03.一緒に来て
朝は、誰にでも平等に訪れる。
少なくとも、空だけを見ていれば、そう思うことができた。
救護所の窓から差し込む光は、昨日と何も変わらない。薄い雲の向こうから射す陽光は柔らかく、壁に掛けられた古い時計は、壊れてもいないのに少し遅れて時を刻んでいた。
夜のあいだ、ユイは何度も目を覚ました。
眠ってしまったら、昨日の出来事が夢になってしまう気がしたからだ。
自分を庇って死んだ少年。再び目を開けた彼。名前も過去も分からないと、困ったように笑った横顔。
どれも、目を閉じれば鮮明に思い出せる。
それなのに、朝になって彼の姿を見かけると、昨夜の出来事が急に現実味を失ってしまうのだった。
少年は、救護所の壁際に座っていた。
配給されたパンを両手で持ち、何かを考えるように窓の外を眺めている。
服は昨日借りたものだ。袖が少し長いらしく、時折、指先で余った布を引っ張っていた。
その仕草が、妙に子どもっぽく見えた。
昨日、自分を庇って死んだ人と、同じ人には思えなかった。
「……何してるの?」
ユイが近づいて声をかけると、少年は振り返った。
「朝ご飯を食べてる」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ、窓を見てる」
「それも見れば分かる!」
思わず声を張り上げてしまい、ユイは慌てて口元を押さえた。
周囲には、まだ眠っている人もいる。
少年は不思議そうに瞬きをしたあと、手元のパンを見つめた。
「……おいしいよ」
「聞いてないよ、そんなこと」
「そう?」
「そう!」
会話をしているうちに、ユイは自分が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
昨日までは、彼が再び目を覚ましたことばかりが気になっていた。彼が何者なのか、どうして死んでも生き返えったのか。疑問を挙げればきりがなかった。
けれど、今こうして話していると、彼は意外なくらい普通の少年に見える。
パンを食べる。窓を眺める。人の話を聞き間違える。
そんな当たり前のことをする人間が、昨日、自分の目の前で死んだのだ。
その事実だけが、どこかに引っかかっていた。
「ねえ」
「うん?」
「……そういえば、あなたのこと、何て呼べばいいの?」
少年は、手にしていたパンを止めた。
「名前のこと?」
「うん。ずっと『あなた』って呼ぶわけにもいかないでしょ」
「そうだね」
「何か思い出せない? 名前の最初の文字とか、誰かに呼ばれていたときの感じとか」
少年は目を閉じた。
少しのあいだ、考えていた。
しかし、やがて首を横に振る。
「……ごめん。やっぱり、何も分からない」
「そっか」
ユイは、少し考えた。
名前がない。
そのことを、彼はどんなふうに感じているのだろう。
名前は、誰かが自分を呼ぶためのものだ。家族が呼び、友人が呼び、時には嫌いな人間にまで呼ばれる。
自分がそこにいると、誰かに気づいてもらうための、小さな印のようなもの。
それがないということは、誰からも呼ばれないということなのだろうか。
そんなはずはない。
昨日、彼は確かに自分の名前を呼ばなくても、自分を見つけてくれた。
名前がなかったとしても、彼がそこにいたことまで、なくなるわけではない。
「……じゃあ、仮の名前をつけようか」
少年は、きょとんとした。
「仮の名前?」
「うん。あなたの本当の名前が分かるまでの間だけ。ずっと『ねえ』とか『ちょっと』とか呼ぶのも変だし」
「でも、僕が自分でつけてもいいのかな」
「いいんじゃない? 誰かが決めてくれるのを待っていたら、いつになるか分からないでしょ」
ユイは少し考えた。
名前を考えるなんて、今までしたことがなかった。
家族がつけてくれた自分の名前に、深い意味があるのかどうかも知らない。ただ、ずっとそれで呼ばれてきたから、自分の名前なのだと思っていた。
けれど、目の前の少年には、その当たり前がない。
だったら、せめて。
「……レン、なんてどうかな」
「レン?」
「うん。仮の名前だけど」
口にしてみると、不思議としっくりきた。
短くて、呼びやすい。
何か特別な意味があるわけではない。彼の過去を言い当てたわけでもない。
ただ、今の彼を呼ぶための名前だった。
「嫌だったら、別の名前でもいいよ?」
ユイが慌てて付け加えると、少年は少しだけ微笑んだ。
「……ううん。ありがとう」
彼は、確かめるように、その名前を口にした。
「レン……」
初めて自分の名前を知った人間のように、ゆっくりと。
「……うん。僕は、レン」
その声を聞いたとき、ユイは胸の奥が小さく温かくなるのを感じた。
彼に名前を与えたというと、何だか大げさすぎる。
そんなつもりはない。
ただ、彼が自分の名前を口にするのを聞いて、ほっとしたのだ。
この名前が、本当の名前でなくてもいい。
いつか過去が分かり、別の名前を思い出す日が来てもいい。
今はただ、彼を呼ぶための言葉が一つできた。
それだけで、昨日より少しだけ、彼がここにいることを実感できた。
「……じゃあ、レン。朝ご飯を食べたら、一緒に来て」
「どこへ?」
「救護所の手伝い。昨日も話したでしょ。あなた、私を助けてくれたんだから、今度は一緒に誰かを助けようよ」
レンは、少し驚いたようにユイを見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん。分かった」
◇
救護所の外へ出ると、街はすでに動き始めていた。
負傷者を運ぶ人。配給の列に並ぶ人。壊れた建物から使える物資を探す人。
誰もが、自分にできることを探しているようだった。
ただ、その顔には疲れが濃く刻まれていた。
戦争が長引けば、人は慣れていく。
爆発音にも、瓦礫にも、誰かの泣き声にも。
慣れることでしか、続けられない生活がある。
けれど、慣れることと、平気になることは違うのだろう。
誰かが倒れたとき、周囲の人間がすぐに動けるのは、こうした光景を何度も見てきたからかもしれない。
しかし、その人が亡くなったときに悲しまなくなったわけではない。
ユイは、そんなことを考えながら歩いていた。
「ユイ」
レンが呼んだ。
「なに?」
「僕たちは、どこへ行けばいいの?」
「まずは、物資の運搬かな。昨日、ハナさんが人手が足りないって言っていたから」
「分かった」
レンは素直に頷いた。
その返事があまりにも迷いなく、ユイは少しだけ不安になる。
「……あのね、レン」
「うん?」
「覚えてるよね?」
「なに?」
「あなたが死んだこと」
レンは、しばらく黙った。
「……覚えてるような気もするし、よく分からないような気もする」
「それ、どういうこと?」
「目を閉じたところまでは覚えているんだ。そのあと、一瞬、何もなくなった気がする。でも、気づいたら君が泣いていて……」
レンは自分の胸元に手を当てた。
「自分が死んだんだって、君に言われて、初めてそうなんだと思った」
ユイは足を止めた。
彼にとって、死はまだ、自分の経験として受け入れられていないのかもしれない。
目を閉じて、開けた。
その間に何が起こったのか分からない。
周りの人が自分を死んだと言うから、そうだったのだろうと思っている。
そんなふうに、自分の命に起きたことを、他人から教えられているのだ。
「……怖くないの?」
ユイは昨日と同じ問いを口にした。
レンは少し考えた。
「怖いよ」
「……うん」
「でも、怖いと思うことと、やらなきゃいけないと思うことは、別なんじゃないかな」
ユイは、彼の横顔を見つめた。
「どういうこと?」
「昨日、君が危ない目に遭っていたとき、僕は怖いと思う前に身体が動いていた気がするんだ。君を助けなきゃって、それだけ考えていた」
レンは、少しだけ困ったように笑った。
「だから、自分がどうしてあんなことをしたのか、まだよく分からないんだけどね」
その言葉に、ユイは何も答えられなかった。
彼は自分が死ぬことを恐れていないのではない。
恐怖を考えるよりも先に、誰かを助けるために動いてしまうのだ。
それは勇敢なことなのかもしれない。
けれど同時に、ひどく危ういことのようにも思えた。
「……じゃあ、これだけは覚えておいて」
ユイは、レンを見上げた。
「誰かを助けることは大切だけど、あなた自身も、助けられる側になっていいんだからね」
レンは目を瞬かせた。
「僕も?」
「そう。あなたも」
彼は少し考えてから、小さく頷いた。
「……分かった」
その返事が、本当に理解したうえでのものなのかは分からなかった。
それでもユイは、いつか彼がその言葉を思い出してくれればいいと思った。
◇
物資の運搬を手伝い始めて、しばらく経ったころだった。
救護所の入口付近で、突然、大きな声が上がった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
声の主は、泥だらけの服を着た男性だった。
「老人が、まだ向こうにいるんだ! 崩れた建物の近くに取り残されて……!」
その言葉を聞いた瞬間、ユイは顔を上げた。
男性の説明によると、避難途中の老人が転倒し、足を痛めて動けなくなったらしい。周囲の人々が支えようとしたものの、近くの建物が崩れ始めたため、全員がいったん離れざるを得なかったのだという。
救助に向かえる人間は、今すぐには見つからない。
救護所には、ほかにも多くの負傷者が運び込まれている。
誰も助けたくないわけではない。
ただ、それぞれに事情があり、それぞれに限界がある。
ユイは、そのことを理解していた。
理解していた、はずだった。
「……私が行きます」
気づいたときには、そう口にしていた。
「待ってくれ。今は危険だ。もう少し状況を確認してから――」
「でも、今もそこにいるんですよね?」
男性は、苦しそうに頷いた。
「そうだが……」
「場所を教えてください」
ユイは、相手の返事を待っていた。
止められるかもしれない。
危険だから行くなと、言われるかもしれない。
それでも、行かなければならない気がした。
誰かが助けを求めている。
そのことを知ってしまった以上、もう何も知らなかった頃には戻れない。
「……ユイ!」
後ろからレンの声がした。
振り返ると、彼がこちらへ走ってくるところだった。
「僕も行くよ」
「え?」
「一人より、二人のほうがいいでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、ユイは昨日の自分の言葉を思い出した。
誰かを助けるために、自分一人で行こうとしたこと。
そして、レンに一緒に来てほしいと頼んだこと。
今度は、彼が同じことを言っている。
「……でも、危ないよ」
「うん。分かってる」
「分かってないでしょ!」
思わず声が大きくなる。
レンは、少しだけ驚いたように目を見開いた。
ユイは、自分が何に怒っているのか分からなくなった。
彼に一緒に来てほしいと思ったのは、自分なのに。
それなのに、彼が本当に自分と同じように危険へ向かおうとすると、怖くなる。
彼がまた、自分を庇って死んでしまうかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
けれど、ここで彼を止めたら。
自分も、彼と同じように、助けを求めている人を見捨てることになるのだろうか。
ユイは唇を噛んだ。
そのとき、レンが静かに言った。
「ユイ。僕は、君と一緒に行きたい」
「……え?」
「君が行くなら、僕も行く。君が一人で危ないことをするのは、心配だから」
ユイは、言葉を失った。
昨日、自分が彼に言ったことと、同じだった。
迷惑をかけたくないからと、彼が一人で去ろうとしたとき。
自分は、彼がいなくなるのが嫌だと言った。
自分にも彼を助けさせてほしいと、そう伝えた。
それなのに、彼が同じ気持ちを自分に向けてくれたとき、こんなにも戸惑ってしまう。
自分だけが、守る側でいたかったのだろうか。
彼のことを心配するのは、自分だけでいいと思っていたのだろうか。
そんなはずはない。
けれど、自分の中に、彼を失いたくないという気持ちが、思っていた以上に大きくなっていることを、ユイは感じ始めていた。
「……分かった」
彼女は、小さく息を吐いた。
「一緒に行こう。でも、私の言うことをちゃんと聞いてね」
「うん」
「危険だと思ったら、無理をしないこと」
「分かった」
「本当に分かった?」
「……できるだけ」
「もう!」
思わず声を上げてしまい、ユイは自分の頬が少しだけ緩んでいることに気づいた。
怖さは消えていない。
不安もなくなってはいない。
それでも、自分一人で向かうのではないということが、ほんの少しだけ心強かった。
◇
老人が取り残されている場所は、救護所からそう遠くなかった。
しかし、道の一部が崩れ、瓦礫が散乱していたため、簡単には近づけなかった。
ユイは周囲を見渡し、崩れた壁や建物の状態を確認した。
「……こっちから回ろう」
彼女は、比較的崩落の少ない道を指した。
レンは頷き、ユイの後ろについていく。
足元には細かな破片が散らばり、建物の隙間からは風が吹き抜けていた。
時折、遠くで鈍い音がする。
ユイは、そのたびに足を止めて周囲を確認した。
危険な場所に近づくときは、何が起こるかを想像する。
どこが崩れそうか。
逃げ道はあるか。
誰かを助けるために、自分たちが新たに助けを必要とすることになってしまわないか。
そうしたことを考えるようになったのは、何度も危険な目に遭ってきたからだった。
運が悪いだけだと、以前は思っていた。
けれど、何度も同じような経験を繰り返すうちに、少しずつ分かってきたことがある。
危険は、突然訪れることもある。
しかし、注意を払うことで避けられる危険も、確かにあるのだ。
「……ユイ、あそこじゃないかな」
レンが前方を指さした。
崩れた壁の陰に、一人の老人が座り込んでいた。
「おじいさん!」
ユイは駆け寄った。
老人は足を押さえ、苦しそうに顔をしかめている。
「すみません……。わしのせいで、みんなに迷惑を……」
「そんなこと言わないでください。今、助けますから」
ユイは老人の足を確認した。
大きな出血はないようだったが、歩ける状態ではなさそうだった。
レンが老人のそばに膝をつく。
「肩を貸します。立てそうですか?」
「……すまんな」
「謝らなくていいですよ」
レンは、そう言って微笑んだ。
その言葉に、ユイはほんの少しだけ胸が温かくなった。
自分が先ほど、彼に言った言葉だった。
彼は、それを覚えていてくれたのだろうか。
そんなことを考えている場合ではないと、ユイはすぐに気持ちを切り替えた。
「レン、ゆっくりね。無理に立たせないで」
「分かった」
二人は協力して、老人の身体を支えた。
少しずつ、足場を確かめながら移動する。
あと少しで、崩れた壁の向こうへ出られる。
そう思った瞬間だった。
頭上から、嫌な音がした。
ユイは顔を上げた。
壁の一部が、わずかに傾いていた。
「――危ない!」
ユイが叫んだ瞬間、レンが老人を押し出した。
老人の身体が安全な場所へ転がる。
しかし、レンは逃げ遅れた。
崩れ落ちた木材が、彼のすぐ横に叩きつけられる。
ユイは息を呑んだ。
「レン!」
彼は、とっさに身体をひねり、直撃を避けていた。
けれど、木材が腕をかすめ、彼はバランスを崩して地面に膝をついた。
「……っ」
「大丈夫!?」
ユイは駆け寄り、彼の腕を確認した。
擦り傷ができている。
血が、少しだけ滲んでいた。
その程度の怪我だった。
それでも、ユイは手を震わせていた。
もし、あと少しずれていたら。
もし、木材が彼の頭に当たっていたら。
そう考えた瞬間、呼吸が浅くなった。
「……ユイ?」
レンが、不思議そうに彼女を見上げた。
「ごめん。驚かせたね」
「……そうじゃないよ」
ユイは、彼の腕を握ったまま俯いた。
「そうじゃ、ないの……」
何を言えばいいのだろう。
危ないことをしないで。
無理をしないで。
自分を大切にして。
そんな言葉を、いくら並べても足りない気がした。
彼が生き返ることを知っているからといって、彼が傷ついても平気なわけではない。
彼が自分を庇ってくれるからといって、それを当たり前に受け入れていいわけでもない。
自分は、彼に助けてほしいと思っている。
けれど、それと同じくらい、彼にも無事でいてほしいと思っている。
その二つは、きっと別々の願いではない。
「……もう、無茶しないでよ」
ユイは、ようやくそれだけを言った。
レンは少しだけ目を伏せた。
「……うん。気をつける」
その返事を聞いても、ユイの胸のざわめきは消えなかった。
それでも彼が、自分の言葉を受け止めてくれたことだけは分かった。
◇
老人を安全な場所へ送り届けると、周囲の人々が二人に礼を言った。
「本当に助かった。ありがとう」
「君たちが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
ユイは照れくさそうに笑った。
「私たちだけじゃありません。ここまで運ぶのを手伝ってくれた人たちもいますから」
そう言って、彼女はレンを見た。
レンは、老人が無事に座っていることを確認し、ようやく安堵したように息を吐いていた。
その横顔を見て、ユイは気づいた。
レンは、助けたことを誇らしく思っているわけではない。
誰かに褒められたいわけでもない。
ただ、目の前にいた人が無事だったことを、心から嬉しく思っている。
そのことが、彼の表情から伝わってきた。
「……よかったね」
ユイが言うと、レンは振り返った。
「うん」
彼は笑った。
「間に合って、よかった」
その笑顔を見た瞬間、ユイの胸の中で、何かが少しだけ変わった。
彼を守りたい。
失いたくない。
それは、今も変わらない。
けれど、彼が誰かを助けたときに見せる、この笑顔も失いたくないと思った。
危険な場所へ行かないでほしいと願うだけでは、彼の大切なものまで奪ってしまうのかもしれない。
そんなことを、初めて考えた。
◇
帰り道、二人は並んで歩いていた。
ユイは何度か、レンの腕へ視線を向けた。
傷は浅い。手当てをすれば、すぐに治るだろう。
それでも、気になってしまう。
「……まだ痛む?」
「少しだけ」
「帰ったら、ちゃんと手当てしてもらおうね」
「うん」
「絶対だよ」
「分かった」
レンは素直に頷いた。
少し歩いたあと、彼は不意に口を開いた。
「ユイ」
「なに?」
「君は、どうして危険な場所へ行こうとするの?」
ユイは足を止めた。
答えを考えたことがなかったわけではない。
けれど、こうして真正面から尋ねられると、うまく言葉にならなかった。
「……助けたいから、かな」
「助けたい?」
「うん。誰かが困っていたら、助けたいって思うの。助けられるかもしれないのに、何もしなかったら……きっと、あとで後悔するから」
レンは、黙って聞いていた。
「もちろん、怖いよ。今日だって、すごく怖かった。あなたが怪我したときなんて……」
そこまで言って、ユイは口を閉じた。
彼の腕を見たとき、自分がどんな気持ちになったのか。
それを説明するのは、難しかった。
「……でも、助けられてよかったと思う」
ユイは、ようやく続けた。
「おじいさんが無事だったから。あなたも、無事だったから」
レンは少しだけ微笑んだ。
「そっか」
それから、彼は空を見上げた。
「……僕も、同じなのかもしれない」
「え?」
「君を助けたとき、どうしてそうしたのか、自分でも分からなかった。でも、今なら少しだけ分かる気がする」
彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「助けられるかもしれない人が目の前にいたら、助けたいと思うんだ。理由を考えるより先に、そう思ってしまう」
ユイは、彼の横顔を見つめた。
「……それって、危ないことでもあるんだよ」
「うん」
「自分が怪我するかもしれないし、助けられないことだってある」
「うん」
「それでも?」
レンは、少しだけ考えてから頷いた。
「それでも、何かできることがあるなら、やりたい」
ユイは、ため息をついた。
「……本当に、似た者同士なのかもね」
「そうなの?」
「そうだよ。あなたも私も、自分のことを後回しにしちゃうんだから」
レンは驚いたようにユイを見た。
そのあと、少しだけ笑った。
「じゃあ、これからは気をつけよう」
「……本当に?」
「うん。君が心配してくれるから」
ユイは、言葉に詰まった。
そんなふうに、まっすぐ言わないでほしい。
彼は何も考えずに口にしているのだろう。
けれど、自分はそうではない。
その言葉一つで、胸の奥が簡単に揺れてしまう。
「……そういうこと、簡単に言わないでよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ユイは顔を背けた。
「……もう、知らない!」
先を歩き始めたユイを、レンが慌てて追いかける。
「ユイ、待ってよ」
「待たない!」
「でも、帰り道が分からないんだけど」
「……っ」
ユイは、思わず足を止めた。
振り返ると、レンは本当に困った顔をしていた。
その顔を見て、ユイはとうとう笑ってしまった。
「……もう! こっちだよ!」
「ありがとう」
レンは、嬉しそうに隣へ並んだ。
二人は、再び歩き始めた。
その間、ユイは何度も、レンの横顔を盗み見た。
まだ、彼のことは何も分からない。
どうして生き返えったのか。
なぜ記憶を失っているのか。
彼がどこから来て、どこへ向かおうとしていたのか。
何一つ、分からない。
それでも。
少なくとも今日、彼と一緒に誰かを助けることができた。
彼が一人で危険へ飛び込むのではなく、自分と一緒に考えてくれた。
そして、自分も彼と一緒に行動することが、少しだけ嬉しかった。
そのことが、今のユイには大切だった。
◇
救護所に戻ると、ハナが二人を見つけて、すぐにレンの腕を確認した。
「……また怪我をしたの?」
「少しだけです」
「少しだけでも、怪我は怪我よ。座りなさい」
レンは素直に椅子に座った。
ハナが傷を洗い、薬を塗る。その間、ユイは隣で落ち着かない様子で見守っていた。
「……あなた、ずっとそこにいるつもり?」
ハナに尋ねられ、ユイは慌てて顔を上げた。
「えっ? あ、はい!」
「そんなに心配しなくても、今のところ大きな傷ではないわ」
「……そうですけど」
言いかけて、ユイは口を閉じた。
心配しなくてもいい。
そう言われても、心配なものは心配だった。
レンが生き返ることを知っていても、彼が傷つく姿を見て平気にはなれない。
むしろ、彼が自分の命をどれほど危険にさらしても、何事もなかったように戻ってくるからこそ、どこまで無理をしてしまうのか分からなくて怖かった。
ハナは、そんなユイをしばらく見ていた。
「……あなたたち、知り合ってまだ間もないのでしょう?」
「は、はい」
「それなのに、ずいぶん心配するのね」
ユイの顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います! そういうのじゃなくて!」
「あら。そういうのって?」
「だから……!」
ハナは、少しだけ笑った。
「冗談よ。そんなに慌てなくてもいいわ」
ユイは、顔を真っ赤にしたまま俯いた。
隣では、レンが不思議そうに二人を見ている。
「……何の話?」
「あなたは黙ってて!」
「えっ、うん……」
レンが素直に口を閉じたため、ハナはとうとう声を出して笑った。
ユイは恥ずかしさでいっぱいだったが、その笑い声を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
戦争が始まってから、笑い声を聞く機会は減っていた。
笑ってはいけないわけではない。
けれど、笑っているときに限って、ふと我に返ってしまう。
こんなときに笑っていていいのだろうか。
誰かが苦しんでいるのに。
誰かが亡くなっているのに。
けれど、本当は、笑える時間があることこそ大切なのかもしれない。
苦しみだけで埋め尽くされた世界では、人はきっと、明日まで歩いていけなくなる。
ユイは、そんなことを考えた。
そして、手当てを終えたレンがこちらを見て笑ったとき、彼女も小さく笑い返した。
◇
その夜。
ユイは、眠る前にレンのことを考えていた。
彼は自分が何者なのか、まだ分からない。
どうして死んでも生き返るのかも、分からない。
それでも、今日一日、誰かを助けようとしていた。
自分と一緒に。
怖いことも、危険なこともあった。
それでも、彼は笑っていた。
助けた老人が無事だったことを、心から喜んでいた。
ユイは、毛布の中で小さく息を吐いた。
彼は、何者なのだろう。
人造人間なのか。
それとも、人間とは違う何かなのか。
その答えを知りたいと思う一方で、今はまだ、知らなくてもいいような気がした。
彼がどこから来たのか分からなくても、明日も隣にいてくれるなら。
自分が彼に何をしてあげられるのか分からなくても、一緒に考えることができるなら。
それでいいのではないか。
そう思った。
そして、明日になったら、彼と一緒に、また誰かを助けに行こう。
今度は、今日より少しだけ、慎重に。
無理をしないように。
ちゃんと帰ってこられるように。
ユイは目を閉じた。
そのとき、ふと気づいた。
自分は今日、彼が無事に戻ってくることを願っていた。
それは、昨日までの自分とは少し違う願いだった。
これまでのユイは、自分が誰かを助けられるかどうかを考えていた。
しかし今は、彼と一緒に助けたいと思っている。
彼と一緒に帰りたいと思っている。
その違いが何を意味しているのか、まだ分からない。
名前をつけるには、少し早すぎる気がした。
けれど、いつか。
その気持ちに、自分なりの名前をつけられる日が来るのかもしれない。
そして、その頃にはきっと。
今よりもずっと、彼のことを大切に思っているのだろう。
ユイは、まだ知らない。
自分がいつの日か、その命の残りを数えることになるのを。
彼が何度でも生き返るという奇跡が、いつか失われることを。
そして、どれほど願っても、すべての人を救えるわけではないという現実を、彼と一緒に受け止めていくことになるのを。
今はまだ、何も知らなかった。
ただ、明日も彼に会えることを、少しだけ楽しみにしていた。
それだけのことが、こんなにも心を温かくするのだと。
ユイは、初めて知ったのだった。




