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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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7/10

07.道を教えてくれた少女

 その少女が現れたのは、雨の降る午後だった。


 戦争が始まってから、この街の天気を気にする人は少なくなった。


 晴れていれば洗濯物を干せる。雨が降れば、壊れた屋根から水が入り込む。そんな当たり前のことさえ、今では誰かの生死に関わる場合がある。


 それでも、空から降る雨は、戦争の事情など知らないかのように、静かに街を濡らしていた。


 ユイは救護所の軒下で、積み上げられた木箱を眺めていた。


 今日の仕事は、物資の整理と避難民の誘導だった。


 昨日までに運ばれてきた物資の中には、雨に濡れると使えなくなるものもある。ハナからは、濡れない場所へ移動させておくように頼まれていた。


「……これで最後かな」


 最後の木箱を壁際へ移動させ、ユイは腰を伸ばした。


 身体のあちこちが重かった。


 最近は、朝起きると疲れが残っていることが増えた。眠っているあいだも、遠くの物音に反応して目を覚ましてしまうからだろう。


 それでも、以前よりは少しだけ、眠れるようになっていた。


 レンが、夜に一人でいなくならなくなったからだ。


 あの日、彼が何も言わずに救護所を去ろうとしたことを思い出すと、今でも胸の奥が落ち着かなくなる。


 自分が嫌だから。


 あのとき、確かにそう言った。


 なぜ、あんな言葉が口から出たのか。


 考えると、少し恥ずかしい。


 けれど、言わなければよかったとは思わなかった。


「ユイ、これでいい?」


 声をかけられ、顔を上げた。


 レンが、空になった木箱を抱えて立っていた。


「うん。ありがとう」


「ほかに、運ぶものはある?」


「今のところはないよ。レンも、そろそろ休んだら?」


「僕は大丈夫」


「……その言葉、最近は信用しないことにしてるから」


 レンは、きょとんとした。


「どうして?」


「どうしても!」


 ユイは彼の手から木箱を受け取ろうとした。


 しかし、レンはそれを少し持ち上げ、ユイが受け取りやすい位置へ動かした。


「はい」


「……最初から、そうやって渡してくれればいいのに」


「渡そうとしていたよ?」


「そういう問題じゃないの!」


 レンは不思議そうに首を傾げた。


 ユイは、ため息をついた。


 彼は本当に、悪気がないのだ。


 こちらが怒っても、からかっているわけでも、困らせようとしているわけでもない。


 ただ、思ったことを、そのまま言葉にしている。


 その無防備さが、時々ひどく危うく見える。


 そして、ときどき、どうしようもなく眩しくも見えた。


「……レン」


「うん?」


「あなた、もう少し、人の気持ちを考えたほうがいいよ」


「人の気持ち?」


「そう。心配してる人がいるとか、そういうこと」


 レンは、少しだけ目を見開いた。


 それから、ユイをじっと見つめた。


「……ユイは、僕のことを心配してくれているの?」


「っ……!」


 予想していなかった質問だった。


 ユイは、一瞬で言葉を失った。


「な、何を今さら……!」


「だって、聞いたことがなかったから」


「聞かなくても分かるでしょ!」


「……分かるものなの?」


 真剣だった。


 本気で分からないらしい。


 ユイは、顔が熱くなっていくのを感じた。


「……もう! 仕事に戻って!」


「うん。分かった」


 レンは素直に頷き、救護所の中へ入っていった。


 ユイは、その背中を見送りながら、両手で顔を覆った。


 どうして、あんなことを聞くのだろう。


 自分が心配していることくらい、分かっていると思っていた。


 いや、分かってほしいと思っていたのかもしれない。


 けれど、いざ本人に尋ねられると、どう答えていいのか分からなくなる。


 ユイは、小さく息を吐いた。


 雨は、まだ降り続いていた。


     ◇


 昼を過ぎた頃、救護所に新しい知らせが届いた。


 街の東側にある避難経路の一部が、昨夜の雨で崩れてしまったらしい。


 もともと、その道は古い建物の間を通る細い通路だった。大きな荷車は通れないが、徒歩での避難には使われていた。


 ところが、壁の一部が崩れ、道を塞いでしまった。


 その道を利用する予定だった避難民は、別の経路を探さなければならなくなった。


「……また、か」


 ハナが報告書を見ながら、疲れたように息を吐いた。


「西側の道は、今朝から通行制限がかかっている。南側は負傷者の搬送に使っているし、北側へ回るには時間がかかりすぎる」


「別の道はないんですか?」


 ユイが尋ねると、ハナは首を横に振った。


「地図上にはあるわ。ただ、今使えるかどうかは分からない。戦闘で壊れた場所もあるし、雨で地盤が緩んでいるところもある」


 ユイは、机の上に広げられた地図を見た。


 赤い印が、いくつもつけられている。


 通行禁止の場所。


 崩落の危険がある場所。


 救護所へ向かうためには避けなければならない道。


 地図には、街の形が正確に描かれている。


 けれど、その上に暮らしている人々の生活までは描かれていなかった。


 地図では通れる道でも、実際には瓦礫で塞がれているかもしれない。


 地図では安全とされていても、今この瞬間には危険になっているかもしれない。


 地図は、世界を知るための道具だ。


 しかし、世界そのものではない。


「……私、少し確認してきます」


 ユイは地図を指さした。


「この東側の道、直接通れなくても、途中まで使えるかもしれません。迂回できる路地があったはずです」


「一人で行くつもり?」


 ハナが顔を上げた。


「いえ、レンと一緒に」


「それでも、無理はしないこと。道の状態を確認するだけよ。危険だと思ったら戻ってきなさい」


「分かりました」


 ユイは頷いた。


 隣で話を聞いていたレンも、地図を覗き込んだ。


「……ここなら、通れるかもしれないね」


「うん。私もそう思う」


 二人は必要な物資を確認し、出発の準備を始めた。


 しかし、救護所を出ようとしたところで、入口に見知らぬ少女が立っていることに気づいた。


 濃い紫色の髪。


 金色がかった瞳。


 雨に濡れた外套を身につけ、少女は救護所の中を静かに見渡していた。


 年齢は、ユイたちとそう変わらないように見える。


 ただ、その立ち姿には、避難民の多くが見せるような疲労や戸惑いが、あまり感じられなかった。


 周囲の様子を見ているのに、何かに怯えているようには見えない。


 むしろ、ここにいる人間や物資の配置を、一つずつ確かめているようだった。


「……何か、ご用ですか?」


 ユイが声をかけると、少女は振り向いた。


「少し、話をしたいのだけれど」


 落ち着いた声だった。


 その声を聞いた瞬間、ユイはなぜか、彼女が年齢よりも大人びているように感じた。


「話、ですか?」


「ええ。あなたたち、東側の避難経路を確認しに行くのでしょう?」


 ユイは警戒した。


「……どうして、それを?」


 少女は、机の上に広げられた地図へ目を向けた。


「さっき、話していたのが聞こえたから」


「それで、何か?」


「その道なら、通れる場所を知っているわ」


 ユイは思わずレンを見た。


 レンも、少女を見つめていた。


「本当ですか?」


 レンが尋ねると、少女は頷いた。


「完全に安全とは言えないけれど、崩れた道を避ける迂回路がある。昔から使われている細い道で、地図には詳しく載っていないの」


「……どうして、そんなことを知っているんですか?」


 ユイが尋ねると、少女は一瞬だけ口を閉じた。


 ほんの短い沈黙だった。


 しかし、ユイはその沈黙を見逃さなかった。


「この辺りに住んでいたことがあるのよ」


 少女は、何事もなかったように答えた。


「戦争が始まる前だけれどね」


 そう言われれば、納得できる部分もあった。


 長く住んでいた人なら、地図には載っていない道を知っていても不思議ではない。


 それでも、ユイの警戒心は消えなかった。


 戦争が始まってから、善意を装って近づいてくる人間もいる。


 物資を盗もうとする者もいる。


 人を利用して、自分だけ助かろうとする者もいる。


 誰もが悪意を持っているわけではない。


 けれど、誰もが善意を持っているとも限らない。


 ユイは、相手を疑うことに慣れたくはなかった。


 それでも、大切なものを守るためには、疑わなければならないときもある。


「……私たちを案内してくれるんですか?」


 ユイが尋ねると、少女は頷いた。


「そのつもりよ。ただ、現地の状況は実際に見てみないと分からない。途中で危険だと判断したら、引き返したほうがいいわ」


 その言葉を聞いて、ユイは少しだけ驚いた。


 ただ、安全だと言い切るのではない。


 危険があることも、最初から認めている。


 それは、現実を知っている人間の話し方に思えた。


「……分かりました。案内をお願いします」


 ユイが答えると、少女は、ほんのわずかに目を細めた。


「ええ」


 それから、レンへ視線を向けた。


 ほんの一瞬。


 けれど、その目は、彼の顔ではなく胸元を見ているようだった。


 レンが気づいて顔を上げると、少女は何事もなかったかのように視線を戻した。


「私はリゼ。よろしく」


「……ユイです」


「レンです」


 レンが自分の名前を口にした瞬間、リゼの表情が、ほんのわずかに変わった。


 驚き。


 疑念。


 そして、どこか張りつめていたものが、少しだけ緩むような反応。


 それらは、瞬きをする間にも消えてしまうほど小さなものだった。


 ユイは、それに気づかなかった。


 ただ、レンだけは、リゼが自分の名前を聞いたあと、少しだけ黙り込んだことを覚えていた。


     ◇


 三人は、雨の降る街路を歩き始めた。


 リゼは、迷いのない足取りで先へ進んでいった。


 道の途中に積み上げられた瓦礫を避け、崩れかけた壁から距離を取り、ときどき周囲の様子を確認する。


 その動きには無駄がなかった。


 ユイは、そんな彼女の背中を見つめていた。


 この少女は、何者なのだろう。


 ただ、この街に住んでいた人間なのだろうか。


 それとも、別の目的があって、ここへ来たのだろうか。


 考えれば考えるほど、疑問が増えていく。


 しかし、今は彼女の情報が必要だった。


 避難経路が使えなければ、救護所へ物資を届けることも、負傷者を安全な場所へ運ぶことも難しくなる。


 人を救うためには、誰かを信じなければならないこともある。


 ユイは、そのことを理解していた。


 だからこそ、注意深く周囲を見ながら、リゼのあとを歩いた。


「……あなたたち、いつも一緒に行動しているの?」


 不意にリゼが尋ねた。


「え?」


 ユイは顔を上げた。


「あなたと、レンのこと」


「あ……うん。最近は、そうだね」


「最近?」


「……彼、記憶がないんです」


 ユイは、少しだけ言葉を選んだ。


「自分がどこから来たのかも、何をしていたのかも分からないみたいで。それで、今は一緒に救助活動を手伝っているんです」


 リゼは、レンを見た。


「記憶がないの?」


「うん。何も覚えていないんだ」


 レンは、穏やかに答えた。


「自分の名前も分からなかったから、ユイが仮の名前をつけてくれたんだよ」


「……そう」


 リゼは、それ以上何も言わなかった。


 けれど、ユイは彼女の表情に、わずかな違和感を覚えた。


 驚かなかった。


 普通、記憶がないと聞けば、もう少し何かを尋ねるのではないだろうか。


 どうして記憶を失ったのか。


 どこで倒れていたのか。


 家族はいないのか。


 そうした質問をしてもおかしくないはずなのに、リゼはまるで、何かを確かめていたかのように黙り込んだ。


「……リゼさんは、この街に住んでいたんですか?」


 ユイは、話題を変えるように尋ねた。


「少しのあいだね」


「家族も、この街に?」


 その瞬間、リゼの足がほんのわずかに遅くなった。


「……ええ」


 短い答えだった。


 ユイは、それ以上尋ねることができなかった。


 自分が今、何気なく聞いたことが、彼女にとって簡単には答えられない質問だったのかもしれない。


 家族がいる。


 けれど、今は一緒にいない。


 それだけで、どれほど多くの事情があるのだろう。


 戦争がなければ、こんな質問をすることもなかったのかもしれない。


 家族と暮らしているかどうか。


 どこに住んでいるのか。


 いつ帰るつもりなのか。


 そんなことは、本来なら、もっと気軽に話せることのはずだった。


 けれど今は、それらの質問の一つ一つに、触れてはいけない傷が隠れていることがある。


 ユイは、黙って歩き続けた。


     ◇


 しばらくして、三人は古い建物が並ぶ路地へ入った。


 大きな通りから外れた場所にあるため、人影は少ない。


 壁には、かつて商店だったことを示す看板が残っている。


 窓は割れ、扉の一部は外れかけていたが、建物そのものは、まだ形を保っていた。


「この先を右へ曲がって」


 リゼが指さした。


「その先に小さな広場があるわ。そこを通れば、崩れた道を避けられる」


 ユイは、周囲を確認した。


 確かに、地図に描かれた経路とは違う道だった。


 人が一人か二人、並んで歩ける程度の幅しかない。荷車を通すには狭すぎるが、徒歩の避難なら使えそうだった。


「……こんな道があったんだ」


 ユイが呟くと、リゼは振り返った。


「戦争が始まる前は、よく使われていたのよ。表通りが混雑しているときには、こちらを通る人も多かったわ」


 その声には、懐かしさのようなものが混じっていた。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、ユイはその表情を見て、リゼが本当にこの街のことを知っているのだと感じた。


 ただ地図を覚えているだけではない。


 彼女の中には、この街で過ごした時間がある。


 戦争が始まる前の、まだ壊れていなかった街の記憶。


 普通に人が歩き、店が開き、誰かが誰かを待っていた頃の記憶。


 リゼは、今の景色を見ながら、何を思っているのだろう。


 ユイには分からなかった。


「……リゼさん」


「何?」


「ありがとうございます。これなら、避難経路として使えるかもしれません」


 リゼは、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、視線を逸らした。


「……まだ、そうと決まったわけじゃないわ。実際に通れるか、確認しないと」


「それでも、助かります」


 ユイは笑った。


 リゼは何も答えなかった。


 ただ、その目が一瞬だけ、柔らかくなった気がした。


     ◇


 小さな広場に着いたとき、三人は足を止めた。


 広場の片隅には、倒れた石像があった。


 かつては、誰かを称えるために建てられたものだったのだろう。台座には文字が刻まれていたが、長年の風雨と破損によって、今ではほとんど読めなくなっていた。


 ユイは、その石像を見つめた。


 戦争が始まる前、この広場には人々が集まっていたのかもしれない。


 子どもたちが遊び、商人が品物を並べ、誰かがベンチに座って休んでいたのかもしれない。


 そんな光景を想像してみる。


 今は誰もいない。


 雨の音だけが、静かに響いている。


「……昔は、ここも賑やかだったの?」


 ユイが尋ねると、リゼは頷いた。


「ええ。広場の向こうに小さな菓子屋があったの。焼き菓子が人気で、夕方になると、子どもたちが並んでいたわ」


「へえ……」


「私も、何度か買いに来たことがある」


 リゼの表情に、わずかな笑みが浮かんだ。


 それは、これまで見せていた冷静な顔とは違うものだった。


 ほんの少しだけ、年相応の少女に見えた。


 ユイは、その顔を見て思った。


 この人にも、きっと、大切なものがあったのだ。


 家族がいて、好きな場所があって、何気ない日常を過ごしていた。


 戦争によって、それらを失ったのかもしれない。


 あるいは、今も、失わずに済むように何かを続けているのかもしれない。


 どちらにしても、リゼはただの謎めいた少女ではなかった。


 ユイは、そのことを少しだけ嬉しく思った。


「……いつか、また買えるといいですね」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 リゼは、目を見開いた。


「……何を?」


「そのお菓子です。戦争が終わって、お店が再開したら」


 ユイは、少しだけ笑った。


「私も食べてみたいな」


 リゼは、しばらくユイを見つめていた。


 何かを言おうとして、やめたようだった。


 やがて、彼女は小さく頷いた。


「……そうね」


 その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。


「いつか、また食べられるといいわね」


 ユイは、心の中で思った。


 いつか。


 その言葉を、信じられる日が来るといい。


 戦争が終わる。


 街が元に戻る。


 人々が、安心して眠れるようになる。


 そんな未来を、今はまだ、確かなものとして思い描くことはできない。


 それでも、誰かが「いつか」と口にすることには意味があるのかもしれない。


 未来を約束することはできなくても、未来を望むことはできる。


 その小さな願いが、今を生きる支えになることもある。


     ◇


 広場を抜け、三人は目的地へ向かった。


 道の状態を確認しながら歩いていると、レンが不意に足を止めた。


「……どうしたの?」


 ユイが尋ねる。


「いや……」


 レンは、自分の胸元へ手を当てた。


「何でもない」


 けれど、その顔は、少しだけ強張っていた。


 リゼは、すぐに振り返った。


「……胸が痛むの?」


 レンは、驚いたように彼女を見た。


「え?」


「さっきから、何度か胸元に触れているから」


 その指摘に、ユイも気づいた。


 確かに、レンはときどき、無意識に胸元へ手をやっていた。


 ハナの診察を受けたときにも、同じ仕草をしていた。


「……少し、変な感じがするだけだよ」


 レンは答えた。


「痛いというほどじゃない。何か、奥のほうが熱くなるような……」


 リゼの表情が変わった。


 ほんの一瞬。


 だが、今度はユイにも分かった。


 彼女は、何かを知っている。


 少なくとも、レンの胸元に起きていることが、単なる体調不良ではない可能性を考えている。


「……それは、いつから?」


 リゼが尋ねた。


「よく分からない。記憶がないから、前からそうだったのかもしれないし……」


 レンは困ったように笑った。


「でも、昨日、医療員のハナさんに診てもらったときも、少しだけ反応があったみたいなんだ」


 リゼは、黙り込んだ。


 雨音だけが、三人のあいだに流れた。


 ユイは、レンの腕をそっとつかんだ。


「……無理しないで。少し休もう?」


「うん」


 レンは頷いた。


 その様子を見て、リゼは静かに息を吐いた。


「……少し、歩くのをやめましょう。道の確認は後でもできるわ」


 彼女は周囲を見渡し、雨を避けられる建物の軒下を指した。


 三人は、そこへ移動した。


 レンが壁にもたれかかると、ユイは隣に座った。


「本当に大丈夫?」


「うん。もう、落ち着いてきたよ」


「……そう」


 ユイは、安心したように息を吐いた。


 けれど、その胸の奥には、まだ不安が残っていた。


 彼の身体には、何かがある。


 本人も知らない、何かが。


 そして、そのことを、目の前の少女は知っているのかもしれない。


 ユイは、リゼを見た。


「……リゼさん」


「何?」


「あなた、レンのことを知っているんですか?」


 リゼは、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えのように思えた。


「……どうして、そう思うの?」


「あなた、レンの胸元を見ていたから。それに、さっきの反応も……」


 ユイは、言葉を選びながら続けた。


「何か知っているのなら、教えてほしいんです。彼は、自分のことが何も分からないんです」


 リゼは、レンへ視線を向けた。


 レンは、まっすぐ彼女を見つめていた。


 その目には、怯えがあった。


 自分が何者なのか知りたい。


 けれど、知ることが怖い。


 そんな気持ちが、彼の表情に浮かんでいた。


 リゼは、その視線を受け止めたあと、ゆっくりと口を開いた。


「……今は、まだ話せないわ」


 ユイは、唇を噛んだ。


「どうして?」


「確かなことを、何も説明できないから」


 リゼは、静かに答えた。


「あなたたちを混乱させるだけの情報を渡しても、意味がないでしょう?」


 その言葉は、一見するともっともらしかった。


 実際、間違ってはいないのかもしれない。


 不確かな情報を伝えれば、レンを余計に不安にさせることもある。


 けれど、ユイは納得できなかった。


「……でも」


 何か言おうとしたところで、レンがそっとユイの手に触れた。


「……ユイ」


 振り向くと、彼は静かに首を横に振った。


「今は、いいよ」


「でも……」


「リゼが話せないというなら、何か事情があるんだと思う」


 レンは、そう言って微笑んだ。


 その優しさが、ユイには少しだけもどかしかった。


 彼自身のことなのに。


 彼の身体に起きていることなのに。


 それでも、彼は相手を疑うより先に、相手の事情を考えようとする。


 その姿勢は、尊いものなのだろう。


 けれど、危うい。


 もし相手が、彼の優しさを利用しようとしていたら。


 もし、彼を傷つけようとしていたら。


 そのとき、彼はどうするのだろう。


 ユイには、まだ分からなかった。


     ◇


 雨が少し弱くなった頃、三人は再び歩き始めた。


 目的の経路は、途中に小さな崩落があったものの、徒歩での移動には使えそうだった。


 ユイは道の状態を確認し、帰ったらハナに報告する内容を整理した。


 レンも、周囲を見ながら必要な情報を覚えていた。


 リゼは、変わらず先頭を歩いていた。


 その背中を見ながら、ユイは何度も、先ほどのやり取りを思い返していた。


 今は、まだ話せない。


 その言葉の意味を、考えてしまう。


 何かを知っている。


 でも、話せない。


 それは、何かを隠しているということなのだろうか。


 それとも、話したくても話せない事情があるということなのだろうか。


 どちらもあり得る。


 だからこそ、簡単に決めつけることはできなかった。


 ユイは、隣を歩くレンを見た。


 彼は、いつものように前を向いていた。


 記憶がなくても、誰かを助けようとすること。


 自分の過去が分からなくても、今できることを探すこと。


 そうした姿勢は、彼の大切な部分なのだろう。


 しかし、彼が本当の意味で自分の人生を選ぶためには、知らなければならないこともあるはずだ。


 ユイは、そう思った。


 彼が何者なのか。


 なぜ、死んでも生き返ったのか。


 その能力に、どんな意味があるのか。


 答えを知ることが、彼を苦しめるかもしれない。


 それでも、いつかは向き合わなければならない問いなのだろう。


     ◇


 救護所に戻る頃には、空が少しずつ暗くなり始めていた。


 ユイはハナに道の状態を報告し、確認できた迂回路を地図に書き加えた。


 レンも、現地で見つけた危険な箇所を説明した。


 リゼは、報告が終わると、静かに帰ろうとした。


「……リゼさん」


 ユイが呼び止めた。


 リゼは振り返った。


「今日は、本当にありがとうございました」


 ユイは、まっすぐ頭を下げた。


「あなたが案内してくれなかったら、もっと時間がかかっていたと思います」


 リゼは、少しだけ目を伏せた。


「……役に立てたのなら、よかったわ」


「また、何か分からないことがあったら、教えてもらえますか?」


 ユイがそう尋ねると、リゼは一瞬だけ迷ったようだった。


 やがて、小さく頷いた。


「……ええ。必要なことなら」


 その答えを聞いて、ユイは少しだけ安心した。


 彼女のことを、まだ信用しきれたわけではない。


 それでも、今日、彼女が教えてくれた道は本当に役に立った。


 その事実まで、疑う必要はないだろう。


 リゼは立ち去ろうとした。


 しかし、その直前、レンへ視線を向けた。


「……レン」


「うん?」


「少し、話をしてもいいかしら」


 ユイは、反射的に顔を上げた。


「……二人で、ですか?」


 思ったよりも早く、言葉が出てしまった。


 リゼは、ユイを見た。


 その目に、わずかな笑みが浮かんだ。


「心配しなくても、すぐに終わるわ」


「し、心配なんて……!」


 ユイは、慌てて首を振った。


「別に、そういう意味じゃ……!」


 レンは、そんなユイを不思議そうに見つめている。


「……ユイ?」


「何でもない!」


 リゼは、今度こそ小さく笑った。


 それから、レンを救護所の外へ誘った。


 ユイは二人の背中を見送った。


 胸の奥が、なぜか落ち着かなかった。


 別に、レンが誰かと話すこと自体は、おかしなことではない。


 彼には、まだ友人と呼べる人も少ないのだから、誰かと話す機会が増えるのはいいことだろう。


 それなのに。


 どうして、自分はこんなに気になってしまうのだろう。


 ユイは、自分の手を見つめた。


 先ほど、レンの手に触れたときの温かさを思い出す。


 彼が自分の隣にいること。


 自分の言葉を聞いてくれること。


 一緒に食事をして、一緒に働いて、時々、困ったように笑うこと。


 そんな時間が、いつの間にか、自分にとって当たり前になり始めていた。


 それが、少し怖かった。


 当たり前だと思うようになったものほど、失ったときに苦しくなるのかもしれない。


 ユイは、そんな考えを振り払うように、首を横に振った。


 まだ、何も失っていない。


 今は、まだ。


     ◇


 救護所の外。


 雨上がりの路地で、リゼはレンと向き合っていた。


 周囲に、人影はない。


 レンは、彼女が何を話そうとしているのか、静かに待っていた。


「……あなたは、今の生活に満足しているの?」


 リゼが尋ねた。


 レンは、少しだけ考えた。


「満足……?」


「ええ。自分が何者なのか分からないまま、救助活動をして、ユイと一緒に暮らしている。そういう毎日に、不安はないの?」


 レンは、視線を落とした。


「……不安はあるよ」


 素直な答えだった。


「自分の名前も、本当の過去も分からない。どうして生き返るのかも分からない。いつか、それを知らなければならないと思っている」


「……そう」


「でも」


 レンは、ゆっくりと顔を上げた。


「今、僕にできることがあるなら、それをしたいと思うんだ」


 リゼは、黙って聞いていた。


「自分が何者なのか分からなくても、目の前の人を助けることはできる。ユイと一緒にいることもできる。……それは、今の僕にとって、大切なことだから」


 リゼは、しばらく彼を見つめていた。


 その表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。


 やがて、彼女は静かに尋ねた。


「……あなた、自分が何度生き返れるか、知っている?」


 レンは、目を見開いた。


 リゼは、彼の胸元を見つめた。


「死んでも生き返る。あなたは、それを当たり前のように受け入れているみたいだけれど」


 彼女の声は、雨上がりの空気のように冷たかった。


「その力は、永遠に続くものではないのよ」


 レンは、言葉を失った。


 胸の奥が、ひどく冷たくなる。


 永遠ではない。


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。


 もし、いつか生き返れなくなるのなら。


 もし、次に命を落としたとき、本当に死んでしまうのなら。


 自分は、今までと同じように生きていていいのだろうか。


 リゼは、彼の表情を見つめていた。


「……詳しいことを知りたいなら、また話しましょう」


 そう言って、彼女は背を向けた。


 レンは、その場に立ち尽くしていた。


 自分の命が、永遠ではない。


 その可能性を、初めて具体的に意識した。


 これまで彼は、自分の命について深く考えたことがなかった。


 死んでも生き返るのなら、誰かを助けるために動けばいい。


 そう考えていた。


 けれど、もし生き返ることに限りがあるのなら。


 いつか、本当に終わりが来るのなら。


 自分は、何を選べばいいのだろう。


 レンは、胸元へ手を当てた。


 衣服の下で、かすかな熱が感じられた。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 ただ、自分の命が、思っていたほど単純なものではないのかもしれない。


 そのことだけは、はっきりと感じられた。


     ◇


 救護所の入口では、ユイがレンの帰りを待っていた。


 彼の姿が見えると、思わず足が動きそうになった。


 しかし、ユイは一度立ち止まった。


 自分は、どうしてこんなに心配しているのだろう。


 何かあったのではないか。


 何か、よくないことを言われたのではないか。


 彼が、自分の知らないところで、何か大切なものを失ってしまったのではないか。


 そんな考えばかりが浮かんでくる。


「……レン!」


 ようやく声をかけると、彼は振り向いた。


「ユイ」


「……何を話していたの?」


 レンは、すぐには答えなかった。


 その沈黙を見て、ユイの胸の奥に不安が広がった。


「……何か、あったの?」


 レンは、少しだけ目を伏せた。


「……うん。少しだけ」


 ユイは、息を呑んだ。


 雨は、もう止んでいた。


 けれど、二人の間には、さっきまでとは違う何かが残っているような気がした。


 レンは、自分の胸元へそっと手を当てた。


 それから、ユイを見た。


「……ユイ。僕は、本当に何度でも生き返れるのかな」


 その問いに、ユイはすぐには答えられなかった。


 彼が生き返えったことは、事実だった。


 自分の目の前で、確かに起きたことだった。


 けれど、それがいつまで続くのか。


 何か条件があるのか。


 そもそも、どうしてそんな能力を持っているのか。


 何一つ、分かっていない。


 ユイは、そっとレンの手に触れた。


「……分からない」


 正直に答えた。


「でも、分からないことを、これから一緒に調べていけばいいと思う」


 レンは、ユイを見つめた。


「……うん」


 彼は頷いた。


 その表情には、まだ不安が残っていた。


 ユイは、その手を離さなかった。


 自分に、何ができるのかは分からない。


 彼が何者なのかも、分からない。


 それでも、今は隣にいることができる。


 そのことだけは、確かだった。


 そしてユイは、まだ知らない。


 いつか彼の命に残された回数を知ったとき、自分がどれほど強く、彼を失うことを恐れるようになるのか。


 その恐怖と向き合いながら、彼の生き方を尊重することが、どれほど難しいのか。


 まだ、何も知らなかった。


 ただ、目の前の少年の手を握りながら、明日もまた一緒にいられるようにと願っていた。


 その願いが、少しずつ、自分の中で大きくなっていることにも気づかないまま。


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