06.助けられなかった人
人は、悲しい出来事を忘れることで前へ進むのだろうか。
それとも、忘れられないままでも、前へ進むことができるのだろうか。
ユイには、まだ分からなかった。
戦争が始まってから、彼女は何度も、大切なものを失う人々を見てきた。家を失った人。家族とはぐれた人。昨日まで隣にいた誰かが、今日はもういないという事実を、受け入れられずにいる人。
そうした人々の姿を見るたび、ユイは何かをしてあげたいと思った。
けれど、何をすればいいのか分からないことも多かった。
励ましの言葉が、必ずしも相手を救うわけではない。
大丈夫だと伝えたところで、失われたものが戻ってくるわけでもない。
頑張って生きていこうと言うことさえ、時には残酷なのかもしれない。
それでも、何もせずに通り過ぎることはできなかった。
だからユイは、今日も救護所の入口に立っていた。
「こちらで受付をしています。怪我をしている方は、先に医療員に声をかけてください」
避難してきた人々を案内しながら、彼女は何度も同じ言葉を繰り返した。
声が枯れてきても、足が痛くなっても、できるだけ笑顔を保とうとした。
不安そうな人には、少しでも安心してもらいたかったからだ。
もっとも、自分自身が安心しているわけではなかった。
誰かの大きな声が聞こえるたび、ユイはそちらへ顔を向けた。遠くで物音がすれば、反射的に空を見上げる。人々が一斉に同じ方向へ走り始めれば、まず逃げ道を探した。
いつの間にか、そうすることが習慣になっていた。
危険を察知し、逃げ道を確かめ、助けを必要としている人を探す。
その繰り返しによって、彼女はこれまで生き延びてきた。
だから、これからもそうするつもりだった。
自分が何を感じているのかを考えるのは、もっと後でいい。
そう思っていた。
「ユイ、少し休んだら?」
隣から声がした。
振り向くと、レンが木箱を抱えて立っていた。
「え? まだ大丈夫だよ」
「さっきから、ずっと立ってるでしょう?」
「レンだって、さっきからずっと働いてるじゃない」
「僕は、まだ平気だから」
「……それ、私が言うと怒るくせに」
レンは、きょとんとした。
「そうだった?」
「そうだよ」
ユイは呆れたように息を吐いた。
最近、レンとの会話は、こういうものが増えてきた。
彼は相変わらず、自分のことを後回しにしがちだった。頼まれればすぐに動き、困っている人がいれば手を貸す。疲れていないかと尋ねても、最初は大抵「大丈夫」と答える。
ただ、以前と少し違うのは、こちらがもう一度尋ねると、彼も自分の疲れを認めるようになったことだった。
それが、ユイには嬉しかった。
何かが大きく変わったわけではない。
それでも、一緒に過ごす時間の中で、彼は少しずつ、自分のことも考えるようになっている。
自分の言葉が、ほんの少しでも彼の中に残っている。
それだけで、何かを成し遂げたような気がした。
「……じゃあ、これを運び終わったら、一緒に休憩しよう」
レンが言った。
「本当に?」
「うん。約束する」
「……絶対だからね」
「分かった」
彼は微笑み、木箱を運んでいった。
ユイは、その背中を見送った。
何でもない約束だった。
荷物を運び終わったら、少し休む。
ただ、それだけのこと。
けれど、今の自分には、そうした小さな約束が大切だった。
明日、何が起こるかは分からない。
次に誰が救護所へ運ばれてくるのかも分からない。
それでも、少し先の未来に、誰かと一緒に過ごす時間を思い描くことはできる。
ユイは、そんな当たり前のことが、以前よりも大切に思えるようになっていた。
◇
昼前になって、新しい避難民の一団が到着した。
人数は十数人ほどだった。
年配の男性や女性、幼い子どもたち。荷物を背負った若者もいれば、誰かに肩を貸してもらいながら歩く人もいる。
ユイは、彼らを救護所の中へ案内した。
「こちらで少し休んでください。怪我をしている方はいませんか?」
何人かが手を挙げた。
ユイは順番に話を聞き、医療員のもとへ案内していく。
そのときだった。
「……あの」
控えめな声が聞こえた。
振り向くと、一人の少女が立っていた。
年齢は、ユイより少し下だろうか。
肩まで伸びた髪には埃がつき、着ている服も擦り切れていた。少女の隣には、まだ幼い男の子がいる。少女はその子の手をしっかりと握っていた。
「ここで、休ませてもらえますか?」
「もちろん。怪我はしていない?」
「私は大丈夫です。この子も、少し疲れているだけで……」
少女は、弟らしい少年の頭をそっと撫でた。
ユイは二人に毛布を渡そうとして、ふと、少女の顔を見つめた。
見覚えがあった。
どこで会ったのだろう。
最初は、すぐには思い出せなかった。
けれど、その目を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
大きな瞳。
何かを必死に堪えているような、けれど人の話をきちんと聞こうとする目。
ユイは、思わず息を止めた。
忘れるはずがなかった。
何週間も前。
南門に近い古い街路で、崩れかけた建物のそばにいた少女。
あのときも、彼女は誰かの手を握り締めていた。
ただ、隣にいたのは幼い弟ではなかった。
父親だった。
「……あなた」
ユイの声が、小さく震えた。
少女は、不思議そうに顔を上げた。
そして、少しずつ、その表情が変わっていった。
「あ……」
少女の唇が、かすかに開いた。
「……ユイさん、ですか?」
それを聞いた瞬間、ユイの中で、止まっていた時間が動き出した。
◇
あの日のことを、ユイは今でも覚えている。
戦闘が激しくなり、南門の周辺に避難指示が出された日のことだった。
街路には人々があふれ、荷車や荷物が道を塞いでいた。誰もが急いでいた。家族の手を引き、必要なものだけを抱え、少しでも安全な場所へ移動しようとしていた。
ユイも、その中にいた。
避難してきた人を案内していた途中で、建物のそばに取り残された親子を見つけたのだ。
少女の父親は、崩れた木材の下敷きになり、足を痛めていた。
自力では動けない。
周囲には助けを求める人々がいたが、二次的な崩落の危険があり、誰も簡単には近づけなかった。
それでも、ユイは近づいた。
「おじさん、立てますか?」
父親は、苦しそうな顔で笑った。
「……すまんな。少し、足をやられたらしい」
「今、助けますから」
そう言って、ユイは少女の手を握った。
「あなたは、こっちへ。お父さんを助けるから、少しだけ離れていてね」
「でも……」
少女は父親を見つめた。
離れたくない。
その気持ちは、聞かなくても分かった。
だからユイは、彼女の手を握り直した。
「大丈夫。必ず、助けに来るから」
その言葉を、ユイは今でも覚えている。
必ず。
自分は、そう言ったのだ。
少女を比較的安全な場所まで連れていき、近くにいた避難誘導員へ託した。
それから、父親のもとへ戻ろうとした。
しかし、その直後に建物の一部が崩れ落ちた。
大きな音が響き、道の一部が瓦礫で塞がれた。
ユイは、立ち止まった。
煙の向こうに、父親のいた場所が見えた。
戻らなければ。
あの人が、まだそこにいる。
助けると約束した。
そう思って、もう一度、足を踏み出そうとした。
けれど、近くにいた兵士が彼女の腕をつかんだ。
「駄目だ! これ以上は危険だ!」
「でも、まだ人がいるんです!」
「分かっている! だが、今戻れば君まで巻き込まれる!」
「それでも……!」
ユイは、腕を振りほどこうとした。
しかし、目の前で再び瓦礫が崩れた。
砂埃が舞い上がり、視界が白く染まる。
戻る道は、完全に塞がれてしまった。
そのとき、ユイは初めて、どうしようもないという言葉の意味を理解した気がした。
助けたい。
助けると約束した。
けれど、助けに戻ることができない。
手を伸ばしても、届かない。
足を動かしても、進めない。
自分が何を望んでいるのかは、はっきりしているのに。
それを実現する方法だけが、どこにもなかった。
やがて救助隊が到着したが、父親は助からなかった。
ユイは、後からそのことを聞いた。
そして、少女が避難先で父親の訃報を受け取ったことも。
あれから、何度も考えた。
もし、もっと早く気づいていたら。
もし、別の道から戻っていたら。
もし、兵士の手を振りほどいていたら。
もし、あと一分、時間があったなら。
考えても、答えは出なかった。
それでも、考えることをやめられなかった。
自分が約束を守れなかったこと。
自分が助けられるかもしれなかった命を、助けられなかったこと。
その事実だけは、何をしても消えなかった。
◇
「……覚えていてくれたんですね」
少女の声で、ユイは我に返った。
目の前の少女は、少しだけ笑っていた。
その笑顔が、ユイにはひどく苦しかった。
「……ごめんなさい」
気づけば、そう口にしていた。
「本当に、ごめんなさい」
少女の表情が、困ったように揺れた。
「え……?」
「私、あのとき……お父さんを助けるって言ったのに。あなたを先に避難させて、それから戻ろうとしたのに……」
言葉が、途切れ途切れになる。
これまで何度も、心の中で繰り返してきた言葉だった。
誰かに伝えようとしたことはなかった。
伝えたところで、何も変わらないと思っていたからだ。
けれど、本人を前にすると、どうしても口にせずにはいられなかった。
「……助けられなかった」
ユイは、俯いた。
「本当に、ごめんなさい」
謝ったところで、父親が戻ってくるわけではない。
それは分かっていた。
それでも、謝らずにはいられなかった。
自分が悪かったのかどうか。
何か別の選択ができたのかどうか。
その答えを、今でも見つけられずにいる。
けれど、少なくとも、あのときの自分は助けたいと思っていた。
その気持ちに嘘はなかった。
だからこそ、助けられなかったことが、今も苦しかった。
「……ユイさん」
少女が、一歩近づいた。
「顔を上げてください」
ユイは、すぐには顔を上げられなかった。
何を言われるのだろう。
責められるのだろうか。
どうしてもっと頑張ってくれなかったのかと、そう言われるのだろうか。
そうなったとしても、仕方がないと思った。
少女には、そう言う権利がある。
父親を失った悲しみを、誰かにぶつけたくなる日もあるだろう。
自分がその相手になったとしても、何も言えない。
そう思っていた。
「……あのとき」
少女は、静かに話し始めた。
「お父さん、私に言ったんです」
ユイは、ゆっくり顔を上げた。
「あなたが私を安全な場所へ連れていってくれたあと、最後お父さんのそばにいた救助隊の人たちが、私に教えてくれました」
少女は、自分の服の袖を握り締めた。
「お父さん、助けに来てくれた女の子に、ありがとうって伝えてほしいって言っていたそうです」
ユイは、息を止めた。
「それから……」
少女は、少しだけ目を伏せた。
「私を助けてくれた人を、責めないでほしいって」
その言葉を聞いた瞬間、ユイの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
責めないでほしい。
どうして。
どうして、そんなことを言ってくれたのだろう。
自分は、彼を助けられなかったのに。
助けると約束したのに、戻ることさえできなかったのに。
それなのに、彼は自分を責めないでほしいと言ったのだ。
「……そんな」
ユイの声は、震えていた。
「私は、結局、何も……」
「いいえ」
少女は、首を横に振った。
「私を助けてくれました」
少女は、ユイの手をそっと握った。
「お父さんは、私に逃げろって言いました。でも、私は嫌だったんです。お父さんを置いていきたくなかった。ずっと一緒にいたかった」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「でも、あなたが手を握ってくれたから、私は歩けました。怖くて、何度も振り返ったけれど……あなたが、私の手を離さなかったから」
ユイは、何も言えなかった。
「……あのとき、あなたが来てくれなかったら、私も、どうなっていたか分かりません」
少女は涙を拭った。
「お父さんを助けてほしかったのは、本当です。今だって、会いたいと思います。もっと一緒にいたかったって、何度も思います」
その言葉に、ユイは俯いた。
そうだ。
何を言われても、失った人が戻ってくるわけではない。
少女の悲しみは、消えていない。
自分が謝ったからといって、少女の苦しみが軽くなるわけでもない。
それなのに、彼女は今、自分を責めていないと言ってくれている。
「……でも」
少女は、ユイの手を握る力を少しだけ強めた。
「私は、あなたに感謝しています」
ユイは顔を上げた。
「……どうして?」
その問いは、ほとんど無意識に口から出ていた。
どうして、感謝できるのだろう。
自分は、約束を守れなかったのに。
自分は、助けられなかったのに。
感謝されるようなことなど、何もできていないのに。
少女は、少しだけ困ったように笑った。
「……私にも、よく分かりません」
その答えは、ユイにとって意外なものだった。
「お父さんが亡くなったことは、今でも悲しいです。どうしても、会いたいと思ってしまいます。もっと何かできたんじゃないかって、考えることもあります」
少女は、遠くを見るような目をした。
「でも、あなたが私を助けてくれたことも、本当なんです」
彼女は、ゆっくりとユイを見つめた。
「お父さんを失ったことと、あなたに助けてもらったことは、どちらか一つだけじゃないんだと思います」
ユイは、息を呑んだ。
「……だから、ありがとうって言いたかったんです」
その瞬間、ユイの目から涙がこぼれた。
泣くつもりはなかった。
ずっと、泣かないようにしてきた。
自分が泣いたところで、何も変わらないと思っていたからだ。
自分が苦しかったことを誰かに話したところで、亡くなった人が戻ってくるわけではない。
だから、もう考えないようにしようと思っていた。
助けられなかった人のことを思い出すよりも、今、助けられる人を助けよう。
そのほうが、ずっといい。
そうやって、自分の気持ちを押し込めてきた。
けれど、本当は。
忘れたわけではなかった。
諦めたわけでもなかった。
自分が助けられなかった人のことを、今でも、ずっと気にしていた。
「……ごめんね」
少女が慌てて言った。
「私、変なことを言いましたか?」
ユイは首を横に振った。
「……違うの」
声が震えた。
「違うよ……」
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
悲しいからなのだろうか。
申し訳ないからなのだろうか。
それとも、自分がずっと抱えていたものを、初めて誰かに受け止めてもらえたからなのだろうか。
きっと、全部だった。
「……ありがとう」
ユイは、ようやくそれだけを言った。
「話してくれて、ありがとう」
少女は、涙を浮かべたまま微笑んだ。
二人は、しばらく手を握り合っていた。
その間、誰も何も言わなかった。
悲しみは、消えなかった。
失われた命が戻るわけでもない。
けれど、ほんの少しだけ、ユイは息がしやすくなった気がした。
◇
少女と弟を休憩場所へ案内したあと、ユイは救護所の裏手へ向かった。
そこには、使い終わった木箱や、物資を一時的に保管する小さな倉庫があった。
人通りは少ない。
壁にもたれかかると、ようやく全身から力が抜けた。
「……っ」
喉の奥が、ひどく痛かった。
泣いたせいだろうか。
それとも、ずっと言葉にできなかったことを口にしたせいだろうか。
ユイは、両手で顔を覆った。
少女は、自分を責めなかった。
むしろ、感謝してくれた。
それなのに、自分は、その言葉をすぐには受け入れられなかった。
許されたかったのだろうか。
自分は悪くなかったと、誰かに言ってほしかったのだろうか。
もしそうなら、それは、あまりにも身勝手な願いではないだろうか。
彼女の父親は亡くなった。
彼女は父親と二度と会えない。
その悲しみは、これからも続いていくかもしれない。
それなのに、自分だけが安心していいのだろうか。
ユイは、目を閉じた。
何が正しいのか、分からなかった。
ただ、少女が自分を責めなかったという事実が、胸の奥に残っていた。
責められることを恐れていた。
あのとき、もっと何かできたはずだと思っていた。
助けられなかったという事実を、自分の中だけで何度も繰り返していた。
その繰り返しが、いつしか、自分はもっと頑張らなければならないという思いに変わっていた。
次こそは。
次こそは、助けなければ。
次こそは、間に合わせなければ。
誰かが助けを求めたら、自分が行かなければならない。
そうしなければ、また同じことが起こる。
また、誰かを失ってしまう。
その恐怖が、いつの間にか、ユイを走らせていた。
助けたいから。
もちろん、それも本当だった。
けれど、それだけではなかったのかもしれない。
もう二度と、あのときの自分に戻りたくなかった。
何もできずに立ち尽くす自分に。
助けると約束したのに、助けられなかった自分に。
あのときの悔しさと無力さを、もう一度味わうことが怖かった。
だから、助けを求める声が聞こえると、考えるより先に足が動いてしまうのだ。
行かなければ。
行かなければ、また後悔する。
そう思っていた。
でも。
ユイは、ゆっくりと顔を上げた。
あの少女は、父親を失った悲しみを抱えながらも、自分が助けた事実を覚えていてくれた。
彼女の中には、悲しみだけが残っているわけではなかった。
父親と過ごした時間も。
自分に握られた手の温かさも。
逃げる途中で聞いた言葉も。
きっと、すべてが一緒に残っている。
人の心は、そんなに単純なものではないのだろう。
悲しいからといって、嬉しかったことまで消えてしまうわけではない。
助けられなかったからといって、助けられたことまで無意味になるわけではない。
それでも、ユイはまだ、自分自身を許せる気がしなかった。
ただ、少しだけ。
自分が今まで見ようとしていなかったものに、気づいたような気がした。
◇
「……ユイ」
静かな声がした。
顔を上げると、レンが立っていた。
「……こんなところにいたんだね」
「……うん」
ユイは慌てて目元を拭った。
「どうしたの? 何かあった?」
レンは、すぐには近づいてこなかった。
ただ、ユイの表情を見て、少しだけ眉を下げた。
「……泣いていたの?」
「……ちょっとね」
「そっか」
それだけ言って、レンは隣に腰を下ろした。
何があったのか、尋ねようとはしなかった。
慰めようとも。
元気づけようとも。
ただ、隣に座った。
ユイは、そのことに少し驚いた。
「……聞かないの?」
「話したくなったら、聞くよ」
レンは、前を向いたまま答えた。
「でも、今は話したくないのかもしれないでしょう?」
ユイは、彼の横顔を見つめた。
どうして、この人は。
どうして、そんなふうに言えるのだろう。
何かを話さなければ、一緒にいてはいけないわけではない。
元気でいなければ、心配をかけてしまうわけでもない。
泣いている理由を説明できなくても、隣にいてくれる。
そのことが、今のユイには、どうしようもなくありがたかった。
「……私ね」
気づけば、口を開いていた。
「前に、助けられなかった人がいたの」
レンは、静かに頷いた。
ユイは、少女と会ったことを話した。
父親のこと。
助けると約束したこと。
それでも、助けられなかったこと。
ずっと、自分の中で後悔してきたこと。
話しているうちに、また涙がこぼれた。
それでも、今度は言葉を止めなかった。
「……私、ずっと、あのときのことを考えていたんだと思う」
ユイは、自分の膝を見つめた。
「次こそは、助けたい。次こそは、間に合わせたい。そう思って、ずっと……」
声が、震えた。
「でも、どれだけ頑張っても、助けられないことがあるんだよね」
レンは、黙っていた。
「……私は、それが怖いの」
ユイは、初めて、はっきりと言った。
「また、誰かを助けられなかったらどうしようって。自分がもっと何かできたんじゃないかって、またずっと考えることになるんじゃないかって」
それは、ずっと心の奥に隠していた恐怖だった。
自分が危険な目に遭うことよりも、誰かを失うことよりも。
何もできなかった自分を、何度も思い返さなければならないことが、怖かった。
「……だから、誰かが助けを求めていると、行かずにはいられないんだと思う」
ユイは、苦笑した。
「自分が何とかしなきゃって。私が行けば、何か変わるかもしれないって」
レンは、ゆっくりと彼女のほうを向いた。
「……ユイは、誰かを助けたいんだね」
「……うん」
「それと同じくらい、助けられなかった自分を、許せないのかもしれないね」
ユイは、顔を上げた。
思いがけない言葉だった。
責められたわけではなかった。
決めつけられたわけでもなかった。
ただ、自分が言葉にできずにいたものを、彼はそっと拾い上げてくれたような気がした。
「……そう、なのかな」
ユイは、自分でも確信を持てないまま呟いた。
「分からない……でも、そうなのかもしれない」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「……僕も、まだ分からないことばかりだから」
彼は、自分の手を見つめた。
「自分が何者なのかも、どうして生き返るのかも。何のために生きているのかも、まだ分からない」
その声は静かだった。
「でも、分からないからって、今の僕まで、全部分からないわけじゃないと思うんだ」
ユイは、彼を見つめた。
「……今の、私?」
「うん。ユイは、あの人を助けたいと思った。助けられなかったことを、今でも悲しいと思っている。それは、なくならないと思う」
レンは、少しだけ考えてから続けた。
「でも、ユイが助けようとしたことまで、なくなるわけじゃないよね」
ユイは、息を呑んだ。
「……助けられなかったことと、助けようとしたことは、どっちも本当なんだと思う」
その言葉は、先ほど少女が言ったことと、どこか似ていた。
悲しみと感謝。
失ったものと、与えられたもの。
助けられなかったことと、助けようとしたこと。
人の心には、反対の感情が同時に存在していてもいいのかもしれない。
どちらか一方だけを選び、もう一方を消さなければならないわけではないのかもしれない。
ユイは、ゆっくりと息を吐いた。
「……レンって、不思議だね」
「え?」
「私より、ずっと自分のことを知らないはずなのに……ときどき、すごく大事なことを言うんだもん」
レンは、困ったように笑った。
「……そうかな」
「そうだよ」
ユイは、涙を拭った。
まだ、悲しみは消えていない。
あの少女の父親が戻ってくるわけでもない。
あのときの自分が、別の選択をできたわけでもない。
それでも、今は少しだけ、息ができる。
自分が助けようとしたことまで、なかったことにしなくてもいい。
そう思えるだけで、何かが変わるような気がした。
◇
夕方、空が薄い紫色に染まり始めた頃。
ユイは、少し離れた場所に腰を下ろしていた。
レンは隣にいる。
何も話していなかった。
けれど、沈黙が苦痛ではなかった。
これまでユイは、誰かと一緒にいるとき、相手を楽しませなければならないと思うことがあった。
元気がない人には、何か声をかける。
悲しんでいる人には、慰める言葉を探す。
黙っている人がいれば、話題を見つける。
何もしないでいることが、相手を見捨てることのように思えてしまうからだ。
けれど、今のレンは、何もしていなかった。
ただ、隣にいた。
それなのに、ユイは一人ではないと感じていた。
「……レン」
「うん?」
「今だけ、こうしていてもいい?」
言ってから、ユイは少し恥ずかしくなった。
何を言っているのだろう。
わざわざ聞くことでもない。
隣に座っているのだから、そのまま座っていればいいだけなのに。
けれど、レンは真面目な顔で頷いた。
「……もちろん」
そして、少しだけ笑った。
「いつまででも」
その言葉を聞いて、ユイは、そっと彼の肩に寄りかかった。
レンは驚いたようだったが、何も言わなかった。
ただ、動かずにいてくれた。
ユイは目を閉じた。
彼の肩は、思っていたよりも温かかった。
その温かさは、亡くなった人の代わりになるものではない。
失ったものを埋め合わせることもできない。
それでも、今ここにいる人の温かさは、今ここにいる自分を支えてくれる。
そんな当たり前のことを、ユイはようやく、少しだけ理解できた気がした。
「……ありがとう、レン」
小さく呟く。
「うん」
彼は、それだけ答えた。
ユイは、もう一度、彼の肩に頭を預けた。
この人は、いつまで自分のそばにいてくれるのだろう。
そんなことを、ふと思った。
今は一緒にいる。
明日も、きっと一緒に仕事をする。
けれど、その先は分からない。
彼は記憶を失っている。自分が何者なのかも、どこから来たのかも知らない。
いつか過去を思い出し、帰るべき場所を見つけるかもしれない。
そのとき、自分はどうするのだろう。
彼を送り出すことができるだろうか。
それとも、今のように隣にいてほしいと願うのだろうか。
ユイは、すぐに考えることをやめた。
まだ、早い。
先のことを考えるには、知らないことが多すぎる。
今はただ、隣にいてくれることを、大切にしたかった。
◇
同じ頃。
救護所の入口から少し離れた場所で、一人の女性が立ち止まっていた。
濃い色の外套を身につけ、周囲の人々に紛れるようにして、静かに救護所の様子を眺めている。
彼女は、ここへ来た目的を忘れてはいなかった。
避難民の名簿を確認すること。
物資の移動経路を把握すること。
そして、ある人物がこの地域に現れていないか、確かめること。
それが、彼女に与えられた任務だった。
戦争が続く以上、情報には価値がある。
誰がどこにいるのか。
どの道が使われているのか。
どの施設が、どれほどの人々を受け入れているのか。
そうした小さな情報が、時には戦況を左右する。
彼女は、周囲を注意深く観察していた。
そのとき。
救護所の裏手から、一人の少年が歩いてきた。
濃い髪。
落ち着いた表情。
そして、胸元へ無意識に触れる仕草。
女性の足が止まった。
目を細める。
遠目では、確信を持つことはできなかった。
しかし、少年が誰かに呼ばれて振り返った瞬間、その横顔がはっきりと見えた。
女性は、息を呑んだ。
それから、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……やっぱり、生きていたのね」
その表情には、驚きだけではなく、安堵とも恐怖ともつかないものが浮かんでいた。
彼女は、少年から目を離さなかった。
長いあいだ探していたものを、ようやく見つけた人間のように。
けれど、彼女が何を知っているのか。
なぜ少年の生存を確かめようとしていたのか。
その答えは、まだ誰にも明かされていなかった。
救護所の裏手では、ユイがレンの隣に座っていた。
彼女は、少しだけ心が軽くなったような気がしていた。
自分が助けられなかった人のことを、忘れたわけではない。
これからも、きっと思い出すだろう。
そのたびに悲しくなるかもしれない。
それでも、彼女は少しずつ、自分の中に残ったものを抱えながら、生きていこうとしていた。
隣には、レンがいる。
彼はまだ、自分が何者なのか分からない。
けれど、今ここにいる。
その事実が、ユイには大切だった。
そして、二人の知らないところで、彼らを取り巻く運命は、静かに動き始めていた。




