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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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15/16

15.回生兵計画

 自分が何者なのかを知りたいと思うことと、自分が何者であるのかを知ることは、ずいぶん違う。

 レンは、その違いを初めて実感していた。


 記憶がないことは、ずっと不便だった。自分の名前も、家族も、どこで生まれたのかもわからない。過去の話をする人々の輪に入るとき、自分だけが何も持っていないような気がした。


 それでも、知らないことには、知らないなりの自由があった。


 過去の自分がどんな人間だったのかわからないなら、今の自分が何をするかを考えればいい。誰かを助けたいと思うなら助ければいい。笑いたければ笑い、食べたいものがあれば食べる。明日の予定を立てることだってできる。


 過去がなくても、今はある。


 少なくとも、レンはそう考えてきた。


 しかし、リゼの告白以来、その考えに小さな亀裂が生じていた。


 回生兵計画。


 それは、ただの過去ではない。


 かつて自分が何のために存在していたのかという問題であり、これから自分が何のために利用されようとしているのかという問題でもあった。


 自分が兵士として作られたのだとしたら。


 自分の身体が、戦場で何度も命を取り戻すために設計されたものだとしたら。


 そして、自分の心さえ、その目的に都合よく形作られていたのだとしたら。


 今の自分は、本当に自分の意思で生きているのだろうか。


 その問いは、答えがないまま、レンの中に居座っていた。


     ◇


「これが、見つかった記録の一部よ」


 午後、救助拠点の奥にある小さな会議室で、リゼが一枚の紙を机に置いた。


 古い紙だった。


 端は焼け焦げ、中央には折り目が残っている。ところどころ文字が潰れ、何度も書き写されたような跡があった。


 それでも、紙面には軍の管理番号らしき数字と、いくつかの項目が読み取れた。


 レンは椅子に座り、紙を見つめた。


 隣にはユイがいる。


 向かい側にはハナが座り、その横でリゼが説明の準備をしていた。


 最初は、ユイがリゼから聞き出した情報を確認するための話し合いだった。


 けれど、リゼが実際の記録を持っているとわかり、ハナも同席することになった。


「どこで手に入れたの?」


 ハナが尋ねた。


「敵国側の軍事資料を保管している施設に、断片的な記録が残されていたの。すべての資料にアクセスできたわけではないし、正式な原本かどうかも確認できていない。だから、これが全貌だとは考えないで」


「それでも、手がかりにはなるんだね」


 ユイが言うと、リゼは頷いた。


「ええ。ただし、記録に書かれたことと、実際に起きたことが完全に一致するとは限らないわ。計画が途中で変更された可能性もあるし、記録そのものが意図的に改ざんされた可能性もある」


 リゼは紙の上に指を置いた。


「回生兵計画。正式名称は別にあったようだけれど、残っている資料からは確認できなかった。軍事作戦中の兵士の生存率を引き上げるため、致命的な損傷を受けても生命活動を再開できる仕組みを研究していたらしい」


「生き返るための仕組み……」


 ユイは、思わずレンを見た。


 彼が初めて倒れたときのことを思い出す。


 瓦礫の下で動かなくなった身体。


 何度呼びかけても返事がなかったこと。


 もう二度と目を開けないのだと思い、声が枯れるほど泣いたこと。


 そして、何事もなかったかのように、彼が再び息をしたこと。


 あの光景は、今でも夢に見ることがある。


 目の前で生き返るという現象は、奇跡のように見える。


 けれど、もしそれが誰かの手によって作られた仕組みだったとしたら。


 奇跡という言葉の陰で、いったい何が行われていたのだろう。


「具体的には、どんなことを研究していたの?」


 ハナが尋ねた。


「ここから先は断片的な記述しかないわ。回生核と呼ばれる機構を身体に組み込み、致命的な損傷を受けたあとでも、一定の条件下で生命活動を再開させる。少なくとも、記録の中ではそう説明されている」


 リゼは、紙の余白に書かれた文字を確認した。


「ただ、人体をどこまで改変したのか、もともとの身体にどのような処置を加えたのか、その詳細は残っていない。回生核の設計図も、維持条件に関する資料も欠けているわ」


「維持条件?」


 レンが尋ねた。


「回生核が、何を必要として機能しているのかということ。どれほどの損傷まで回復できるのか。回生能力を何度使えるのか。使うたびに何かを消耗するのか。それとも、一定の条件を満たせなくなれば停止するのか。そうした情報よ」


「つまり、俺がどうして生き返るのかも、これからどうなるのかも、まだわからないんだね」


「そういうことになるわ」


 リゼは、率直に答えた。


 レンは頷いた。


 予想していたことだった。


 自分の身体について、これまでにわかったことはわずかしかない。回生核らしきものが胸に存在し、致命的な損傷を受けても、時間が経てば身体が回復する。


 それだけだ。


 何を原料にしているのか。


 どこから回復するための力が供給されているのか。


 回生核が停止したとき、自分の身体はどうなるのか。


 何ひとつわかっていない。


 わからないことそのものよりも、誰かがそれを研究し、記録し、管理していたらしいという事実のほうが、レンには重く感じられた。


「……ひとつ、確認していい?」


 彼は紙を見つめたまま、リゼに尋ねた。


「俺は、人間だったのかな」


 会議室が静かになった。


 窓の外から、誰かが木材を運ぶ音が聞こえる。


 遠くで子どもが笑い、すぐに別の声にかき消された。


 この場所には、いつも生活の音がある。


 誰かが働き、誰かが食事を作り、誰かが怪我をし、誰かが助けを求める。


 レンは、その中で生きてきた。


 人間であることに、何の疑問も持たずに。


 けれど、今は尋ねずにはいられなかった。


「記録からは、判断できないわ」


 リゼは言った。


「もともと人間だった被験者に回生核を組み込んだのか。人工的に身体を作り上げたのか。それとも、その二つを組み合わせたのか。いずれの可能性も否定できない。少なくとも、残っている資料には、あなたの出生や、それ以前の経歴を確定できる情報がない」


「そうか」


 レンは、静かに答えた。


 わかっていたはずだった。


 わからないことが多いのは、今に始まったことではない。


 それでも、実際に言葉にされると、胸の中にあった何かが冷えていくようだった。


 自分が人間であると確信できる証拠はない。


 人間ではないと断定する証拠もない。


 自分が何者なのかという問いは、どちらにも答えが出ないまま、目の前に残されている。


 レンは自分の手を見つめた。


 その手で、誰かを支えてきた。


 倒れた人を助け起こし、負傷者を運び、子どもと一緒に食事をした。


 その手を見て、人々は彼をひとりの人間として扱ってきた。


 けれど、それは自分が人間である証拠にはならないのだろうか。


 いや、そもそも、証拠が必要なのだろうか。


 自分が誰かを助けたとき、その行為は何によって価値を持つのだろう。


 身体の構造か。


 生まれた経緯か。


 誰が自分を作ったのかという事実か。


 それとも、助けられた人が、今も生きているという結果か。


 レンは、答えを見つけられなかった。


     ◇


「……レン」


 隣から、ユイの声がした。


 彼は顔を上げた。


 ユイは、何かを言おうとしているようだった。


 けれど、いつものようにすぐには言葉が出てこない。


 彼女の眉間には、ほんのわずかに皺が寄っていた。


 レンが人間であるかどうか。


 そのことを聞かれたとき、ユイはすぐに「あなたは人間だよ」と答えたくなった。


 彼が何者であっても、そんなことは関係ない。


 少なくとも自分にとって、レンはレンなのだ。


 そう言えば、彼は安心するだろうか。


 苦しまずに済むだろうか。


 けれど、その言葉を口にしようとしたとき、ユイは自分が本当に伝えたいことに気づいた。


 彼が人間だと証明したいのではない。


 人間であると証明できなければ、大切に思ってはいけないような世界にしたくないのだ。


「レンが、どんなふうに生まれたのか。私は、まだ何も知らない」


 ユイは、ゆっくりと言った。


「だから、あなたは絶対に人間だって、私が決めることはできないと思う」


 レンは、黙って彼女を見つめた。


「でも、もし……もし、誰かがあなたを兵士として作ったのだとしても。あなたの身体に、普通の人とは違う仕組みがあるのだとしても。だからって、あなたが今までしてきたことが、全部偽物になるわけじゃないと思う」


 言葉を探しながら、ユイは続けた。


「あなたが誰かを助けたいと思ったとき、私は、その姿を見ていた。あなたが助けた人が無事だとわかって、安心した顔をすることも。みんなでご飯を食べて、嬉しそうにすることも。戦争が終わったら、一緒に甘いものを食べようって約束したことも」


 レンの瞳が揺れた。


「その気持ちが、どこから生まれたのかまでは、私にはわからないよ。あなたの身体に組み込まれた仕組みが、何かしら関係している可能性だってあると思う」


 ユイは、自分の手を膝の上で握り締めた。


「それでも、私は、あなたがそう思っていることを、勝手に偽物だとは決めたくない」


 彼女の声が、少しだけ震えた。


「あなた自身が、何を感じているのか。何をしたいと思っているのか。それを聞く前に、あなたの心まで、誰かの計画の一部だって決めつけたくないんだよ」


 レンは、しばらく何も言わなかった。


 その言葉は、彼に簡単な答えを与えなかった。


 自分が人間であるという保証もない。


 自分の感情が、どこから来るのかを説明することもできない。


 ただ、自分が今感じていることを、最初から否定しなくていいのだと、少しだけ思えた。


 そのことが、レンにはありがたかった。


「ありがとう、ユイ」


 彼は言った。


 ユイは、かすかに笑った。


「ううん。私も、一緒に考えたいだけだから」


 その笑顔を見て、レンは思った。


 自分は、この笑顔を大切にしたい。


 その気持ちが、誰によって作られたものなのかは、今すぐにはわからない。


 それでも、ユイが笑ってくれたとき、嬉しいと思った。


 彼女が苦しんでいるとき、力になりたいと思った。


 彼女と明日の食事を楽しみにしたいと思った。


 その気持ちが自分の中にあるということだけは、確かだった。


 それを、自分のものだと思ってもいいのだろうか。


 レンは、まだ答えを出せなかった。


 ただ、答えを出すことを、少しだけ怖がらなくなっていた。


     ◇


「もうひとつ、重要な記述があるわ」


 リゼが、別の紙を取り出した。


 こちらも古い記録の断片だった。


 中央部分が大きく欠け、複数の文字が失われている。残された文章は短く、前後の文脈もほとんどわからなかった。


「計画に携わった人物の記録らしいの。研究対象に関する所見なのか、計画そのものに対する意見なのかは不明だけれど」


 彼女は紙を机に置いた。


 そこには、数行の文章が残されていた。


 レンは、ゆっくりと文字を追った。


 そして、ある一文に目が止まった。


『彼に必要なのは、死を恐れなくなることではない。生きたいと思える理由だ』


 部屋の空気が、変わったような気がした。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 レンは、その文章を読み返した。


 一度。


 二度。


 何度読んでも、意味は変わらない。


 死を恐れなくなることではない。


 生きたいと思える理由。


 その言葉は、自分のことを知っている誰かが書いたものなのだろうか。


 自分の身体を研究していた人物か。


 自分を兵士として利用しようとしていた組織の中にいた、誰かか。


 あるいは、計画に疑問を抱いていた人間が残した言葉なのか。


 わからない。


 けれど、そこには、レンが今まで考えたこともなかった視点があった。


 回生兵計画は、死んでも戦える兵士を生み出すためのものだったのではないか。


 致命的な傷を負っても、再び戦場に戻れる兵士。


 死を恐れる必要のない兵士。


 自分の命を惜しまず、何度でも任務を遂行できる兵士。


 もし計画がそうした存在を求めていたのなら、レンが何度も人を助けようとすることさえ、都合のいい性質として利用された可能性がある。


 自分の命を惜しまない。


 誰かが困っていれば、自分のことを後回しにする。


 自分が傷つくことより、相手を助けられないことを恐れる。


 それらの性質が、戦場で使うために育てられたものだったとしたら。


 レンの胸の奥が、重くなった。


 自分は、誰かを助けるために生きてきたのだろうか。


 それとも、誰かを助けるように作られたのだろうか。


 違いは、何なのだろう。


「……生きたいと思える理由」


 レンは、声に出して読んだ。


 その言葉が、ひどく遠いものに思えた。


 彼はこれまで、生き返ることを不思議だと思ってきた。


 死んだはずの自分が、再び目を覚ます。


 傷ついた身体が、時間をかけて回復する。


 それは、自分の命が普通とは違う形で守られているということだった。


 けれど、生き返れることと、生きたいと思うことは、まったく違う。


 自分には、命を取り戻す力がある。


 しかし、その力があるからといって、何のために生きたいのかがわかるわけではない。


 むしろ、何度でも生き返れると思っていたころの自分は、生きることについて深く考えずに済んでいたのかもしれない。


 誰かを助けることができるなら、命を失っても構わない。


 そう考えていれば、自分が生きたあとのことを考えずに済む。


 助けられなかった人のこと。


 救助が終わったあとの世界のこと。


 自分が何者なのかということ。


 自分が、本当は何をしたいのかということ。


 それらをすべて後回しにして、目の前の人を助けることだけを考えればよかった。


 けれど、今は違う。


 ユイと一緒に食事をしたい。


 ハナが呆れた顔で無理をするなと言うのを、もう少し聞いていたい。


 助けた子どもが、次の日も元気に走り回っている姿を見たい。


 戦争が終わったら、ユイと甘いものを食べに行きたい。


 そうした願いが、少しずつ増えている。


 それらは、誰かの命令ではないはずだった。


 いや、違う。


 命令ではないと証明できるわけでもない。


 けれど、レンは、その願いを捨てたくなかった。


 生きたいと思うことを、誰かに与えられたものかもしれないという理由だけで、否定したくなかった。


     ◇


「この文章を書いた人は……何を考えていたんだろう」


 ハナが、紙を見つめながら呟いた。


「計画に反対していたのかしら。それとも、被験者の状態を記録しただけなのか」


「わからないわ」


 リゼは首を横に振った。


「前後の記録がないから、断定はできない。ただ、この一文が残っているということは、少なくとも、回生兵計画の中で『生きたいと思える理由』について考えていた人物がいたということよ」


「兵士として生き返れることだけでは、足りないと思っていた人がいたのかもしれないね」


 ユイが言った。


 その言葉を聞いて、レンはもう一度、紙を見た。


 死を恐れなくなることではない。


 生きたいと思える理由。


 その一文は、自分の知らない過去から届いた、小さな声のように感じられた。


 その声が、誰のものなのかはわからない。


 優しい人だったのかもしれない。


 計画を推進する立場にいながら、その問題点に気づいていた人だったのかもしれない。


 あるいは、自分の研究が何を生み出しているのか、最後になって考え始めた人物だったのかもしれない。


 その人がどんな人生を送ったのか、レンにはわからない。


 ただ、その人物は、少なくとも、命を取り戻せることだけが人間の価値ではないと考えていたのだろうか。


 命を取り戻したあと、何のために生きるのか。


 誰と生きたいのか。


 何を失いたくないのか。


 それらを持たないまま、何度でも戦場に戻れることに、いったい何の意味があるのか。


 そうした問いを抱いていたのだろうか。


 レンは、紙の端に視線を落とした。


「俺は……」


 声が自然と漏れた。


「俺は、どうして生き返れるんだろう」


 その問いに、誰も答えられなかった。


「どうして、こんな力を持っているんだろう。誰かを助けるため? 戦争で使うため? それとも、別の理由があるのかな」


 レンは、自分の胸に手を当てた。


 回生核は、衣服の下で静かに存在している。


「俺が誰かを助けたいと思うのも、ここにある仕組みと関係しているのかな。もし、そうだとしたら……」


 言葉が途切れた。


 もし、自分の優しさが、誰かの目的のために作られたものだったら。


 自分は、何を信じればいいのだろう。


「……俺は、自分の気持ちを信じていいのかな」


 それは、リゼに向けた問いではなかった。


 ハナに向けた問いでもなかった。


 レン自身が、今の自分に向けた問いだった。


 誰かが答えを出してくれるのを待つだけでは、きっと何も変わらない。


 けれど、自分ひとりでは、まだ判断できない。


 レンは、そうした矛盾を抱えたまま、隣に座るユイを見た。


 ユイは彼の視線に気づくと、静かに頷いた。


「信じられるかどうか、今すぐ決めなくてもいいんじゃないかな」


 彼女は言った。


「あなたの気持ちが、何から生まれたのか。それを知ることは大事だと思う。でも、わからないからって、全部を否定しなくてもいいと思うんだ」


「……そうかな」


「うん。たとえば、私が誰かに優しくしたとき、その気持ちが昔、誰かに助けてもらった経験から生まれたものだったとしても。それで、今の私が誰かを助けたいと思う気持ちまで、偽物になるわけじゃないでしょう?」


 レンは、彼女の言葉を考えた。


「人は、いろんなものに影響されて生きていると思う。家族とか、友達とか、過去に経験したこととか。自分で選んだと思っていることだって、知らないうちに誰かの影響を受けているかもしれない」


 ユイは、少し困ったように笑った。


「だから、あなたの気持ちが何かの影響を受けているとしても、それだけで、あなたのものじゃないとは言えないんじゃないかな」


「……自分のものかどうかは、これから考えていけばいい?」


「うん。少なくとも、私はそう思う」


 レンは、ゆっくりと頷いた。


 その答えは、すべての疑問を消してはくれなかった。


 むしろ、新たな疑問を生んだ。


 自分の意思とは、どこから生まれるのだろう。


 誰かの影響を受けていることと、誰かに操られていることは、どこが違うのだろう。


 自分の気持ちを、自分のものとして引き受けるとは、どういうことなのだろう。


 けれど、それらの問いを抱えながら生きてもいいのだと思えた。


 答えが見つかるまで、自分の人生を保留にする必要はない。


 今の自分が何を大切にしたいのかを考え、何を選ぶのかを決めながら、その途中で答えを探していけばいい。


 レンは、少しだけ息を吐いた。


「……俺、もっと知りたい」


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「自分が何者なのか。どうして、こんな力を持っているのか。昔の俺が何をしていたのか。全部、知りたい」


 リゼは頷いた。


「できる限り、情報を探すわ。ただし、すべてが見つかるとは限らない。記録が失われている可能性もあるし、誰かが意図的に隠している可能性もある」


「それでもいい」


 レンは、顔を上げた。


「わからないままでも、考えることはできると思うから」


 その言葉には、以前の彼とは違う強さがあった。


 過去がわからないから、今できることをする。


 それも、ひとつの生き方だった。


 けれど今のレンは、過去を知ることからも逃げないと決めたのだ。


 過去にどんな自分がいたとしても、それを知ったうえで、これからの自分がどう生きるかを考えたい。


 誰かに与えられた役割があるのなら、その役割を引き受けるかどうかも、自分で考えたい。


 生き返る力を持っているからといって、死を恐れない人間にならなければならないわけではない。


 人を助けるために生まれたのだとしても、自分の命を軽く扱わなければならないわけではない。


 そして、どのような理由で生まれたとしても、これから誰と、どんなふうに生きていきたいのかを考えることはできる。


 レンは、机の上の一文を、もう一度見つめた。


 『彼に必要なのは、死を恐れなくなることではない。生きたいと思える理由だ』


 その言葉を書いた人は、自分に何を伝えようとしたのだろう。


 答えを知る日は、来るのだろうか。


 わからない。


 それでも、その文章は、今の自分に向けられたもののように感じられた。


     ◇


 会議が終わったあと、レンはひとりで救助拠点の裏手にある小さな庭へ出た。


 庭といっても、荒れた土地を少し整えただけの場所だった。


 端には、使い古された木箱が置かれている。その中には、避難民の子どもたちが植えた草花が育っていた。


 戦争が始まる前、ここには何があったのだろう。


 誰かが花を育てていたのだろうか。


 誰かが、この場所で昼食を食べていたのだろうか。


 今となっては、わからない。


 けれど、土の中には、小さな植物が根を張っている。


 誰かが種をまき、水を与え、芽が出るのを待った。


 その人は、花が咲く日まで生きていたのだろうか。


 それとも、途中でこの場所を離れなければならなくなったのだろうか。


 レンは、木箱の前にしゃがんだ。


 葉の先に、小さな水滴が残っていた。


 風が吹くと、水滴が揺れ、地面に落ちた。


 生きるということは、何かを残すことなのだろうか。


 自分の身体が、普通の人とは違う仕組みで動いているのだとしても。


 その仕組みが、誰かの手によって作られたものだとしても。


 今、自分が誰かを助け、その人が生き延びたのなら。


 その人が、明日、誰かに優しくするかもしれない。


 助けられた子どもが大きくなり、別の子どもを助けるかもしれない。


 今日、ここで食べた一杯のスープが、誰かにとって、明日も生きてみようと思う理由になるかもしれない。


 そのつながりは、どこから始まり、どこまで続いていくのだろう。


 自分が生まれた理由を、まだ知らなくても。


 これから自分が何をするのかを、選ぶことはできる。


 そのことを、レンはようやく理解し始めていた。


「こんなところにいたんだ」


 背後から声がした。


 振り返ると、ユイが立っていた。


「探したよ」


「ごめん。少し、考え事をしてた」


「うん。そんな気がした」


 ユイは隣にしゃがみ、木箱の花を見つめた。


「何を考えていたの?」


「……自分が、何のために生まれたのかって」


 ユイは、すぐには答えなかった。


 レンは、自分の胸に手を当てた。


「俺が何者なのか、まだわからない。でも、もし俺が誰かに作られた存在だったとしても、これから何をするかは、自分で考えていきたい」


「うん」


「誰かを助けたいと思うことが、本当に俺の気持ちなのか。それを確かめる方法があるのかも、わからないけど……」


 レンは、少し笑った。


「でも、今は、明日も君とご飯を食べたいと思ってる」


 ユイは顔を上げた。


「……え?」


「それから、ハナにまた無茶をするなって怒られないようにしたいし、助けた子どもたちが元気に過ごしているかも気になる。戦争が終わったら、君と甘いものを食べに行きたい」


「う、うん……」


「そういうことを考えるのが、俺は好きなんだと思う」


 ユイの顔が、少しずつ赤くなった。


 レンは、彼女の変化に気づかず続けた。


「だから、これからも、そういう気持ちを大事にしたい。自分が何者なのかを知ったあとも、ちゃんと自分で考えていたいんだ」


 ユイは、しばらく黙っていた。


 彼が何を言いたいのかは、わかる。


 それでも、彼の口から「これからも一緒に」という意味を持つ言葉が出てくるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


 自分は、彼の隣にいたい。


 彼が何者なのかを知るときも。


 彼が自分の過去に苦しむときも。


 その答えがどんなものであっても。


 ただ、隣にいたい。


 その願いを、いつか言葉にできる日が来るのだろうか。


「……レンは、ちゃんと自分のことを考えているんだね」


 ユイは、ようやく答えた。


「誰かを助けることだけじゃなくて、自分がどう生きたいのかも」


「うん。まだ、うまくわからないけど」


「わからなくても、いいと思うよ」


 ユイは、微笑んだ。


「すぐに答えを出さなくても、考えながら生きていけばいいんだと思う。あなたが何者なのかを知ることと、これからのあなたが何を選ぶのかは、きっと同じことじゃないから」


 レンは、ゆっくりと頷いた。


「……そうだね」


 二人は、しばらく木箱の花を眺めていた。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 どこかで、子どもたちの笑い声が聞こえた。


 その声を聞きながら、レンは思った。


 自分は、まだ何者なのかわからない。


 過去も、身体の仕組みも、生まれた理由も知らない。


 けれど、今の自分は、ここにいる。


 目の前には、ユイがいる。


 彼女と一緒に、明日を迎えたいと思っている。


 それが、どこから生まれた気持ちなのか。


 まだ、確かな答えはない。


 それでも、今は、その気持ちを抱えたまま生きていたかった。


     ◇


 その夜、リゼはひとりで、回生兵計画に関する記録の写しを確認していた。


 机の上には、いくつかの断片的な資料が並んでいる。


 その中に、今日レンたちに見せた文章があった。


 彼女は、その一文をじっと見つめていた。


 ――彼に必要なのは、死を恐れなくなることではない。生きたいと思える理由だ。


 この記録を書いた人物が誰なのか、リゼにはわからない。


 ただ、残された資料の一部には、計画の進行に伴って、回生対象者の心理状態に変化が見られたことを示す記述があった。


 自分の命を惜しまない。


 負傷への恐怖が薄い。


 他者の救助を優先し、自らの損傷を顧みない傾向がある。


 軍にとって、それは都合のいい性質だったのかもしれない。


 命の危険を恐れず、任務を遂行する兵士。


 命令された目的のために、自分を犠牲にできる兵士。


 けれど、その記述のそばには、別の手書きの文字が残されていた。


 判読できない部分が多かったが、ひとつだけ、はっきりと読み取れる箇所があった。


 ――自己犠牲を能力の成功と取り違えてはならない。


 リゼは、息を止めた。


 その言葉は、計画に携わった誰かの反省なのだろうか。


 あるいは、計画を批判するために、別の誰かが書き加えたものなのだろうか。


 わからない。


 ただ、その文字を見たとき、彼女はレンの姿を思い出した。


 目の前に怪我人がいれば、自分が傷つくことを顧みずに助けようとする少年。


 何度も生き返れるのだから、自分の命は後回しでいいと思っていた少年。


 そして今、自分の命を大切にすることを、少しずつ学び始めている少年。


 もし、その性質が計画の中で望ましいものとして評価されていたのだとしたら。


 彼は、自分の優しささえ疑うことになるのかもしれない。


 リゼは、資料を閉じた。


 自分には、レンの過去をすべて説明することはできない。


 記録が不完全だからというだけではない。


 彼が何を感じ、何を選び、どんな未来を望むのか。それを、他人がすべて決めることなどできないからだ。


 彼が人間なのか、人工的に作られた存在なのか。


 その答えが見つかったとしても、彼がこれからどう生きるべきかまで、決められるわけではない。


 リゼは、机の上に残った一文を見つめた。


 死を恐れなくなることではない。


 生きたいと思える理由。


 その理由を、彼はすでに見つけ始めているのかもしれない。


 明日の食事。


 帰りを待つ人。


 一緒に過ごしたいと思える時間。


 そして、自分が何者であっても、隣で一緒に考えると言ってくれる少女。


 それらが、彼にとってどれほど大切なのか。


 リゼには、まだわからない。


 けれど、もし彼が自分の命を大切にする理由を見つけたのなら。


 もし、ただ任務を果たすためではなく、自分の未来を望むようになったのなら。


 それは、回生兵計画が想定していたものとは、違う生き方なのかもしれなかった。


 リゼは立ち上がり、窓の外を見た。


 夜の闇の向こうには、敵国がある。


 そこには、彼女が会いたい人たちがいる。


 生きているのか。


 無事なのか。


 今も、自分のことを覚えていてくれるのか。


 わからない。


 それでも、彼女は探し続けたいと思っていた。


 自分が何者であったのかを知ることと、これから何をするかを選ぶこと。


 過去がどれほど自分を形作っていたとしても、未来のすべてまで、過去に決めさせる必要はない。


 そう思えるようになったのは、レンとユイの姿を見てからだった。


 彼らは、簡単に人を信じるわけではない。


 間違いを許し、なかったことにするわけでもない。


 それでも、相手が何を考え、何を望み、何を失ったのかを知ろうとしている。


 その姿勢は、リゼ自身が失いかけていたものだった。


 彼女は、机の引き出しから小さな紙片を取り出した。


 そこには、家族の名前が書かれていた。


 何度も見返したため、紙の端が擦り切れている。


 その名前を、リゼは指先でなぞった。


「……生きていて」


 誰にも聞こえない声で、呟いた。


 その願いに、答えはなかった。


 ただ、彼女は紙片を折りたたみ、胸元へしまった。


 まだ、すべてを話す勇気はない。


 自分が何のために諜報員になったのか。


 何を失いたくなくて、どんな嘘を重ねてきたのか。


 それらを明かせば、今度こそ、ユイたちとの関係は壊れてしまうかもしれない。


 それでも、いつかは話さなければならないのだろう。


 誰かを信じるということは、相手にすべてを委ねることではない。


 けれど、自分が隠しているものを、永遠に見せずに済むということでもない。


 リゼは、灯りを消した。


 暗闇の中で、あの一文がもう一度、胸に浮かんだ。


 ――彼に必要なのは、死を恐れなくなることではない。生きたいと思える理由だ。


 その言葉は、レンだけに向けられたものではないのかもしれない。


 死を恐れず、何かを成し遂げることばかりを求められてきた人間。


 自分の気持ちより、誰かの命令を優先してきた人間。


 失うことが怖くて、本当のことを言えなくなった人間。


 そうした人々にも、必要なものなのかもしれない。


 生きたいと思える理由。


 帰りたい場所。


 もう一度会いたい人。


 自分の未来を、自分で選びたいと思える気持ち。


 戦争は、それらを奪っていく。


 そして、人は時として、奪われたことを忘れるために、別の何かを求める。


 力を。


 勝利を。


 絶対に失敗しない方法を。


 けれど、どれだけ力を手に入れても、失いたくないものがある限り、人は傷つくことを恐れる。


 失いたくないと思えるものがあるからこそ、人は生きたいと願う。


 リゼは、暗い部屋の中で目を閉じた。


 明日も、戦争は続く。


 回生兵計画の秘密も、まだ明らかになっていない。


 レンの過去には、多くの空白が残されている。


 けれど、彼がこれから何を選ぶかという問いだけは、誰かの記録の中ではなく、彼自身の中にあった。


 それは、軍が奪おうとしても、簡単には奪えないものなのかもしれなかった。


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