04.私たちの救助活動
人を助けるということは、思っていたよりも、ずっと地味なことだった。
ユイは、その日の朝、木箱を抱えながらそう思った。
木箱の中身は乾燥した食料と包帯、それに小さな薬瓶がいくつか。どれも戦場では欠かせないものだが、持ち上げてみれば、想像以上に重い。
これを倉庫から救護所まで運ぶ。
それが、今日のユイとレンに与えられた仕事だった。
「……重い」
思わず呟く。
「大丈夫?」
隣を歩くレンが尋ねた。
「大丈夫。これくらい、どうってことないから」
ユイは胸を張った。
しかし、数歩進んだところで、箱の底が腕に食い込んだ。
「……っ」
「持とうか?」
「い、いいよ。あなたの分もあるでしょ」
「僕は、まだ持てるから」
「そういう問題じゃなくて……」
言いかけて、ユイは口を閉じた。
彼に助けてもらうこと自体が嫌なわけではない。
むしろ、重い荷物を持ってくれると言われれば、ありがたいと思う。
ただ、なんとなく悔しいのだ。
昨日まで自分は、彼を助けなければと思っていた。記憶を失い、自分が何者なのかも分からない少年を、一人にしてはいけないと思っていた。
それなのに、いざ一緒に行動してみれば、彼のほうがよほど自然に周囲へ手を伸ばしている。
困っている人がいれば声をかけ、重そうな荷物を見つければ持ち、頼まれたことは嫌な顔一つせず引き受ける。
それは立派なことだ。
立派なことなのだけれど。
「……レンって、誰にでもそんな感じなの?」
「そんな感じって?」
「頼まれたら何でもやっちゃうところ」
レンは少し考えた。
「うーん……そうかもしれない」
「かもしれない、じゃないよ。もう少し、自分のことも考えなよ」
「自分のこと?」
「そう。疲れていたら休むとか、無理だったら断るとか」
レンは、自分の持っている木箱を見下ろした。
「……でも、僕が持てば、その分、誰かが楽になるよね?」
ユイは返事に詰まった。
その考え方は、間違いではない。
自分だって、誰かが困っていたら手伝いたいと思う。自分にできることがあるなら、少しくらい無理をしてでも力になりたいと思うことがある。
けれど、目の前の少年は、そうした気持ちに歯止めをかけるものを持っていないように見えた。
疲れたら休む。
怪我をしたら手当てを受ける。
自分にできないことは、誰かに頼む。
そんな当たり前のことまで、彼は忘れてしまっているのではないか。
いや、もしかすると、忘れているのではなく、最初から教わっていないのかもしれない。
自分の命を大切にすること。
自分が誰かに助けてもらうこと。
自分のために時間を使うこと。
そうしたことを、彼はどこで覚えればよかったのだろう。
「……レン」
「うん?」
「人を助けるのは、いいことだと思うよ」
ユイは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「でも、あなたが無理をして倒れちゃったら、今度はあなたを助けなきゃいけない人が増えるでしょ?」
「……あ」
レンは、目を見開いた。
どうやら、本当に思いつかなかったらしい。
「そっか。そういうこともあるんだね」
「あるよ!」
ユイは思わず声を上げた。
その拍子に、腕の中の木箱がぐらりと傾いた。
「わっ……!」
レンが素早く手を伸ばし、箱を支えた。
二人で何とか持ち直す。
しばらくして、ユイは小さく息を吐いた。
「……ほらね」
「うん?」
「今、私が転びそうになったでしょ。あなたが手伝ってくれなかったら、箱を落としていたかもしれない」
「そうだね」
「だから、最初から一人で頑張ろうとしなくてもいいんだよ」
レンは、しばらくユイを見つめていた。
そして、少しだけ笑った。
「……分かった。じゃあ、半分持つよ」
「最初からそう言ってるの!」
「ごめん」
「もう……」
ユイは呆れたように息を吐いた。
けれど、二人で箱を持ち直すと、不思議なくらい軽く感じられた。
荷物の重さが半分になったわけではない。
ただ、自分一人で支えなくてもよくなった。
それだけの違いだった。
ユイは、そのことを忘れないように、箱を持つ自分の手を見つめた。
◇
午前中の仕事を終えた頃には、救護所の周囲も慌ただしくなっていた。
新たな負傷者が運ばれ、避難民の受け入れも続いている。
ハナは医療器具の補充を指示しながら、足りなくなった包帯の数を確認していた。
「ユイ、そこの棚にある記録用紙を取ってくれる?」
「はい!」
「レンは、運んできた物資を種類ごとに分けて。薬品は別の箱に入れておいてね」
「分かりました」
二人は、それぞれの仕事に取りかかった。
ユイは、言われたとおりに記録用紙を探しながら、棚に並ぶ物資を見渡した。
包帯、薬瓶、保存食、毛布。
どれも、あるのが当たり前のように思えるものばかりだ。
しかし、戦争が始まってからは、その当たり前が何度も失われてきた。
薬が足りない。
食料が足りない。
人手が足りない。
何かが足りなくなるたびに、誰かが困り、誰かが我慢し、誰かが諦めなければならなくなる。
ユイは、棚の奥に残された数本の薬瓶を見た。
この薬で救える人がいる。
けれど、全員を救えるわけではない。
それが分かっているからこそ、ハナは薬品の数を何度も確認するのだろう。
適当に使って、足りなくなってしまえば、もっと困る人が出てくる。
目の前の誰かを助けたいという気持ちだけでは、届かないものがある。
そんな現実が、棚に並んだ薬瓶の一本一本に詰まっているような気がした。
「……ユイ?」
声をかけられ、顔を上げる。
レンが、空になった木箱を抱えて立っていた。
「どうしたの?」
「記録用紙、見つかった?」
「あ、うん。これから探すところ」
「そっか。じゃあ、僕も手伝うよ」
「えっ、いいよ。あなたは物資の整理があるでしょ?」
「もう終わったから」
そう言って、レンは空の木箱を棚の横へ置いた。
ユイは目を丸くした。
「……もう終わったの?」
「うん」
「全部?」
「うん。薬品と食料を分けて、数も確認したよ。足りないものは紙に書いて、ハナさんの机に置いてある」
ユイは、思わずハナのほうを見た。
彼女は記録用紙に目を通していたが、やがて顔を上げ、レンを見た。
「……あなた、ずいぶん手際がいいのね」
「そうですか?」
「種類ごとに分けるだけならともかく、数まで確認して、不足分を記録してくれたでしょう。助かったわ」
レンは、少し照れたように笑った。
「頼まれたことをやっただけです」
「それがきちんとできる人は、案外少ないのよ」
ハナはそう言って、記録用紙へ視線を戻した。
ユイは、レンを見つめた。
彼は、自分が役に立ったことを誇らしく思っているようには見えなかった。
褒められたからといって、特別に嬉しそうな顔をするわけでもない。
ただ、仕事が終わったことに安心しているようだった。
「……レンって、何か得意なことはないの?」
ユイが尋ねると、彼は少し考えた。
「分からないな」
「何か一つくらいあるでしょ。荷物の整理が得意とか、道を覚えるのが得意とか」
「うーん……」
レンは周囲を見渡した。
それから、困ったように笑った。
「でも、今は、頼まれたことをやるのが一番分かりやすいかな」
ユイは、その言葉を聞いて、少しだけ胸が痛くなった。
自分は、何が得意なのか。
自分は、何が好きなのか。
自分は、何をしたいのか。
レンは、そうしたことを考えるための土台さえ、失っているのかもしれない。
だからこそ、目の前にある仕事を一つずつこなすことで、自分がここにいてもいい理由を探しているのではないだろうか。
もちろん、本当のところは分からない。
それでもユイは、彼が「頼まれたことをやるのが一番分かりやすい」と言った声を、なぜか忘れられなかった。
◇
昼過ぎ、ユイはようやく仕事の手を止めた。
救護所の外にある長椅子へ腰を下ろし、配給された食事を広げる。
固いパンと、薄いスープ。
決して豪華ではない。
それでも、温かい食事を口にできることはありがたかった。
「……そういえば」
ユイは、隣に腰を下ろしたレンを見た。
「あなた、お昼ご飯は?」
「お昼ご飯?」
「そう。朝から働いていたでしょ」
「……あ」
レンは、そこでようやく気づいたようだった。
「まだ食べていないかも」
「ええっ!?」
ユイは思わず立ち上がりかけた。
「ちょっと! どうして言わないの?」
「いや、仕事をしていたら、いつの間にか……」
「いつの間にか、じゃないよ! お腹が空いたら食べるの!」
「でも、忙しそうだったから」
その言葉に、ユイは動きを止めた。
レンは、少し申し訳なさそうに笑った。
「みんな、ずっと働いているでしょう? だから、自分だけ食事をもらいに行くのも、何だか悪い気がして」
ユイは、しばらく何も言えなかった。
彼は、自分が空腹であることよりも、周囲の人間が忙しそうにしていることを気にしていたのだ。
自分の欲求を口にすることが、誰かの負担になるかもしれない。
だから、何も言わずに我慢していた。
それが、どれほど自然なこととして彼の中に根づいているのだろう。
「……レン」
「うん?」
「あなた、今、何を食べたい?」
レンは少し驚いたように瞬きをした。
「え?」
「だから、お腹が空いているんでしょ? 何を食べたいの?」
「……うーん」
彼は、自分の空腹を確かめるようにお腹に手を当てた。
それから、少しだけ笑った。
「……温かいものが食べたいかな」
ユイは、持っていたスープの器を見つめた。
「じゃあ、これ。半分あげる」
「えっ、でも……」
「いいから」
「ユイの分がなくなっちゃうよ」
「私はパンがあるから、大丈夫」
そう言って、スープを彼へ渡した。
レンは、何か言おうとして、やめた。
やがて、小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人は並んで食事を始めた。
しばらく、会話はなかった。
スープを口に運ぶレンを見て、ユイは不思議な気持ちになっていた。
自分の食事を誰かに分けることは、初めてではない。
戦争が始まってから、食料を分け合ったことは何度もある。
それなのに、今日は少し違って感じられた。
レンが、おいしそうにスープを飲んでいる。
そのことが、ただ嬉しかった。
「……おいしい?」
思わず尋ねる。
レンは頷いた。
「うん。温かいね」
「それだけ?」
「え?」
「いや、その……味とか!」
レンは器を見つめた。
「……おいしいよ」
「そ、そう」
ユイは、なぜか視線を逸らした。
そんなことを聞いて、どうするつもりだったのだろう。
別に、自分が作ったわけでもない。
ただ分けただけだ。
それなのに、彼が嬉しそうにしていると、自分まで嬉しくなる。
何だか、変な感じだった。
「……ユイ」
「な、なに?」
「君と一緒に食べると、おいしいね」
ユイは、持っていたパンを落としかけた。
「……っ!?」
「どうしたの?」
「ど、どうしたもこうしたもないよ!」
思わず声が大きくなる。
レンは目を丸くした。
「おいしくなかった?」
「そうじゃない!」
「じゃあ、何か変なことを言った?」
「……言ったよ!」
言ってしまってから、ユイは顔を覆いたくなった。
何を言っているのだろう。
彼は、ただ一緒に食べるとおいしいと言っただけだ。
それなのに、自分はまるで、告白でもされたかのように動揺している。
ユイは、深呼吸をした。
「……レン」
「うん?」
「そういうこと、簡単に言わないほうがいいよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ユイは言葉に詰まった。
どうしてだろう。
彼に悪気がないことは分かっている。
それでも、まっすぐに気持ちを伝えられると、心の準備ができていない自分が困ってしまう。
「……人によっては、勘違いしちゃうかもしれないでしょ」
ようやくそう言うと、レンは真剣な顔で考え込んだ。
「勘違い……?」
「そう!」
「でも、僕は本当に、ユイと一緒に食べるとおいしいと思ったんだ」
ユイは、とうとう何も言えなくなった。
彼は、きっと本当にそう思っている。
自分を困らせようとしているわけでも、照れさせようとしているわけでもない。
ただ、思ったことを、そのまま口にしているだけなのだ。
その無防備さが、どうしようもなく困る。
そして、少しだけ嬉しい。
「……もう、知らない」
ユイは顔を背け、パンをかじった。
隣では、レンが不思議そうに首を傾げていた。
その様子を、少し離れた場所からハナが見ていたことに、二人は気づかなかった。
◇
食事を終えたあと、レンは救護所の裏手へ向かった。
使い終わった器を返し、次の仕事を確認するつもりだった。
ところが、途中で急に足を止めた。
「……あれ?」
自分の身体が、妙に軽かった。
朝から荷物を運び、物資を整理し、老人の救助にも向かった。
疲れていないはずがない。
実際、少し前までは、腕や肩に重さを感じていた。
それなのに、今はもう、その感覚がほとんど消えている。
レンは、自分の手を開いたり、閉じたりしてみた。
痛みもない。
疲労も、ほとんど感じない。
ただ、胸元の奥に、かすかな熱があるような気がした。
彼は、衣服の上から胸に手を当てた。
昨日、ハナが検査器具を近づけたときに、一瞬だけ感じた奇妙な感覚。
その正体は、まだ分からない。
自分は人間なのだろうか。
それとも、人間とは違う何かなのだろうか。
答えは、まだ出ていない。
けれど、少なくとも今は、身体が動く。
誰かを助けることができる。
それなら、それでいいのかもしれない。
レンは、そう考えて歩き出そうとした。
「レン君」
不意に声をかけられ、振り返った。
ハナが、記録用紙を持って立っていた。
「少し、いいかしら」
「はい」
ハナはレンの胸元へ目を向けた。
「今日は、疲れを感じている?」
「……あまり感じません」
「昨日は、何か身体に異常を感じた?」
「少しだけ、胸が熱くなる感じがありました。でも、今は何ともありません」
ハナは、手元の記録を確認した。
「そう……」
表情は、あまり変わらなかった。
ただ、記録用紙に何かを書き足している。
「何か、分かったんですか?」
レンが尋ねると、ハナは顔を上げた。
「まだ何も。だからこそ、記録しているのよ」
「記録……?」
「身体の反応は、言葉だけでは正確に残せないことがあるから。いつ、何が起きたのか。どれくらい続いたのか。そういう小さな情報が、あとで大切になることもある」
ハナは、少し考えるように間を置いた。
「あなたの身体は、まだ分からないことが多すぎる。自分では平気だと思っていても、何か変化が起きている可能性はあるわ。しばらくは、気づいたことを教えてちょうだい」
「……分かりました」
レンは頷いた。
ハナが去ったあとも、彼はしばらく自分の胸元を見つめていた。
自分の身体に何かがある。
その事実が、少しずつ現実味を帯びてきていた。
けれど、それが何を意味するのかは分からない。
自分は何者なのか。
その問いは、まだ答えを見つけられないまま、胸の奥に残っていた。
◇
夕方になっても、救護所の仕事は終わらなかった。
新たな避難民が到着し、物資の運搬を手伝う人手も足りなくなった。
ユイは、休憩を終えるとすぐに立ち上がった。
レンも、そばに置いていた箱を持ち上げる。
「……レン」
ユイが声をかけると、彼は振り返った。
「何か、手伝ってほしいことがある?」
「ううん。そうじゃなくて」
ユイは、少しだけ迷ってから言った。
「……疲れたら、ちゃんと休んでね」
レンは、目を瞬かせた。
「うん」
「本当だよ?」
「分かってる」
その返事を聞いて、ユイはようやく笑った。
「じゃあ、私も頑張ろうかな」
「うん。一緒に頑張ろう」
二人は、並んで歩き出した。
窓の外では、夕日が建物の隙間に沈みかけていた。
戦争は続いている。
明日になれば、また誰かが助けを求めるかもしれない。
思うように救えない命があり、どうしても届かない手がある。
それでも、できることを一つずつ積み重ねていく。
荷物を運ぶこと。
食事を分けること。
疲れていないかと尋ねること。
そうした小さなことも、誰かが生きていくために必要なことなのだ。
ユイは、そのことを少しずつ理解し始めていた。
そして、隣を歩くレンを見た。
彼はまだ、自分が何者なのか分からない。
自分の過去も、未来も分からない。
それでも、今ここにいて、誰かを助けようとしている。
それなら、自分も。
彼が一人で抱え込まなくていいように。
彼が帰ってこられるように。
自分にできることを、一つずつ増やしていきたい。
そんなことを考えていた、そのときだった。
遠くで、鈍い爆発音が響いた。
ユイは、反射的に足を止めた。
レンも、同時に顔を上げる。
窓の向こうに、黒い煙が立ち上っていた。
救護所の中で、人々が一斉に動き始める。
ハナの声が響いた。
「負傷者が来るわ! 動ける人は入口へ! 物資を準備して!」
ユイはレンを見た。
レンも、ユイを見ていた。
ほんの一瞬、二人は何も言わなかった。
そして、ほとんど同時に頷いた。
「行こう」
どちらが先に言ったのかは、分からなかった。
二人は走り出した。
まだ、戦争は終わっていない。
救えない命があることも、危険が迫っていることも、何も変わってはいない。
それでも。
今、自分たちにできることがある。
それだけは、確かだった。
ユイは走りながら、隣のレンを見た。
彼は前を向いていた。
その横顔に、迷いはなかった。
けれど、ユイは願わずにはいられなかった。
どうか、彼が無事でありますように。
どうか、今日も一緒に帰れますように。
その願いが何を意味するのか、彼女はまだ知らない。
ただ、その願いだけは、昨日よりもずっと強くなっていた。
そしてレンもまた、まだ知らなかった。
自分が人を助けることだけを考えていた日々に、いつの間にか、もう一つの願いが生まれ始めていることを。
――ユイと一緒に、帰りたい。
その小さな願いが、いつか彼の命そのものを変えていくことになるのを。




