02.生き返った少年
安全な場所というものは、思っていたよりも、ずっと騒がしかった。
泣き声がする。
誰かが誰かの名前を呼んでいる。
怪我をした人を運ぶ足音が、ひっきりなしに廊下を行き交っている。壁際には毛布にくるまった人々が座り込み、疲れ果てた顔で天井を見つめていた。
ユイは、その光景を前にして、ようやく自分たちが助かったのだということを実感した。
先ほどまで、自分は死ぬのだと思っていた。
あの少年が現れなければ、きっと今ごろ、瓦礫の下に埋もれていたのだろう。
そう考えると、足元が急に頼りなくなった。
「……大丈夫?」
隣から声がした。
少年が、不思議そうにユイの顔を覗き込んでいる。
「え?」
「顔色が悪いから」
「そ、そうかな。大丈夫だよ」
ユイは慌てて笑った。
その笑顔が自分でも不自然なものだと分かっていたけれど、ほかにどうすればいいのか分からなかった。
大丈夫。
そう言っておけば、少なくとも今は、何も考えずに済む。
少年は少しだけ首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
その優しさが、かえってユイの胸をちくりと刺した。
彼は、自分が死んだことを覚えているのだろうか。
覚えているのだとしたら、どうしてそんなに平然としていられるのだろう。
覚えていないのだとしたら、なぜ自分だけが、あの瞬間を何度も思い返してしまうのだろう。
知りたいことはたくさんあった。
けれど、今は何から尋ねればいいのかさえ分からなかった。
「ユイさん、こちらへ!」
救護所の入口から、若い兵士が手招きした。
避難民の名簿に名前を記入するよう求められ、ユイは少年と一緒に机へ向かった。
「名前は?」
担当者が、まずユイに尋ねた。
「ユイです」
「姓は?」
ユイは答えた。
担当者はその名を記録し、続けて少年へ目を向けた。
「君は?」
「……分かりません」
「分からない?」
「自分の名前を、覚えていないんです」
担当者は困ったように眉を寄せた。
戦争が始まってから、身元が分からなくなった人間は珍しくない。家族とはぐれ、住んでいた場所を失い、着の身着のままで逃げてきた人もいる。
それでも、名前まで分からないというのは困るらしかった。
「出身地は?」
「分かりません」
「家族は?」
「分かりません」
「所属していた部隊は?」
「分かりません」
担当者のペンが止まった。
ユイは、少年が少しずつ肩を縮めていくのを見ていた。
彼は嘘をついているわけではない。
本当に、何も知らないのだ。
そう考えると、先ほどまで抱いていた疑問とは別の感情が湧いてきた。
自分が何者なのか分からない。
自分の過去も、家族も、帰る場所も分からない。
それは、どんな気持ちなのだろう。
ユイは、彼の代わりに口を開いた。
「この人、記憶を失っているみたいなんです。さっき、私たちを助けてくれて……そのときも、かなり大変な目に遭って」
そこまで話して、ユイは言葉を止めた。
大変な目に遭った。
そんな一言で片づけていいことではなかった。
この少年は、自分を庇って命を落としたのだ。
そして、生き返った。
その事実を、どう説明すればいいのだろう。
「……とにかく、医療班に診てもらおう。身元の確認はそのあとだ」
担当者がそう言って、二人に札を渡した。
少年は札を受け取り、じっと眺めた。
「これが、僕の名前?」
「違うよ。受付番号」
ユイが答えると、少年は少し残念そうな顔をした。
「そっか」
「……本当に、自分の名前も覚えていないんだね」
「うん」
少年は、悲しそうには見えなかった。
ただ、どこか遠くの景色を見ているような目をしていた。
自分が何を失ったのかすら分からない人間は、何を悲しめばいいのだろう。
ユイには、その答えが分からなかった。
◇
医療班の診察室には、薬草の匂いと、消毒に使われる薬品の匂いが混ざっていた。
「そこに座って」
白い上着を着た女性が、少年に椅子を勧めた。
ハナという名前の医療員だった。
疲れた顔をしていたが、目つきは鋭かった。彼女は少年を一目見て、ユイへ尋ねた。
「この子が、あなたを助けたの?」
「はい」
「それで、本人は怪我をしていないと言っている?」
「そうなんです」
ハナは少年の前に立ち、手を差し出した。
「失礼するわね」
彼女は脈を測り、瞳を確認し、呼吸の状態を調べた。
その手つきには無駄がなかった。
ユイは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
何かがおかしい。
そう思っていたのはユイだけではないらしい。
ハナも、診察を進めるにつれて、何度か眉をひそめた。
「……変ね」
「どこか悪いんですか?」
ユイが尋ねると、ハナはすぐには答えなかった。
「身体には大きな異常がない。でも、普通の状態とも言い切れない」
ハナは少年の胸元を指した。
「ここに、古い傷があるでしょう?」
衣服の襟元から覗く、薄い痕。
それは、最初に出会ったときからユイも気になっていたものだった。
「この傷が、何か?」
「傷そのものよりも、その奥にある反応が気になるの」
ハナは小さな検査器具を取り出し、少年の胸元へ近づけた。
器具の針が、わずかに揺れた。
その瞬間、ユイは息を止めた。
胸元の傷の奥で、淡い光が一度だけ瞬いたように見えたからだ。
見間違いだろうか。
目を凝らしても、もう光は見えない。
ハナは器具の表示を確認し、記録用の紙へ数字を書き込んだ。
「魔力の反応……それも、生命活動とは少し違う周期で動いている」
「それって、どういうことですか?」
「今の段階では分からないわ。私の知っている通常の生体反応とは違う、ということだけ」
ハナは少年を見た。
「あなた、自分の身体について何か覚えていない? 手術を受けたとか、特殊な薬を使われたとか」
「……何も」
「痛みは?」
「ありません」
「息苦しさは?」
「ありません」
「以前、大きな怪我をした覚えは?」
少年は答えようとして、口を閉じた。
その瞬間だった。
少年の顔から、すっと血の気が引いた。
「……っ」
彼は額に手を当てた。
「どうしたの?」
ユイは思わず立ち上がった。
「分からない……何か……」
少年の呼吸が浅くなる。
彼の視線が、何もない空間をさまよった。
白い壁。
明るすぎる照明。
ガラス越しに、自分を見つめる複数の人影。
そして、誰かの声。
――この子を、戦場に戻すな。
それは、記憶というよりも、傷口に触れたときの痛みに似ていた。
触れたくないのに、そこに何かがあることだけは分かる。
「……っ、は……」
「大丈夫?」
ユイがそばへ駆け寄った。
少年は胸元を押さえ、荒く息をついていた。
ハナがすぐに検査器具を外し、彼の呼吸が落ち着くのを待った。
「無理に思い出そうとしないで。今は休みなさい」
少年は、ゆっくりと頷いた。
しばらくすると、呼吸は元に戻った。
「……ごめんなさい」
少年は、小さな声で言った。
「どうして謝るの?」
ユイが尋ねる。
「せっかく診てもらっているのに、何も分からなくて」
ユイは思わず、彼の顔を見つめた。
何も分からないことを、謝る。
自分の過去を知らないことを、謝る。
まるで、自分が存在していること自体が、誰かの迷惑であるかのように。
「別に、あなたが悪いわけじゃないでしょう」
ユイの声は、思いのほか強くなった。
少年が目を上げる。
「分からないものは、分からないんだから。それを謝らなくたっていいじゃない」
言ってから、ユイは少しだけ後悔した。
もっと優しい言い方があったかもしれない。
けれど、目の前の少年が、自分の知らないことまで自分の責任だと思い込んでしまいそうなことが、なぜか嫌だった。
彼は少しの間、ユイを見つめていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……ありがとう」
その言葉に、ユイは視線を逸らした。
どういたしまして。
そう答えればよかったのに、なぜか声が出なかった。
◇
「さて」
診察を終えたハナが、二人を見比べた。
「命に関わる異常は、今のところ見つかっていない。ただ、胸元の反応は気になるから、後日もう一度調べたい。今日は無理をせず、ここで休んでいきなさい」
「はい」
ユイが返事をすると、ハナは少年へ目を向けた。
「あなたもよ。記憶が戻っていない以上、自分の身体について分からないことが多すぎる。勝手に動き回らないこと」
「……分かりました」
少年は素直に頷いた。
しかし、その返事を聞いたユイは、なぜか不安になった。
彼は本当に、分かっているのだろうか。
自分の身体が普通とは違うこと。
自分が何者なのか分からないこと。
そして何より――一度、死んだということ。
いや。
正確には、死んだはずなのに生きているということ。
それを、彼自身はどう受け止めているのだろう。
診察室を出たところで、ユイは少年の前に立った。
「ねえ」
「うん?」
「……さっきのこと、覚えてる?」
「さっき?」
「あなたが……その……」
言いかけて、ユイは口を閉じた。
死んだ。
それを、もう一度口にすることが怖かった。
少年は少し考えてから、首を傾げた。
「君を助けようとしたところまでは覚えているよ。でも、そのあとは……よく分からないんだ」
「じゃあ、自分が死んだことは?」
「……うん。たぶん、そうなんだと思う」
ユイは、彼の顔をじっと見つめた。
「怖くないの?」
少年は、すぐには答えなかった。
廊下の向こうから、誰かの泣き声が聞こえてきた。
その声を聞いているうちに、少年の表情が少しずつ変わっていった。
「……怖いよ」
やがて、彼はそう答えた。
あまりにも静かな声だった。
「ただ、何が怖いのか、うまく分からないんだ」
「何が……?」
「死ぬことが怖いのか。自分が何者なのか分からないことが怖いのか。それとも、何も覚えていないことが怖いのか」
少年は、自分の手を見つめた。
「僕には、何もないんだ。過去も、名前も、帰る場所も。君を助けられたことだけは覚えているけれど、それ以外は何も分からない」
ユイは何も言えなかった。
「どうして僕は、生き返ることができたんだろう」
少年の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「僕は、生きていてもいいのかな」
ユイは、思わず彼の手を握った。
少年が驚いたように顔を上げる。
「……いいに決まってるでしょ」
ユイは、はっきりと言った。
「生きていてもいいかどうかなんて、誰かに許してもらうことじゃないよ」
自分でも、どうしてこんなに強い口調になったのか分からなかった。
けれど、彼の口からその問いが出てきたことが、どうしようもなく悲しかった。
誰かに助けられたことがある。
誰かを助けたことがある。
それだけで、人間は生きていていいのではないだろうか。
いや、きっと、それさえ必要ないのかもしれない。
何かができるから生きていていい。
役に立つから、誰かを救えるから、生きる価値がある。
もしそうなら、何もできない人はどうなるのだろう。
何も持っていない人は、どこへ行けばいいのだろう。
ユイは、そんな世界を認めたくなかった。
「あなたが何者なのか、今は分からない。でも、少なくとも私は、あなたが生きていてよかったと思ってる」
少年は目を見開いた。
「……どうして?」
「どうしてって……」
ユイは、少しだけ困った。
理由ならある。
彼が自分を助けてくれたこと。彼が、見返りも求めずに手を伸ばしてくれたこと。
けれど、それだけではない気がした。
もっと単純で、もっと個人的な理由が、胸の奥にあるような気がする。
自分でもまだ名前をつけられない、その感情。
ユイは視線を逸らした。
「……あなたが、ここにいるから」
少年はしばらく黙っていた。
それから、ようやく微笑んだ。
「そっか」
その笑顔を見て、ユイは、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
彼が笑ってくれた。
それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
◇
その日の夕方、ユイは救護所で配られた替えの服を少年に渡した。
彼の服は、瓦礫と砂埃で汚れていた。ところどころ破れてもいる。
「これ、借りてきたから」
「ありがとう」
「サイズは……たぶん大丈夫だと思うけど」
少年は服を受け取り、すぐに着替えようとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
ユイは慌てて顔を背けた。
「なに?」
「なに、じゃないよ! 着替えるなら、せめて一言くらい言ってよ!」
「着替えるって言ったよ?」
「言ってない!」
「……そうだっけ」
「そうだよ!」
少年は不思議そうに首を傾げた。
どうしてそんなに怒られているのか、本当に分からないらしい。
ユイは額に手を当てた。
この人は、いったいどこまで世間知らずなのだろう。
いや、記憶がないのだから、仕方がないのかもしれない。
そう自分に言い聞かせながらも、頬の熱がなかなか引かなかった。
「……とにかく、私は外にいるから。着替え終わったら呼んで」
「分かった」
ユイは部屋を出た。
扉を閉めたあと、壁に背中を預ける。
「……もう」
誰に言うでもなく呟いた。
ほんの少し前まで、彼が生き返ったことだけで頭がいっぱいだった。
それなのに今は、着替えを見ないようにすることに必死になっている。
何をやっているのだろう、自分は。
こんな状況なのに。
戦争は続いている。自分は何度も死にかけている。そして、隣の部屋にいる少年は、自分が何者なのかも分からない。
それでも。
ユイは、扉の向こうから物音がするたび、少しだけ耳を澄ませてしまうのだった。
◇
夜になった。
救護所の灯りは落とされ、廊下を行き交う人の数も減っていた。
ユイは毛布にくるまっていたが、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、今日の出来事が何度も頭の中によみがえる。
崩れ落ちる建物。
自分を庇った少年。
動かなくなった身体。
そして、再び目を開けた彼の顔。
思い出すたびに、胸の奥が締めつけられた。
あのとき、彼が生き返らなかったら。
考えたくない。
けれど、考えずにはいられなかった。
生き返る。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
もし、次も同じことが起きたら?
もし、次は生き返らなかったら?
ユイは毛布を握り締めた。
まだ、彼のことを何も知らない。
名前さえ分からない。
それなのに、どうして自分は、こんなにも彼のことが気になってしまうのだろう。
助けてもらったから。
それだけだ。
きっと、それだけなのだ。
ユイは自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。
しばらくして、廊下から小さな足音が聞こえた。
最初は、救護所の職員が見回りをしているのだと思った。
けれど、その足音は、ユイの部屋の前で止まったあと、静かに遠ざかっていった。
なぜか胸騒ぎがした。
ユイは毛布を抜け出し、そっと扉を開けた。
薄暗い廊下の向こうに、一人の人影が見えた。
少年だった。
借りた服を身につけ、周囲の人を起こさないように歩いている。
「……どこへ行くの?」
声をかけると、少年は驚いて振り返った。
「ユイ……」
「こんな時間に、何してるの?」
少年は少しだけ困ったように笑った。
「……出ていこうと思って」
ユイは、言葉を失った。
「どうして?」
「ここにいても、迷惑になるかもしれないから」
「迷惑?」
「僕は、自分が何者なのかも分からないし、身体も普通じゃないみたいだし……。君や、ここにいる人たちに、これ以上心配をかけたくないんだ」
少年は、ごく自然なことを話すように言った。
その表情は穏やかだった。
誰かに追い払われたわけではない。
誰かから拒絶されたわけでもない。
それなのに彼は、自分から去ろうとしている。
まるで、自分がここにいることそのものが、いけないことだとでも思っているかのように。
ユイは、胸の奥が苦しくなるのを感じた。
彼は、自分が何者なのか分からない。
だからこそ、誰かのそばにいてはいけないと思っているのだろうか。
迷惑をかけるかもしれないから。
自分には、ここにいる資格がないかもしれないから。
そうやって、自分から居場所を手放そうとしているのだろうか。
「……ちょっと、待ってよ」
ユイは、彼の前に立った。
「まだ、何も分かってないでしょ」
「うん」
「自分の身体のことも、記憶のことも。これからどうすればいいのかも」
「……うん」
「だったら、どうして一人で決めちゃうの?」
少年は、目を伏せた。
「でも……」
「でも、じゃないよ」
ユイは自分でも驚くほど、強い声を出していた。
「あなたは、私を助けてくれたんでしょ」
「……うん」
「だったら、今度は私にも、あなたを助けさせてよ」
言葉にしてから、ユイは息を呑んだ。
そうだ。
自分は、助けてもらったのだ。
だったら、自分にもできることがあるはずだ。
彼が自分を何者だと思っているのか、ユイには分からない。
けれど、少なくとも、自分の命を救ってくれた人が、何もかも一人で抱え込んで、誰にも頼らずに消えてしまうのは嫌だった。
それが恩返しなのか、同情なのか、それとももっと別の感情なのか。
今は、まだ分からない。
分からなくてもいいと思った。
「……明日、もう一度ハナさんに診てもらおう。記憶のことだって、何か分かるかもしれない」
少年は、しばらくユイを見つめていた。
「君は……どうして、そこまでしてくれるの?」
ユイは答えようとして、言葉に詰まった。
どうしてだろう。
自分でも、よく分からない。
彼が自分を助けてくれたから。
自分の命を救ってくれたから。
そう説明することはできる。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
もし彼が、自分を助けなかったとしても。
もし彼が、何の特別な力も持たない、ただの少年だったとしても。
自分は、彼がこんなふうに一人で立ち去ろうとする姿を、見過ごせただろうか。
分からない。
ただ、彼がいなくなることを想像した瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
それだけは、確かだった。
「……あなたが、一人でいなくなったら」
ユイは、小さく息を吸った。
「私が、嫌だから」
少年が目を見開いた。
ユイは、自分の顔が熱くなるのを感じた。
「ち、違うからね! 別に、そういう意味じゃなくて! あなたはまだ、自分が何者なのか分かっていないんだし、そんな状態で一人で出ていかれたら心配だし……!」
何を言っているのだろう。
自分でも、何を説明したいのか分からなくなってきた。
少年はしばらく黙っていたが、やがて、小さく笑った。
「……ありがとう、ユイ」
その笑顔を見た瞬間、ユイの胸の奥から、張りつめていたものが少しだけほどけた。
「……もう。分かったなら、戻ろう」
「うん」
二人は並んで、部屋へ戻った。
廊下の窓からは、月明かりが差し込んでいた。
戦争は続いている。
明日になれば、また誰かが助けを求めるかもしれない。
自分たちも、再び危険な場所へ向かうことになるかもしれない。
何一つ、解決していない。
けれど。
今夜だけは、彼が一人でどこかへ消えてしまうことはなかった。
ユイは、それだけで少し安心した。
そして、少年が自分の隣を歩いていることを、何度も確かめるように横目で見た。
そのたびに、彼と目が合った。
「……何?」
「な、何でもない!」
慌てて前を向くユイを見て、少年は不思議そうに笑った。
彼には、まだ自分の名前がない。
自分の過去もない。
帰る場所もない。
けれど、ユイは知らなかった。
彼が本当に失っているものは、記憶だけではないのかもしれないということを。
彼が自分の命を大切にできない理由も。
彼が生き返るたびに、何かが少しずつ失われていく可能性も。
まだ、何も知らなかった。
ただ一つ、分かっていることがあった。
少年は、死んでも生き返った。
その事実は、奇跡のようでありながら、どこか恐ろしかった。
まるで世界が、彼だけに特別な運命を与えているかのようだった。
そして、その運命がいつか彼をどこか遠くへ連れ去ってしまうような気がして、ユイはほんの少しだけ、少年の手を握り直した。
少年は何も言わなかった。
ただ、握られた手を、そっと握り返した。
その温かさが、今は何よりも確かなものに思えた。
――それでも、明日になれば。
二人はまた、誰かを助けるために歩き出すことになる。
そして、ユイはまだ知らない。
自分が握り返したその手を、いつの日か、二度と離したくないと願うことになるのを。
彼が生き返らなくなる日を、誰よりも恐れるようになるのを。
その恐怖を抱えながら、それでも彼と一緒に生きることを選ぶのを。
まだ、何も知らなかった。
今はただ、同じ屋根の下で、二人が眠ろうとしている。
それだけの夜だった。
けれど、ユイにとっては、初めて少年の命が自分の命と同じくらい大切に思えた夜でもあった。
そしてレンにとっても。
自分が何者なのか、何のために存在しているのか、まだ分からないまま。
それでも、誰かが自分の帰りを待ってくれるかもしれないということを、初めて知った夜だった。




