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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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08.救えないという選択

 レンが生き返れるのか。


 その問いを聞いた夜、ユイはすぐには眠れなかった。


 隣の寝台からは、規則正しい寝息が聞こえていた。


 レンは眠っている。


 少なくとも、そう見えた。


 彼の胸は静かに上下し、時折、寝返りを打つ。昨日までと何も変わらない、ごく普通の眠りだった。


 それなのに、ユイは何度も彼のほうを見てしまった。


 生き返る。


 死んでも、もう一度目を覚ます。


 そんなことが本当に起こるのだと、ユイは自分の目で確かめた。けれど、目の前で起きた奇跡を、どこまで信じればいいのか分からなかった。


 一度起きたことが、二度目にも起こるとは限らない。


 明日も同じように笑っていることと、明日も必ず目を覚ますことは、似ているようで違う。


 その違いを、ユイは考えないようにしていた。


 考えてしまえば、今まで当たり前だと思っていたことまで、不確かなものに変わってしまいそうだったからだ。


「……レン」


 声に出さず、名前だけを心の中で呼んだ。


 返事はない。


 それでもユイは、胸の奥に小さな寂しさを覚えた。


 自分でも、おかしいと思う。


 出会ってから、まだそれほど日が経っていない。


 彼の過去も知らない。好きなものも、嫌いなものも、どんな場所で育ったのかも分からない。


 それなのに、彼がいなくなることを想像すると、胸が苦しくなった。


 ユイは毛布を引き上げ、目を閉じた。


 今は、まだ考えなくてもいい。


 彼はここにいる。


 それなら、明日も一緒にいられるかもしれない。


 その小さな希望を抱えたまま、ユイはようやく眠りに落ちた。


     ◇


 翌朝、救護所はいつもより慌ただしかった。


 夜半から降り続いた雨の影響で、川沿いの道が一部使えなくなったらしい。上流にある古い橋も、崩落の危険があるため、通行が制限されていた。


 問題は、その橋を渡らなければ避難できない人々がいることだった。


「向こう側の集落から、避難民が移動しているそうよ」


 ハナは地図を広げながら説明した。


「橋が完全に使えなくなれば、別の経路を探さなければならない。でも、迂回路はかなり遠い。負傷者や子どもを連れて移動するのは難しいわ」


 ユイは地図を覗き込んだ。


 川は、街の東側を大きく迂回するように流れている。


 橋が使えなくなれば、避難民は川沿いを長く移動しなければならない。しかも、雨が続けば、道そのものが通れなくなる可能性もある。


「……今すぐ行ったほうがいいんじゃないですか?」


 ユイが尋ねると、ハナは頷いた。


「そうね。こちらから人手を送るわ。ただし、橋の状態を確かめてから。決して無理はしないこと」


 最後の言葉は、ユイとレンに向けられていた。


 二人は顔を見合わせた。


「……分かりました」


 ユイが答える。


 レンも頷いた。


「僕たちにできることを、探してきます」


 ハナは、少しだけ表情を和らげた。


「お願いね。ただし、橋が危険なら引き返すこと。人を助けるために向かった人が、新たな救助を必要とすることになってはいけないわ」


 その言葉に、ユイは胸の奥がちくりとした。


 以前なら、危険だと言われても、すぐに引き返すことはできなかったかもしれない。


 助けを必要としている人がいると知れば、とにかく現場へ行きたいと思ってしまう。


 けれど、今は少しだけ違う。


 自分が危険に飛び込めば、隣にいる人まで危険にさらしてしまうことがある。


 自分一人の問題ではないのだ。


 ユイは、隣に立つレンを見た。


 彼は、いつものように穏やかな顔をしていた。


 その横顔を見ながら、ユイは小さく息を吐いた。


「……レン」


「うん?」


「今日は、ちゃんと二人で帰ろうね」


 レンは一瞬、驚いたように目を見開いた。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「うん。約束する」


 その返事を聞いて、ユイは少しだけ安心した。


 約束。


 たった一言なのに、それがあるだけで、人は少し先の未来を信じられるようになる。


 ユイは、そのことを大切にしたいと思った。


     ◇


 橋へ向かう道は、ところどころぬかるんでいた。


 雨は弱まっていたものの、地面は水を含み、踏み出すたびに靴が沈む。


 ユイは足元を確認しながら進み、レンは周囲の建物や道の状態を見ていた。


「……この辺り、前にも通ったことがある気がする」


 レンが、ふと呟いた。


「え?」


「いや……気のせいかもしれない」


 彼は、古い石壁を見つめていた。


 そこには、ひび割れた壁の一部に、かすかな刻印が残っていた。


 何かの文字のようにも見えるが、風雨に削られ、判別できない。


 レンはその刻印から目を離せなかった。


 懐かしい。


 そう感じたのだ。


 けれど、何が懐かしいのか分からない。


 この道を通ったことがあるのかもしれない。


 この壁を、どこかで見たことがあるのかもしれない。


 そう思っても、記憶は戻らなかった。


 残るのは、触れたはずのない過去に、指先だけが触れたような感覚だった。


「……レン?」


 ユイが呼びかける。


「大丈夫?」


「うん。ちょっと、気になるものがあっただけ」


「何か思い出したの?」


「……分からない」


 レンは少しだけ苦笑した。


「思い出せそうで、思い出せないんだ」


 ユイは、それ以上尋ねなかった。


 彼が何かを思い出しかけるたび、苦しそうになることがある。


 だから、無理に思い出してほしいとは思わなかった。


 過去が分かれば、彼が何者なのかも、少しは明らかになるのかもしれない。


 それでも、彼が苦しむ姿を見たいわけではない。


「……思い出したら、教えてね」


 ユイは、そっと言った。


「でも、無理に思い出そうとしなくてもいいから」


 レンは、彼女を見つめた。


「……うん。ありがとう」


 二人は、再び歩き始めた。


 橋が近づくにつれ、人々の声が聞こえてきた。


     ◇


 橋の手前には、すでに多くの避難民が集まっていた。


 古い石橋は川幅の広い場所に架かっており、橋脚の一部が雨水で削られていた。水かさは増し、濁った川の流れが、橋の下を速く通り過ぎている。


 橋の中央付近には、亀裂が走っていた。


「……これは」


 ユイは思わず足を止めた。


 橋を渡る人々は、恐る恐る歩いていた。


 荷物を抱えた男性。


 小さな子どもを背負った女性。


 足を引きずる老人。


 彼らは、向こう岸へ渡るために、ゆっくりと列を作っていた。


 橋の手前では、避難誘導をしていた男性が声を張り上げていた。


「一度に渡らないでください! 荷物はできるだけ減らして、間隔を空けて!」


 しかし、避難民の列は途切れなかった。


 皆、不安そうに橋を見つめながら、それでも前へ進もうとしていた。


 戻る場所がない。


 ここを渡らなければ、いつまた戦闘に巻き込まれるか分からない。


 その不安が、人々の足を前へ進ませているようだった。


「……ユイ」


 レンが、彼女の隣で立ち止まった。


「橋の状態、かなり悪いね」


「うん。これ以上、たくさんの人が渡るのは危険かもしれない」


 二人は、避難誘導をしている男性のもとへ向かった。


 ユイが状況を尋ねると、男性は疲れた顔で答えた。


「向こう岸には、まだ避難できていない人たちがいるんだ。こっちへ来る人もいるし、向こうへ渡らなければならない人もいる。だが、橋がいつまでもつか分からない」


「別の道はないんですか?」


「あるにはある。だが、かなり遠い。今からあちらへ回れば、途中で日が暮れてしまう。小さな子どもや怪我人を連れて行くのは難しいだろう」


 ユイは、橋を見つめた。


 助けたい人がいる。


 けれど、安全に渡れるかどうかも分からない。


 橋を渡れば、避難民を早く移動させられるかもしれない。


 しかし、もし橋が崩れれば、かえって多くの命が危険にさらされる。


 選択を間違えれば、取り返しのつかないことになる。


 どうすればいいのだろう。


 ユイは、橋の亀裂を見つめた。


 そのとき、レンが口を開いた。


「……まず、渡る人を減らしたほうがいいと思います」


 男性が振り返った。


「何?」


「一度にたくさんの人が渡ると、橋にかかる負担が増えます。子どもや怪我をしている人を優先して、少人数ずつ渡す。橋の状態も、何人かで確認しながら進めれば……」


「そんなことは分かっている!」


 男性は、思わず声を荒らげた。


 レンは言葉を止めた。


 男性はすぐに、自分が大きな声を出したことに気づいたようだった。


「……すまない」


 彼は、疲れたように額を押さえた。


「こちらも、分かっているんだ。安全に渡すことが大切だってことは。だが、向こうにいる人たちは、ずっと待っている。こちらへ来ようとしている人たちも、何時間も歩いてきたんだ。これ以上待たせるわけにはいかない」


 その声には、苛立ちよりも、苦しさが滲んでいた。


 彼は、何も考えずに人々を橋へ渡らせているわけではない。


 どうすればいいのか、必死に考えている。


 それでも、正解が見つからないのだ。


 レンは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……すみません。簡単に言いすぎました」


 男性は、何も答えなかった。


 ユイは、そのやり取りを見つめていた。


 正しいことを言えば、問題が解決するわけではない。


 危険だと分かっていても、危険を避けられないことがある。


 誰もが安全を望んでいる。


 それでも、安全だけを優先すれば、間に合わなくなる人がいる。


 どちらを選んでも、誰かが困る。


 そんな現実を前にして、ユイは自分が何をすればいいのか分からなくなった。


 けれど、ただ立ち尽くしているわけにもいかなかった。


「……私たちも、手伝います」


 ユイは男性に言った。


「避難する人の誘導をします。橋の状態を見ながら、危険があればすぐに知らせます」


 男性は、少し驚いたように彼女を見た。


 やがて、静かに頷いた。


「……頼む」


     ◇


 二人は、橋の手前で避難民の誘導を始めた。


 ユイは、子どもや怪我人を優先して橋へ進めるよう案内し、レンは橋の状態を確認しながら、人々の歩く間隔を保つよう声をかけた。


 誰もが不安そうだった。


 橋の途中で立ち止まる人もいた。


 後ろから来る人に押され、足を踏み外しそうになる人もいた。


 そのたびに、ユイたちは声をかけ、落ち着いて進むように促した。


「大丈夫です。ゆっくりでいいので、前の人と間隔を空けてください」


 ユイは、何度も同じ言葉を繰り返した。


 自分自身も、怖かった。


 橋の亀裂を見るたび、足元が頼りなく感じられる。


 もし今、橋が崩れたら。


 そう考えると、胸の奥が冷たくなった。


 それでも、彼女は人々を誘導し続けた。


 ここで自分が怯えてしまえば、周囲の人々も不安になるかもしれない。


 だから、落ち着いていなければならない。


 自分にできることを、やらなければならない。


 そう考えていた。


 そのとき、橋の向こうから、幼い声が聞こえた。


「お父さん、早く!」


 小さな女の子が、父親の手を引っ張っていた。


 父親は、足をかばうように歩いている。片方の靴は濡れ、服には泥がついていた。


「待ちなさい。走っちゃ駄目だ」


「でも、怖いよ!」


 女の子は、泣きそうな顔をしていた。


 ユイは、その声に反応して橋の中央を見た。


「……ゆっくりで大丈夫だよ!」


 声をかける。


「急がなくていいからね。前の人について、ゆっくり歩いて!」


 女の子は、こちらを見た。


 少しだけ安心したように、頷く。


 父親は、申し訳なさそうに頭を下げた。


 ユイは、小さく笑い返した。


 その瞬間だった。


 橋の奥から、鈍い音が響いた。


 石が軋むような音だった。


 ユイは顔を上げた。


 橋の中央付近に、これまでよりも大きな亀裂が走っていた。


「……危ない!」


 誰かが叫んだ。


 橋の上にいた人々が、一斉に足を止めた。


 その直後、橋脚の一部が崩れた。


 大きな音がした。


 橋の中央が沈み、石の破片が川へ落ちていく。


 人々の悲鳴が、雨上がりの空気を切り裂いた。


     ◇


 ユイは、反射的に走り出していた。


 橋の中央には、まだ何人もの人が残っている。


 小さな女の子。


 その父親。


 足を痛めた老人。


 そして、何人もの避難民。


 彼らは、崩れ始めた橋の上で、動けなくなっていた。


「こちらへ! こっちです!」


 ユイは声を張り上げた。


 橋の手前へ戻るよう、人々を誘導する。



 しかし、橋の一部が崩れたことで、渡り切ることも、引き返すことも難しくなっていた。

 レンは、橋の状態を見つめた。


 その顔から、いつもの穏やかさが消えていた。


「……ユイ!」


 レンが叫ぶ。


「そっちは危ない! いったん戻って!」


 ユイは、橋の上を見た。


 女の子が、父親の腕をつかんで泣いていた。


 そのすぐそばで、老人が転倒している。


 誰も、すぐには動けなかった。


 足元の石が、今にも崩れそうになっている。


 ユイは、唇を噛んだ。


 どうすればいい。


 このままでは、全員が危険にさらされる。


 けれど、ここで誰も動かなければ、取り残された人たちは助からないかもしれない。


「……私が行く!」


 ユイが叫んだ瞬間、レンがその腕をつかんだ。


「待って!」


「でも、あそこに……!」


「分かってる!」


 レンは、橋の中央を見つめていた。


 彼の手に、力がこもる。


「僕が行く」


 ユイは、息を呑んだ。


「……駄目!」


「ユイ、ここで君まで危険な場所へ行ったら、助けられる人が減る」


 レンは、彼女を見つめた。


「君は、こっちで誘導を続けて。僕が、あの人たちを連れてくる」


「でも……!」


 その先の言葉が、出てこなかった。


 レンが何を考えているのか、分かっていたからだ。


 彼は、自分が死んでも生き返ることを知っている。


 もし橋が崩れても、自分は生き返ることができる。


 そう考えているのかもしれない。


 けれど。


 それは、本当に正しいのだろうか。


 彼が死んでも生き返るからといって、死んでいいわけではない。


 それに、彼が生き返るまでの時間に、何が起こるか分からない。


 ユイは、彼の腕をつかんだ。


「……レン。お願いだから、無理をしないで」


 声が震えた。


 彼は、彼女の手を見つめた。


 それから、少しだけ微笑んだ。


「……大丈夫」


 ユイは、その言葉が嫌いだった。


 大丈夫だと言われても、何の保証にもならない。


 大丈夫だと思っていても、何かが起きることはある。


 それでも、彼はいつもそう言う。


 ユイは、彼を見つめた。


「……絶対に帰ってきて」


 ようやく、それだけを口にした。


 レンは、目を見開いた。


 そして、静かに頷いた。


「うん」


 彼は、彼女の手をそっと離した。


「絶対に帰ってくるよ」


     ◇


 レンは、橋へ向かって走り出した。


 ユイは、彼の背中を見つめていた。


 止めなければならなかったのかもしれない。


 もっと強く腕をつかんでいれば。


 彼を行かせないために、何か別の方法を考えられたなら。


 そんな考えが、次々と頭の中に浮かんだ。


 けれど、今はもう、彼を追いかけることはできなかった。


 橋の手前には、まだ多くの避難民がいる。


 彼らを安全な場所へ導かなければならない。


 レンが、自分に託してくれた役割だった。


 ユイは、ぎゅっと拳を握った。


「……皆さん、落ち着いて! こちらへ移動してください!」


 声を張り上げる。


 橋から戻ってきた人々を誘導し、子どもたちを安全な場所へ連れていく。


 その間も、何度もレンの姿を探した。


 橋の中央。


 崩れかけた石の上を、彼が慎重に進んでいる。


 転倒した老人を助け起こし、父親と女の子を支え、少しずつ橋の手前へ誘導していた。


 ユイは、息を詰めて見守った。


 どうか。


 どうか、無事に帰ってきて。


 何も起こらないで。


 自分の願いが、どれほど身勝手なものなのか分かっていた。


 目の前に助けを求めている人がいる。


 レンが助けに向かったのは、その人たちのためだ。


 彼の判断が間違っているとは思えない。


 それでも、ユイは願わずにいられなかった。


 彼に、帰ってきてほしい。


 自分のところへ。


 何事もなかったように笑って、ただいまと言ってほしい。


 それが、どれほど自分勝手な願いだとしても。


     ◇


 老人と父親、そして女の子が、橋の手前へたどり着いた。


 周囲にいた人々が、彼らを支えて安全な場所へ移動させる。


「……よかった」


 ユイは、思わず呟いた。


 残るは、レンだけだった。


 彼は橋の中央で、最後の避難民を誘導していた。


 そのとき。


 再び、大きな音が響いた。


 橋の中央付近が崩れ落ちた。


「レン!」


 ユイの叫び声が、雨上がりの空に響いた。


 石の破片とともに川へ落ちていく。


 濁った水が、橋の下で激しく跳ねた。


 レンの姿が、見えなくなった。


 ユイは、動けなかった。


 今、何が起こったのか。


 彼が、どこへ行ってしまったのか。


 理解したくなかった。


「……レン?」


 声が、震えた。


 返事はない。


 橋の向こうから、誰かが叫んでいた。


 救助を呼ぶ声。


 人々を後ろへ下がらせる声。


 しかし、ユイには何も聞こえなかった。


 目の前から、レンがいなくなった。


 ただ、それだけのことが、世界のすべてを奪ってしまったように感じられた。


 ユイは、橋へ走り出そうとした。


 その腕を、誰かがつかんだ。


「駄目だ!」


 避難誘導をしていた男性だった。


「橋が崩れている! 今、君が行ったら……!」


「離してください!」


 ユイは、必死に腕を振りほどこうとした。


「レンが……!」


「分かっている! だが、今は危険だ!」


「でも……!」


 その先の言葉が、出てこなかった。


 以前にも、同じことがあった。


 助けると約束した人がいた。


 手を伸ばせば届きそうな場所にいた。


 それなのに、戻れなかった。


 今も、同じだ。


 助けなければならない人がいる。


 自分の大切な人が、危険な場所にいる。


 それでも、自分は何もできない。


 ユイは、男性の腕の中で、力が抜けていくのを感じた。


「……嫌だ」


 声が、かすれた。


「……また、なの?」


 また、何もできないのだろうか。


 また、助けられなかった人のことを、ずっと考え続けなければならないのだろうか。


 また、自分だけが、ここに残されるのだろうか。


 ユイは、目を閉じた。


 そして、祈った。


 どうか。


 どうか、彼だけは。


 彼だけは、帰ってきて。


     ◇


 レンが目を覚ましたのは、それからしばらくしてのことだった。


 最初に感じたのは、冷たさだった。


 身体の下に、硬い地面がある。


 耳元では、水の流れる音が聞こえていた。


 レンは、ゆっくりと目を開けた。


 視界がぼやけている。


 何が起こったのか、すぐには思い出せなかった。


 橋。


 崩れた石。


 避難民。


 そして、ユイの声。


 彼女は、自分に何と言っただろう。


 ――絶対に帰ってきて。


 その言葉を思い出した瞬間、レンは身体を起こそうとした。


「……っ」


 全身が重い。


 頭の奥が、ひどく痛んだ。


 それでも、彼は立ち上がろうとした。


 戻らなければ。


 ユイが待っている。


 彼女は、自分が帰ってくることを願っていた。


 ならば、帰らなければならない。


 レンは、壁に手をつきながら立ち上がった。


 自分がどうやって助かったのか、まだ分からなかった。


 橋が崩れた瞬間、確かに自分は、もう戻れないと思った。


 身体が強く打ちつけられた感覚。


 息ができなくなった感覚。


 そのあと、何もなくなったこと。


 そして、今、再び目を開けていること。


 その一つ一つが、現実のものとは思えなかった。


 けれど、今は考えている場合ではなかった。


 レンは、ゆっくりと歩き始めた。


 自分の足で。


 もう一度、ユイのもとへ帰るために。


     ◇


 ユイは、救護所へ運ばれてきた負傷者を確認していた。


 橋の崩落で怪我をした人々は、次々と治療を受けていた。


 多くの人が助かった。


 老人も、父親も、女の子も無事だった。


 そのことを聞いて、ユイは少しだけ安心した。


 けれど、彼女の心は、まだ橋の上に取り残されたままだった。


 レンは、戻ってこない。


 生き返る。


 彼は、死んでも生き返る。


 自分の目で見たこともある。


 それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。


 もし、生き返らなかったら。


 その考えが、頭から離れなかった。


 レンは、どうして自分の命をあんなにも簡単に危険へさらすのだろう。


 自分が死んでも生き返るから?


 それとも、誰かを助けることのほうが、自分の命よりも大切だから?


 ユイには、分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 彼がいなくなるのは、嫌だった。


 彼が自分の命を失うことが、怖かった。


 そのことを、もう否定できなかった。


「……ユイちゃん」


 誰かが呼んだ。


 振り向くと、橋の救助に向かっていた男性が立っていた。


「……まだ、見つかっていないの?」


 ユイは、恐る恐る尋ねた。


 男性は、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、何よりも怖かった。


「……川沿いを捜している。もう少し、待ってくれ」


 その言葉を聞いて、ユイは頷いた。


「……はい」


 待つしかない。


 そう分かっていた。


 けれど、何もしないで待つことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


 ユイは、何度も入口を見た。


 誰かが歩いてくるたび、顔を上げた。


 そのたびに、違う人だった。


 レンではなかった。


 そして、また次の足音が聞こえた。


 ユイは、顔を上げた。


 入口に、一人の少年が立っていた。


 濡れた服。


 泥だらけの靴。


 少し疲れた顔。


 そして、見慣れた瞳。


「……レン?」


 ユイの声が、震えた。


 レンは、彼女を見つけると、少しだけ笑った。


「……ただいま」


 その瞬間、ユイの中で、何かが切れた。


「……っ、レン!」


 彼女は駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。


 レンは驚いたように目を見開いたが、すぐに彼女を抱き返した。


「……おかえり」


 ユイの声は、涙で濡れていた。


「おかえり……!」


 何度も、そう繰り返した。


 レンは、彼女の背中へそっと手を置いた。


「……ごめんね。心配させて」


 ユイは、首を横に振った。


「違う……違うの……!」


 何が違うのか、自分でも分からなかった。


 謝ってほしいわけではない。


 彼を責めたいわけでもない。


 ただ、彼が戻ってきてくれたことが、嬉しかった。


 それだけで、胸がいっぱいだった。


「……本当に、よかった」


 ユイは、彼の服を握り締めた。


「……本当に、よかった……」


 レンは、何も言わなかった。


 ただ、彼女が泣き止むまで、そばにいた。


     ◇


 その夜。


 ハナは、レンの身体を改めて調べていた。


 身体の傷は、ほとんど見当たらなかった。


 橋の崩落に巻き込まれたとは思えないほど、外見上の損傷は少ない。


 しかし、レンの反応には、いつもとは違うところがあった。


「……意識が戻るまで、どれくらいかかったか覚えている?」


 ハナが尋ねる。


 レンは、首を横に振った。


「……分かりません。気がついたら、川沿いにいました」


「そう」


 ハナは記録用紙に目を落とした。


 これまでにも、レンの身体には異常な反応が見られていた。


 胸元の回生核と思われる反応。


 通常の身体とは異なる回復速度。


 そして、死んだはずの身体が、再び活動を始めるという不可解な現象。


 今回も、その能力によって生き返ったのだろう。


 しかし。


 ハナは、記録に残された時刻を見つめた。


 意識が戻るまでの時間が長くなっている。


 偶然かもしれない。


 今回の事故が、これまでよりも大きな負担を与えたのかもしれない。


 今の段階では、断定できない。


 それでも、見過ごすことはできなかった。


「……レン君」


「はい」


「今日は、もう休みなさい。明日も、無理はしないこと」


 ハナは、念を押すように言った。


「自分の身体に何が起きているのか、あなた自身にも分からないのでしょう。ならば、なおさら、慎重に行動する必要があるわ」


 レンは、少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 その返事を聞いて、ハナは記録用紙を閉じた。


 彼の能力は、何度でも使えるものなのだろうか。


 それとも、回生のたびに何かが変化しているのだろうか。


 答えは、まだ分からない。


 けれど、もしこの能力に限りがあるのなら。


 もし、いつか生き返らなくなる日が来るのなら。


 そのとき、彼はどうなるのだろう。


 ハナは、レンの胸元に目を向けた。


 衣服の下で、淡い光が、一瞬だけ瞬いた。


 そして、すぐに消えた。


     ◇


 診察を終えたあと、レンは救護所の廊下へ出た。


 そこには、ユイが待っていた。


「……大丈夫だった?」


 彼女は、少し不安そうに尋ねた。


「うん。大きな問題はないみたい」


「……そっか」


 ユイは、安堵したように息を吐いた。


 それから、少しだけ視線を落とした。


「……レン」


「うん?」


「……今日は、本当に怖かった」


 その声は、小さかった。


 レンは、彼女を見つめた。


「……うん」


「あなたが戻ってこなかったら、どうしようって思った」


 ユイは、ゆっくりと顔を上げた。


「あなたが生き返るって、分かっていたはずなのに。それでも、怖かった」


 言葉にしてみると、その恐怖が、ようやく自分のものとして形を持った気がした。


 自分は、彼が生き返ることを知っている。


 けれど、それだけでは安心できなかった。


 彼がいなくなることを、想像したくなかった。


「……レン」


 ユイは、彼の手を握った。


「お願いだから、自分が死んでもいいなんて、思わないで」


 レンは、目を見開いた。


 ユイの手は、少し震えていた。


「あなたが誰かを助けたいって思う気持ちは、分かるよ。私も、そうだから」


 彼女は、言葉を探しながら続けた。


「でも……あなたが死んでも生き返るからって、私が平気なわけじゃないんだよ」


 レンは、何も言えなかった。


 ユイの声には、怒りよりも悲しみがあった。


 彼が誰かを助けようとすることを、否定したいわけではない。


 ただ、そのたびに、彼が自分の命を失う可能性がある。


 そのことが、どうしようもなく怖かった。


「……ごめん」


 レンは、ようやくそう言った。


 ユイは首を横に振った。


「謝ってほしいわけじゃないの」


 彼女は、彼の手を握り直した。


「……ただ、帰ってきてほしい」


 その言葉を聞いて、レンはゆっくりと頷いた。


「……うん」


 彼は、彼女を見つめた。


「僕も、帰ってきたいと思ったよ」


「……え?」


「橋が崩れたとき、何が起きたのか、よく分からなかった。でも、目が覚めたとき……最初に思ったんだ」


 レンは、少しだけ笑った。


「ユイのところへ、帰らなきゃって」


 ユイは、息を呑んだ。


 その言葉は、彼女が願っていたものだった。


 彼が、自分の意思で帰ってきたいと思ってくれた。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


「……もう」


 ユイは、俯いた。


「……そんなこと言われたら、また心配しちゃうじゃない」


「……ごめん」


「だから、謝らなくていいってば……」


 二人は、小さく笑った。


 それでも、ユイはすぐには手を離さなかった。


 彼の手は温かかった。


 その温かさを確かめるように、彼女は指先に力を込めた。


 いつか、この手を離さなければならない日が来るのだろうか。


 そんな考えが、ふと頭をよぎった。


 けれど、今はまだ、その答えを知りたくなかった。


     ◇


 翌朝。


 レンは救護所の外で、一人の少年に呼び止められた。


 橋の上で助けた、幼い女の子の弟だった。


 少年は、少し緊張した様子で、両手に何かを持っていた。


「あの……」


「うん?」


「これ、お兄ちゃんに」


 差し出されたのは、小さな木製の飾りだった。


 木片を削って作った、簡素なものだった。


 形は少し歪んでいて、表面には細かな傷が残っている。


 けれど、丁寧に磨かれていた。


「……これは?」


「お兄ちゃんが、お姉ちゃんを助けてくれたから」


 少年は、少し照れたように笑った。


「ぼく、何もできなかったから……。でも、これなら作れると思って」


 レンは、飾りを受け取った。


 手のひらに収まる、小さな木片。


 何の力も持っていない。


 怪我を治すことも、壊れた橋を直すことも、失われた命を取り戻すこともできない。


 ただ、誰かが自分のために作ってくれたものだった。


「……ありがとう」


 レンは、そう言った。


 少年は、嬉しそうに笑った。


「うん!」


 その笑顔を見て、レンは思った。


 自分は、誰かを助けた。


 けれど、今、自分もまた、何かを受け取ったのだ。


 それは、助けたことへの報酬ではない。


 誰かが、自分のことを考えてくれた時間。


 自分のことを覚えていてくれたこと。


 そして、何かを伝えたいと思ってくれたこと。


 そんな小さなものだった。


 それなのに、胸の奥が、少しだけ温かくなった。


     ◇


 昼過ぎ、ハナは回生の記録を更新していた。


 橋の崩落。


 意識を失った時間。


 回復までにかかった時間。


 前回の記録と並べてみると、気になる変化があった。


 今回、レンの意識が戻るまでの時間は、前回よりも明らかに長かった。


 それが何を意味するのか。


 ハナには、まだ分からない。


 ただ、偶然として片づけることはできなかった。


 彼女は、記録用紙の端に、小さく書き加えた。


 ――回生後の意識回復に遅延が認められる。今後も経過観察を継続する必要がある。


 書き終えたあと、ハナはしばらく、その文字を見つめていた。


 レンの能力は、彼を救っている。


 しかし、それがどれほど彼に負担を与えているのかは、分からない。


 死んでも生き返る。


 その言葉だけを聞けば、まるで無敵のように思えるかもしれない。


 けれど、命が失われる瞬間に何が起きているのか。


 生き返るということが、彼の身体にどのような影響を与えているのか。


 そのすべてを理解している人間は、まだ誰もいなかった。


 ハナは窓の外を見た。


 救護所の庭では、レンが木製の飾りを手に、ユイと話をしていた。


 二人は何かを話しながら、笑っていた。


 その光景を見て、ハナは小さく息を吐いた。


 願わくば。


 この少年が、自分の命を大切にできるようになってほしい。


 自分が誰かを助けることと、自分自身を守ること。


 その二つが、決して相反するものではないと、いつか知ってほしい。


 そして、できることなら。


 彼が、自分の人生を選べるようになってほしい。


 何かを助けるためだけに存在するのではなく。


 誰かに必要とされるためだけに生きるのでもなく。


 自分自身が、ここにいたいと思える場所を見つけられるように。


 ハナは、静かに記録用紙を閉じた。


     ◇


 夕方、ユイとレンは救護所の裏手に座っていた。


 ユイの膝の上には、小さな木製の飾りが置かれている。


「……これ、かわいいね」


 彼女が言うと、レンは頷いた。


「うん。大切にしたいと思う」


「……そうだね」


 ユイは、飾りを見つめた。


 それを作った少年は、何かを返したかったのだろう。


 自分が助けられたことを、覚えていてほしかったのかもしれない。


 あるいは、ただ、ありがとうと伝えたかっただけなのかもしれない。


 どちらにしても、この小さな飾りには、確かに誰かの気持ちが込められていた。


「……レン」


「うん?」


「今日、助けられてよかったね」


 レンは、少しだけ目を伏せた。


「……うん」


 それから、彼はユイを見つめた。


「でも、僕だけじゃなかったよね」


「え?」


「ユイが避難する人を誘導してくれたから、助かった人もいた。ハナさんが治療をしてくれたから、助かった人もいる。橋のそばにいた人たちも、みんな協力してくれた」


 レンは、木製の飾りを見つめた。


「……僕一人では、何もできなかったと思う」


 ユイは、少しだけ驚いた。


 最初に出会った頃のレンなら、きっと、目の前の人を助けることだけを考えていただろう。


 それは今も変わっていないのかもしれない。


 けれど、彼は少しずつ、周囲の人々の存在にも目を向けるようになっている。


 自分が何でもできるわけではないこと。


 誰かと協力することで、できることが増えること。


 そうしたことを、彼は自分の経験から学び始めているのだ。


「……そうだね」


 ユイは、頷いた。


「私たちだけじゃ、できないこともあるもんね」


「うん」


 二人は、しばらく黙っていた。


 遠くでは、子どもたちの声が聞こえた。


 救護所の前を、誰かが荷車を押して通り過ぎていく。


 壊れた街の中にも、人々の生活は続いていた。


 失われたものは、戻らない。


 救えなかった命も、なかったことにはできない。


 それでも、今ここにいる人々は、それぞれの場所で生きている。


 助けられた人が、今度は誰かを助けるかもしれない。


 今日、受け取った優しさが、明日には別の誰かへ渡されるかもしれない。


 そんなふうにして、何かがつながっていくのだろう。


「……ユイ」


 レンが呼んだ。


「うん?」


「僕は、これからも、誰かを助けたいと思う」


 彼は、まっすぐ前を見つめていた。


「でも、今日みたいなことが起きたら……。君が心配してくれていることも、忘れないようにする」


 ユイは、彼を見つめた。


 胸の奥が、温かくなった。


「……うん」


 彼女は、静かに頷いた。


「私も、あなたが誰かを助けたいと思う気持ちを、大切にしたい」


 それから、少しだけ笑った。


「……でも、危ないときは、ちゃんと相談してね」


「うん」


「約束だよ」


「約束」


 二人は、指先を軽く触れ合わせた。


 それは、何でもない約束だった。


 明日も無事でいると、確約できるものではない。


 次の救助活動が、安全に終わる保証もない。


 それでも、互いのことを考えながら行動する。


 その小さな約束だけは、今ここで交わすことができた。


 ユイは、隣のレンを見た。


 彼は、手の中の木製の飾りを大切そうに握っていた。


 その姿を見ながら、ユイは思った。


 自分は、彼に生きていてほしい。


 これからも、笑っていてほしい。


 できることなら、明日も、明後日も、その先も。


 けれど、その願いを彼に押しつけるだけではいけないのだろう。


 彼には、彼の生き方がある。


 自分には、自分の願いがある。


 それらを大切にしながら、一緒に歩いていくことができたら。


 いつか、そんな日が来るだろうか。


 ユイは、少しだけ目を細めた。


 今はまだ、分からない。


 分からなくてもいいと思った。


 ただ、今日、彼が帰ってきてくれたこと。


 彼が自分の隣にいること。


 そして、自分もまた、彼と一緒にいたいと思っていること。


 その三つだけは、確かなものだった。


 夕日が、壊れた街を淡く染めていた。


 明日も、救護所には人々が訪れるだろう。


 助けを求める声が聞こえるだろう。


 そして二人は、また誰かを助けるために歩き始める。


 その先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。


 ただ、レンが何度でも生き返るという奇跡には、すでに小さな変化が生まれ始めていた。


 その変化が何を意味するのか。


 いつか彼自身が、知る日が来るのか。


 まだ、分からない。


 けれど、その日が近づいていることだけは、誰にも見えない場所で、静かに決まり始めていた。


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