろう。
しかし。
ハナは、記録に残された時刻を見つめた。
意識が戻るまでの時間が長くなっている。
偶然かもしれない。
今回の事故が、これまでよりも大きな負担を与えたのかもしれない。
今の段階では、断定できない。
それでも、見過ごすことはできなかった。
「……レン君」
「はい」
「今日は、もう休みなさい。明日も、無理はしないこと」
ハナは、念を押すように言った。
「自分の身体に何が起きているのか、あなた自身にも分からないのでしょう。ならば、なおさら、慎重に行動する必要があるわ」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
その返事を聞いて、ハナは記録用紙を閉じた。
彼の能力は、何度でも使えるものなのだろうか。
それとも、回生のたびに何かが変化しているのだろうか。
答えは、まだ分からない。
けれど、もしこの能力に限りがあるのなら。
もし、いつか生き返らなくなる日が来るのなら。
そのとき、彼はどうなるのだろう。
ハナは、レンの胸元に目を向けた。
衣服の下で、淡い光が、一瞬だけ瞬いた。
そして、すぐに消えた。
◇
診察を終えたあと、レンは救護所の廊下へ出た。
そこには、ユイが待っていた。
「……大丈夫だった?」
彼女は、少し不安そうに尋ねた。
「うん。大きな問題はないみたい」
「……そっか」
ユイは、安堵したように息を吐いた。
それから、少しだけ視線を落とした。
「……レン」
「うん?」
「……今日は、本当に怖かった」
その声は、小さかった。
レンは、彼女を見つめた。
「……うん」
「あなたが戻ってこなかったら、どうしようって思った」
ユイは、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたが生き返るって、分かっていたはずなのに。それでも、怖かった」
言葉にしてみると、その恐怖が、ようやく自分のものとして形を持った気がした。
自分は、彼が生き返ることを知っている。
けれど、それだけでは安心できなかった。
彼がいなくなることを、想像したくなかった。
「……レン」
ユイは、彼の手を握った。
「お願いだから、自分が死んでもいいなんて、思わないで」
レンは、目を見開いた。
ユイの手は、少し震えていた。
「あなたが誰かを助けたいって思う気持ちは、分かるよ。私も、そうだから」
彼女は、言葉を探しながら続けた。
「でも……あなたが死んでも生き返るからって、私が平気なわけじゃないんだよ」
レンは、何も言えなかった。
ユイの声には、怒りよりも悲しみがあった。
彼が誰かを助けようとすることを、否定したいわけではない。
ただ、そのたびに、彼が自分の命を失う可能性がある。
そのことが、どうしようもなく怖かった。
「……ごめん」
レンは、ようやくそう言った。
ユイは首を横に振った。
「謝ってほしいわけじゃないの」
彼女は、彼の手を握り直した。
「……ただ、帰ってきてほしい」
その言葉を聞いて、レンはゆっくりと頷いた。
「……うん」
彼は、彼女を見つめた。
「僕も、帰ってきたいと思ったよ」
「……え?」
「橋が崩れたとき、何が起きたのか、よく分からなかった。でも、目が覚めたとき……最初に思ったんだ」
レンは、少しだけ笑った。
「ユイのところへ、帰らなきゃって」
ユイは、息を呑んだ。
その言葉は、彼女が願っていたものだった。
彼が、自分の意思で帰ってきたいと思ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「……もう」
ユイは、俯いた。
「……そんなこと言われたら、また心配しちゃうじゃない」
「……ごめん」
「だから、謝らなくていいってば……」
二人は、小さく笑った。
それでも、ユイはすぐには手を離さなかった。
彼の手は温かかった。
その温かさを確かめるように、彼女は指先に力を込めた。
いつか、この手を離さなければならない日が来るのだろうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
けれど、今はまだ、その答えを知りたくなかった。
◇
翌朝。
レンは救護所の外で、一人の少年に呼び止められた。
橋の上で助けた、幼い女の子の弟だった。
少年は、少し緊張した様子で、両手に何かを持っていた。
「あの……」
「うん?」
「これ、お兄ちゃんに」
差し出されたのは、小さな木製の飾りだった。
木片を削って作った、簡素なものだった。
形は少し歪んでいて、表面には細かな傷が残っている。
けれど、丁寧に磨かれていた。
「……これは?」
「お兄ちゃんが、お姉ちゃんを助けてくれたから」
少年は、少し照れたように笑った。
「ぼく、何もできなかったから……。でも、これなら作れると思って」
レンは、飾りを受け取った。
手のひらに収まる、小さな木片。
何の力も持っていない。
怪我を治すことも、壊れた橋を直すことも、失われた命を取り戻すこともできない。
ただ、誰かが自分のために作ってくれたものだった。
「……ありがとう」
レンは、そう言った。
少年は、嬉しそうに笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、レンは思った。
自分は、誰かを助けた。
けれど、今、自分もまた、何かを受け取ったのだ。
それは、助けたことへの報酬ではない。
誰かが、自分のことを考えてくれた時間。
自分のことを覚えていてくれたこと。
そして、何かを伝えたいと思ってくれたこと。
そんな小さなものだった。
それなのに、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
◇
昼過ぎ、ハナは回生の記録を更新していた。
橋の崩落。
意識を失った時間。
回復までにかかった時間。
前回の記録と並べてみると、気になる変化があった。
今回、レンの意識が戻るまでの時間は、前回よりも明らかに長かった。
それが何を意味するのか。
ハナには、まだ分からない。
ただ、偶然として片づけることはできなかった。
彼女は、記録用紙の端に、小さく書き加えた。
――回生後の意識回復に遅延が認められる。今後も経過観察を継続する必要がある。
書き終えたあと、ハナはしばらく、その文字を見つめていた。
レンの能力は、彼を救っている。
しかし、それがどれほど彼に負担を与えているのかは、分からない。
死んでも生き返る。
その言葉だけを聞けば、まるで無敵のように思えるかもしれない。
けれど、命が失われる瞬間に何が起きているのか。
生き返るということが、彼の身体にどのような影響を与えているのか。
そのすべてを理解している人間は、まだ誰もいなかった。
ハナは窓の外を見た。
救護所の庭では、レンが木製の飾りを手に、ユイと話をしていた。
二人は何かを話しながら、笑っていた。
その光景を見て、ハナは小さく息を吐いた。
願わくば。
この少年が、自分の命を大切にできるようになってほしい。
自分が誰かを助けることと、自分自身を守ること。
その二つが、決して相反するものではないと、いつか知ってほしい。
そして、できることなら。
彼が、自分の人生を選べるようになってほしい。
何かを助けるためだけに存在するのではなく。
誰かに必要とされるためだけに生きるのでもなく。
自分自身が、ここにいたいと思える場所を見つけられるように。
ハナは、静かに記録用紙を閉じた。
◇
夕方、ユイとレンは救護所の裏手に座っていた。
ユイの膝の上には、小さな木製の飾りが置かれている。
「……これ、かわいいね」
彼女が言うと、レンは頷いた。
「うん。大切にしたいと思う」
「……そうだね」
ユイは、飾りを見つめた。
それを作った少年は、何かを返したかったのだろう。
自分が助けられたことを、覚えていてほしかったのかもしれない。
あるいは、ただ、ありがとうと伝えたかっただけなのかもしれない。
どちらにしても、この小さな飾りには、確かに誰かの気持ちが込められていた。
「……レン」
「うん?」
「今日、助けられてよかったね」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
それから、彼はユイを見つめた。
「でも、僕だけじゃなかったよね」
「え?」
「ユイが避難する人を誘導してくれたから、助かった人もいた。ハナさんが治療をしてくれたから、助かった人もいる。橋のそばにいた人たちも、みんな協力してくれた」
レンは、木製の飾りを見つめた。
「……僕一人では、何もできなかったと思う」
ユイは、少しだけ驚いた。
最初に出会った頃のレンなら、きっと、目の前の人を助けることだけを考えていただろう。
それは今も変わっていないのかもしれない。
けれど、彼は少しずつ、周囲の人々の存在にも目を向けるようになっている。
自分が何でもできるわけではないこと。
誰かと協力することで、できることが増えること。
そうしたことを、彼は自分の経験から学び始めているのだ。
「……そうだね」
ユイは、頷いた。
「私たちだけじゃ、できないこともあるもんね」
「うん」
二人は、しばらく黙っていた。
遠くでは、子どもたちの声が聞こえた。
救護所の前を、誰かが荷車を押して通り過ぎていく。
壊れた街の中にも、人々の生活は続いていた。
失われたものは、戻らない。
救えなかった命も、なかったことにはできない。
それでも、今ここにいる人々は、それぞれの場所で生きている。
助けられた人が、今度は誰かを助けるかもしれない。
今日、受け取った優しさが、明日には別の誰かへ渡されるかもしれない。
そんなふうにして、何かがつながっていくのだろう。
「……ユイ」
レンが呼んだ。
「うん?」
「僕は、これからも、誰かを助けたいと思う」
彼は、まっすぐ前を見つめていた。
「でも、今日みたいなことが起きたら……。君が心配してくれていることも、忘れないようにする」
ユイは、彼を見つめた。
胸の奥が、温かくなった。
「……うん」
彼女は、静かに頷いた。
「私も、あなたが誰かを助けたいと思う気持ちを、大切にしたい」
それから、少しだけ笑った。
「……でも、危ないときは、ちゃんと相談してね」
「うん」
「約束だよ」
「約束」
二人は、指先を軽く触れ合わせた。
それは、何でもない約束だった。
明日も無事でいると、確約できるものではない。
次の救助活動が、安全に終わる保証もない。
それでも、互いのことを考えながら行動する。
その小さな約束だけは、今ここで交わすことができた。
ユイは、隣のレンを見た。
彼は、手の中の木製の飾りを大切そうに握っていた。
その姿を見ながら、ユイは思った。
自分は、彼に生きていてほしい。
これからも、笑っていてほしい。
できることなら、明日も、明後日も、その先も。
けれど、その願いを彼に押しつけるだけではいけないのだろう。
彼には、彼の生き方がある。
自分には、自分の願いがある。
それらを大切にしながら、一緒に歩いていくことができたら。
いつか、そんな日が来るだろうか。
ユイは、少しだけ目を細めた。
今はまだ、分からない。
分からなくてもいいと思った。
ただ、今日、彼が帰ってきてくれたこと。
彼が自分の隣にいること。
そして、自分もまた、彼と一緒にいたいと思っていること。
その三つだけは、確かなものだった。
夕日が、壊れた街を淡く染めていた。
明日も、救護所には人々が訪れるだろう。
助けを求める声が聞こえるだろう。
そして二人は、また誰かを助けるために歩き始める。
その先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。
ただ、レンが何度でも生き返るという奇跡には、すでに小さな変化が生まれ始めていた。
その変化が何を意味するのか。
いつか彼自身が、知る日が来るのか。
まだ、分からない。
けれど、その日が近づいていることだけは、誰にも見えない場所で、静かに決まり始めていた。




