07.道を教えてくれた少女
その少女が現れたのは、雨の降る午後だった。
戦争が始まってから、この街の天気を気にする人は少なくなった。
晴れていれば洗濯物を干せる。雨が降れば、壊れた屋根から水が入り込む。そんな当たり前のことさえ、今では誰かの生死に関わる場合がある。
それでも、空から降る雨は、戦争の事情など知らないかのように、静かに街を濡らしていた。
ユイは救護所の軒下で、積み上げられた木箱を眺めていた。
今日の仕事は、物資の整理と避難民の誘導だった。
昨日までに運ばれてきた物資の中には、雨に濡れると使えなくなるものもある。ハナからは、濡れない場所へ移動させておくように頼まれていた。
「……これで最後かな」
最後の木箱を壁際へ移動させ、ユイは腰を伸ばした。
身体のあちこちが重かった。
最近は、朝起きると疲れが残っていることが増えた。眠っているあいだも、遠くの物音に反応して目を覚ましてしまうからだろう。
それでも、以前よりは少しだけ、眠れるようになっていた。
レンが、夜に一人でいなくならなくなったからだ。
あの日、彼が何も言わずに救護所を去ろうとしたことを思い出すと、今でも胸の奥が落ち着かなくなる。
自分が嫌だから。
あのとき、確かにそう言った。
なぜ、あんな言葉が口から出たのか。
考えると、少し恥ずかしい。
けれど、言わなければよかったとは思わなかった。
「ユイ、これでいい?」
声をかけられ、顔を上げた。
レンが、空になった木箱を抱えて立っていた。
「うん。ありがとう」
「ほかに、運ぶものはある?」
「今のところはないよ。レンも、そろそろ休んだら?」
「僕は大丈夫」
「……その言葉、最近は信用しないことにしてるから」
レンは、きょとんとした。
「どうして?」
「どうしても!」
ユイは彼の手から木箱を受け取ろうとした。
しかし、レンはそれを少し持ち上げ、ユイが受け取りやすい位置へ動かした。
「はい」
「……最初から、そうやって渡してくれればいいのに」
「渡そうとしていたよ?」
「そういう問題じゃないの!」
レンは不思議そうに首を傾げた。
ユイは、ため息をついた。
彼は本当に、悪気がないのだ。
こちらが怒っても、からかっているわけでも、困らせようとしているわけでもない。
ただ、思ったことを、そのまま言葉にしている。
その無防備さが、時々ひどく危うく見える。
そして、ときどき、どうしようもなく眩しくも見えた。
「……レン」
「うん?」
「あなた、もう少し、人の気持ちを考えたほうがいいよ」
「人の気持ち?」
「そう。心配してる人がいるとか、そういうこと」
レンは、少しだけ目を見開いた。
それから、ユイをじっと見つめた。
「……ユイは、僕のことを心配してくれているの?」
「っ……!」
予想していなかった質問だった。
ユイは、一瞬で言葉を失った。
「な、何を今さら……!」
「だって、聞いたことがなかったから」
「聞かなくても分かるでしょ!」
「……分かるものなの?」
真剣だった。
本気で分からないらしい。
ユイは、顔が熱くなっていくのを感じた。
「……もう! 仕事に戻って!」
「うん。分かった」
レンは素直に頷き、救護所の中へ入っていった。
ユイは、その背中を見送りながら、両手で顔を覆った。
どうして、あんなことを聞くのだろう。
自分が心配していることくらい、分かっていると思っていた。
いや、分かってほしいと思っていたのかもしれない。
けれど、いざ本人に尋ねられると、どう答えていいのか分からなくなる。
ユイは、小さく息を吐いた。
雨は、まだ降り続いていた。
◇
昼を過ぎた頃、救護所に新しい知らせが届いた。
街の東側にある避難経路の一部が、昨夜の雨で崩れてしまったらしい。
もともと、その道は古い建物の間を通る細い通路だった。大きな荷車は通れないが、徒歩での避難には使われていた。
ところが、壁の一部が崩れ、道を塞いでしまった。
その道を利用する予定だった避難民は、別の経路を探さなければならなくなった。
「……また、か」
ハナが報告書を見ながら、疲れたように息を吐いた。
「西側の道は、今朝から通行制限がかかっている。南側は負傷者の搬送に使っているし、北側へ回るには時間がかかりすぎる」
「別の道はないんですか?」
ユイが尋ねると、ハナは首を横に振った。
「地図上にはあるわ。ただ、今使えるかどうかは分からない。戦闘で壊れた場所もあるし、雨で地盤が緩んでいるところもある」
ユイは、机の上に広げられた地図を見た。
赤い印が、いくつもつけられている。
通行禁止の場所。
崩落の危険がある場所。
救護所へ向かうためには避けなければならない道。
地図には、街の形が正確に描かれている。
けれど、その上に暮らしている人々の生活までは描かれていなかった。
地図では通れる道でも、実際には瓦礫で塞がれているかもしれない。
地図では安全とされていても、今この瞬間には危険になっているかもしれない。
地図は、世界を知るための道具だ。
しかし、世界そのものではない。
「……私、少し確認してきます」
ユイは地図を指さした。
「この東側の道、直接通れなくても、途中まで使えるかもしれません。迂回できる路地があったはずです」
「一人で行くつもり?」
ハナが顔を上げた。
「いえ、レンと一緒に」
「それでも、無理はしないこと。道の状態を確認するだけよ。危険だと思ったら戻ってきなさい」
「分かりました」
ユイは頷いた。
隣で話を聞いていたレンも、地図を覗き込んだ。
「……ここなら、通れるかもしれないね」
「うん。私もそう思う」
二人は必要な物資を確認し、出発の準備を始めた。
しかし、救護所を出ようとしたところで、入口に見知らぬ少女が立っていることに気づいた。
濃い紫色の髪。
金色がかった瞳。
雨に濡れた外套を身につけ、少女は救護所の中を静かに見渡していた。
年齢は、ユイたちとそう変わらないように見える。
ただ、その立ち姿には、避難民の多くが見せるような疲労や戸惑いが、あまり感じられなかった。
周囲の様子を見ているのに、何かに怯えているようには見えない。
むしろ、ここにいる人間や物資の配置を、一つずつ確かめているようだった。
「……何か、ご用ですか?」
ユイが声をかけると、少女は振り向いた。
「少し、話をしたいのだけれど」
落ち着いた声だった。
その声を聞いた瞬間、ユイはなぜか、彼女が年齢よりも大人びているように感じた。
「話、ですか?」
「ええ。あなたたち、東側の避難経路を確認しに行くのでしょう?」
ユイは警戒した。
「……どうして、それを?」
少女は、机の上に広げられた地図へ目を向けた。
「さっき、話していたのが聞こえたから」
「それで、何か?」
「その道なら、通れる場所を知っているわ」
ユイは思わずレンを見た。
レンも、少女を見つめていた。
「本当ですか?」
レンが尋ねると、少女は頷いた。
「完全に安全とは言えないけれど、崩れた道を避ける迂回路がある。昔から使われている細い道で、地図には詳しく載っていないの」
「……どうして、そんなことを知っているんですか?」
ユイが尋ねると、少女は一瞬だけ口を閉じた。
ほんの短い沈黙だった。
しかし、ユイはその沈黙を見逃さなかった。
「この辺りに住んでいたことがあるのよ」
少女は、何事もなかったように答えた。
「戦争が始まる前だけれどね」
そう言われれば、納得できる部分もあった。
長く住んでいた人なら、地図には載っていない道を知っていても不思議ではない。
それでも、ユイの警戒心は消えなかった。
戦争が始まってから、善意を装って近づいてくる人間もいる。
物資を盗もうとする者もいる。
人を利用して、自分だけ助かろうとする者もいる。
誰もが悪意を持っているわけではない。
けれど、誰もが善意を持っているとも限らない。
ユイは、相手を疑うことに慣れたくはなかった。
それでも、大切なものを守るためには、疑わなければならないときもある。
「……私たちを案内してくれるんですか?」
ユイが尋ねると、少女は頷いた。
「そのつもりよ。ただ、現地の状況は実際に見てみないと分からない。途中で危険だと判断したら、引き返したほうがいいわ」
その言葉を聞いて、ユイは少しだけ驚いた。
ただ、安全だと言い切るのではない。
危険があることも、最初から認めている。
それは、現実を知っている人間の話し方に思えた。
「……分かりました。案内をお願いします」
ユイが答えると、少女は、ほんのわずかに目を細めた。
「ええ」
それから、レンへ視線を向けた。
ほんの一瞬。
けれど、その目は、彼の顔ではなく胸元を見ているようだった。
レンが気づいて顔を上げると、少女は何事もなかったかのように視線を戻した。
「私はリゼ。よろしく」
「……ユイです」
「レンです」
レンが自分の名前を口にした瞬間、リゼの表情が、ほんのわずかに変わった。
驚き。
疑念。
そして、どこか張りつめていたものが、少しだけ緩むような反応。
それらは、瞬きをする間にも消えてしまうほど小さなものだった。
ユイは、それに気づかなかった。
ただ、レンだけは、リゼが自分の名前を聞いたあと、少しだけ黙り込んだことを覚えていた。
◇
三人は、雨の降る街路を歩き始めた。
リゼは、迷いのない足取りで先へ進んでいった。
道の途中に積み上げられた瓦礫を避け、崩れかけた壁から距離を取り、ときどき周囲の様子を確認する。
その動きには無駄がなかった。
ユイは、そんな彼女の背中を見つめていた。
この少女は、何者なのだろう。
ただ、この街に住んでいた人間なのだろうか。
それとも、別の目的があって、ここへ来たのだろうか。
考えれば考えるほど、疑問が増えていく。
しかし、今は彼女の情報が必要だった。
避難経路が使えなければ、救護所へ物資を届けることも、負傷者を安全な場所へ運ぶことも難しくなる。
人を救うためには、誰かを信じなければならないこともある。
ユイは、そのことを理解していた。
だからこそ、注意深く周囲を見ながら、リゼのあとを歩いた。
「……あなたたち、いつも一緒に行動しているの?」
不意にリゼが尋ねた。
「え?」
ユイは顔を上げた。
「あなたと、レンのこと」
「あ……うん。最近は、そうだね」
「最近?」
「……彼、記憶がないんです」
ユイは、少しだけ言葉を選んだ。
「自分がどこから来たのかも、何をしていたのかも分からないみたいで。それで、今は一緒に救助活動を手伝っているんです」
リゼは、レンを見た。
「記憶がないの?」
「うん。何も覚えていないんだ」
レンは、穏やかに答えた。
「自分の名前も分からなかったから、ユイが仮の名前をつけてくれたんだよ」
「……そう」
リゼは、それ以上何も言わなかった。
けれど、ユイは彼女の表情に、わずかな違和感を覚えた。
驚かなかった。
普通、記憶がないと聞けば、もう少し何かを尋ねるのではないだろうか。
どうして記憶を失ったのか。
どこで倒れていたのか。
家族はいないのか。
そうした質問をしてもおかしくないはずなのに、リゼはまるで、何かを確かめていたかのように黙り込んだ。
「……リゼさんは、この街に住んでいたんですか?」
ユイは、話題を変えるように尋ねた。
「少しのあいだね」
「家族も、この街に?」
その瞬間、リゼの足がほんのわずかに遅くなった。
「……ええ」
短い答えだった。
ユイは、それ以上尋ねることができなかった。
自分が今、何気なく聞いたことが、彼女にとって簡単には答えられない質問だったのかもしれない。
家族がいる。
けれど、今は一緒にいない。
それだけで、どれほど多くの事情があるのだろう。
戦争がなければ、こんな質問をすることもなかったのかもしれない。
家族と暮らしているかどうか。
どこに住んでいるのか。
いつ帰るつもりなのか。
そんなことは、本来なら、もっと気軽に話せることのはずだった。
けれど今は、それらの質問の一つ一つに、触れてはいけない傷が隠れていることがある。
ユイは、黙って歩き続けた。
◇
しばらくして、三人は古い建物が並ぶ路地へ入った。
大きな通りから外れた場所にあるため、人影は少ない。
壁には、かつて商店だったことを示す看板が残っている。
窓は割れ、扉の一部は外れかけていたが、建物そのものは、まだ形を保っていた。
「この先を右へ曲がって」
リゼが指さした。
「その先に小さな広場があるわ。そこを通れば、崩れた道を避けられる」
ユイは、周囲を確認した。
確かに、地図に描かれた経路とは違う道だった。
人が一人か二人、並んで歩ける程度の幅しかない。荷車を通すには狭すぎるが、徒歩の避難なら使えそうだった。
「……こんな道があったんだ」
ユイが呟くと、リゼは振り返った。
「戦争が始まる前は、よく使われていたのよ。表通りが混雑しているときには、こちらを通る人も多かったわ」
その声には、懐かしさのようなものが混じっていた。
ほんの一瞬だった。
けれど、ユイはその表情を見て、リゼが本当にこの街のことを知っているのだと感じた。
ただ地図を覚えているだけではない。
彼女の中には、この街で過ごした時間がある。
戦争が始まる前の、まだ壊れていなかった街の記憶。
普通に人が歩き、店が開き、誰かが誰かを待っていた頃の記憶。
リゼは、今の景色を見ながら、何を思っているのだろう。
ユイには分からなかった。
「……リゼさん」
「何?」
「ありがとうございます。これなら、避難経路として使えるかもしれません」
リゼは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、視線を逸らした。
「……まだ、そうと決まったわけじゃないわ。実際に通れるか、確認しないと」
「それでも、助かります」
ユイは笑った。
リゼは何も答えなかった。
ただ、その目が一瞬だけ、柔らかくなった気がした。
◇
小さな広場に着いたとき、三人は足を止めた。
広場の片隅には、倒れた石像があった。
かつては、誰かを称えるために建てられたものだったのだろう。台座には文字が刻まれていたが、長年の風雨と破損によって、今ではほとんど読めなくなっていた。
ユイは、その石像を見つめた。
戦争が始まる前、この広場には人々が集まっていたのかもしれない。
子どもたちが遊び、商人が品物を並べ、誰かがベンチに座って休んでいたのかもしれない。
そんな光景を想像してみる。
今は誰もいない。
雨の音だけが、静かに響いている。
「……昔は、ここも賑やかだったの?」
ユイが尋ねると、リゼは頷いた。
「ええ。広場の向こうに小さな菓子屋があったの。焼き菓子が人気で、夕方になると、子どもたちが並んでいたわ」
「へえ……」
「私も、何度か買いに来たことがある」
リゼの表情に、わずかな笑みが浮かんだ。
それは、これまで見せていた冷静な顔とは違うものだった。
ほんの少しだけ、年相応の少女に見えた。
ユイは、その顔を見て思った。
この人にも、きっと、大切なものがあったのだ。
家族がいて、好きな場所があって、何気ない日常を過ごしていた。
戦争によって、それらを失ったのかもしれない。
あるいは、今も、失わずに済むように何かを続けているのかもしれない。
どちらにしても、リゼはただの謎めいた少女ではなかった。
ユイは、そのことを少しだけ嬉しく思った。
「……いつか、また買えるといいですね」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
リゼは、目を見開いた。
「……何を?」
「そのお菓子です。戦争が終わって、お店が再開したら」
ユイは、少しだけ笑った。
「私も食べてみたいな」
リゼは、しばらくユイを見つめていた。
何かを言おうとして、やめたようだった。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「……そうね」
その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
「いつか、また食べられるといいわね」
ユイは、心の中で思った。
いつか。
その言葉を、信じられる日が来るといい。
戦争が終わる。
街が元に戻る。
人々が、安心して眠れるようになる。
そんな未来を、今はまだ、確かなものとして思い描くことはできない。
それでも、誰かが「いつか」と口にすることには意味があるのかもしれない。
未来を約束することはできなくても、未来を望むことはできる。
その小さな願いが、今を生きる支えになることもある。
◇
広場を抜け、三人は目的地へ向かった。
道の状態を確認しながら歩いていると、レンが不意に足を止めた。
「……どうしたの?」
ユイが尋ねる。
「いや……」
レンは、自分の胸元へ手を当てた。
「何でもない」
けれど、その顔は、少しだけ強張っていた。
リゼは、すぐに振り返った。
「……胸が痛むの?」
レンは、驚いたように彼女を見た。
「え?」
「さっきから、何度か胸元に触れているから」
その指摘に、ユイも気づいた。
確かに、レンはときどき、無意識に胸元へ手をやっていた。
ハナの診察を受けたときにも、同じ仕草をしていた。
「……少し、変な感じがするだけだよ」
レンは答えた。
「痛いというほどじゃない。何か、奥のほうが熱くなるような……」
リゼの表情が変わった。
ほんの一瞬。
だが、今度はユイにも分かった。
彼女は、何かを知っている。
少なくとも、レンの胸元に起きていることが、単なる体調不良ではない可能性を考えている。
「……それは、いつから?」
リゼが尋ねた。
「よく分からない。記憶がないから、前からそうだったのかもしれないし……」
レンは困ったように笑った。
「でも、昨日、医療員のハナさんに診てもらったときも、少しだけ反応があったみたいなんだ」
リゼは、黙り込んだ。
雨音だけが、三人のあいだに流れた。
ユイは、レンの腕をそっとつかんだ。
「……無理しないで。少し休もう?」
「うん」
レンは頷いた。
その様子を見て、リゼは静かに息を吐いた。
「……少し、歩くのをやめましょう。道の確認は後でもできるわ」
彼女は周囲を見渡し、雨を避けられる建物の軒下を指した。
三人は、そこへ移動した。
レンが壁にもたれかかると、ユイは隣に座った。
「本当に大丈夫?」
「うん。もう、落ち着いてきたよ」
「……そう」
ユイは、安心したように息を吐いた。
けれど、その胸の奥には、まだ不安が残っていた。
彼の身体には、何かがある。
本人も知らない、何かが。
そして、そのことを、目の前の少女は知っているのかもしれない。
ユイは、リゼを見た。
「……リゼさん」
「何?」
「あなた、レンのことを知っているんですか?」
リゼは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのように思えた。
「……どうして、そう思うの?」
「あなた、レンの胸元を見ていたから。それに、さっきの反応も……」
ユイは、言葉を選びながら続けた。
「何か知っているのなら、教えてほしいんです。彼は、自分のことが何も分からないんです」
リゼは、レンへ視線を向けた。
レンは、まっすぐ彼女を見つめていた。
その目には、怯えがあった。
自分が何者なのか知りたい。
けれど、知ることが怖い。
そんな気持ちが、彼の表情に浮かんでいた。
リゼは、その視線を受け止めたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……今は、まだ話せないわ」
ユイは、唇を噛んだ。
「どうして?」
「確かなことを、何も説明できないから」
リゼは、静かに答えた。
「あなたたちを混乱させるだけの情報を渡しても、意味がないでしょう?」
その言葉は、一見するともっともらしかった。
実際、間違ってはいないのかもしれない。
不確かな情報を伝えれば、レンを余計に不安にさせることもある。
けれど、ユイは納得できなかった。
「……でも」
何か言おうとしたところで、レンがそっとユイの手に触れた。
「……ユイ」
振り向くと、彼は静かに首を横に振った。
「今は、いいよ」
「でも……」
「リゼが話せないというなら、何か事情があるんだと思う」
レンは、そう言って微笑んだ。
その優しさが、ユイには少しだけもどかしかった。
彼自身のことなのに。
彼の身体に起きていることなのに。
それでも、彼は相手を疑うより先に、相手の事情を考えようとする。
その姿勢は、尊いものなのだろう。
けれど、危うい。
もし相手が、彼の優しさを利用しようとしていたら。
もし、彼を傷つけようとしていたら。
そのとき、彼はどうするのだろう。
ユイには、まだ分からなかった。
◇
雨が少し弱くなった頃、三人は再び歩き始めた。
目的の経路は、途中に小さな崩落があったものの、徒歩での移動には使えそうだった。
ユイは道の状態を確認し、帰ったらハナに報告する内容を整理した。
レンも、周囲を見ながら必要な情報を覚えていた。
リゼは、変わらず先頭を歩いていた。
その背中を見ながら、ユイは何度も、先ほどのやり取りを思い返していた。
今は、まだ話せない。
その言葉の意味を、考えてしまう。
何かを知っている。
でも、話せない。
それは、何かを隠しているということなのだろうか。
それとも、話したくても話せない事情があるということなのだろうか。
どちらもあり得る。
だからこそ、簡単に決めつけることはできなかった。
ユイは、隣を歩くレンを見た。
彼は、いつものように前を向いていた。
記憶がなくても、誰かを助けようとすること。
自分の過去が分からなくても、今できることを探すこと。
そうした姿勢は、彼の大切な部分なのだろう。
しかし、彼が本当の意味で自分の人生を選ぶためには、知らなければならないこともあるはずだ。
ユイは、そう思った。
彼が何者なのか。
なぜ、死んでも生き返ったのか。
その能力に、どんな意味があるのか。
答えを知ることが、彼を苦しめるかもしれない。
それでも、いつかは向き合わなければならない問いなのだろう。
◇
救護所に戻る頃には、空が少しずつ暗くなり始めていた。
ユイはハナに道の状態を報告し、確認できた迂回路を地図に書き加えた。
レンも、現地で見つけた危険な箇所を説明した。
リゼは、報告が終わると、静かに帰ろうとした。
「……リゼさん」
ユイが呼び止めた。
リゼは振り返った。
「今日は、本当にありがとうございました」
ユイは、まっすぐ頭を下げた。
「あなたが案内してくれなかったら、もっと時間がかかっていたと思います」
リゼは、少しだけ目を伏せた。
「……役に立てたのなら、よかったわ」
「また、何か分からないことがあったら、教えてもらえますか?」
ユイがそう尋ねると、リゼは一瞬だけ迷ったようだった。
やがて、小さく頷いた。
「……ええ。必要なことなら」
その答えを聞いて、ユイは少しだけ安心した。
彼女のことを、まだ信用しきれたわけではない。
それでも、今日、彼女が教えてくれた道は本当に役に立った。
その事実まで、疑う必要はないだろう。
リゼは立ち去ろうとした。
しかし、その直前、レンへ視線を向けた。
「……レン」
「うん?」
「少し、話をしてもいいかしら」
ユイは、反射的に顔を上げた。
「……二人で、ですか?」
思ったよりも早く、言葉が出てしまった。
リゼは、ユイを見た。
その目に、わずかな笑みが浮かんだ。
「心配しなくても、すぐに終わるわ」
「し、心配なんて……!」
ユイは、慌てて首を振った。
「別に、そういう意味じゃ……!」
レンは、そんなユイを不思議そうに見つめている。
「……ユイ?」
「何でもない!」
リゼは、今度こそ小さく笑った。
それから、レンを救護所の外へ誘った。
ユイは二人の背中を見送った。
胸の奥が、なぜか落ち着かなかった。
別に、レンが誰かと話すこと自体は、おかしなことではない。
彼には、まだ友人と呼べる人も少ないのだから、誰かと話す機会が増えるのはいいことだろう。
それなのに。
どうして、自分はこんなに気になってしまうのだろう。
ユイは、自分の手を見つめた。
先ほど、レンの手に触れたときの温かさを思い出す。
彼が自分の隣にいること。
自分の言葉を聞いてくれること。
一緒に食事をして、一緒に働いて、時々、困ったように笑うこと。
そんな時間が、いつの間にか、自分にとって当たり前になり始めていた。
それが、少し怖かった。
当たり前だと思うようになったものほど、失ったときに苦しくなるのかもしれない。
ユイは、そんな考えを振り払うように、首を横に振った。
まだ、何も失っていない。
今は、まだ。
◇
救護所の外。
雨上がりの路地で、リゼはレンと向き合っていた。
周囲に、人影はない。
レンは、彼女が何を話そうとしているのか、静かに待っていた。
「……あなたは、今の生活に満足しているの?」
リゼが尋ねた。
レンは、少しだけ考えた。
「満足……?」
「ええ。自分が何者なのか分からないまま、救助活動をして、ユイと一緒に暮らしている。そういう毎日に、不安はないの?」
レンは、視線を落とした。
「……不安はあるよ」
素直な答えだった。
「自分の名前も、本当の過去も分からない。どうして生き返るのかも分からない。いつか、それを知らなければならないと思っている」
「……そう」
「でも」
レンは、ゆっくりと顔を上げた。
「今、僕にできることがあるなら、それをしたいと思うんだ」
リゼは、黙って聞いていた。
「自分が何者なのか分からなくても、目の前の人を助けることはできる。ユイと一緒にいることもできる。……それは、今の僕にとって、大切なことだから」
リゼは、しばらく彼を見つめていた。
その表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。
やがて、彼女は静かに尋ねた。
「……あなた、自分が何度生き返れるか、知っている?」
レンは、目を見開いた。
リゼは、彼の胸元を見つめた。
「死んでも生き返る。あなたは、それを当たり前のように受け入れているみたいだけれど」
彼女の声は、雨上がりの空気のように冷たかった。
「その力は、永遠に続くものではないのよ」
レンは、言葉を失った。
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
永遠ではない。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
もし、いつか生き返れなくなるのなら。
もし、次に命を落としたとき、本当に死んでしまうのなら。
自分は、今までと同じように生きていていいのだろうか。
リゼは、彼の表情を見つめていた。
「……詳しいことを知りたいなら、また話しましょう」
そう言って、彼女は背を向けた。
レンは、その場に立ち尽くしていた。
自分の命が、永遠ではない。
その可能性を、初めて具体的に意識した。
これまで彼は、自分の命について深く考えたことがなかった。
死んでも生き返るのなら、誰かを助けるために動けばいい。
そう考えていた。
けれど、もし生き返ることに限りがあるのなら。
いつか、本当に終わりが来るのなら。
自分は、何を選べばいいのだろう。
レンは、胸元へ手を当てた。
衣服の下で、かすかな熱が感じられた。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
ただ、自分の命が、思っていたほど単純なものではないのかもしれない。
そのことだけは、はっきりと感じられた。
◇
救護所の入口では、ユイがレンの帰りを待っていた。
彼の姿が見えると、思わず足が動きそうになった。
しかし、ユイは一度立ち止まった。
自分は、どうしてこんなに心配しているのだろう。
何かあったのではないか。
何か、よくないことを言われたのではないか。
彼が、自分の知らないところで、何か大切なものを失ってしまったのではないか。
そんな考えばかりが浮かんでくる。
「……レン!」
ようやく声をかけると、彼は振り向いた。
「ユイ」
「……何を話していたの?」
レンは、すぐには答えなかった。
その沈黙を見て、ユイの胸の奥に不安が広がった。
「……何か、あったの?」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「……うん。少しだけ」
ユイは、息を呑んだ。
雨は、もう止んでいた。
けれど、二人の間には、さっきまでとは違う何かが残っているような気がした。
レンは、自分の胸元へそっと手を当てた。
それから、ユイを見た。
「……ユイ。僕は、本当に何度でも生き返れるのかな」
その問いに、ユイはすぐには答えられなかった。
彼が生き返えったことは、事実だった。
自分の目の前で、確かに起きたことだった。
けれど、それがいつまで続くのか。
何か条件があるのか。
そもそも、どうしてそんな能力を持っているのか。
何一つ、分かっていない。
ユイは、そっとレンの手に触れた。
「……分からない」
正直に答えた。
「でも、分からないことを、これから一緒に調べていけばいいと思う」
レンは、ユイを見つめた。
「……うん」
彼は頷いた。
その表情には、まだ不安が残っていた。
ユイは、その手を離さなかった。
自分に、何ができるのかは分からない。
彼が何者なのかも、分からない。
それでも、今は隣にいることができる。
そのことだけは、確かだった。
そしてユイは、まだ知らない。
いつか彼の命に残された回数を知ったとき、自分がどれほど強く、彼を失うことを恐れるようになるのか。
その恐怖と向き合いながら、彼の生き方を尊重することが、どれほど難しいのか。
まだ、何も知らなかった。
ただ、目の前の少年の手を握りながら、明日もまた一緒にいられるようにと願っていた。
その願いが、少しずつ、自分の中で大きくなっていることにも気づかないまま。




