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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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1/16

01.死ぬはずだった少女

 ユイは、自分の不運に名前をつけることを、ずっと前に諦めていた。


 悪運。宿命。神様の悪戯。


 どれも、それらしい言葉ではあったけれど、どれもしっくりこなかった。名前をつけたところで、次に何が起こるのか分かるわけではない。理由が分からないものに理由を与えても、次の瞬間に降ってくる砲弾を避けられるわけではないのだから。


 だからユイは、考えることをやめた。


 危険な場所から離れる。逃げ道を確保する。誰かが泣いていたら、声をかける。助けを求める声が聞こえたら、可能な限りそちらへ向かう。


 できることを、できる範囲でやる。


 それだけを考えて生きてきた。


 もっとも、その方針が彼女の生存率を向上させているのかどうかは、甚だ疑わしかった。


「お姉ちゃん、こっち!」


 小さな手が、ユイの指を引っ張った。


「分かってる。そんなに急がなくても大丈夫だから」


「でも、後ろから音がするよ!」


「……うん。そうだね」


 大丈夫。


 口にした言葉が、自分自身に向けた嘘だということくらい、ユイにも分かっていた。


 背後から響く音は、地面を揺らし、建物の窓を震わせている。少し離れた場所では黒煙が立ち上り、通りには逃げ遅れた人々の荷物が散乱していた。


 戦争が始まってから、こういう景色を何度見ただろう。


 数えるのは、とうの昔にやめてしまった。


 数えたところで、過去に戻れるわけではない。昨日まで商店を営んでいた人が、翌日には店を失っている。昨日まで一緒に歩いていた家族が、今日には離れ離れになっている。昨日まで当たり前だったことが、今日には当たり前ではなくなっている。


 この世界では、未来というものがずいぶん信用ならない。


 それでも、人は明日を信じようとする。


 朝になれば目が覚める。お腹が空けば食事をする。大切な人がいれば、また会えると思う。


 そんなささやかなことを、当たり前だと信じていたいのだ。


 ユイも、そうだった。


 だからこそ、目の前の子どもを放っておけなかった。


「お母さんは?」


 尋ねると、少女は唇を結んだ。


「……分かんない」


「そっか」


 ユイは、それ以上聞かなかった。


 どこではぐれたのか。最後に見たのはどんな景色だったのか。名前は何というのか。


 聞きたいことはいくつもあった。けれど、答えさせることで、この子が思い出したくないことまで思い出してしまうのなら、今は聞かなくてもいい。


「じゃあ、まず安全なところまで行こう。お母さんを探すのは、それからね」


「……会える?」


 その声は、あまりにも小さかった。


 ユイは一瞬、答えに詰まった。


 会えるよ。


 そう言ってしまえば、少女は安心するだろう。きっと、少しだけ足取りも軽くなる。


 けれど、約束できないことを約束するのは、優しさなのだろうか。


 ユイには分からなかった。


 自分が何を言っても、戦争が終わるわけではない。はぐれた親子が必ず再会できるわけでもない。


 それでも。


「会えるように、一緒に探そう」


 ユイは少女の手を握り直した。


「一人で探すより、二人のほうがいいでしょ?」


 少女はしばらくユイを見上げていたが、やがて、小さく頷いた。


 その顔を見て、ユイはほんの少しだけ安心した。


 何かを変えられたわけではない。


 何かを解決できたわけでもない。


 ただ、ひとりぼっちだった少女が、ほんの一時だけ、ひとりぼっちではなくなった。


 それだけだ。


 けれど、それだけでも、やる意味はあるのだと思いたかった。


     ◇


 避難所へ向かう道は、すでに瓦礫で塞がれていた。


 遠回りをすれば、まだ通れる道がある。そう教えてくれた老人は、途中で別の避難民を手助けするため、ユイたちと別れた。


 そのとき、老人はユイに言った。


「無理はするなよ。若いからといっても、何でもできるわけじゃない」


「分かっています」


 ユイはそう答えた。


 分かっているつもりだった。


 人間にはできることと、できないことがある。どれだけ手を伸ばしても届かない場所があり、どれだけ願っても間に合わない瞬間がある。


 頭では理解している。


 けれど、助けを求める人が目の前にいたら。


 その人に手が届くかもしれないと思ったら。


 自分にはまだ何かができると感じてしまったら。


 その瞬間、頭で理解していたはずのことは、どこかへ消えてしまうのだった。


 ユイは、何度もそれで失敗してきた。


 危険な場所へ近づき、怪我をし、周囲の人に叱られたこともある。間に合わなかったこともある。自分が助けられなかった人のことを、夜になっても思い出してしまうことがあった。


 それでも、助けを求める声を無視することには、どうしても慣れなかった。


 ――慣れたくなかったのかもしれない。


 慣れてしまえば、きっと楽になる。


 誰かが泣いていても、誰かが倒れていても、誰かが自分に手を伸ばしていても。


 それを見なかったことにできれば、もっと上手に生きられるのだろう。


 でも、そんなふうに生き延びた自分を、ユイは好きになれそうになかった。


「お姉ちゃん?」


 少女の声で、ユイは我に返った。


「ごめんね。もう少しだから」


 前方に、小さな広場が見えていた。


 そこを抜ければ、避難所へ続く道に出られるはずだった。


 二人は走った。


 その途中、空気を切り裂くような音がした。


 ユイが顔を上げたときには、すでに遅かった。


 衝撃が広場を揺らした。


 悲鳴が聞こえた。地面に細かな破片が跳ね、視界が砂埃で白く染まった。ユイは少女を抱き寄せるようにして、近くの壁の陰へ飛び込んだ。


 耳鳴りがする。


 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。


「……大丈夫?」


 腕の中の少女は、震えながら頷いた。


「お姉ちゃんは?」


「私は平気。どこも痛くない?」


「うん……」


「よかった」


 そう言ってから、ユイは周囲を見渡した。


 先ほどまで通れた道には、崩れた建物の一部が落ちていた。広場の反対側では火の手が上がり、もうもうと煙が立ち込めている。


 避難所へ続く道は、完全に塞がれていた。


 ユイは唇を噛んだ。


 別の道を探さなければならない。


 しかし、少女を連れて、この状況をどう切り抜ければいいのか。


 考えようとした瞬間、遠くから再び砲撃音が聞こえた。


 今度は、さっきより近い。


「走ろう」


 ユイは少女の手を引いた。


 広場を抜け、建物の隙間を走る。通りに出ようとしたところで、頭上から大きな音が響いた。


 建物の一部が崩れ落ち、二人の前に瓦礫の壁ができた。


 逃げ道が、なくなった。


 ユイは、立ち止まった。


 ほんの数秒前まで、避難所へたどり着けると思っていた。少女を母親のもとへ連れていけるかもしれないと思っていた。


 それが、たった一度の砲撃で、すべて変わってしまった。


「……お姉ちゃん?」


 少女が不安そうに見上げてくる。


 ユイは笑おうとした。


 大丈夫だよ、と言おうとした。


 けれど、その言葉が喉につかえて、出てこなかった。


 どうすればいい。


 どこへ行けばいい。


 誰か、助けて。


 心の中で叫んでも、答える人はいなかった。


 ユイは、自分が震えていることに気づいた。


 怖かった。


 今までだって、何度も死にそうな目に遭ってきた。けれど、そのたびに何とか生き延びてきた。きっと今回も大丈夫だと、どこかで思っていたのかもしれない。


 自分は、運が悪い。


 でも、不思議なことに、いつも最後には何とかなってきた。


 その経験が、いつの間にか、根拠のない期待に変わっていた。


 今回も、何とかなるのではないか。


 誰かが助けに来てくれるのではないか。


 そんな自分勝手な期待を、ユイは初めて恨めしく思った。


 次の瞬間、爆音が響いた。


 建物が揺れた。


 ユイは反射的に少女を抱きしめ、崩れ落ちてくるものから庇おうとした。


 逃げられない。


 そう理解した瞬間、頭の中が不思議なほど静かになった。


 ああ。


 ここで死ぬんだ。


 そう思った。


 死ぬということが、こんなにも簡単に訪れるものだとは思わなかった。


 明日、何を食べようかと考えることも。


 いつか戦争が終わったら、どこへ行こうかと夢見ることも。


 誰かを好きになったり、誰かと喧嘩したり、くだらないことで笑ったりすることも。


 まだ、何も終わっていないのに。


 まだ、何も始まっていないのに。


 ユイは目を閉じた。


 少女を抱く腕に、力を込めた。


 せめて、この子だけでも。


 自分が死んでも、この子だけでも助かってほしい。


 それが、最後に浮かんだ願いだった。


     ◇


 衝撃は、来なかった。


 代わりに、誰かがユイの身体を強く押した。


「――伏せて!」


 聞き覚えのない声だった。


 ユイは地面に倒れ込んだ。


 抱きしめていた少女が、誰かの腕に抱えられている。視界の端に、見知らぬ少年の姿が見えた。


 少年は少女を安全な場所へ押し出すと、今度はユイのほうへ向き直った。


 その顔を見た瞬間、ユイはなぜか、時間がゆっくり流れ始めたように感じた。


 年齢は、自分と同じくらいだろうか。


 黒に近い髪が、砂埃で少し乱れている。瞳は驚くほど落ち着いていた。


 こんな状況なのに。


 目の前で建物が崩れ、空気が震え、逃げ場もないというのに。


 彼の目だけは、まるで穏やかな朝の湖のようだった。


 少年はユイに手を伸ばした。


 その手を取ろうとした瞬間、再び大きな衝撃が走った。


 少年がユイを庇うように覆いかぶさった。


 音が、遠のいた。


 身体が、地面に沈んだように感じた。


 そして。


 少年の身体から、力が抜けた。


「……え?」


 ユイは、しばらく何が起こったのか分からなかった。


 自分の上にいる少年は、動かなかった。


「ねえ……?」


 呼びかけても、返事はない。


 少年の顔を覗き込む。


 目は閉じられていた。


 先ほどまで確かにそこにあった、穏やかな瞳は見えない。


「ねえ、ちょっと……」


 ユイは彼の肩に手をかけた。


 揺らしてみる。


 反応はなかった。


 何度も名前を呼ぼうとして、名前を知らないことに気づいた。


 当たり前だ。


 彼とは今、出会ったばかりなのだから。


 どこに住んでいるのかも、何をしていたのかも、好きな食べ物が何なのかも知らない。


 何一つ知らない。


 それなのに。


 どうして。


「……なんで、こんなこと……」


 声が震えた。


 少年が自分を庇ったことは分かっていた。


 彼がいなければ、自分はきっと、ここで死んでいた。


 だからこそ、理解できなかった。


 どうして、会ったばかりの自分のために。


 どうして、そんな簡単に。


 どうして、自分の命を。


「起きてよ……」


 ユイは少年の肩を揺すった。


「ねえ、お願いだから……起きてよ……」


 涙が頬を伝った。


 戦場で、人が亡くなるところは何度も見てきた。


 泣いている人を慰めたこともある。泣くことすらできなくなった人の隣に座ったこともある。


 誰かが亡くなるたびに、周囲の人々は言った。


 仕方がなかった。


 どうしようもなかった。


 あの状況では、誰にも助けられなかった。


 きっと、どれも間違いではないのだろう。


 けれど、ユイは今、そんな言葉を聞きたくなかった。


 仕方がなかったなんて、思いたくなかった。


 どうしようもなかったなんて、認めたくなかった。


 まだ何も伝えていない。


 ありがとうも。


 助けてくれて嬉しかったということも。


 どうして自分を助けてくれたのかということも。


 何も。


 何も、伝えられていないのに。


「……いやだよ」


 自分の声が、ひどく幼く聞こえた。


「お願い……死なないでよ……」


 その言葉を口にした瞬間、ユイは自分が何を願っているのかを理解した。


 彼に生きていてほしい。


 自分を助けたからではない。


 自分の命を救ってくれたから、恩返しをしたいということでもない。


 ただ、彼に生きていてほしかった。


 今、この瞬間に。


 自分の目の前で。


 知らない誰かとして出会ったまま、二度と会えなくなるのが嫌だった。


 そんな願いが、どうしようもなく胸の奥からあふれてきた。


 ユイは少年の手を握った。


 冷たくなったわけではない。


 けれど、握り返してはくれなかった。


 その事実が、何よりも悲しかった。


     ◇


「……どうして泣いてるの?」


 声がした。


 ユイは顔を上げた。


 少年が、目を開けていた。


 何事もなかったかのように。


 まばたきをして、少し不思議そうにユイを見つめている。


「……え?」


 ユイは、口を開けたまま固まった。


 少年は首を傾げた。


「大丈夫? どこか痛い?」


「え……いや……あなた……」


 言葉がうまく出てこない。


 少年は自分の身体を確かめるように、ゆっくりと起き上がった。


 服には砂埃がついていたが、先ほどまでの傷は見当たらない。


 彼は少しだけ眉を寄せ、胸元に手を当てた。


「……あれ?」


 自分でも、不思議そうだった。


「僕、どうなったんだろう」


「どうなったって……」


 ユイの声は、かすれていた。


「あなた、死んでいたよ」


 少年は、ユイを見つめた。


「そうなの?」


「そうなの、じゃないよ……!」


 思わず声が大きくなった。


 少年は驚いたように肩をすくめた。


 ユイは、彼の顔を何度も確かめた。


 本当に生きている。


 目を開けて、呼吸をして、こちらを見ている。


 さっきまで動かなかった人が。


 もう二度と目を覚まさないと思った人が。


 ユイは少年の頬に手を伸ばした。


 温かい。


 恐る恐る、もう片方の手でも触れてみる。


 少年はされるがままになっていたが、やがて少し困ったように笑った。


「……くすぐったいんだけど」


「だって……」


 声が震えた。


「だって、あなた……本当に……」


 その先を言おうとしたのに、また涙がこぼれた。


 少年は、どうしたらいいのか分からないという顔をした。


 それから、少し考えて。


 ユイの頭に、そっと手を置いた。


「……よかった」


 小さな声だった。


「君が無事で、本当によかった」


 ユイは、何も言えなかった。


 自分を庇って死んだ少年が、再び目を覚ました。


 そして、彼は自分のことよりも、ユイが無事だったことを喜んでいる。


 その事実が、胸の奥を強く締めつけた。


「……どうして?」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


「どうして、私を助けたの?」


 少年は、困ったように笑った。


「どうしてって……」


 少しだけ考えてから、当たり前のことを尋ねられたかのように答えた。


「君が、助けを必要としていたから」


 ユイは息を止めた。


 たった、それだけ。


 彼は自分の命を失うかもしれない状況で、ただ目の前に助けを必要とする人がいたから、手を伸ばした。


 そこに特別な理由はなかったのかもしれない。


 立派な信念も、誰かに褒められたいという気持ちも、あったわけではないのかもしれない。


 ただ、助けを求める人がいた。


 だから助けた。


 それだけのことだった。


 それだけのことが、ユイにはひどく眩しく見えた。


「……名前」


「え?」


「あなたの名前、何ていうの?」


 少年は、少しだけ目を伏せた。


 やがて、申し訳なさそうに首を横に振った。


「……分からない」


「分からないって?」


「自分の名前も、どこから来たのかも。何も覚えていないんだ」


 ユイは言葉を失った。


 少年は、自分の胸元を見つめている。


「気がついたときには、一人だった。どうしてこんな場所にいるのかも、どうして死んで生き返えったのかも、僕には分からない」


 彼は自分の手を開き、閉じた。


 それが本当に自分の手なのか、確かめるように。


「僕は……人間とは違う、何かなのかな」


 その声には、恐怖があった。


 けれど、それは自分が死ぬことへの恐怖とは少し違っていた。


 自分が何者なのか分からない。


 自分の命が何のために存在しているのか分からない。


 自分がここにいてもいいのかさえ、分からない。


 そういう種類の、名前のない恐怖だった。


 ユイは、少年の手を見つめた。


 先ほど、自分を庇った手。


 自分を守るために伸ばされた手。


 そして、今は、自分が何者なのか分からずに戸惑っている手。


 ユイには、彼が何者なのか分からなかった。


 彼が本当に人間なのか、それとも違う存在なのか、答えられるはずもなかった。


 それでも。


「……少なくとも」


 ユイは、涙を拭った。


「私を助けてくれたのは、あなたでしょ」


 少年が顔を上げた。


「それじゃ、駄目なのかな」


 彼は、しばらくユイを見つめていた。


 やがて、張りつめていた何かが緩んだように、小さく笑った。


「……ううん」


 その笑顔を見て、ユイは思った。


 この人を、一人にしたくない。


 どうしてそう思うのか、自分でも分からなかった。


 彼が自分を助けてくれたからだろうか。


 自分の命を顧みずに行動した彼の優しさに、心を動かされたからだろうか。


 それとも、自分と同じように、彼もまた、この世界で居場所を見つけられずにいる気がしたからだろうか。


 きっと、全部なのだろう。


 ユイは立ち上がり、少年へ手を差し伸べた。


「……じゃあ、行こう」


「どこへ?」


「安全な場所。ここにいたら、また危ない目に遭うから」


 少年は差し出された手を見つめた。


「でも、僕は……」


「あなたがどこから来たのか、どうして生き返るのか。それは、あとで考えよう」


 ユイは自分でも驚くほど、はっきりと言った。


「今は、とりあえず生きていてよ」


 少年は目を見開いた。


 そして、ゆっくりとユイの手を取った。


「……うん」


 その手は、温かかった。


 ユイは少年の手を握りながら、ようやく自分も立ち上がった。


 まだ、戦争は終わっていない。


 世界は何も変わっていない。


 明日、何が起こるのかも分からない。


 それでも。


 今、自分の隣には一人の少年がいる。


 自分の名前も、過去も、帰る場所も知らない少年。


 死んだはずなのに、生き返った少年。


 そして、自分を助けてくれた少年。


 ユイは、彼の手を少しだけ強く握った。


「ねえ」


「うん?」


「……あなた、これからどうするの?」


 少年は足を止めた。


 そして、困ったように笑った。


「分からない」


 その答えを聞いて、ユイは思わずため息をついた。


「もう……」


 どうして、自分の周りには、こんなにも放っておけない人ばかり現れるのだろう。


 自分だって、今にも泣き出しそうなくらい怖かったのに。


 それでも。


 ユイは、少年の手を離さなかった。


「じゃあ、私と一緒に来てよ」


 それは、勢いで口にした言葉だった。


 言ってから、ユイは自分の顔が熱くなるのを感じた。


 まるで、ずっと前から彼を待っていたかのような言い方ではないか。


 ただ、放っておけなかっただけ。


 記憶がなくて、自分が何者なのかも分からない彼が心配だっただけ。


 それ以上の意味なんて――。


「いいの?」


 少年が尋ねた。


 あまりにも素直な声だった。


 ユイは、少しだけ笑った。


「……うん」


 少年も笑った。


「ありがとう」


 その言葉を聞いたとき、ユイは不思議なことを思った。


 ああ。


 この人が、明日も生きていますように。


 これからも、笑っていますように。


 そして、いつか。


 自分の名前を、彼が自分自身のものとして、誇らしく口にできる日が来ますように。


 そんなことを、願っていた。


 まだ名前も知らない少年に。


 つい先ほど、死んだはずの少年に。


 何度でも生き返るという、奇妙な秘密を持った少年に。


 このときのユイは、まだ知らなかった。


 彼が何度でも生き返ることのできる命を持っていることも。


 その命には、いつか終わりが来ることも。


 そして、自分がいつの日か、彼に向かって『死んでもいいなんて、絶対に思わないで』と泣きながら訴えることになるのも。


 何一つ、知らなかった。


 ただ、彼と一緒に歩き始めた。


 戦争の続く、壊れかけた街の中を。


 帰る場所の分からない二人が、帰る場所を探すために。


 ――それが、すべての始まりだった。


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