14.敵にも帰る場所がある
敵国の人間にも、帰りたい家がある。
そのことを、ユイは頭では知っていた。
戦争が始まる前、まだ国境の向こうを敵と呼ぶ必要のなかったころ。人々は市場で野菜を買い、子どもたちは学校へ通い、仕事を終えた大人たちは家に帰って夕食を囲んでいたはずだ。
誰かの誕生日を祝い、誰かの帰りを待ち、明日の予定を話しながら眠りにつく。
そうした暮らしが、国境を隔てただけで、別の世界の出来事になるわけではない。
けれど、実際に目の前へ敵国の人間が現れたとき、自分が本当にそう考えられるのか、ユイにはわからなかった。
自分たちの国を攻撃した人々。
自分たちの家を壊し、大切な人たちを傷つけた軍隊。
その軍隊に属していた人間も、あるいは、その軍隊を支えていた人間も、こちら側から見れば、同じ敵国の人間だった。
その中に、助けを求める者がいたら。
自分は、手を差し伸べられるだろうか。
そんな問いを抱えたまま、ユイは朝の救助拠点へ向かった。
◇
「東の国境付近から、避難民がこちらへ移送されてくるそうよ」
朝食の片づけをしていたハナが、医療記録を確認しながら言った。
「避難民?」
「ええ。戦闘が激しくなって、居住区から逃げてきた人たち。軍の施設から離れた民間人が中心らしいけれど、正確な人数も、負傷者の数も、まだ確定していないみたい」
「いつ到着するの?」
「早ければ昼前」
ユイは、持っていた皿を流し台へ置いた。
敵国からの避難民。
その言葉を頭の中で繰り返すと、昨日のリゼの告白が蘇ってきた。
彼女は敵国の諜報員だった。
最初から目的を持って、自分たちに近づいた。レンの存在を確かめ、その能力について情報を集めていた。
今も、彼女の言葉をすべて信じられるわけではない。
それでも、彼女もまた敵国から来た人間なのだ。
では、彼女の家族は。
彼女がそこで生きてきた時間は。
敵国というひとつの言葉で括られてしまう人々の中にも、自分たちと同じように、失いたくないものを持つ人がいるのだろう。
「受け入れ態勢は整っているの?」
ユイが尋ねると、ハナは困ったように眉を寄せた。
「それが問題なのよ。今いる避難民だけでも、食料と医薬品がぎりぎり。寝る場所も不足している。そこへさらに人が来るとなると、全員を同じように受け入れるのは難しいわ」
「でも、追い返すわけにはいかないよね」
「もちろん、簡単に追い返すつもりはないわ。ただ、助けたいという気持ちだけで物資が増えるわけでもないでしょう?」
ハナの声は、いつもどおり落ち着いていた。
その落ち着きが、ユイにはありがたかった。
誰かを助けたいと願うことはできる。
その願いに、嘘はない。
けれど、願いだけでは薬を作れないし、食料を増やすことも、屋根のある寝床を用意することもできない。
助けたい人が増えたとき、何を分け、何を優先するのか。
それを決めなければならないのも、また、人間だった。
「到着したら、まず負傷者の確認を手伝うよ」
「頼りにしているわ。ただし、無理はしないこと」
「わかってる」
ユイは答えた。
以前なら、すぐにでも現場へ飛び出していたかもしれない。
全員を助けなければならない。
ひとりでも取りこぼしてはいけない。
その一心で、周りが見えなくなることもあった。
けれど今は、自分ひとりでできることには限りがあると知っている。
誰かを助けるためには、助ける側も生きていなければならない。自分が倒れれば、助けられるはずだった人まで助けられなくなることがある。
だからこそ、今回はハナと相談しながら動こうと思った。
「俺も手伝うよ」
食堂の入口から声がした。
レンが、空になった水差しを持って立っていた。
「避難民の受け入れ?」
「うん。物資を運んだり、怪我をしている人を診療所へ案内したり」
「わかった。力仕事なら任せて」
そう言って、レンは水差しを棚に戻した。
その仕草は、いつもと変わらなかった。
けれどユイは、彼の横顔を見るたび、昨日のことを思い出してしまう。
敵国の諜報員。
回生兵計画。
彼が何者なのかを知ろうとする人々。
レンの生き返る力が、彼自身の意思とは関係なく、誰かの目的に利用されるかもしれない。
そのことを考えると、不安が胸の奥から浮かび上がった。
それでも、彼の手は止まらない。
目の前に困っている人がいれば助けようとする。
知らない人であっても、敵国の人間であっても、その姿勢は変わらないのだろう。
ユイは、そんなレンを誇らしく思った。
同時に、どうかその優しさが、彼自身を傷つける理由にならないでほしいと願った。
◇
避難民を乗せた車両が到着したのは、昼前だった。
救助拠点の前に、砂埃を巻き上げながら数台の車両が停まる。
扉が開くと、疲れきった人々が次々と降りてきた。
小さな子どもを抱いた女性。
足を引きずる老人。
片腕を布で吊った青年。
何も持たず、ただ周囲を見回している少女。
その顔には、長い移動と不安による疲労が濃く刻まれていた。
彼らは、こちら側の人間を見ていた。
警戒するような目もあれば、助けを求める目もあった。
どちらも、無理のない反応だった。
初めて足を踏み入れる土地で、自分たちが敵と呼ばれていることを知っている。受け入れてもらえるのか、追い返されるのか、あるいは、何かを尋問されるのか。
彼らにはわからない。
だから、簡単には笑えないのだ。
「こちらへ。まずは怪我をしている方から確認します」
ハナが前へ出て、医療班に指示を出した。
ユイは水と毛布を運び、レンは足の不自由な老人を支えて仮設診療所まで案内した。
「ありがとうございます」
老人が、かすれた声で言った。
「いえ。大変でしたよね。ここで少し休んでください」
レンは老人の肩をそっと支え、椅子へ座らせた。
老人はレンの顔を見つめ、それから、自分の手に握られていた古い布袋を見下ろした。
「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」
小さな声だった。
レンは、その質問にすぐ答えられなかった。
「敵国の人間です。あなたたちの国と戦っている国の者です。私たちを受け入れれば、ここにいる人たちにも迷惑がかかるかもしれない」
老人は、申し訳なさそうに笑った。
「本当は、こんなところまで来たくはなかったのです。ただ、家にいては孫を守れなくなってしまって……」
その言葉の途中で、老人は口を閉ざした。
続きを話そうとしたのかもしれない。
けれど、何かを思い出したのか、目を伏せた。
レンは、無理に続きを聞こうとはしなかった。
「今は、休んでください」
ただ、それだけを伝えた。
「ここにいていいかどうかを、俺ひとりで決めることはできません。でも、少なくとも、怪我をしている人をそのままにはできませんから」
老人は驚いたように顔を上げた。
レンは、少しだけ笑った。
「お水を持ってきますね」
立ち上がると、老人は何度も頭を下げた。
その姿を見ながら、レンは胸の奥に、小さな痛みを感じていた。
この老人は、何か悪いことをしたのだろうか。
自分の国に生まれたこと。
その国が敵国になったこと。
戦争によって家にいられなくなったこと。
そのどれもが、この人ひとりの責任ではない。
もちろん、老人が何を経験し、何を考えてきたのか、レンにはわからない。彼がその国の人々をすべて善良だと決めつけることもできない。
けれど、目の前の老人が負傷し、疲れ、孫の身を案じていることはわかる。
それだけは、疑いようがなかった。
誰かを理解するために、その人のすべてを知る必要はないのかもしれない。
少なくとも、今ここにいる人を助けるかどうか決めるために、相手の国籍だけを見て判断する必要はないはずだ。
レンは水を汲みながら、そんなことを考えていた。
◇
問題が表面化したのは、避難民が到着してから一時間ほど経ったころだった。
「これ以上、受け入れるのは無理だ!」
物資配給所の前で、男が声を荒らげた。
周囲にいた何人かが、彼に同調する。
「俺たちだって、十分な食料をもらえていないんだぞ」
「薬も足りない。こちら側の人間ですら、十分な治療を受けられないことがあるのに」
「それなのに、敵国の人間を優先するのか?」
その声は、少しずつ大きくなっていった。
配給を待っていた避難民たちが、身を縮める。
ひとりの女性が、子どもを抱き寄せた。
子どもは状況を理解できていないのか、母親の胸に顔を埋めている。
「誰が優先するなんて言ったんだ!」
別の男が言い返した。
「怪我人がいるんだぞ。放っておけというのか!」
「そんなことは言っていない。ただ、こっちにも生活があるんだ。善意だけで何とかなると思うな!」
「お前は、自分たちが敵国の人間と呼ばれたらどう思うんだ!」
「今はそういう話じゃない!」
声がぶつかり合う。
ユイは、その場へ駆けつけた。
誰も、完全に間違っているようには見えなかった。
物資が不足しているのは事実だった。
こちら側にも、戦争で家を失い、食料を削り、家族を亡くした人がいる。毎日のように救助活動に追われ、疲れきっている人もいる。
彼らにとって、食料や薬は、明日を生きるために必要なものだった。
一方で、目の前の避難民たちも、助けを求めてここまで来たのだ。
負傷した人がいる。
病気の子どもがいる。
何日もまともな食事を取っていない人がいる。
それを、敵国の人間だからという理由だけで追い返せば、何が起こるのか。
ユイには想像できた。
どちらかを大切にすれば、もう一方を切り捨てなければならない。
そんな構図が、ひどく苦しかった。
「みんな、少し落ち着いて」
ユイは前へ出た。
「今、必要な物資を確認しているところだから。誰かを優先すると決めたわけじゃないよ」
「でも、実際には足りないんだろう!」
先ほど声を荒らげていた男が言った。
「足りないものは足りない。あんたたちがどれだけ頑張ったって、急に食料が増えるわけじゃない!」
「……そうだね」
ユイは、否定しなかった。
男は少し意外そうな顔をした。
「物資が足りないのは、本当だと思う。だから、全員に十分な量を配ることはできないかもしれない。薬だって、必要な人全員に、必要なだけ用意できるとは限らない」
「だったら――」
「でも、だからといって、助けなくていい人がいることにはならないよ」
ユイは、自分の声が震えないように気をつけながら言った。
「敵国の人でも、こちら側の人でも、怪我をしていたら治療が必要だし、お腹がすいていたら食べるものが必要だよ。それは変わらないと思う」
「きれいごとだ」
男は吐き捨てた。
ユイの胸に、その言葉が刺さった。
きれいごと。
そうなのかもしれない。
できる限り全員を助けたい。
争うより、協力したい。
誰にも、必要以上に苦しんでほしくない。
そんな願いは、現実の前では、きれいごとにしかならないのだろうか。
もし、物資が本当に足りなければ。
誰かひとりを助けるために、別の誰かの取り分を減らさなければならなければ。
ユイは、どちらを選ぶのだろう。
その答えを、彼女はまだ持っていなかった。
「……きれいごとなのかもしれない」
ユイは言った。
「でも、私は、最初から助けないって決めたくない」
男は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
ユイは、避難民のほうを振り返った。
誰もが不安そうに、こちらの様子を窺っている。
彼らもまた、ここで歓迎されていないことを理解しているのだ。
頭を下げるべきなのか。
謝るべきなのか。
それとも、自分たちの国が何をしたのか説明すべきなのか。
どれが正しいのかわからず、ただ黙って立っている。
その姿を見て、ユイは思った。
この人たちは、今、自分の国の代表としてここにいるのではない。
国の罪を背負うために、ここへ来たのでもない。
ただ、生きるために来たのだ。
自分たちもそうだった。
生きるために逃げた。
生きるために助けを求めた。
生きて帰りたい場所があるから、必死に手を伸ばす。
それは、敵も味方も関係のないことだった。
◇
「ユイ、こっちへ来て」
騒ぎがひとまず収まると、ハナが彼女を呼んだ。
仮設診療所の奥には、運ばれてきた負傷者の記録と、残っている医薬品の一覧が置かれていた。
「このままでは、全員を十分に支援することはできないわ」
ハナは、紙に目を落としたまま言った。
「だからこそ、感情だけで決めてはいけない。誰を先に診るのか、何をどれだけ配るのか、きちんと基準を決めましょう」
「基準……」
「敵国かどうかではなく、必要性で判断するの。命に関わる負傷者、治療が遅れると危険な人、体力のない子どもや高齢者。もちろん、こちら側の人たちにも同じ基準を適用する」
ハナは一覧表を指で示した。
「薬の在庫を確認して、代替できるものは代替する。症状が軽い人には、経過を見ながら対応する。食料も、まず人数と最低限必要な量を計算する。足りない分は、周辺の拠点に融通を頼む。それでも足りなければ、配給量を見直さなければならない」
ユイは、紙の上に並んだ数字を見つめた。
数字は、嘘をつかない。
ここにいる人が何人で、薬がどれだけあり、食料がどれだけ足りないのか。
計算すれば、必要な量を把握できる。
けれど、その数字のひとつひとつに、人間がいる。
数字の上では同じ一人でも、その人が背負っている事情は違う。
幼い子どもには、明日がある。
老人には、長い人生の中で積み重ねてきた記憶がある。
働き手を失った家族もいれば、家族の所在がわからなくなった人もいる。
それらをすべて考慮することはできない。
だからこそ、何を基準にするのかが重要だった。
「でも、基準を作っても、誰かを待たせることになるよね」
「ええ」
ハナは、迷わず答えた。
「待たせることと、見捨てることは同じではないわ。ただし、待たせているあいだに状態が悪くならないか、継続して確認しなければならない。基準を決めたから終わりではないの」
「……そっか」
ユイは、小さく頷いた。
助けるということは、一度手を差し伸べて終わることではない。
そのあとも様子を見て、必要なら判断を変える。
自分たちの決めたことが正しいとは限らないと認めて、現実に合わせて修正していく。
それは、決して格好のいいことではなかった。
誰かから感謝されるばかりでもない。
不満を言われることもある。
自分の判断で、誰かが十分な支援を受けられなくなることもある。
それでも、考えることを放棄してはいけないのだ。
「私にも、手伝わせて」
ユイは言った。
「配給する人数の整理と、避難民の状態の確認をするよ。誰がどこにいるのか、家族が一緒なのか、それも記録しておきたい」
「そうね。家族が離れ離れになっている場合、移送先を確認する必要もあるわ」
ハナは頷いた。
「ただ、ひとりで全部やろうとしないこと。ほかの人にも手伝ってもらって」
「うん。わかった」
ユイは、もう一度一覧表に目を向けた。
自分ひとりでは、全員を助けられない。
その事実は変わらない。
けれど、他の人と協力すれば、自分ひとりでは気づけなかったことに気づけるかもしれない。
誰かが見落とした情報を、別の誰かが見つけてくれるかもしれない。
そして、ひとりでは支えきれない命も、何人もの手があれば、支えられるかもしれない。
助けることは、すべてを自分の手で成し遂げることではない。
自分にできないことを、誰かに託すこと。
他人の力を借りること。
それもまた、人を助けるために必要な勇気なのだと、ユイは少しずつ理解し始めていた。
◇
午後、レンは配給所の前で、ひとりの少年と向き合っていた。
少年は十歳くらいだろうか。
髪は埃で汚れ、服の裾はほつれている。手には、小さな木片が握られていた。
それが何なのか、レンにはわからなかった。
「君、名前は?」
レンが尋ねると、少年は一瞬、身を固くした。
それから、小さな声で名前を答えた。
「そうか。俺はレン。ここの手伝いをしているんだ」
レンが手を差し出すと、少年はその手をじっと見つめた。
「……あんたは、こっちの国の人?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、俺のこと、嫌い?」
レンは、思わず言葉を失った。
少年は木片を握り締めたまま、こちらを見ていた。
その目には、怯えがあった。
拒絶されることに慣れてしまった人間の目だった。
まだ十歳ほどの子どもが、誰かに嫌われているかどうかを、そんなふうに確かめなければならない。
レンは、そのことが悲しかった。
「どうして、そう思うの?」
「だって、俺たちの国は、あんたたちと戦争をしてるから」
「そうだね」
「俺の父さんも、軍にいたんだ」
少年は俯いた。
「……だから、俺も悪いんだろ」
レンは、少年の前にしゃがんだ。
「君のお父さんが軍にいたことと、君が悪い人間かどうかは、別のことだと思うよ」
少年は、不思議そうに顔を上げた。
「でも、俺の国は、あんたたちの人をたくさん傷つけた」
「そうだね。傷ついた人は、たくさんいると思う」
レンは、簡単に否定しなかった。
少年の国が戦争をしていることは事実だ。
その戦争で、多くの人が苦しんでいることも事実だ。
それをなかったことにして、君は何も悪くないとだけ言えば、少年が抱えているものを、むしろ軽く扱うことになるかもしれない。
「でも、君ひとりが、その全部の責任を背負う必要はないよ」
レンは続けた。
「君がこれからどうするかは、君が考えていけばいい。誰かを傷つけることも、誰かを助けることも、これからの君自身が選べることだと思う」
「……俺でも?」
「うん。君でも」
少年は、しばらく黙っていた。
それから、手の中に握り締めていた木片を差し出した。
「これ、妹が持ってたやつなんだ」
小さな木片には、何かの模様が刻まれていた。
「逃げるときに、妹がなくしちゃって。俺、見つけたから……渡したいんだけど、妹は別の車に乗せられたんだ」
「別の車?」
「うん。怪我してたから、先に運ばれたんだ。どこにいるのか、わからない」
少年の声が、震えた。
「俺、妹を見つけられるかな」
レンは、木片を見つめた。
助けを求めているのは、少年だけではない。
彼が探している妹もまた、どこかで誰かを待っているのだろう。
「名前はわかる?」
レンが尋ねると、少年は頷いた。
「それなら、ここにいる人たちに聞いてみよう。移送の記録が残っているかもしれない」
「本当?」
「うん。ただ、すぐに見つかると約束はできない。でも、一緒に探すことはできるよ」
少年は、レンの顔をじっと見た。
「……あんた、変な人だな」
「そうかな?」
「俺、敵なのに」
「……君、お腹はすいている?」
突然の質問に、少年は目を瞬いた。
「……すいてる」
「じゃあ、まずはご飯を食べよう。それから妹を探そう」
レンが笑うと、少年は少しだけ戸惑いながら、頷いた。
レンは少年の肩に手を置き、配給所へ案内した。
その後ろ姿を、少し離れたところからユイが見ていた。
少年がレンに木片を見せたときの顔。
妹を探していると話すときの声。
そして、食事を勧められ、ほんの少しだけ表情を緩めた瞬間。
ユイには、それらがひどく大切なものに思えた。
戦争は、人間に名前をつける。
味方。
敵。
兵士。
民間人。
守るべき者。
警戒すべき者。
その区別が必要になる場面もある。危険を見分けなければ、自分たちの命を守れないこともある。
けれど、その名前だけで人間のすべてを説明することはできない。
敵国の少年にも、妹がいる。
その妹の持ち物を、必死に探している。
妹の無事を願っている。
ただ、それだけのことだ。
それだけのことが、なぜこんなにも難しいのだろう。
ユイは、そっと息を吐いた。
◇
日が傾くころ、仮設診療所の机には、避難民の名簿が何枚も広げられていた。
ユイは、負傷者の記録と移送先を照合し、家族の所在を確認していた。
作業は、思っていた以上に時間がかかった。
同じ名前の人が何人もいる。
記録に抜けがある。
移送された場所が変わっている。
ひとりの人間の行方を追うだけでも、いくつもの紙を確認しなければならなかった。
「この人は、東の診療所へ移送されたみたい」
ハナが記録を指した。
「こちらの施設に問い合わせて、家族がいるか確認してみるわ」
「ありがとう。こっちは、妹さんを探している少年の記録なんだけど……」
ユイが名前を告げると、ハナは別の紙束を手に取った。
「少し待って。子どもの移送記録は別にまとめてあるから」
二人は手分けして、記録を確認し始めた。
そのとき、診療所の入口に、リゼが立っているのが見えた。
彼女は何も言わず、こちらの作業を眺めていた。
ユイは、手を止めた。
昨日の告白が、頭をよぎる。
リゼは敵国の諜報員だった。
その事実は、今も変わらない。
彼女がこちらへ来た目的を、ユイはすべて知らない。どんな情報を集め、誰に報告し、何を隠しているのか。
疑問はいくつも残っている。
それでも、彼女が名簿を見つめる目には、どこか切実なものがあった。
「……何か用?」
ユイが尋ねると、リゼは少しだけ肩を揺らした。
「手伝えることがあるかと思って」
「あなたが?」
「ええ」
ユイは、すぐには答えなかった。
手伝ってもらっていいのだろうか。
昨日、自分たちを利用したと認めたばかりの人間に。
信じることはできない。
けれど、目の前の作業を進めるために、人手が必要なのも事実だった。
「……避難民の家族の所在を確認しているの。移送先がわからない人もいるから、この記録を照合してもらえる?」
ユイが名簿を差し出すと、リゼは一瞬、驚いたような顔をした。
「私に任せていいの?」
「信用したわけじゃないよ」
ユイは、まっすぐに言った。
「でも、今ここで必要なのは、家族を探している人たちを、できるだけ早く見つけることだから」
リゼは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、静かに名簿を受け取った。
「……わかったわ」
彼女は空いている机へ移動し、紙を一枚ずつ確認し始めた。
最初は、事務的な作業だった。
名前を探し、番号を照合し、移送先を確認する。
けれど、何枚か紙をめくったところで、リゼの手が止まった。
名簿に書かれた名前を、彼女はじっと見つめていた。
それから、隣の紙を引き寄せ、同じ名前がないか確かめる。
見つからない。
もう一枚、別の記録を開く。
そこにも、見つからなかった。
彼女は、別の名前を探し始めた。
そしてまた、手が止まった。
その仕草を見て、ユイは気づいた。
リゼは、避難民全員の家族を探しているのではない。
誰か特定の人を、探しているのだ。
「リゼ?」
呼びかけると、彼女はすぐに顔を上げた。
「何か見つかった?」
「いいえ。まだよ」
答えは、いつもどおり落ち着いていた。
けれど、名簿を握る指先は、わずかに震えていた。
ユイは、その手を見つめた。
何を探しているのか、尋ねるべきだろうか。
昨日のことを考えれば、知っておきたいことは山ほどある。
リゼがなぜ諜報員になったのか。
どうしてレンの存在を調べていたのか。
集めた情報を誰に渡していたのか。
そして、今も何を隠しているのか。
けれど、今この場で、問い詰める必要があるのだろうか。
ユイは迷った末、何も聞かずに自分の作業へ戻った。
リゼが本当のことを話すかどうか。
彼女を再び信頼できるようになるかどうか。
その答えは、まだ先にある。
今は、目の前の人たちのためにできることをしよう。
それだけは、疑わずにいられた。
◇
夕方、配給所の前では、小さな騒ぎが起きていた。
食料の配給量を巡って、避難民の男性と、こちら側の住民が言い争っていたのだ。
「子どもがいるんだ。これだけじゃ足りない!」
「こっちだって同じだ! お前たちだけ特別扱いできるわけがないだろう!」
「特別扱いなんて頼んでいない!」
「なら、文句を言うな!」
言葉は、少しずつ鋭くなっていった。
ユイは、レンと一緒に二人の間へ入った。
「どうしたの?」
「この人が、食料をもっとよこせと言うんだ!」
こちら側の住民が言った。
「こっちだって、十分にもらえていないのに!」
「子どもがいるんだ。昨日から何も食べていない子もいるんだぞ!」
避難民の男性が言い返す。
レンは、二人の話を聞いたあと、配給記録を確認した。
避難民への配給量は、こちら側の住民に比べて少なくなっていた。
理由は、到着時に必要人数の確認が終わっていなかったためだった。
足りない分を、まだ配り切れていない。
それが、騒ぎの原因だった。
「ちょっと待ってください。今、人数をもう一度確認します」
レンは配給係に声をかけ、記録を見直した。
ユイも手伝い、まだ受け取っていない人の数を数える。
すると、記録と実際の人数が合っていないことがわかった。
子どもを抱えた女性が、ひとり分としてしか登録されていなかったのだ。
配給の担当者は、慌てて記録を訂正した。
「すみません。こちらの確認不足でした」
謝罪を受けた男性は、すぐには何も言わなかった。
怒りが消えたわけではないのだろう。
ただ、自分の子どもが食べるものを得られるとわかったことで、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「……もういい。ちゃんと配ってくれるなら、それでいい」
男性は、小さく言った。
レンは、頷いた。
「確認してくれて、ありがとうございます。次からは、記録を受け取るときに人数も一緒に確認します」
男性は、意外そうにレンを見た。
「お前は……怒らないのか?」
「え?」
「俺たちが騒いだことだよ」
レンは少し考えた。
「お腹がすいているときに、食べ物が足りなかったら、不安になると思います。それに、子どもがいるなら、なおさらですよね」
男性は、口を閉じた。
「もちろん、言い争いにならないほうがいいとは思います。でも、困っていることを伝えてくれなかったら、俺たちも気づけなかったかもしれないから」
レンは、配給所の中を見た。
「だから、教えてくれてよかったです」
その言葉に、男性は少しだけ目を伏せた。
「……悪かったな」
「いえ」
レンは笑った。
「明日からは、ちゃんと食べられるようにします」
男性は、今度こそ頷いた。
その様子を見ながら、ユイは胸の奥が温かくなるのを感じた。
問題が解決したからではない。
争いがなくなったからでもない。
人間は、不安になると、相手を責めてしまうことがある。
自分の生活を守りたいと願うほど、他人の存在が脅威に見えることがある。
それでも、相手が何に困っているのか確かめ、間違いがあれば直し、次に同じことが起こらないように考えることはできる。
人は、最初からわかり合えるわけではない。
けれど、わかり合えないからといって、話し合うことまで諦める必要はないのだ。
ユイは、ふとレンを見た。
彼は、配給係と話しながら、記録の確認を手伝っていた。
その横顔を見ていると、昨日の不安が少しだけ和らいだ。
レンの優しさが、いつか誰かに利用されるかもしれない。
その恐れが消えたわけではない。
それでも、彼が今していることは、誰かに命じられたからではなく、彼自身が考えて行動していることだった。
少なくとも、ユイにはそう見えた。
そして、彼の考えを支えているのは、何も特別な力だけではない。
目の前の人の話を聞こうとすること。
間違いがあれば認めること。
困っている人を、困っている人として見ること。
そんな、ごく普通の行為の積み重ねなのだ。
◇
夜。
避難民の受け入れ作業がひと段落すると、救助拠点には疲れた空気が流れていた。
食堂では、残ったスープが温め直されていた。
机の上には、今日使った食器が積み重なっている。
あちこちから、ため息や小さな笑い声が聞こえた。
「今日は、さすがに疲れたね」
ユイが椅子に座ると、レンが隣に腰を下ろした。
「うん。でも、少しは落ち着いたみたいだ」
「そうだね。まだ問題はたくさんあるけど……」
言いかけて、ユイは言葉を止めた。
すべてが解決したわけではない。
物資は、相変わらず足りない。
避難民の中には、家族の行方がわからない人もいる。
こちら側の住民にも、不満や疲れが残っている。
明日になれば、また別の問題が生まれるだろう。
それでも、今日は今日で、少しだけ前へ進めた。
ユイは、温かいスープをひと口飲んだ。
「……レンは、怖くないの?」
ぽつりと尋ねた。
「何が?」
「敵国の人を助けること。あとから、その人が悪いことをしていたってわかったらどうしよう、とか」
レンは、少し考えた。
「怖くないわけじゃないよ」
思いがけず正直な答えだった。
「誰かを助けたことで、別の誰かが傷つくこともあるかもしれない。俺が知らない事情だって、たくさんあると思う」
レンはスプーンを置いた。
「でも、何もわからないから助けないって決めるのも、違う気がするんだ」
「……うん」
「相手が何をしてきたのか、これから何をするのか。それを知ることは必要だと思う。でも、今、目の前にいる人が怪我をしているなら、まずはその怪我をどうにかしたい」
レンは、ゆっくりと言葉を続けた。
「そのあとで、必要なことを考えればいいんじゃないかな」
ユイは、レンの顔を見つめた。
それは、簡単な答えのようで、簡単にはできないことだった。
相手を助けながら、相手が何をする人なのかを見極める。
人を救うことと、危険を避けること。
優しくすることと、相手のすべてを受け入れること。
その二つを、どちらか一方だけに決めつけず、両方とも考え続ける。
それは、きっと疲れることだ。
それでも、どちらかを放棄してしまえば、簡単に間違った方向へ進んでしまうのかもしれない。
「……レンって、時々、すごく大人みたいなことを言うよね」
「そうかな」
「うん。でも、さっきの配給のことを考えると、ちょっと子どもっぽいところもあるけど」
「えっ、どこが?」
「お腹がすいている子に、先にご飯を食べさせようとするところ。自分の分がなくなるかもしれないのに」
「でも、その子はお腹がすいてたから」
「そういうところだよ」
ユイは笑った。
レンは少し困ったように頬を掻いた。
「……ユイだって、そうすると思うけど」
「私は……」
ユイは、言いかけて黙った。
以前の自分なら、迷わずそうしただろう。
自分の食事を後回しにしてでも、誰かを助けようとしたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
自分が食べなければ、明日の仕事に支障が出る。
自分が倒れれば、ほかの人に負担をかける。
助けたい人がいるなら、自分もまた、助ける側として生き続けなければならない。
「……今は、ちゃんと自分の分も食べるよ」
ユイが言うと、レンは嬉しそうに笑った。
「それがいいと思う」
「レンもね」
「うん」
「約束だよ。自分のことも、ちゃんと大切にすること」
レンは、少しだけ目を伏せた。
その約束が、自分にとってどれほど難しいものなのか、彼は知っていた。
誰かを助けるためなら、自分の命を危険にさらしてもいいと思っていた。
自分が生き返れるのなら、なおさら、自分の命を差し出してもいいと考えていた。
けれど、今は違う。
もう一度、ユイと一緒にご飯を食べたい。
明日も、明後日も、帰ってきたときに彼女の声を聞きたい。
戦争が終わったら、約束した甘いものを一緒に食べに行きたい。
その願いを守りたいと思うようになった。
自分の命を大切にすることは、誰かを助けることを諦めることではない。
生きて帰ることもまた、誰かのためにできることなのだ。
「約束するよ」
レンは答えた。
「ちゃんと食べるし、無茶をする前には相談する」
「本当?」
「本当」
「……なら、いいけど」
ユイは笑った。
その笑顔を見て、レンも笑った。
ただそれだけのことだった。
戦争は終わっていない。
リゼの秘密も、レンの過去も、まだ解決していない。
明日、また誰かを助けられないかもしれない。
それでも、二人は同じ食卓に座っていた。
温かいスープを飲み、明日の予定を話し、くだらないことで笑っている。
そうした時間が、どれほど大切なのか。
レンは、少しずつ理解し始めていた。
◇
食堂を出たユイは、廊下の端で、リゼがひとり立っているのを見つけた。
彼女は、窓の外を眺めていた。
夜空には、雲が広がっている。
星はほとんど見えなかった。
「リゼ」
ユイが声をかけると、彼女は振り返った。
「……何?」
「家族を探しているの?」
リゼの表情が、わずかに変わった。
「どうして、そう思うの?」
「今日、名簿を見ていたとき。あなたは、誰かの名前を探しているように見えたから」
リゼは、しばらく黙っていた。
否定することもできたはずだ。
違うと答え、別の話をして、そのまま立ち去ることもできた。
けれど、彼女はそうしなかった。
「……そうね」
小さく答えた。
「探している人がいるわ」
「敵国に?」
「ええ」
ユイは、続きを待った。
リゼはそれ以上、何も言わなかった。
今はまだ、話せないのかもしれない。
あるいは、話すべきかどうか、迷っているのかもしれない。
ユイは、自分から問い詰めることをしなかった。
「見つかるといいね」
ただ、それだけを言った。
リゼは、驚いたように目を見開いた。
「……あなたは、私がどんな人間なのか、わかっているの?」
「全部はわからないよ」
ユイは正直に答えた。
「あなたが敵国の諜報員だということも、私たちを利用したことも、忘れてはいない。あなたを、すぐに信じられるわけでもない」
リゼの目が、少しだけ曇った。
「でも、誰かを探しているなら、見つかってほしいと思う。それだけだよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ユイは、少し考えた。
なぜだろう。
自分を利用した人間に、そんなことを願う必要はないのかもしれない。
彼女が何をしたのかを思えば、簡単に優しい言葉をかけるべきではないのかもしれない。
けれど、リゼが家族を探しているという事実を聞いたとき、ユイの中に生まれたのは、疑いや怒りだけではなかった。
彼女にも、帰りたい場所がある。
見つけたい人がいる。
その人に会いたいと願っている。
それは、今日、レンに妹を探してもらっていた少年と、何が違うのだろう。
「……会いたい人がいるのは、悪いことじゃないと思うから」
ユイは言った。
「ただ、それだけ」
リゼは、何かを言おうとして、やめた。
その瞳に、一瞬だけ、隠しきれない感情が浮かんだ。
悲しみ。
安堵。
そして、自分でも整理できない何か。
「あなたは、危うい人ね」
リゼは、かすかに笑った。
「敵だとわかっている相手にも、そんなことを言うなんて」
「そうかな」
「そうよ。人を信じることと、人に利用されることの境目を、間違えてしまいそう」
ユイは、その言葉を胸の中で繰り返した。
人を信じること。
人に利用されること。
自分は、その違いを本当に理解できているのだろうか。
レンのことを思えば、誰かを信じたい。
彼の優しさが、人を信じることから生まれているのなら、その優しさを疑うことで傷つけたくはない。
けれど、信じることが、相手に何をされても受け入れることになってしまったら。
自分も、レンも、いつか取り返しのつかないものを失うかもしれない。
その危うさを、ユイは今日、知ったばかりだった。
「……だから、気をつけるよ」
ユイは答えた。
「でも、疑うことだけが、自分を守る方法だとも思わないから」
リゼは、ゆっくりと目を伏せた。
「そうね」
それ以上、二人は何も話さなかった。
廊下の向こうから、食器を片づける音が聞こえる。
誰かが笑い、誰かが明日の予定を確認している。
避難してきた人々も、疲れた身体を休める場所を探しているだろう。
敵国の人間も、こちら側の人間も、今夜は眠る。
明日の朝になれば、また生きるために目を覚ます。
どちらの国に生まれたかに関係なく、人は帰りたい場所を持ち、会いたい人を思い、失いたくないものを抱えている。
戦争は、その当たり前のことを、見えにくくしてしまう。
だからこそ、忘れないことが必要なのかもしれなかった。
誰かの国籍を知ることと、その人のすべてを知ることは違う。
誰かが犯した罪を忘れないことと、その人の明日まで否定することも違う。
そして、誰かを助けることと、その人を信じ切ることも、同じではない。
ユイは、廊下の窓から夜空を見上げた。
明日も、きっと簡単ではない。
誰かが不満を訴え、誰かが助けを求め、誰かが判断を迫られるだろう。
全員を救える保証はない。
それでも、考えることを諦めたくはなかった。
誰かを敵と呼ぶ前に、その人が何を失ったのかを知ろうとすること。
自分たちの生活を守りながら、他人の命を切り捨てない方法を探すこと。
信じるべきところと、疑うべきところを、何度でも考え直すこと。
それが、今の自分にできることなのだと思った。
ユイは廊下を歩き出した。
その先には、明日も続いていく救助拠点の暮らしがある。
誰かと食事をし、誰かを助け、時には迷いながら、それでも一日を積み重ねていく場所がある。
レンも、そこにいる。
リゼも、そこにいる。
そして、今日この場所へ逃れてきた人々も、明日を生きようとしている。
彼らの過去は違う。
立場も違う。
背負っている責任も、抱えている罪悪感も、きっと同じではない。
それでも、これから何を選ぶかという問いは、誰の前にも残されている。
その答えを、国に決めさせるのか。
過去に決めさせるのか。
それとも、自分自身で選ぶのか。
ユイには、まだわからなかった。
ただひとつ、わかっていることがあった。
誰かが帰る場所を失ったとき。
誰かが会いたい人に会えなくなったとき。
誰かが、自分はもう、どこにも居場所がないと思ってしまったとき。
そんな人に向かって、あなたは敵だから、と言うだけの人間にはなりたくなかった。
いつか、レンが自分の過去を知ったとき。
もし彼が、どこにも帰る場所がないと思ってしまったら。
そのときは、自分が彼の隣にいたい。
そう思った瞬間、ユイは自分の胸に手を当てた。
それは、彼を守りたいという気持ちだった。
そして同時に、彼と一緒に生きていきたいという、まだ声には出せない願いでもあった。
戦争が終わる日は、まだ見えない。
けれど、戦争が終わったあとに、誰と、どこで、どんなふうに生きていたいのか。
少しずつ考えられるようになっていた。
その未来の中には、レンがいた。
彼が笑っていて、自分も笑っている。
夕食を食べ、明日の予定を話し、帰り道を一緒に歩いている。
何も特別なことのない日々。
けれど、失いたくないと思える日々。
その小さな未来を守るためにも、今を生きなければならない。
ユイは、静かに息を吸った。
明日もまた、人を助けよう。
自分ひとりではなく、仲間と一緒に。
敵も味方も、ひとつの名前だけで判断せずに。
誰かを助けることの難しさから、逃げずに。
そして、自分自身の命も、レンの命も、他の誰かの命も、決して当たり前のものだと思わずに。
夜の救助拠点には、今日を生き延びた人々の寝息が、少しずつ広がっていた。




