05.死ねる人と死ねない人
最初に運ばれてきたのは、まだ十歳にも満たない少年だった。
額から血を流し、片方の靴をなくしている。付き添っていた女性は息を切らしながら、少年の名前を何度も呼んでいた。
「お願いします……! この子を、どうか……!」
救護所の入口に人が集まった。
誰かが担架を用意し、誰かが医療器具を取りに走る。ハナは負傷した少年の様子をひと目見ると、すぐに指示を出した。
「こちらへ運んで。頭を動かさないように。あなたは水を、あなたは清潔な布を持ってきて」
声に迷いはなかった。
迷っている時間がないことを、彼女は知っているのだ。
ユイは入口で立ち尽くしていた。
つい先ほどまで、物資を運ぶ仕事をしていた。明日もきっと、同じように働くだろうと思っていた。
けれど、目の前に運び込まれた少年を見た瞬間、そんな当たり前の予想は簡単に崩れてしまった。
昨日まで、彼にも明日があったはずだ。
朝起きて、食事をして、誰かと話して、どこかへ出かける。
そんな一日が、当たり前に続いていくはずだった。
それなのに今、彼は自分の力では立ち上がることさえできない。
ユイは、少年の小さな手を見つめた。
泥に汚れた指先が、かすかに動いている。
「……ユイ」
隣からレンの声がした。
「大丈夫?」
ユイは、はっと顔を上げた。
「うん……大丈夫」
また、そう答えてしまった。
大丈夫ではないときほど、大丈夫だと言いたくなる。
そう言ってしまえば、自分の気持ちを説明しなくても済むからだ。
けれどレンは、すぐには頷かなかった。
「……無理しなくてもいいよ」
その言葉に、ユイは胸の奥をつかまれたような気がした。
自分が彼に何度も言ってきた言葉だった。
疲れたら休んでね。
無理をしないでね。
自分のことも考えてね。
それなのに、いざ自分が不安を抱えているときには、素直に弱さを認めることができない。
「……レンこそ」
ユイは、小さく言った。
「あなたも、無理しないでね」
「うん」
二人は、それ以上何も言わずに、救護所の中へ入った。
次々と負傷者が運ばれてきていた。
腕を押さえている兵士。足を引きずる老人。泣きじゃくる子どもを抱いた女性。
人の数が増えるにつれて、救護所の中に余裕がなくなっていく。
寝かせる場所が足りない。
包帯が足りない。
手を貸してくれる人間も足りない。
誰もが一生懸命に動いていた。それでも、状況は少しも楽にならなかった。
ユイは、何から手をつければいいのか分からなくなっていた。
目の前の人を助けたい。
あちらで呼んでいる人にも、何かしてあげたい。
すべての声に応えたいのに、自分の手は二本しかない。
その当たり前の事実が、今はひどく残酷に思えた。
◇
「レン、そこの毛布を持ってきて!」
「分かりました!」
「ユイ、こちらの方を支えて。ゆっくりでいいから」
「はい!」
ハナの指示に従い、二人は走り回った。
レンは負傷者を運び、ユイは水を配り、必要な物資を届ける。
少しでも人手が増えれば、救える人が増えるかもしれない。
二人は、その思いだけで動いていた。
しかし、どれだけ働いても、助けを求める声は途切れなかった。
「こっちにもお願いします!」
「先生、こちらの人が……!」
「薬はまだですか!」
ユイは、何人もの人から声をかけられた。
そのたびに、返事をした。
すぐに行きます。
少し待ってください。
今、確認してきます。
けれど、その言葉を口にするたび、胸の奥に小さな棘が残った。
本当に、すぐに行けるのだろうか。
少し待ってもらえば、間に合うのだろうか。
確認しているあいだに、何かが起きてしまったら。
そんな考えばかりが浮かんでくる。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
助けを求める人がいる。
自分にできることがある。
ならば、動かなければならない。
ユイはそう思い、足を前へ進めた。
そのとき、入口のほうから、年老いた男性の声が聞こえた。
「先生……この人を先に診てもらえませんか」
男性は、若い兵士を支えていた。
兵士の顔色は悪く、呼吸も浅い。男性自身も怪我をしているようだったが、それでも彼は兵士を支え続けていた。
「この人は、わしを助けてくれたんです。だから、どうか……」
ハナは二人を見て、すぐに兵士のもとへ向かった。
ユイも手伝おうとしたが、そのとき別の場所から呼び声がした。
「お姉ちゃん!」
振り返ると、先ほど運ばれてきた少年の母親が立っていた。
「この子、目を覚まさないんです……!」
ユイは、息を呑んだ。
どちらへ向かえばいいのだろう。
兵士のもとへ行けば、少年の母親を待たせることになる。
少年のもとへ向かえば、兵士の容体を確認する手が足りなくなるかもしれない。
ほんの数秒のことだった。
けれど、その数秒が、とてつもなく長く感じられた。
「……僕が行きます!」
レンが、先に声を上げた。
「ユイは、あの子のところへ!」
「レン、でも……!」
「大丈夫。僕ができることをやるから」
彼はそう言って、負傷した兵士のもとへ走った。
ユイは、その背中を見つめた。
自分と同じように、彼もまた、目の前にいる人を助けようとしている。
けれど、彼は自分よりもずっと迷いが少ないように見えた。
ユイは、少年の母親のもとへ向かった。
母親は、何度も息子の名前を呼んでいた。
その声を聞いていると、ユイは自分の胸の奥まで痛くなった。
どうか、間に合ってほしい。
どうか、この人が、大切な人を失わずに済みますように。
自分にできることは限られている。
それでも、今はこの人のそばにいたいと思った。
◇
日が傾き始めた頃、ようやく救護所の騒ぎが少しずつ落ち着いてきた。
運ばれてきた人のうち、何人かは別の施設へ移送された。傷の手当てを終え、休息をとれるようになった人もいる。
しかし、救護所から人がいなくなったわけではなかった。
助かった人もいれば、引き続き治療が必要な人もいる。
そして、もう手を尽くすことのできない人もいた。
ユイは、廊下の壁に背を預けていた。
両手が痛かった。
何度も荷物を運び、何人もの身体を支えたせいだろう。
足も疲れていた。
それでも、身体の疲れよりも、心の疲れのほうが大きかった。
救護所に来たとき、自分はすべての人を助けたいと思っていた。
もちろん、現実には難しいことくらい分かっていた。
それでも、実際に目の前で助けを求められると、簡単には諦められなかった。
もう少し早く動いていれば。
もう一人、人手があれば。
もう少し、薬があれば。
そうした「もしも」が、いくつも頭の中を巡っていた。
「……ユイ」
レンが、隣に腰を下ろした。
「疲れたね」
「……うん」
ユイは、素直に頷いた。
今度は、大丈夫だとは言わなかった。
疲れたものは、疲れた。
苦しかったものは、苦しかった。
その気持ちを、誰かに隠す必要はないのかもしれない。
「……レンは?」
「僕も、少し疲れたかな」
「少し?」
ユイは、思わず彼を見た。
レンは、少しだけ笑った。
「……けっこう疲れた」
「もう……」
ユイは呆れたように息を吐いた。
けれど、その言葉を聞いて、なぜか安心した。
彼も疲れるのだ。
彼も、苦しいと感じるのだ。
自分のように、誰かを助けたいと思いながら、それでも思うように動けないことがあるのだ。
それは、彼が自分と同じ人間だと証明するものではない。
ただ、彼もまた、自分と同じように、この世界の中で迷っているのだと感じさせてくれた。
「……ねえ、レン」
「うん?」
「今日、何人くらい助けられたのかな」
レンは、少し考えた。
「……正確には分からないな」
「そうだよね」
ユイは、膝の上に置いた手を見つめた。
「私、もっと何かできたんじゃないかなって思うんだ」
口にすると、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ言葉になっていった。
「もっと早く気づいていたら。もっと上手に動けていたら。誰かを待たせずに済んだかもしれないし、もっと助けられたかもしれない」
レンは、黙って聞いていた。
「……でも、何をしても、足りないんだよね」
ユイは小さく笑った。
笑おうとしただけで、うまく笑えなかった。
「助けたい人がいっぱいいるのに、自分にできることは、ほんの少ししかない。何を優先すればいいのか分からなくなるし、誰かを助けているあいだに、別の誰かを待たせてしまう」
声が、少しずつ震えてきた。
「……私、何をしているんだろう」
レンは、すぐには答えなかった。
慰める言葉を探しているのかもしれない。
それとも、彼自身も、同じ問いを抱いているのかもしれなかった。
やがて、彼は静かに言った。
「……僕も、そう思ったよ」
ユイは顔を上げた。
「え?」
「助けたい人がいるのに、間に合わないことがある。自分がここにいるのに、何もできないことがある」
レンは、手のひらを見つめた。
「僕は、死んでも生き返ることができた。でも、それで何でもできるわけじゃないんだね」
その言葉に、ユイは息を止めた。
彼は、自分を便利なものだと考えているわけではない。
きっと、彼自身も、自分が何を意味するのか、まだ分かっていないのだ。
それでも今日、彼は知ったのだろう。
自分が生き返れたことと、すべての人を救えることは、同じではないのだと。
「……うん」
ユイは、小さく頷いた。
「そうだね」
二人は、しばらく黙っていた。
廊下の向こうから、誰かがゆっくり歩いてくる足音が聞こえた。
救護所の窓から差し込む夕日が、床を赤く染めていた。
今日も、一日が終わろうとしている。
けれど、助けられなかった人のことを思うと、簡単に『終わった』とは言えなかった。
◇
「……二人とも、ここにいたのね」
ハナが、記録用紙を抱えてやってきた。
「お疲れさま。今日は本当に助かったわ」
「いえ、そんな……」
ユイが返事をすると、ハナは首を横に振った。
「そんなこと、あるわよ。人手が足りない中で、よく動いてくれたと思う」
その言葉は、素直に嬉しかった。
自分たちがしたことは、決して無意味ではなかったのだ。
そう思うことができた。
しかし、ハナの表情は、すぐに真剣なものへ戻った。
「ただ……今日は、厳しい判断をしなければならない場面が多かったわ」
彼女は、手元の記録用紙を見つめた。
「治療に使える物資には限りがある。人手にも限界がある。全員を同じように診ることができないとき、どうしても、誰を先に治療するかを決めなければならない」
レンが、顔を上げた。
「……どうして、全員を助けることができないんですか?」
その声には、責めるような響きはなかった。
ただ、純粋な疑問があった。
「薬をもっと集めればいい。人手が足りないなら、もっと協力を求めればいい。何か方法があるはずです」
ハナは、レンを見つめた。
「そうね。できることは、もちろん探すわ」
彼女は静かに続けた。
「でも、今この瞬間に、目の前の人を助けなければならないこともあるの。物資を集めるにも、協力する人を探すにも、時間がかかる。その間にも、症状は変化していく」
「……それでも」
レンは、言葉を探していた。
「助けられるかもしれない人を、助けないと決めるのは……」
その先を、彼は言えなかった。
ハナは、少しだけ目を伏せた。
「助けないと決めることと、今できる最善を選ぶことは、同じではないわ」
その言葉は、静かだった。
しかし、そこには長い時間をかけて身につけた重みがあった。
「私だって、助けられる人は助けたい。助けられる可能性があるなら、できるだけ多くの手を尽くしたい。でも、すべての人に同じだけの時間をかければ、結果として、救えるはずの人まで救えなくなることがある」
ハナは、記録用紙を握り締めた。
「……それが、医療の現場で私たちが向き合わなければならない現実なの」
レンは、黙り込んだ。
ユイもまた、何も言えなかった。
ハナの判断が冷たいとは思わなかった。
彼女が何も感じていないわけではないことも、分かっていた。
それでも。
自分がその場にいたなら、同じ判断を下せただろうか。
誰かを先に助けるために、別の誰かを待たせなければならない。
その選択を、自分は受け入れられるのだろうか。
ユイは、自信がなかった。
「……レン君」
ハナが、改めて彼を呼んだ。
「あなたは、自分の能力をどう考えているの?」
「能力……ですか?」
「死んでも生き返った、ということよ」
その言葉を聞いた瞬間、ユイの胸が小さく跳ねた。
レンは、自分の胸元に手を当てた。
「……まだ、よく分かりません」
「そうでしょうね」
ハナは頷いた。
「でも、一つだけ覚えておいてほしいことがあるの」
レンは、彼女を見つめた。
「あなたが生き返れるからといって、あなたの命を軽く扱っていいことにはならないわ」
レンは、何も答えなかった。
ハナは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「あなたが死んでも生き返ることを、周囲の人が便利だと思うかもしれない。危険な仕事を任せようとする人もいるかもしれない。あなた自身も、自分なら大丈夫だと考えてしまうかもしれない」
そこで、ハナは一度、言葉を切った。
「でも、あなたが生き返るまでの時間に、何かが起きることもある。あなたがいなくなったことで、悲しむ人だっている。あなた自身が、もう一度目を覚ますことを怖いと感じることだってあるでしょう」
レンは、ゆっくりと視線を落とした。
「……はい」
「自分の命を大切にすることは、わがままではないわ」
ハナは、はっきりと言った。
「人を助けることと、自分を大切にすること。その二つは、本来、どちらか一方しか選べないものではないのよ」
その言葉が、ユイの胸にも静かに落ちていった。
彼女もまた、何度も危険な場所へ向かってきた。
誰かを助けたい。
それが、自分の中で何よりも優先されていた。
けれど、本当にそれだけでよかったのだろうか。
自分が倒れたら、今度は誰かが自分を助けなければならなくなる。
自分がいなくなったら、悲しむ人がいるかもしれない。
そうしたことを、これまで真剣に考えたことがなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
自分が危険に遭うことを恐れてしまえば、誰かを助けに行けなくなる気がしたからだ。
けれど、それは本当に正しいのだろうか。
恐怖を持たないことが、勇敢さなのだろうか。
自分を大切にしないことが、優しさなのだろうか。
ユイには、まだ分からなかった。
◇
ハナが去ったあと、ユイとレンは再び並んで座っていた。
外は、すっかり暗くなっていた。
救護所の中には、まだ人の声が残っている。
ときどき、遠くで誰かが咳をする。
誰かが水を求める。
誰かが家族の名前を呼ぶ。
その一つ一つが、今も続いている現実だった。
「……レン」
ユイが声をかけると、彼は振り返った。
「うん?」
「今日、怖かった?」
レンは、少しだけ目を見開いた。
それから、しばらく考えた。
「……うん。怖かったよ」
その答えを聞いて、ユイは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
彼は、怖くないわけではなかった。
何でもできるわけでもない。
すべてを救えるわけでもない。
そのことを、彼自身も少しずつ理解し始めている。
「……私も、怖かった」
ユイは、正直に言った。
「助けられないかもしれないって思うと、どうすればいいのか分からなくなる。もっと何かできるはずなのに、何もできない気がして……」
彼女は、膝の上で両手を握った。
「……私、自分が嫌になることがあるんだ。誰かを助けたいって思っているのに、実際には何もできないことがあって。そんな自分が、すごく嫌になる」
レンは黙って聞いていた。
ユイは、彼の顔を見た。
「でも、あなたも同じなんだね」
「……うん」
「あなたも、助けられないことがあるんだね」
レンは、少しだけ苦笑した。
「そうみたいだね」
その表情を見て、ユイは不思議な気持ちになった。
彼を見ていると、自分がしっかりしなければいけないと思っていた。
彼は記憶を失っている。
自分が何者なのか分からない。
だから、自分が支えなければいけないのだと。
けれど、実際には彼のほうが、ずっと素直に自分の弱さを認めているのかもしれない。
怖いときは怖いと言う。
分からないときは分からないと言う。
疲れたときは疲れたと言う。
そんな当たり前のことを、彼は少しずつ、自分に教えてくれているような気がした。
「……ねえ、レン」
「うん?」
「明日、もしまた誰かが助けを求めていたら……」
ユイは、少しだけ言葉を選んだ。
「私たち、どうすればいいのかな」
レンは、すぐには答えなかった。
窓の向こうを見つめ、何かを考えているようだった。
「……分からない」
やがて、彼はそう言った。
ユイは、小さく頷いた。
「……そっか」
「でも」
レンは、ゆっくりと続けた。
「分からないからって、何もしないのも違うと思うんだ」
ユイは顔を上げた。
「できることを探す。自分一人で無理なら、誰かに相談する。助けられる方法がないか、みんなで考える」
レンは、自分の手を見つめた。
「……僕は、そうしたい」
その言葉は、最初に出会ったときの彼とは、少し違って聞こえた。
あのときのレンは、ただ目の前の人を助けるために身体を動かしていた。
今の彼は、自分が何でもできるわけではないと知ったうえで、それでも何かをしようとしている。
その違いが、ユイには嬉しかった。
「……うん」
ユイは笑った。
「私も、一緒に考える」
レンは、こちらを向いた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、ユイ」
また、その言葉だった。
何度聞いても、少しだけ胸が温かくなる。
ユイは、顔を逸らした。
「……別に。仲間なんだから、それくらい当然でしょ」
「仲間、か」
レンは、少しだけ考え込むような顔をした。
「……うん。そうだね」
その返事に、ユイはなぜか、ほんの少しだけ寂しさを感じた。
仲間。
その言葉は、間違っていない。
二人は一緒に救助活動をしている。お互いを助け合い、同じ仕事をしている。
だから、仲間だ。
それなのに。
どうして自分は、その言葉だけでは足りないような気がしてしまったのだろう。
ユイは、自分の気持ちに戸惑った。
この少年と出会ってから、少しずつ、自分の中に知らない感情が増えている。
彼が笑うと嬉しい。
彼が怪我をすると怖い。
彼がいなくなろうとすると、引き止めたくなる。
そして、ときどき、彼が自分以外の誰かに優しくしているのを見ると、なぜか落ち着かなくなる。
それらの感情に、どんな名前をつければいいのか。
ユイは、まだ知らなかった。
◇
夜も更けた頃、ハナは診療記録を整理していた。
今日運ばれてきた患者の状態。
使用した薬品の量。
必要になりそうな物資。
それらを書き出しながら、最後に一枚、別の記録用紙を取り出した。
レンの身体についての記録だった。
胸元の異常な反応。
本人の自覚している症状。
これまでに確認された回生の事実。
ハナは、ペンを止めた。
医療員として、多くの人間の身体を見てきた。
戦争の中で、普通では考えられない状態の患者に出会ったこともある。
それでも、レンの身体は、彼女の知識だけでは説明できなかった。
彼が何者なのか。
どうして死んでも生き返ることができたのか。
その能力に、どのような代償があるのか。
まだ何も分かっていない。
しかし、分からないからこそ、記録を続けなければならない。
ハナは、今日の観察内容を書き加えた。
そして、最後に一つだけ、個人的な所感を記した。
――本人は、生命の危険に対する認識が十分ではない可能性がある。自分の能力を理由に、危険を軽視しないよう注意する必要がある。
書き終えて、ハナはペンを置いた。
今日、レンは多くの人を助けようとしていた。
その姿勢は立派だった。
けれど、彼が自分の命をどのように考えているのか、ハナには気がかりだった。
誰かの命を救うためなら、自分の命をいくらでも差し出してよい。
もし彼が、そんな考え方をしているのだとしたら。
いつか彼自身が、その考え方によって取り返しのつかないところまで行ってしまうかもしれない。
ハナは、窓の外を見た。
暗い空の向こうに、街の灯りが点々と浮かんでいた。
救護所には、明日も患者が運ばれてくるだろう。
そして自分たちは、限られた時間と物資の中で、また判断を迫られる。
すべての人を救うことはできない。
その現実は、明日になっても変わらない。
それでも、できることはある。
助けるために必要なことを考え、協力し、少しでも多くの命をつなぐ。
ハナは、もう一度記録用紙を見た。
レンという少年が何者なのかは、まだ分からない。
けれど、彼がこの先どのように生きていくのか。
それだけは、少し気になっていた。
◇
翌朝。
ユイが目を覚ますと、救護所の外から人の声が聞こえた。
まだ眠気の残る頭で起き上がり、窓の外を覗く。
物資の運搬を手伝う人々の姿があった。
その中に、レンがいた。
彼は、年配の男性と一緒に木箱を運んでいた。
男性が箱を落としそうになると、すぐに手を伸ばし、二人で持ち直している。
その様子を見て、ユイは小さく笑った。
また、誰かを助けている。
そう思った瞬間、彼女の胸の奥が少しだけ温かくなった。
けれど、すぐに昨日のことを思い出した。
すべての人を助けることはできない。
自分たちにできることには、限りがある。
それでも、何もしないわけにはいかない。
だったら、自分たちは、これからどうすればいいのだろう。
ユイは、窓の外のレンを見つめた。
彼は木箱を置き、年配の男性に何かを言われて笑っていた。
その笑顔を見て、ユイは思った。
自分は、彼が笑っているところを見るのが好きなのかもしれない。
そう考えた途端、顔が熱くなった。
「……な、何考えてるんだろう、私」
慌てて窓から離れる。
まだ朝だ。
今日も、やることはたくさんある。
自分の気持ちを考えるのは、それからでいい。
ユイは着替えを済ませ、救護所の入口へ向かった。
扉を開けると、ちょうどレンが木箱を運び終えたところだった。
「……おはよう、ユイ」
「お、おはよう」
「よく眠れた?」
「うん。まあ、そこそこ」
「そっか。よかった」
レンは、いつものように穏やかに笑った。
ユイは、その顔を見て、少しだけ安心した。
今日も、彼はここにいる。
昨日のことがあっても、彼は誰かを助けようとしている。
そして自分も、ここにいる。
それなら、きっと大丈夫。
そんなふうに思いたかった。
「……レン」
「うん?」
「今日も、一緒に頑張ろうね」
レンは、少し驚いたように目を見開いた。
それから、笑った。
「うん。一緒に頑張ろう」
二人は、並んで歩き始めた。
救護所の中では、今日も人々が待っている。
助けを求める声がある。
すぐには解決できない問題がある。
それでも、二人は歩いていく。
自分たちにできることを、一つずつ探しながら。
そして、まだ誰も知らない。
この少年に与えられた奇跡が、いつか限りあるものになることを。
彼が生き返れる回数が、すでに減り始めているかもしれないことを。
そして、ユイがいつの日か、その残された命を知り、彼を失うことを恐れながらも、彼の隣に立つことを選ぶのだということを。
今はまだ、何も知らなかった。
ただ、今日もまた、誰かを助けるために二人で歩き始めた。
それだけの朝だった。




