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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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6/12

06.助けられなかった人

 人は、悲しい出来事を忘れることで前へ進むのだろうか。


 それとも、忘れられないままでも、前へ進むことができるのだろうか。


 ユイには、まだ分からなかった。


 戦争が始まってから、彼女は何度も、大切なものを失う人々を見てきた。家を失った人。家族とはぐれた人。昨日まで隣にいた誰かが、今日はもういないという事実を、受け入れられずにいる人。


 そうした人々の姿を見るたび、ユイは何かをしてあげたいと思った。


 けれど、何をすればいいのか分からないことも多かった。


 励ましの言葉が、必ずしも相手を救うわけではない。


 大丈夫だと伝えたところで、失われたものが戻ってくるわけでもない。


 頑張って生きていこうと言うことさえ、時には残酷なのかもしれない。


 それでも、何もせずに通り過ぎることはできなかった。


 だからユイは、今日も救護所の入口に立っていた。


「こちらで受付をしています。怪我をしている方は、先に医療員に声をかけてください」


 避難してきた人々を案内しながら、彼女は何度も同じ言葉を繰り返した。


 声が枯れてきても、足が痛くなっても、できるだけ笑顔を保とうとした。


 不安そうな人には、少しでも安心してもらいたかったからだ。


 もっとも、自分自身が安心しているわけではなかった。


 誰かの大きな声が聞こえるたび、ユイはそちらへ顔を向けた。遠くで物音がすれば、反射的に空を見上げる。人々が一斉に同じ方向へ走り始めれば、まず逃げ道を探した。


 いつの間にか、そうすることが習慣になっていた。


 危険を察知し、逃げ道を確かめ、助けを必要としている人を探す。


 その繰り返しによって、彼女はこれまで生き延びてきた。


 だから、これからもそうするつもりだった。


 自分が何を感じているのかを考えるのは、もっと後でいい。


 そう思っていた。


「ユイ、少し休んだら?」


 隣から声がした。


 振り向くと、レンが木箱を抱えて立っていた。


「え? まだ大丈夫だよ」


「さっきから、ずっと立ってるでしょう?」


「レンだって、さっきからずっと働いてるじゃない」


「僕は、まだ平気だから」


「……それ、私が言うと怒るくせに」


 レンは、きょとんとした。


「そうだった?」


「そうだよ」


 ユイは呆れたように息を吐いた。


 最近、レンとの会話は、こういうものが増えてきた。


 彼は相変わらず、自分のことを後回しにしがちだった。頼まれればすぐに動き、困っている人がいれば手を貸す。疲れていないかと尋ねても、最初は大抵「大丈夫」と答える。


 ただ、以前と少し違うのは、こちらがもう一度尋ねると、彼も自分の疲れを認めるようになったことだった。


 それが、ユイには嬉しかった。


 何かが大きく変わったわけではない。


 それでも、一緒に過ごす時間の中で、彼は少しずつ、自分のことも考えるようになっている。


 自分の言葉が、ほんの少しでも彼の中に残っている。


 それだけで、何かを成し遂げたような気がした。


「……じゃあ、これを運び終わったら、一緒に休憩しよう」


 レンが言った。


「本当に?」


「うん。約束する」


「……絶対だからね」


「分かった」


 彼は微笑み、木箱を運んでいった。


 ユイは、その背中を見送った。


 何でもない約束だった。


 荷物を運び終わったら、少し休む。


 ただ、それだけのこと。


 けれど、今の自分には、そうした小さな約束が大切だった。


 明日、何が起こるかは分からない。


 次に誰が救護所へ運ばれてくるのかも分からない。


 それでも、少し先の未来に、誰かと一緒に過ごす時間を思い描くことはできる。


 ユイは、そんな当たり前のことが、以前よりも大切に思えるようになっていた。


     ◇


 昼前になって、新しい避難民の一団が到着した。


 人数は十数人ほどだった。


 年配の男性や女性、幼い子どもたち。荷物を背負った若者もいれば、誰かに肩を貸してもらいながら歩く人もいる。


 ユイは、彼らを救護所の中へ案内した。


「こちらで少し休んでください。怪我をしている方はいませんか?」


 何人かが手を挙げた。


 ユイは順番に話を聞き、医療員のもとへ案内していく。


 そのときだった。


「……あの」


 控えめな声が聞こえた。


 振り向くと、一人の少女が立っていた。


 年齢は、ユイより少し下だろうか。


 肩まで伸びた髪には埃がつき、着ている服も擦り切れていた。少女の隣には、まだ幼い男の子がいる。少女はその子の手をしっかりと握っていた。


「ここで、休ませてもらえますか?」


「もちろん。怪我はしていない?」


「私は大丈夫です。この子も、少し疲れているだけで……」


 少女は、弟らしい少年の頭をそっと撫でた。


 ユイは二人に毛布を渡そうとして、ふと、少女の顔を見つめた。


 見覚えがあった。


 どこで会ったのだろう。


 最初は、すぐには思い出せなかった。


 けれど、その目を見た瞬間、胸の奥がざわついた。


 大きな瞳。


 何かを必死に堪えているような、けれど人の話をきちんと聞こうとする目。


 ユイは、思わず息を止めた。


 忘れるはずがなかった。


 何週間も前。


 南門に近い古い街路で、崩れかけた建物のそばにいた少女。


 あのときも、彼女は誰かの手を握り締めていた。


 ただ、隣にいたのは幼い弟ではなかった。


 父親だった。


「……あなた」


 ユイの声が、小さく震えた。


 少女は、不思議そうに顔を上げた。


 そして、少しずつ、その表情が変わっていった。


「あ……」


 少女の唇が、かすかに開いた。


「……ユイさん、ですか?」


 それを聞いた瞬間、ユイの中で、止まっていた時間が動き出した。


     ◇


 あの日のことを、ユイは今でも覚えている。


 戦闘が激しくなり、南門の周辺に避難指示が出された日のことだった。


 街路には人々があふれ、荷車や荷物が道を塞いでいた。誰もが急いでいた。家族の手を引き、必要なものだけを抱え、少しでも安全な場所へ移動しようとしていた。


 ユイも、その中にいた。


 避難してきた人を案内していた途中で、建物のそばに取り残された親子を見つけたのだ。


 少女の父親は、崩れた木材の下敷きになり、足を痛めていた。


 自力では動けない。


 周囲には助けを求める人々がいたが、二次的な崩落の危険があり、誰も簡単には近づけなかった。


 それでも、ユイは近づいた。


「おじさん、立てますか?」


 父親は、苦しそうな顔で笑った。


「……すまんな。少し、足をやられたらしい」


「今、助けますから」


 そう言って、ユイは少女の手を握った。


「あなたは、こっちへ。お父さんを助けるから、少しだけ離れていてね」


「でも……」


 少女は父親を見つめた。


 離れたくない。


 その気持ちは、聞かなくても分かった。


 だからユイは、彼女の手を握り直した。


「大丈夫。必ず、助けに来るから」


 その言葉を、ユイは今でも覚えている。


 必ず。


 自分は、そう言ったのだ。


 少女を比較的安全な場所まで連れていき、近くにいた避難誘導員へ託した。


 それから、父親のもとへ戻ろうとした。


 しかし、その直後に建物の一部が崩れ落ちた。


 大きな音が響き、道の一部が瓦礫で塞がれた。


 ユイは、立ち止まった。


 煙の向こうに、父親のいた場所が見えた。


 戻らなければ。


 あの人が、まだそこにいる。


 助けると約束した。


 そう思って、もう一度、足を踏み出そうとした。


 けれど、近くにいた兵士が彼女の腕をつかんだ。


「駄目だ! これ以上は危険だ!」


「でも、まだ人がいるんです!」


「分かっている! だが、今戻れば君まで巻き込まれる!」


「それでも……!」


 ユイは、腕を振りほどこうとした。


 しかし、目の前で再び瓦礫が崩れた。


 砂埃が舞い上がり、視界が白く染まる。


 戻る道は、完全に塞がれてしまった。


 そのとき、ユイは初めて、どうしようもないという言葉の意味を理解した気がした。


 助けたい。


 助けると約束した。


 けれど、助けに戻ることができない。


 手を伸ばしても、届かない。


 足を動かしても、進めない。


 自分が何を望んでいるのかは、はっきりしているのに。


 それを実現する方法だけが、どこにもなかった。


 やがて救助隊が到着したが、父親は助からなかった。


 ユイは、後からそのことを聞いた。


 そして、少女が避難先で父親の訃報を受け取ったことも。


 あれから、何度も考えた。


 もし、もっと早く気づいていたら。


 もし、別の道から戻っていたら。


 もし、兵士の手を振りほどいていたら。


 もし、あと一分、時間があったなら。


 考えても、答えは出なかった。


 それでも、考えることをやめられなかった。


 自分が約束を守れなかったこと。


 自分が助けられるかもしれなかった命を、助けられなかったこと。


 その事実だけは、何をしても消えなかった。


     ◇


「……覚えていてくれたんですね」


 少女の声で、ユイは我に返った。


 目の前の少女は、少しだけ笑っていた。


 その笑顔が、ユイにはひどく苦しかった。


「……ごめんなさい」


 気づけば、そう口にしていた。


「本当に、ごめんなさい」


 少女の表情が、困ったように揺れた。


「え……?」


「私、あのとき……お父さんを助けるって言ったのに。あなたを先に避難させて、それから戻ろうとしたのに……」


 言葉が、途切れ途切れになる。


 これまで何度も、心の中で繰り返してきた言葉だった。


 誰かに伝えようとしたことはなかった。


 伝えたところで、何も変わらないと思っていたからだ。


 けれど、本人を前にすると、どうしても口にせずにはいられなかった。


「……助けられなかった」


 ユイは、俯いた。


「本当に、ごめんなさい」


 謝ったところで、父親が戻ってくるわけではない。


 それは分かっていた。


 それでも、謝らずにはいられなかった。


 自分が悪かったのかどうか。


 何か別の選択ができたのかどうか。


 その答えを、今でも見つけられずにいる。


 けれど、少なくとも、あのときの自分は助けたいと思っていた。


 その気持ちに嘘はなかった。


 だからこそ、助けられなかったことが、今も苦しかった。


「……ユイさん」


 少女が、一歩近づいた。


「顔を上げてください」


 ユイは、すぐには顔を上げられなかった。


 何を言われるのだろう。


 責められるのだろうか。


 どうしてもっと頑張ってくれなかったのかと、そう言われるのだろうか。


 そうなったとしても、仕方がないと思った。


 少女には、そう言う権利がある。


 父親を失った悲しみを、誰かにぶつけたくなる日もあるだろう。


 自分がその相手になったとしても、何も言えない。


 そう思っていた。


「……あのとき」


 少女は、静かに話し始めた。


「お父さん、私に言ったんです」


 ユイは、ゆっくり顔を上げた。


「あなたが私を安全な場所へ連れていってくれたあと、最後お父さんのそばにいた救助隊の人たちが、私に教えてくれました」


 少女は、自分の服の袖を握り締めた。


「お父さん、助けに来てくれた女の子に、ありがとうって伝えてほしいって言っていたそうです」


 ユイは、息を止めた。


「それから……」


 少女は、少しだけ目を伏せた。


「私を助けてくれた人を、責めないでほしいって」


 その言葉を聞いた瞬間、ユイの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。


 責めないでほしい。


 どうして。


 どうして、そんなことを言ってくれたのだろう。


 自分は、彼を助けられなかったのに。


 助けると約束したのに、戻ることさえできなかったのに。


 それなのに、彼は自分を責めないでほしいと言ったのだ。


「……そんな」


 ユイの声は、震えていた。


「私は、結局、何も……」


「いいえ」


 少女は、首を横に振った。


「私を助けてくれました」


 少女は、ユイの手をそっと握った。


「お父さんは、私に逃げろって言いました。でも、私は嫌だったんです。お父さんを置いていきたくなかった。ずっと一緒にいたかった」


 少女の目に、涙が浮かんだ。


「でも、あなたが手を握ってくれたから、私は歩けました。怖くて、何度も振り返ったけれど……あなたが、私の手を離さなかったから」


 ユイは、何も言えなかった。


「……あのとき、あなたが来てくれなかったら、私も、どうなっていたか分かりません」


 少女は涙を拭った。


「お父さんを助けてほしかったのは、本当です。今だって、会いたいと思います。もっと一緒にいたかったって、何度も思います」


 その言葉に、ユイは俯いた。


 そうだ。


 何を言われても、失った人が戻ってくるわけではない。


 少女の悲しみは、消えていない。


 自分が謝ったからといって、少女の苦しみが軽くなるわけでもない。


 それなのに、彼女は今、自分を責めていないと言ってくれている。


「……でも」


 少女は、ユイの手を握る力を少しだけ強めた。


「私は、あなたに感謝しています」


 ユイは顔を上げた。


「……どうして?」


 その問いは、ほとんど無意識に口から出ていた。


 どうして、感謝できるのだろう。


 自分は、約束を守れなかったのに。


 自分は、助けられなかったのに。


 感謝されるようなことなど、何もできていないのに。


 少女は、少しだけ困ったように笑った。


「……私にも、よく分かりません」


 その答えは、ユイにとって意外なものだった。


「お父さんが亡くなったことは、今でも悲しいです。どうしても、会いたいと思ってしまいます。もっと何かできたんじゃないかって、考えることもあります」


 少女は、遠くを見るような目をした。


「でも、あなたが私を助けてくれたことも、本当なんです」


 彼女は、ゆっくりとユイを見つめた。


「お父さんを失ったことと、あなたに助けてもらったことは、どちらか一つだけじゃないんだと思います」


 ユイは、息を呑んだ。


「……だから、ありがとうって言いたかったんです」


 その瞬間、ユイの目から涙がこぼれた。


 泣くつもりはなかった。


 ずっと、泣かないようにしてきた。


 自分が泣いたところで、何も変わらないと思っていたからだ。


 自分が苦しかったことを誰かに話したところで、亡くなった人が戻ってくるわけではない。


 だから、もう考えないようにしようと思っていた。


 助けられなかった人のことを思い出すよりも、今、助けられる人を助けよう。


 そのほうが、ずっといい。


 そうやって、自分の気持ちを押し込めてきた。


 けれど、本当は。


 忘れたわけではなかった。


 諦めたわけでもなかった。


 自分が助けられなかった人のことを、今でも、ずっと気にしていた。


「……ごめんね」


 少女が慌てて言った。


「私、変なことを言いましたか?」


 ユイは首を横に振った。


「……違うの」


 声が震えた。


「違うよ……」


 どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。


 悲しいからなのだろうか。


 申し訳ないからなのだろうか。


 それとも、自分がずっと抱えていたものを、初めて誰かに受け止めてもらえたからなのだろうか。


 きっと、全部だった。


「……ありがとう」


 ユイは、ようやくそれだけを言った。


「話してくれて、ありがとう」


 少女は、涙を浮かべたまま微笑んだ。


 二人は、しばらく手を握り合っていた。


 その間、誰も何も言わなかった。


 悲しみは、消えなかった。


 失われた命が戻るわけでもない。


 けれど、ほんの少しだけ、ユイは息がしやすくなった気がした。


     ◇


 少女と弟を休憩場所へ案内したあと、ユイは救護所の裏手へ向かった。


 そこには、使い終わった木箱や、物資を一時的に保管する小さな倉庫があった。


 人通りは少ない。


 壁にもたれかかると、ようやく全身から力が抜けた。


「……っ」


 喉の奥が、ひどく痛かった。


 泣いたせいだろうか。


 それとも、ずっと言葉にできなかったことを口にしたせいだろうか。


 ユイは、両手で顔を覆った。


 少女は、自分を責めなかった。


 むしろ、感謝してくれた。


 それなのに、自分は、その言葉をすぐには受け入れられなかった。


 許されたかったのだろうか。


 自分は悪くなかったと、誰かに言ってほしかったのだろうか。


 もしそうなら、それは、あまりにも身勝手な願いではないだろうか。


 彼女の父親は亡くなった。


 彼女は父親と二度と会えない。


 その悲しみは、これからも続いていくかもしれない。


 それなのに、自分だけが安心していいのだろうか。


 ユイは、目を閉じた。


 何が正しいのか、分からなかった。


 ただ、少女が自分を責めなかったという事実が、胸の奥に残っていた。


 責められることを恐れていた。


 あのとき、もっと何かできたはずだと思っていた。


 助けられなかったという事実を、自分の中だけで何度も繰り返していた。


 その繰り返しが、いつしか、自分はもっと頑張らなければならないという思いに変わっていた。


 次こそは。


 次こそは、助けなければ。


 次こそは、間に合わせなければ。


 誰かが助けを求めたら、自分が行かなければならない。


 そうしなければ、また同じことが起こる。


 また、誰かを失ってしまう。


 その恐怖が、いつの間にか、ユイを走らせていた。


 助けたいから。


 もちろん、それも本当だった。


 けれど、それだけではなかったのかもしれない。


 もう二度と、あのときの自分に戻りたくなかった。


 何もできずに立ち尽くす自分に。


 助けると約束したのに、助けられなかった自分に。


 あのときの悔しさと無力さを、もう一度味わうことが怖かった。


 だから、助けを求める声が聞こえると、考えるより先に足が動いてしまうのだ。


 行かなければ。


 行かなければ、また後悔する。


 そう思っていた。


 でも。


 ユイは、ゆっくりと顔を上げた。


 あの少女は、父親を失った悲しみを抱えながらも、自分が助けた事実を覚えていてくれた。


 彼女の中には、悲しみだけが残っているわけではなかった。


 父親と過ごした時間も。


 自分に握られた手の温かさも。


 逃げる途中で聞いた言葉も。


 きっと、すべてが一緒に残っている。


 人の心は、そんなに単純なものではないのだろう。


 悲しいからといって、嬉しかったことまで消えてしまうわけではない。


 助けられなかったからといって、助けられたことまで無意味になるわけではない。


 それでも、ユイはまだ、自分自身を許せる気がしなかった。


 ただ、少しだけ。


 自分が今まで見ようとしていなかったものに、気づいたような気がした。


     ◇


「……ユイ」


 静かな声がした。


 顔を上げると、レンが立っていた。


「……こんなところにいたんだね」


「……うん」


 ユイは慌てて目元を拭った。


「どうしたの? 何かあった?」


 レンは、すぐには近づいてこなかった。


 ただ、ユイの表情を見て、少しだけ眉を下げた。


「……泣いていたの?」


「……ちょっとね」


「そっか」


 それだけ言って、レンは隣に腰を下ろした。


 何があったのか、尋ねようとはしなかった。


 慰めようとも。


 元気づけようとも。


 ただ、隣に座った。


 ユイは、そのことに少し驚いた。


「……聞かないの?」


「話したくなったら、聞くよ」


 レンは、前を向いたまま答えた。


「でも、今は話したくないのかもしれないでしょう?」


 ユイは、彼の横顔を見つめた。


 どうして、この人は。


 どうして、そんなふうに言えるのだろう。


 何かを話さなければ、一緒にいてはいけないわけではない。


 元気でいなければ、心配をかけてしまうわけでもない。


 泣いている理由を説明できなくても、隣にいてくれる。


 そのことが、今のユイには、どうしようもなくありがたかった。


「……私ね」


 気づけば、口を開いていた。


「前に、助けられなかった人がいたの」


 レンは、静かに頷いた。


 ユイは、少女と会ったことを話した。


 父親のこと。


 助けると約束したこと。


 それでも、助けられなかったこと。


 ずっと、自分の中で後悔してきたこと。


 話しているうちに、また涙がこぼれた。


 それでも、今度は言葉を止めなかった。


「……私、ずっと、あのときのことを考えていたんだと思う」


 ユイは、自分の膝を見つめた。


「次こそは、助けたい。次こそは、間に合わせたい。そう思って、ずっと……」


 声が、震えた。


「でも、どれだけ頑張っても、助けられないことがあるんだよね」


 レンは、黙っていた。


「……私は、それが怖いの」


 ユイは、初めて、はっきりと言った。


「また、誰かを助けられなかったらどうしようって。自分がもっと何かできたんじゃないかって、またずっと考えることになるんじゃないかって」


 それは、ずっと心の奥に隠していた恐怖だった。


 自分が危険な目に遭うことよりも、誰かを失うことよりも。


 何もできなかった自分を、何度も思い返さなければならないことが、怖かった。


「……だから、誰かが助けを求めていると、行かずにはいられないんだと思う」


 ユイは、苦笑した。


「自分が何とかしなきゃって。私が行けば、何か変わるかもしれないって」


 レンは、ゆっくりと彼女のほうを向いた。


「……ユイは、誰かを助けたいんだね」


「……うん」


「それと同じくらい、助けられなかった自分を、許せないのかもしれないね」


 ユイは、顔を上げた。


 思いがけない言葉だった。


 責められたわけではなかった。


 決めつけられたわけでもなかった。


 ただ、自分が言葉にできずにいたものを、彼はそっと拾い上げてくれたような気がした。


「……そう、なのかな」


 ユイは、自分でも確信を持てないまま呟いた。


「分からない……でも、そうなのかもしれない」


 レンは、少しだけ目を伏せた。


「……僕も、まだ分からないことばかりだから」


 彼は、自分の手を見つめた。


「自分が何者なのかも、どうして生き返るのかも。何のために生きているのかも、まだ分からない」


 その声は静かだった。


「でも、分からないからって、今の僕まで、全部分からないわけじゃないと思うんだ」


 ユイは、彼を見つめた。


「……今の、私?」


「うん。ユイは、あの人を助けたいと思った。助けられなかったことを、今でも悲しいと思っている。それは、なくならないと思う」


 レンは、少しだけ考えてから続けた。


「でも、ユイが助けようとしたことまで、なくなるわけじゃないよね」


 ユイは、息を呑んだ。


「……助けられなかったことと、助けようとしたことは、どっちも本当なんだと思う」


 その言葉は、先ほど少女が言ったことと、どこか似ていた。


 悲しみと感謝。


 失ったものと、与えられたもの。


 助けられなかったことと、助けようとしたこと。


 人の心には、反対の感情が同時に存在していてもいいのかもしれない。


 どちらか一方だけを選び、もう一方を消さなければならないわけではないのかもしれない。


 ユイは、ゆっくりと息を吐いた。


「……レンって、不思議だね」


「え?」


「私より、ずっと自分のことを知らないはずなのに……ときどき、すごく大事なことを言うんだもん」


 レンは、困ったように笑った。


「……そうかな」


「そうだよ」


 ユイは、涙を拭った。


 まだ、悲しみは消えていない。


 あの少女の父親が戻ってくるわけでもない。


 あのときの自分が、別の選択をできたわけでもない。


 それでも、今は少しだけ、息ができる。


 自分が助けようとしたことまで、なかったことにしなくてもいい。


 そう思えるだけで、何かが変わるような気がした。


     ◇


 夕方、空が薄い紫色に染まり始めた頃。


 ユイは、少し離れた場所に腰を下ろしていた。


 レンは隣にいる。


 何も話していなかった。


 けれど、沈黙が苦痛ではなかった。


 これまでユイは、誰かと一緒にいるとき、相手を楽しませなければならないと思うことがあった。


 元気がない人には、何か声をかける。


 悲しんでいる人には、慰める言葉を探す。


 黙っている人がいれば、話題を見つける。


 何もしないでいることが、相手を見捨てることのように思えてしまうからだ。


 けれど、今のレンは、何もしていなかった。


 ただ、隣にいた。


 それなのに、ユイは一人ではないと感じていた。


「……レン」


「うん?」


「今だけ、こうしていてもいい?」


 言ってから、ユイは少し恥ずかしくなった。


 何を言っているのだろう。


 わざわざ聞くことでもない。


 隣に座っているのだから、そのまま座っていればいいだけなのに。


 けれど、レンは真面目な顔で頷いた。


「……もちろん」


 そして、少しだけ笑った。


「いつまででも」


 その言葉を聞いて、ユイは、そっと彼の肩に寄りかかった。


 レンは驚いたようだったが、何も言わなかった。


 ただ、動かずにいてくれた。


 ユイは目を閉じた。


 彼の肩は、思っていたよりも温かかった。


 その温かさは、亡くなった人の代わりになるものではない。


 失ったものを埋め合わせることもできない。


 それでも、今ここにいる人の温かさは、今ここにいる自分を支えてくれる。


 そんな当たり前のことを、ユイはようやく、少しだけ理解できた気がした。


「……ありがとう、レン」


 小さく呟く。


「うん」


 彼は、それだけ答えた。


 ユイは、もう一度、彼の肩に頭を預けた。


 この人は、いつまで自分のそばにいてくれるのだろう。


 そんなことを、ふと思った。


 今は一緒にいる。


 明日も、きっと一緒に仕事をする。


 けれど、その先は分からない。


 彼は記憶を失っている。自分が何者なのかも、どこから来たのかも知らない。


 いつか過去を思い出し、帰るべき場所を見つけるかもしれない。


 そのとき、自分はどうするのだろう。


 彼を送り出すことができるだろうか。


 それとも、今のように隣にいてほしいと願うのだろうか。


 ユイは、すぐに考えることをやめた。


 まだ、早い。


 先のことを考えるには、知らないことが多すぎる。


 今はただ、隣にいてくれることを、大切にしたかった。


     ◇


 同じ頃。


 救護所の入口から少し離れた場所で、一人の女性が立ち止まっていた。


 濃い色の外套を身につけ、周囲の人々に紛れるようにして、静かに救護所の様子を眺めている。


 彼女は、ここへ来た目的を忘れてはいなかった。


 避難民の名簿を確認すること。


 物資の移動経路を把握すること。


 そして、ある人物がこの地域に現れていないか、確かめること。


 それが、彼女に与えられた任務だった。


 戦争が続く以上、情報には価値がある。


 誰がどこにいるのか。


 どの道が使われているのか。


 どの施設が、どれほどの人々を受け入れているのか。


 そうした小さな情報が、時には戦況を左右する。


 彼女は、周囲を注意深く観察していた。


 そのとき。


 救護所の裏手から、一人の少年が歩いてきた。


 濃い髪。


 落ち着いた表情。


 そして、胸元へ無意識に触れる仕草。


 女性の足が止まった。


 目を細める。


 遠目では、確信を持つことはできなかった。


 しかし、少年が誰かに呼ばれて振り返った瞬間、その横顔がはっきりと見えた。


 女性は、息を呑んだ。


 それから、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「……やっぱり、生きていたのね」


 その表情には、驚きだけではなく、安堵とも恐怖ともつかないものが浮かんでいた。


 彼女は、少年から目を離さなかった。


 長いあいだ探していたものを、ようやく見つけた人間のように。


 けれど、彼女が何を知っているのか。


 なぜ少年の生存を確かめようとしていたのか。


 その答えは、まだ誰にも明かされていなかった。


 救護所の裏手では、ユイがレンの隣に座っていた。


 彼女は、少しだけ心が軽くなったような気がしていた。


 自分が助けられなかった人のことを、忘れたわけではない。


 これからも、きっと思い出すだろう。


 そのたびに悲しくなるかもしれない。


 それでも、彼女は少しずつ、自分の中に残ったものを抱えながら、生きていこうとしていた。


 隣には、レンがいる。


 彼はまだ、自分が何者なのか分からない。


 けれど、今ここにいる。


 その事実が、ユイには大切だった。


 そして、二人の知らないところで、彼らを取り巻く運命は、静かに動き始めていた。


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