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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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3/10

03.一緒に来て

 朝は、誰にでも平等に訪れる。


 少なくとも、空だけを見ていれば、そう思うことができた。


 救護所の窓から差し込む光は、昨日と何も変わらない。薄い雲の向こうから射す陽光は柔らかく、壁に掛けられた古い時計は、壊れてもいないのに少し遅れて時を刻んでいた。


 夜のあいだ、ユイは何度も目を覚ました。


 眠ってしまったら、昨日の出来事が夢になってしまう気がしたからだ。


 自分を庇って死んだ少年。再び目を開けた彼。名前も過去も分からないと、困ったように笑った横顔。


 どれも、目を閉じれば鮮明に思い出せる。


 それなのに、朝になって彼の姿を見かけると、昨夜の出来事が急に現実味を失ってしまうのだった。


 少年は、救護所の壁際に座っていた。


 配給されたパンを両手で持ち、何かを考えるように窓の外を眺めている。


 服は昨日借りたものだ。袖が少し長いらしく、時折、指先で余った布を引っ張っていた。


 その仕草が、妙に子どもっぽく見えた。


 昨日、自分を庇って死んだ人と、同じ人には思えなかった。


「……何してるの?」


 ユイが近づいて声をかけると、少年は振り返った。


「朝ご飯を食べてる」


「それは見れば分かるよ」


「じゃあ、窓を見てる」


「それも見れば分かる!」


 思わず声を張り上げてしまい、ユイは慌てて口元を押さえた。


 周囲には、まだ眠っている人もいる。


 少年は不思議そうに瞬きをしたあと、手元のパンを見つめた。


「……おいしいよ」


「聞いてないよ、そんなこと」


「そう?」


「そう!」


 会話をしているうちに、ユイは自分が少しずつ落ち着いていくのを感じた。


 昨日までは、彼が再び目を覚ましたことばかりが気になっていた。彼が何者なのか、どうして死んでも生き返えったのか。疑問を挙げればきりがなかった。


 けれど、今こうして話していると、彼は意外なくらい普通の少年に見える。


 パンを食べる。窓を眺める。人の話を聞き間違える。


 そんな当たり前のことをする人間が、昨日、自分の目の前で死んだのだ。


 その事実だけが、どこかに引っかかっていた。


「ねえ」


「うん?」


「……そういえば、あなたのこと、何て呼べばいいの?」


 少年は、手にしていたパンを止めた。


「名前のこと?」


「うん。ずっと『あなた』って呼ぶわけにもいかないでしょ」


「そうだね」


「何か思い出せない? 名前の最初の文字とか、誰かに呼ばれていたときの感じとか」


 少年は目を閉じた。


 少しのあいだ、考えていた。


 しかし、やがて首を横に振る。


「……ごめん。やっぱり、何も分からない」


「そっか」


 ユイは、少し考えた。


 名前がない。


 そのことを、彼はどんなふうに感じているのだろう。


 名前は、誰かが自分を呼ぶためのものだ。家族が呼び、友人が呼び、時には嫌いな人間にまで呼ばれる。


 自分がそこにいると、誰かに気づいてもらうための、小さな印のようなもの。


 それがないということは、誰からも呼ばれないということなのだろうか。


 そんなはずはない。


 昨日、彼は確かに自分の名前を呼ばなくても、自分を見つけてくれた。


 名前がなかったとしても、彼がそこにいたことまで、なくなるわけではない。


「……じゃあ、仮の名前をつけようか」


 少年は、きょとんとした。


「仮の名前?」


「うん。あなたの本当の名前が分かるまでの間だけ。ずっと『ねえ』とか『ちょっと』とか呼ぶのも変だし」


「でも、僕が自分でつけてもいいのかな」


「いいんじゃない? 誰かが決めてくれるのを待っていたら、いつになるか分からないでしょ」


 ユイは少し考えた。


 名前を考えるなんて、今までしたことがなかった。


 家族がつけてくれた自分の名前に、深い意味があるのかどうかも知らない。ただ、ずっとそれで呼ばれてきたから、自分の名前なのだと思っていた。


 けれど、目の前の少年には、その当たり前がない。


 だったら、せめて。


「……レン、なんてどうかな」


「レン?」


「うん。仮の名前だけど」


 口にしてみると、不思議としっくりきた。


 短くて、呼びやすい。


 何か特別な意味があるわけではない。彼の過去を言い当てたわけでもない。


 ただ、今の彼を呼ぶための名前だった。


「嫌だったら、別の名前でもいいよ?」


 ユイが慌てて付け加えると、少年は少しだけ微笑んだ。


「……ううん。ありがとう」


 彼は、確かめるように、その名前を口にした。


「レン……」


 初めて自分の名前を知った人間のように、ゆっくりと。


「……うん。僕は、レン」


 その声を聞いたとき、ユイは胸の奥が小さく温かくなるのを感じた。


 彼に名前を与えたというと、何だか大げさすぎる。


 そんなつもりはない。


 ただ、彼が自分の名前を口にするのを聞いて、ほっとしたのだ。


 この名前が、本当の名前でなくてもいい。


 いつか過去が分かり、別の名前を思い出す日が来てもいい。


 今はただ、彼を呼ぶための言葉が一つできた。


 それだけで、昨日より少しだけ、彼がここにいることを実感できた。


「……じゃあ、レン。朝ご飯を食べたら、一緒に来て」


「どこへ?」


「救護所の手伝い。昨日も話したでしょ。あなた、私を助けてくれたんだから、今度は一緒に誰かを助けようよ」


 レンは、少し驚いたようにユイを見つめた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「うん。分かった」


     ◇


 救護所の外へ出ると、街はすでに動き始めていた。


 負傷者を運ぶ人。配給の列に並ぶ人。壊れた建物から使える物資を探す人。


 誰もが、自分にできることを探しているようだった。


 ただ、その顔には疲れが濃く刻まれていた。


 戦争が長引けば、人は慣れていく。


 爆発音にも、瓦礫にも、誰かの泣き声にも。


 慣れることでしか、続けられない生活がある。


 けれど、慣れることと、平気になることは違うのだろう。


 誰かが倒れたとき、周囲の人間がすぐに動けるのは、こうした光景を何度も見てきたからかもしれない。


 しかし、その人が亡くなったときに悲しまなくなったわけではない。


 ユイは、そんなことを考えながら歩いていた。


「ユイ」


 レンが呼んだ。


「なに?」


「僕たちは、どこへ行けばいいの?」


「まずは、物資の運搬かな。昨日、ハナさんが人手が足りないって言っていたから」


「分かった」


 レンは素直に頷いた。


 その返事があまりにも迷いなく、ユイは少しだけ不安になる。


「……あのね、レン」


「うん?」


「覚えてるよね?」


「なに?」


「あなたが死んだこと」


 レンは、しばらく黙った。


「……覚えてるような気もするし、よく分からないような気もする」


「それ、どういうこと?」


「目を閉じたところまでは覚えているんだ。そのあと、一瞬、何もなくなった気がする。でも、気づいたら君が泣いていて……」


 レンは自分の胸元に手を当てた。


「自分が死んだんだって、君に言われて、初めてそうなんだと思った」


 ユイは足を止めた。


 彼にとって、死はまだ、自分の経験として受け入れられていないのかもしれない。


 目を閉じて、開けた。


 その間に何が起こったのか分からない。


 周りの人が自分を死んだと言うから、そうだったのだろうと思っている。


 そんなふうに、自分の命に起きたことを、他人から教えられているのだ。


「……怖くないの?」


 ユイは昨日と同じ問いを口にした。


 レンは少し考えた。


「怖いよ」


「……うん」


「でも、怖いと思うことと、やらなきゃいけないと思うことは、別なんじゃないかな」


 ユイは、彼の横顔を見つめた。


「どういうこと?」


「昨日、君が危ない目に遭っていたとき、僕は怖いと思う前に身体が動いていた気がするんだ。君を助けなきゃって、それだけ考えていた」


 レンは、少しだけ困ったように笑った。


「だから、自分がどうしてあんなことをしたのか、まだよく分からないんだけどね」


 その言葉に、ユイは何も答えられなかった。


 彼は自分が死ぬことを恐れていないのではない。


 恐怖を考えるよりも先に、誰かを助けるために動いてしまうのだ。


 それは勇敢なことなのかもしれない。


 けれど同時に、ひどく危ういことのようにも思えた。


「……じゃあ、これだけは覚えておいて」


 ユイは、レンを見上げた。


「誰かを助けることは大切だけど、あなた自身も、助けられる側になっていいんだからね」


 レンは目を瞬かせた。


「僕も?」


「そう。あなたも」


 彼は少し考えてから、小さく頷いた。


「……分かった」


 その返事が、本当に理解したうえでのものなのかは分からなかった。


 それでもユイは、いつか彼がその言葉を思い出してくれればいいと思った。


     ◇


 物資の運搬を手伝い始めて、しばらく経ったころだった。


 救護所の入口付近で、突然、大きな声が上がった。


「誰か! 誰か来てくれ!」


 声の主は、泥だらけの服を着た男性だった。


「老人が、まだ向こうにいるんだ! 崩れた建物の近くに取り残されて……!」


 その言葉を聞いた瞬間、ユイは顔を上げた。


 男性の説明によると、避難途中の老人が転倒し、足を痛めて動けなくなったらしい。周囲の人々が支えようとしたものの、近くの建物が崩れ始めたため、全員がいったん離れざるを得なかったのだという。


 救助に向かえる人間は、今すぐには見つからない。


 救護所には、ほかにも多くの負傷者が運び込まれている。


 誰も助けたくないわけではない。


 ただ、それぞれに事情があり、それぞれに限界がある。


 ユイは、そのことを理解していた。


 理解していた、はずだった。


「……私が行きます」


 気づいたときには、そう口にしていた。


「待ってくれ。今は危険だ。もう少し状況を確認してから――」


「でも、今もそこにいるんですよね?」


 男性は、苦しそうに頷いた。


「そうだが……」


「場所を教えてください」


 ユイは、相手の返事を待っていた。


 止められるかもしれない。


 危険だから行くなと、言われるかもしれない。


 それでも、行かなければならない気がした。


 誰かが助けを求めている。


 そのことを知ってしまった以上、もう何も知らなかった頃には戻れない。


「……ユイ!」


 後ろからレンの声がした。


 振り返ると、彼がこちらへ走ってくるところだった。


「僕も行くよ」


「え?」


「一人より、二人のほうがいいでしょう?」


 その言葉を聞いた瞬間、ユイは昨日の自分の言葉を思い出した。


 誰かを助けるために、自分一人で行こうとしたこと。


 そして、レンに一緒に来てほしいと頼んだこと。


 今度は、彼が同じことを言っている。


「……でも、危ないよ」


「うん。分かってる」


「分かってないでしょ!」


 思わず声が大きくなる。


 レンは、少しだけ驚いたように目を見開いた。


 ユイは、自分が何に怒っているのか分からなくなった。


 彼に一緒に来てほしいと思ったのは、自分なのに。


 それなのに、彼が本当に自分と同じように危険へ向かおうとすると、怖くなる。


 彼がまた、自分を庇って死んでしまうかもしれない。


 そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 けれど、ここで彼を止めたら。


 自分も、彼と同じように、助けを求めている人を見捨てることになるのだろうか。


 ユイは唇を噛んだ。


 そのとき、レンが静かに言った。


「ユイ。僕は、君と一緒に行きたい」


「……え?」


「君が行くなら、僕も行く。君が一人で危ないことをするのは、心配だから」


 ユイは、言葉を失った。


 昨日、自分が彼に言ったことと、同じだった。


 迷惑をかけたくないからと、彼が一人で去ろうとしたとき。


 自分は、彼がいなくなるのが嫌だと言った。


 自分にも彼を助けさせてほしいと、そう伝えた。


 それなのに、彼が同じ気持ちを自分に向けてくれたとき、こんなにも戸惑ってしまう。


 自分だけが、守る側でいたかったのだろうか。


 彼のことを心配するのは、自分だけでいいと思っていたのだろうか。


 そんなはずはない。


 けれど、自分の中に、彼を失いたくないという気持ちが、思っていた以上に大きくなっていることを、ユイは感じ始めていた。


「……分かった」


 彼女は、小さく息を吐いた。


「一緒に行こう。でも、私の言うことをちゃんと聞いてね」


「うん」


「危険だと思ったら、無理をしないこと」


「分かった」


「本当に分かった?」


「……できるだけ」


「もう!」


 思わず声を上げてしまい、ユイは自分の頬が少しだけ緩んでいることに気づいた。


 怖さは消えていない。


 不安もなくなってはいない。


 それでも、自分一人で向かうのではないということが、ほんの少しだけ心強かった。


     ◇


 老人が取り残されている場所は、救護所からそう遠くなかった。


 しかし、道の一部が崩れ、瓦礫が散乱していたため、簡単には近づけなかった。


 ユイは周囲を見渡し、崩れた壁や建物の状態を確認した。


「……こっちから回ろう」


 彼女は、比較的崩落の少ない道を指した。


 レンは頷き、ユイの後ろについていく。


 足元には細かな破片が散らばり、建物の隙間からは風が吹き抜けていた。


 時折、遠くで鈍い音がする。


 ユイは、そのたびに足を止めて周囲を確認した。


 危険な場所に近づくときは、何が起こるかを想像する。


 どこが崩れそうか。


 逃げ道はあるか。


 誰かを助けるために、自分たちが新たに助けを必要とすることになってしまわないか。


 そうしたことを考えるようになったのは、何度も危険な目に遭ってきたからだった。


 運が悪いだけだと、以前は思っていた。


 けれど、何度も同じような経験を繰り返すうちに、少しずつ分かってきたことがある。


 危険は、突然訪れることもある。


 しかし、注意を払うことで避けられる危険も、確かにあるのだ。


「……ユイ、あそこじゃないかな」


 レンが前方を指さした。


 崩れた壁の陰に、一人の老人が座り込んでいた。


「おじいさん!」


 ユイは駆け寄った。


 老人は足を押さえ、苦しそうに顔をしかめている。


「すみません……。わしのせいで、みんなに迷惑を……」


「そんなこと言わないでください。今、助けますから」


 ユイは老人の足を確認した。


 大きな出血はないようだったが、歩ける状態ではなさそうだった。


 レンが老人のそばに膝をつく。


「肩を貸します。立てそうですか?」


「……すまんな」


「謝らなくていいですよ」


 レンは、そう言って微笑んだ。


 その言葉に、ユイはほんの少しだけ胸が温かくなった。


 自分が先ほど、彼に言った言葉だった。


 彼は、それを覚えていてくれたのだろうか。


 そんなことを考えている場合ではないと、ユイはすぐに気持ちを切り替えた。


「レン、ゆっくりね。無理に立たせないで」


「分かった」


 二人は協力して、老人の身体を支えた。


 少しずつ、足場を確かめながら移動する。


 あと少しで、崩れた壁の向こうへ出られる。


 そう思った瞬間だった。


 頭上から、嫌な音がした。


 ユイは顔を上げた。


 壁の一部が、わずかに傾いていた。


「――危ない!」


 ユイが叫んだ瞬間、レンが老人を押し出した。


 老人の身体が安全な場所へ転がる。


 しかし、レンは逃げ遅れた。


 崩れ落ちた木材が、彼のすぐ横に叩きつけられる。


 ユイは息を呑んだ。


「レン!」



 彼は、とっさに身体をひねり、直撃を避けていた。

 けれど、木材が腕をかすめ、彼はバランスを崩して地面に膝をついた。


「……っ」


「大丈夫!?」


 ユイは駆け寄り、彼の腕を確認した。


 擦り傷ができている。


 血が、少しだけ滲んでいた。


 その程度の怪我だった。


 それでも、ユイは手を震わせていた。


 もし、あと少しずれていたら。


 もし、木材が彼の頭に当たっていたら。


 そう考えた瞬間、呼吸が浅くなった。


「……ユイ?」


 レンが、不思議そうに彼女を見上げた。


「ごめん。驚かせたね」


「……そうじゃないよ」


 ユイは、彼の腕を握ったまま俯いた。


「そうじゃ、ないの……」


 何を言えばいいのだろう。


 危ないことをしないで。


 無理をしないで。


 自分を大切にして。


 そんな言葉を、いくら並べても足りない気がした。


 彼が生き返ることを知っているからといって、彼が傷ついても平気なわけではない。


 彼が自分を庇ってくれるからといって、それを当たり前に受け入れていいわけでもない。


 自分は、彼に助けてほしいと思っている。


 けれど、それと同じくらい、彼にも無事でいてほしいと思っている。


 その二つは、きっと別々の願いではない。


「……もう、無茶しないでよ」


 ユイは、ようやくそれだけを言った。


 レンは少しだけ目を伏せた。


「……うん。気をつける」


 その返事を聞いても、ユイの胸のざわめきは消えなかった。


 それでも彼が、自分の言葉を受け止めてくれたことだけは分かった。


     ◇


 老人を安全な場所へ送り届けると、周囲の人々が二人に礼を言った。


「本当に助かった。ありがとう」


「君たちが来てくれなかったら、どうなっていたか……」


 ユイは照れくさそうに笑った。


「私たちだけじゃありません。ここまで運ぶのを手伝ってくれた人たちもいますから」


 そう言って、彼女はレンを見た。


 レンは、老人が無事に座っていることを確認し、ようやく安堵したように息を吐いていた。


 その横顔を見て、ユイは気づいた。


 レンは、助けたことを誇らしく思っているわけではない。


 誰かに褒められたいわけでもない。


 ただ、目の前にいた人が無事だったことを、心から嬉しく思っている。


 そのことが、彼の表情から伝わってきた。


「……よかったね」


 ユイが言うと、レンは振り返った。


「うん」


 彼は笑った。


「間に合って、よかった」


 その笑顔を見た瞬間、ユイの胸の中で、何かが少しだけ変わった。


 彼を守りたい。


 失いたくない。


 それは、今も変わらない。


 けれど、彼が誰かを助けたときに見せる、この笑顔も失いたくないと思った。


 危険な場所へ行かないでほしいと願うだけでは、彼の大切なものまで奪ってしまうのかもしれない。


 そんなことを、初めて考えた。


     ◇


 帰り道、二人は並んで歩いていた。


 ユイは何度か、レンの腕へ視線を向けた。


 傷は浅い。手当てをすれば、すぐに治るだろう。


 それでも、気になってしまう。


「……まだ痛む?」


「少しだけ」


「帰ったら、ちゃんと手当てしてもらおうね」


「うん」


「絶対だよ」


「分かった」


 レンは素直に頷いた。


 少し歩いたあと、彼は不意に口を開いた。


「ユイ」


「なに?」


「君は、どうして危険な場所へ行こうとするの?」


 ユイは足を止めた。


 答えを考えたことがなかったわけではない。


 けれど、こうして真正面から尋ねられると、うまく言葉にならなかった。


「……助けたいから、かな」


「助けたい?」


「うん。誰かが困っていたら、助けたいって思うの。助けられるかもしれないのに、何もしなかったら……きっと、あとで後悔するから」


 レンは、黙って聞いていた。


「もちろん、怖いよ。今日だって、すごく怖かった。あなたが怪我したときなんて……」


 そこまで言って、ユイは口を閉じた。


 彼の腕を見たとき、自分がどんな気持ちになったのか。


 それを説明するのは、難しかった。


「……でも、助けられてよかったと思う」


 ユイは、ようやく続けた。


「おじいさんが無事だったから。あなたも、無事だったから」


 レンは少しだけ微笑んだ。


「そっか」


 それから、彼は空を見上げた。


「……僕も、同じなのかもしれない」


「え?」


「君を助けたとき、どうしてそうしたのか、自分でも分からなかった。でも、今なら少しだけ分かる気がする」


 彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「助けられるかもしれない人が目の前にいたら、助けたいと思うんだ。理由を考えるより先に、そう思ってしまう」


 ユイは、彼の横顔を見つめた。


「……それって、危ないことでもあるんだよ」


「うん」


「自分が怪我するかもしれないし、助けられないことだってある」


「うん」


「それでも?」


 レンは、少しだけ考えてから頷いた。


「それでも、何かできることがあるなら、やりたい」


 ユイは、ため息をついた。


「……本当に、似た者同士なのかもね」


「そうなの?」


「そうだよ。あなたも私も、自分のことを後回しにしちゃうんだから」


 レンは驚いたようにユイを見た。


 そのあと、少しだけ笑った。


「じゃあ、これからは気をつけよう」


「……本当に?」


「うん。君が心配してくれるから」


 ユイは、言葉に詰まった。


 そんなふうに、まっすぐ言わないでほしい。


 彼は何も考えずに口にしているのだろう。


 けれど、自分はそうではない。


 その言葉一つで、胸の奥が簡単に揺れてしまう。


「……そういうこと、簡単に言わないでよ」


「どうして?」


「どうしてって……」


 ユイは顔を背けた。


「……もう、知らない!」


 先を歩き始めたユイを、レンが慌てて追いかける。


「ユイ、待ってよ」


「待たない!」


「でも、帰り道が分からないんだけど」


「……っ」


 ユイは、思わず足を止めた。


 振り返ると、レンは本当に困った顔をしていた。


 その顔を見て、ユイはとうとう笑ってしまった。


「……もう! こっちだよ!」


「ありがとう」


 レンは、嬉しそうに隣へ並んだ。


 二人は、再び歩き始めた。


 その間、ユイは何度も、レンの横顔を盗み見た。


 まだ、彼のことは何も分からない。


 どうして生き返えったのか。


 なぜ記憶を失っているのか。


 彼がどこから来て、どこへ向かおうとしていたのか。


 何一つ、分からない。


 それでも。


 少なくとも今日、彼と一緒に誰かを助けることができた。


 彼が一人で危険へ飛び込むのではなく、自分と一緒に考えてくれた。


 そして、自分も彼と一緒に行動することが、少しだけ嬉しかった。


 そのことが、今のユイには大切だった。


     ◇


 救護所に戻ると、ハナが二人を見つけて、すぐにレンの腕を確認した。


「……また怪我をしたの?」


「少しだけです」


「少しだけでも、怪我は怪我よ。座りなさい」


 レンは素直に椅子に座った。


 ハナが傷を洗い、薬を塗る。その間、ユイは隣で落ち着かない様子で見守っていた。


「……あなた、ずっとそこにいるつもり?」


 ハナに尋ねられ、ユイは慌てて顔を上げた。


「えっ? あ、はい!」


「そんなに心配しなくても、今のところ大きな傷ではないわ」


「……そうですけど」


 言いかけて、ユイは口を閉じた。


 心配しなくてもいい。


 そう言われても、心配なものは心配だった。


 レンが生き返ることを知っていても、彼が傷つく姿を見て平気にはなれない。


 むしろ、彼が自分の命をどれほど危険にさらしても、何事もなかったように戻ってくるからこそ、どこまで無理をしてしまうのか分からなくて怖かった。


 ハナは、そんなユイをしばらく見ていた。


「……あなたたち、知り合ってまだ間もないのでしょう?」


「は、はい」


「それなのに、ずいぶん心配するのね」


 ユイの顔が、一気に熱くなった。


「ち、違います! そういうのじゃなくて!」


「あら。そういうのって?」


「だから……!」


 ハナは、少しだけ笑った。


「冗談よ。そんなに慌てなくてもいいわ」


 ユイは、顔を真っ赤にしたまま俯いた。


 隣では、レンが不思議そうに二人を見ている。


「……何の話?」


「あなたは黙ってて!」


「えっ、うん……」


 レンが素直に口を閉じたため、ハナはとうとう声を出して笑った。


 ユイは恥ずかしさでいっぱいだったが、その笑い声を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 戦争が始まってから、笑い声を聞く機会は減っていた。


 笑ってはいけないわけではない。


 けれど、笑っているときに限って、ふと我に返ってしまう。


 こんなときに笑っていていいのだろうか。


 誰かが苦しんでいるのに。


 誰かが亡くなっているのに。


 けれど、本当は、笑える時間があることこそ大切なのかもしれない。


 苦しみだけで埋め尽くされた世界では、人はきっと、明日まで歩いていけなくなる。


 ユイは、そんなことを考えた。


 そして、手当てを終えたレンがこちらを見て笑ったとき、彼女も小さく笑い返した。


     ◇


 その夜。


 ユイは、眠る前にレンのことを考えていた。


 彼は自分が何者なのか、まだ分からない。


 どうして死んでも生き返るのかも、分からない。


 それでも、今日一日、誰かを助けようとしていた。


 自分と一緒に。


 怖いことも、危険なこともあった。


 それでも、彼は笑っていた。


 助けた老人が無事だったことを、心から喜んでいた。


 ユイは、毛布の中で小さく息を吐いた。


 彼は、何者なのだろう。


 人造人間なのか。


 それとも、人間とは違う何かなのか。


 その答えを知りたいと思う一方で、今はまだ、知らなくてもいいような気がした。


 彼がどこから来たのか分からなくても、明日も隣にいてくれるなら。


 自分が彼に何をしてあげられるのか分からなくても、一緒に考えることができるなら。


 それでいいのではないか。


 そう思った。


 そして、明日になったら、彼と一緒に、また誰かを助けに行こう。


 今度は、今日より少しだけ、慎重に。


 無理をしないように。


 ちゃんと帰ってこられるように。


 ユイは目を閉じた。


 そのとき、ふと気づいた。


 自分は今日、彼が無事に戻ってくることを願っていた。


 それは、昨日までの自分とは少し違う願いだった。


 これまでのユイは、自分が誰かを助けられるかどうかを考えていた。


 しかし今は、彼と一緒に助けたいと思っている。


 彼と一緒に帰りたいと思っている。


 その違いが何を意味しているのか、まだ分からない。


 名前をつけるには、少し早すぎる気がした。


 けれど、いつか。


 その気持ちに、自分なりの名前をつけられる日が来るのかもしれない。


 そして、その頃にはきっと。


 今よりもずっと、彼のことを大切に思っているのだろう。


 ユイは、まだ知らない。


 自分がいつの日か、その命の残りを数えることになるのを。


 彼が何度でも生き返るという奇跡が、いつか失われることを。


 そして、どれほど願っても、すべての人を救えるわけではないという現実を、彼と一緒に受け止めていくことになるのを。


 今はまだ、何も知らなかった。


 ただ、明日も彼に会えることを、少しだけ楽しみにしていた。


 それだけのことが、こんなにも心を温かくするのだと。


 ユイは、初めて知ったのだった。


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