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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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14/16

14.敵にも帰る場所がある

 敵国の人間にも、帰りたい家がある。


 そのことを、ユイは頭では知っていた。


 戦争が始まる前、まだ国境の向こうを敵と呼ぶ必要のなかったころ。人々は市場で野菜を買い、子どもたちは学校へ通い、仕事を終えた大人たちは家に帰って夕食を囲んでいたはずだ。


 誰かの誕生日を祝い、誰かの帰りを待ち、明日の予定を話しながら眠りにつく。


 そうした暮らしが、国境を隔てただけで、別の世界の出来事になるわけではない。


 けれど、実際に目の前へ敵国の人間が現れたとき、自分が本当にそう考えられるのか、ユイにはわからなかった。


 自分たちの国を攻撃した人々。


 自分たちの家を壊し、大切な人たちを傷つけた軍隊。


 その軍隊に属していた人間も、あるいは、その軍隊を支えていた人間も、こちら側から見れば、同じ敵国の人間だった。


 その中に、助けを求める者がいたら。


 自分は、手を差し伸べられるだろうか。


 そんな問いを抱えたまま、ユイは朝の救助拠点へ向かった。


     ◇


「東の国境付近から、避難民がこちらへ移送されてくるそうよ」


 朝食の片づけをしていたハナが、医療記録を確認しながら言った。


「避難民?」


「ええ。戦闘が激しくなって、居住区から逃げてきた人たち。軍の施設から離れた民間人が中心らしいけれど、正確な人数も、負傷者の数も、まだ確定していないみたい」


「いつ到着するの?」


「早ければ昼前」


 ユイは、持っていた皿を流し台へ置いた。


 敵国からの避難民。


 その言葉を頭の中で繰り返すと、昨日のリゼの告白が蘇ってきた。


 彼女は敵国の諜報員だった。


 最初から目的を持って、自分たちに近づいた。レンの存在を確かめ、その能力について情報を集めていた。


 今も、彼女の言葉をすべて信じられるわけではない。


 それでも、彼女もまた敵国から来た人間なのだ。


 では、彼女の家族は。


 彼女がそこで生きてきた時間は。


 敵国というひとつの言葉で括られてしまう人々の中にも、自分たちと同じように、失いたくないものを持つ人がいるのだろう。


「受け入れ態勢は整っているの?」


 ユイが尋ねると、ハナは困ったように眉を寄せた。


「それが問題なのよ。今いる避難民だけでも、食料と医薬品がぎりぎり。寝る場所も不足している。そこへさらに人が来るとなると、全員を同じように受け入れるのは難しいわ」


「でも、追い返すわけにはいかないよね」


「もちろん、簡単に追い返すつもりはないわ。ただ、助けたいという気持ちだけで物資が増えるわけでもないでしょう?」


 ハナの声は、いつもどおり落ち着いていた。


 その落ち着きが、ユイにはありがたかった。


 誰かを助けたいと願うことはできる。


 その願いに、嘘はない。


 けれど、願いだけでは薬を作れないし、食料を増やすことも、屋根のある寝床を用意することもできない。


 助けたい人が増えたとき、何を分け、何を優先するのか。


 それを決めなければならないのも、また、人間だった。


「到着したら、まず負傷者の確認を手伝うよ」


「頼りにしているわ。ただし、無理はしないこと」


「わかってる」


 ユイは答えた。


 以前なら、すぐにでも現場へ飛び出していたかもしれない。


 全員を助けなければならない。


 ひとりでも取りこぼしてはいけない。


 その一心で、周りが見えなくなることもあった。


 けれど今は、自分ひとりでできることには限りがあると知っている。


 誰かを助けるためには、助ける側も生きていなければならない。自分が倒れれば、助けられるはずだった人まで助けられなくなることがある。


 だからこそ、今回はハナと相談しながら動こうと思った。


「俺も手伝うよ」


 食堂の入口から声がした。


 レンが、空になった水差しを持って立っていた。


「避難民の受け入れ?」


「うん。物資を運んだり、怪我をしている人を診療所へ案内したり」


「わかった。力仕事なら任せて」


 そう言って、レンは水差しを棚に戻した。


 その仕草は、いつもと変わらなかった。


 けれどユイは、彼の横顔を見るたび、昨日のことを思い出してしまう。


 敵国の諜報員。


 回生兵計画。


 彼が何者なのかを知ろうとする人々。


 レンの生き返る力が、彼自身の意思とは関係なく、誰かの目的に利用されるかもしれない。


 そのことを考えると、不安が胸の奥から浮かび上がった。


 それでも、彼の手は止まらない。


 目の前に困っている人がいれば助けようとする。


 知らない人であっても、敵国の人間であっても、その姿勢は変わらないのだろう。


 ユイは、そんなレンを誇らしく思った。


 同時に、どうかその優しさが、彼自身を傷つける理由にならないでほしいと願った。


     ◇


 避難民を乗せた車両が到着したのは、昼前だった。


 救助拠点の前に、砂埃を巻き上げながら数台の車両が停まる。


 扉が開くと、疲れきった人々が次々と降りてきた。


 小さな子どもを抱いた女性。


 足を引きずる老人。


 片腕を布で吊った青年。


 何も持たず、ただ周囲を見回している少女。


 その顔には、長い移動と不安による疲労が濃く刻まれていた。


 彼らは、こちら側の人間を見ていた。


 警戒するような目もあれば、助けを求める目もあった。


 どちらも、無理のない反応だった。


 初めて足を踏み入れる土地で、自分たちが敵と呼ばれていることを知っている。受け入れてもらえるのか、追い返されるのか、あるいは、何かを尋問されるのか。


 彼らにはわからない。


 だから、簡単には笑えないのだ。


「こちらへ。まずは怪我をしている方から確認します」


 ハナが前へ出て、医療班に指示を出した。


 ユイは水と毛布を運び、レンは足の不自由な老人を支えて仮設診療所まで案内した。


「ありがとうございます」


 老人が、かすれた声で言った。


「いえ。大変でしたよね。ここで少し休んでください」


 レンは老人の肩をそっと支え、椅子へ座らせた。


 老人はレンの顔を見つめ、それから、自分の手に握られていた古い布袋を見下ろした。


「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」


 小さな声だった。


 レンは、その質問にすぐ答えられなかった。


「敵国の人間です。あなたたちの国と戦っている国の者です。私たちを受け入れれば、ここにいる人たちにも迷惑がかかるかもしれない」


 老人は、申し訳なさそうに笑った。


「本当は、こんなところまで来たくはなかったのです。ただ、家にいては孫を守れなくなってしまって……」


 その言葉の途中で、老人は口を閉ざした。


 続きを話そうとしたのかもしれない。


 けれど、何かを思い出したのか、目を伏せた。


 レンは、無理に続きを聞こうとはしなかった。


「今は、休んでください」


 ただ、それだけを伝えた。


「ここにいていいかどうかを、俺ひとりで決めることはできません。でも、少なくとも、怪我をしている人をそのままにはできませんから」


 老人は驚いたように顔を上げた。


 レンは、少しだけ笑った。


「お水を持ってきますね」


 立ち上がると、老人は何度も頭を下げた。


 その姿を見ながら、レンは胸の奥に、小さな痛みを感じていた。


 この老人は、何か悪いことをしたのだろうか。


 自分の国に生まれたこと。


 その国が敵国になったこと。


 戦争によって家にいられなくなったこと。


 そのどれもが、この人ひとりの責任ではない。


 もちろん、老人が何を経験し、何を考えてきたのか、レンにはわからない。彼がその国の人々をすべて善良だと決めつけることもできない。


 けれど、目の前の老人が負傷し、疲れ、孫の身を案じていることはわかる。


 それだけは、疑いようがなかった。


 誰かを理解するために、その人のすべてを知る必要はないのかもしれない。


 少なくとも、今ここにいる人を助けるかどうか決めるために、相手の国籍だけを見て判断する必要はないはずだ。


 レンは水を汲みながら、そんなことを考えていた。


     ◇


 問題が表面化したのは、避難民が到着してから一時間ほど経ったころだった。


「これ以上、受け入れるのは無理だ!」


 物資配給所の前で、男が声を荒らげた。


 周囲にいた何人かが、彼に同調する。


「俺たちだって、十分な食料をもらえていないんだぞ」


「薬も足りない。こちら側の人間ですら、十分な治療を受けられないことがあるのに」


「それなのに、敵国の人間を優先するのか?」


 その声は、少しずつ大きくなっていった。


 配給を待っていた避難民たちが、身を縮める。


 ひとりの女性が、子どもを抱き寄せた。


 子どもは状況を理解できていないのか、母親の胸に顔を埋めている。


「誰が優先するなんて言ったんだ!」


 別の男が言い返した。


「怪我人がいるんだぞ。放っておけというのか!」


「そんなことは言っていない。ただ、こっちにも生活があるんだ。善意だけで何とかなると思うな!」


「お前は、自分たちが敵国の人間と呼ばれたらどう思うんだ!」


「今はそういう話じゃない!」


 声がぶつかり合う。


 ユイは、その場へ駆けつけた。


 誰も、完全に間違っているようには見えなかった。


 物資が不足しているのは事実だった。


 こちら側にも、戦争で家を失い、食料を削り、家族を亡くした人がいる。毎日のように救助活動に追われ、疲れきっている人もいる。


 彼らにとって、食料や薬は、明日を生きるために必要なものだった。


 一方で、目の前の避難民たちも、助けを求めてここまで来たのだ。


 負傷した人がいる。


 病気の子どもがいる。


 何日もまともな食事を取っていない人がいる。


 それを、敵国の人間だからという理由だけで追い返せば、何が起こるのか。


 ユイには想像できた。


 どちらかを大切にすれば、もう一方を切り捨てなければならない。


 そんな構図が、ひどく苦しかった。


「みんな、少し落ち着いて」


 ユイは前へ出た。


「今、必要な物資を確認しているところだから。誰かを優先すると決めたわけじゃないよ」


「でも、実際には足りないんだろう!」


 先ほど声を荒らげていた男が言った。


「足りないものは足りない。あんたたちがどれだけ頑張ったって、急に食料が増えるわけじゃない!」


「……そうだね」


 ユイは、否定しなかった。


 男は少し意外そうな顔をした。


「物資が足りないのは、本当だと思う。だから、全員に十分な量を配ることはできないかもしれない。薬だって、必要な人全員に、必要なだけ用意できるとは限らない」


「だったら――」


「でも、だからといって、助けなくていい人がいることにはならないよ」


 ユイは、自分の声が震えないように気をつけながら言った。


「敵国の人でも、こちら側の人でも、怪我をしていたら治療が必要だし、お腹がすいていたら食べるものが必要だよ。それは変わらないと思う」


「きれいごとだ」


 男は吐き捨てた。


 ユイの胸に、その言葉が刺さった。


 きれいごと。


 そうなのかもしれない。


 できる限り全員を助けたい。


 争うより、協力したい。


 誰にも、必要以上に苦しんでほしくない。


 そんな願いは、現実の前では、きれいごとにしかならないのだろうか。


 もし、物資が本当に足りなければ。


 誰かひとりを助けるために、別の誰かの取り分を減らさなければならなければ。


 ユイは、どちらを選ぶのだろう。


 その答えを、彼女はまだ持っていなかった。


「……きれいごとなのかもしれない」


 ユイは言った。


「でも、私は、最初から助けないって決めたくない」


 男は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。


 ユイは、避難民のほうを振り返った。


 誰もが不安そうに、こちらの様子を窺っている。


 彼らもまた、ここで歓迎されていないことを理解しているのだ。


 頭を下げるべきなのか。


 謝るべきなのか。


 それとも、自分たちの国が何をしたのか説明すべきなのか。


 どれが正しいのかわからず、ただ黙って立っている。


 その姿を見て、ユイは思った。


 この人たちは、今、自分の国の代表としてここにいるのではない。


 国の罪を背負うために、ここへ来たのでもない。


 ただ、生きるために来たのだ。


 自分たちもそうだった。


 生きるために逃げた。


 生きるために助けを求めた。


 生きて帰りたい場所があるから、必死に手を伸ばす。


 それは、敵も味方も関係のないことだった。


     ◇


「ユイ、こっちへ来て」


 騒ぎがひとまず収まると、ハナが彼女を呼んだ。


 仮設診療所の奥には、運ばれてきた負傷者の記録と、残っている医薬品の一覧が置かれていた。


「このままでは、全員を十分に支援することはできないわ」


 ハナは、紙に目を落としたまま言った。


「だからこそ、感情だけで決めてはいけない。誰を先に診るのか、何をどれだけ配るのか、きちんと基準を決めましょう」


「基準……」


「敵国かどうかではなく、必要性で判断するの。命に関わる負傷者、治療が遅れると危険な人、体力のない子どもや高齢者。もちろん、こちら側の人たちにも同じ基準を適用する」


 ハナは一覧表を指で示した。


「薬の在庫を確認して、代替できるものは代替する。症状が軽い人には、経過を見ながら対応する。食料も、まず人数と最低限必要な量を計算する。足りない分は、周辺の拠点に融通を頼む。それでも足りなければ、配給量を見直さなければならない」


 ユイは、紙の上に並んだ数字を見つめた。


 数字は、嘘をつかない。


 ここにいる人が何人で、薬がどれだけあり、食料がどれだけ足りないのか。


 計算すれば、必要な量を把握できる。


 けれど、その数字のひとつひとつに、人間がいる。


 数字の上では同じ一人でも、その人が背負っている事情は違う。


 幼い子どもには、明日がある。


 老人には、長い人生の中で積み重ねてきた記憶がある。


 働き手を失った家族もいれば、家族の所在がわからなくなった人もいる。


 それらをすべて考慮することはできない。


 だからこそ、何を基準にするのかが重要だった。


「でも、基準を作っても、誰かを待たせることになるよね」


「ええ」


 ハナは、迷わず答えた。


「待たせることと、見捨てることは同じではないわ。ただし、待たせているあいだに状態が悪くならないか、継続して確認しなければならない。基準を決めたから終わりではないの」


「……そっか」


 ユイは、小さく頷いた。


 助けるということは、一度手を差し伸べて終わることではない。


 そのあとも様子を見て、必要なら判断を変える。


 自分たちの決めたことが正しいとは限らないと認めて、現実に合わせて修正していく。


 それは、決して格好のいいことではなかった。


 誰かから感謝されるばかりでもない。


 不満を言われることもある。


 自分の判断で、誰かが十分な支援を受けられなくなることもある。


 それでも、考えることを放棄してはいけないのだ。


「私にも、手伝わせて」


 ユイは言った。


「配給する人数の整理と、避難民の状態の確認をするよ。誰がどこにいるのか、家族が一緒なのか、それも記録しておきたい」


「そうね。家族が離れ離れになっている場合、移送先を確認する必要もあるわ」


 ハナは頷いた。


「ただ、ひとりで全部やろうとしないこと。ほかの人にも手伝ってもらって」


「うん。わかった」


 ユイは、もう一度一覧表に目を向けた。


 自分ひとりでは、全員を助けられない。


 その事実は変わらない。


 けれど、他の人と協力すれば、自分ひとりでは気づけなかったことに気づけるかもしれない。


 誰かが見落とした情報を、別の誰かが見つけてくれるかもしれない。


 そして、ひとりでは支えきれない命も、何人もの手があれば、支えられるかもしれない。


 助けることは、すべてを自分の手で成し遂げることではない。


 自分にできないことを、誰かに託すこと。


 他人の力を借りること。


 それもまた、人を助けるために必要な勇気なのだと、ユイは少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 午後、レンは配給所の前で、ひとりの少年と向き合っていた。


 少年は十歳くらいだろうか。


 髪は埃で汚れ、服の裾はほつれている。手には、小さな木片が握られていた。


 それが何なのか、レンにはわからなかった。


「君、名前は?」


 レンが尋ねると、少年は一瞬、身を固くした。


 それから、小さな声で名前を答えた。


「そうか。俺はレン。ここの手伝いをしているんだ」


 レンが手を差し出すと、少年はその手をじっと見つめた。


「……あんたは、こっちの国の人?」


「うん。そうだよ」


「じゃあ、俺のこと、嫌い?」


 レンは、思わず言葉を失った。


 少年は木片を握り締めたまま、こちらを見ていた。


 その目には、怯えがあった。


 拒絶されることに慣れてしまった人間の目だった。


 まだ十歳ほどの子どもが、誰かに嫌われているかどうかを、そんなふうに確かめなければならない。


 レンは、そのことが悲しかった。


「どうして、そう思うの?」


「だって、俺たちの国は、あんたたちと戦争をしてるから」


「そうだね」


「俺の父さんも、軍にいたんだ」


 少年は俯いた。


「……だから、俺も悪いんだろ」


 レンは、少年の前にしゃがんだ。


「君のお父さんが軍にいたことと、君が悪い人間かどうかは、別のことだと思うよ」


 少年は、不思議そうに顔を上げた。


「でも、俺の国は、あんたたちの人をたくさん傷つけた」


「そうだね。傷ついた人は、たくさんいると思う」


 レンは、簡単に否定しなかった。


 少年の国が戦争をしていることは事実だ。


 その戦争で、多くの人が苦しんでいることも事実だ。


 それをなかったことにして、君は何も悪くないとだけ言えば、少年が抱えているものを、むしろ軽く扱うことになるかもしれない。


「でも、君ひとりが、その全部の責任を背負う必要はないよ」


 レンは続けた。


「君がこれからどうするかは、君が考えていけばいい。誰かを傷つけることも、誰かを助けることも、これからの君自身が選べることだと思う」


「……俺でも?」


「うん。君でも」


 少年は、しばらく黙っていた。


 それから、手の中に握り締めていた木片を差し出した。


「これ、妹が持ってたやつなんだ」


 小さな木片には、何かの模様が刻まれていた。


「逃げるときに、妹がなくしちゃって。俺、見つけたから……渡したいんだけど、妹は別の車に乗せられたんだ」


「別の車?」


「うん。怪我してたから、先に運ばれたんだ。どこにいるのか、わからない」


 少年の声が、震えた。


「俺、妹を見つけられるかな」


 レンは、木片を見つめた。


 助けを求めているのは、少年だけではない。


 彼が探している妹もまた、どこかで誰かを待っているのだろう。


「名前はわかる?」


 レンが尋ねると、少年は頷いた。


「それなら、ここにいる人たちに聞いてみよう。移送の記録が残っているかもしれない」


「本当?」


「うん。ただ、すぐに見つかると約束はできない。でも、一緒に探すことはできるよ」


 少年は、レンの顔をじっと見た。


「……あんた、変な人だな」


「そうかな?」


「俺、敵なのに」


「……君、お腹はすいている?」


 突然の質問に、少年は目を瞬いた。


「……すいてる」


「じゃあ、まずはご飯を食べよう。それから妹を探そう」


 レンが笑うと、少年は少しだけ戸惑いながら、頷いた。


 レンは少年の肩に手を置き、配給所へ案内した。


 その後ろ姿を、少し離れたところからユイが見ていた。


 少年がレンに木片を見せたときの顔。


 妹を探していると話すときの声。


 そして、食事を勧められ、ほんの少しだけ表情を緩めた瞬間。


 ユイには、それらがひどく大切なものに思えた。


 戦争は、人間に名前をつける。


 味方。


 敵。


 兵士。


 民間人。


 守るべき者。


 警戒すべき者。


 その区別が必要になる場面もある。危険を見分けなければ、自分たちの命を守れないこともある。


 けれど、その名前だけで人間のすべてを説明することはできない。


 敵国の少年にも、妹がいる。


 その妹の持ち物を、必死に探している。


 妹の無事を願っている。


 ただ、それだけのことだ。


 それだけのことが、なぜこんなにも難しいのだろう。


 ユイは、そっと息を吐いた。


     ◇


 日が傾くころ、仮設診療所の机には、避難民の名簿が何枚も広げられていた。


 ユイは、負傷者の記録と移送先を照合し、家族の所在を確認していた。


 作業は、思っていた以上に時間がかかった。


 同じ名前の人が何人もいる。


 記録に抜けがある。


 移送された場所が変わっている。


 ひとりの人間の行方を追うだけでも、いくつもの紙を確認しなければならなかった。


「この人は、東の診療所へ移送されたみたい」


 ハナが記録を指した。


「こちらの施設に問い合わせて、家族がいるか確認してみるわ」


「ありがとう。こっちは、妹さんを探している少年の記録なんだけど……」


 ユイが名前を告げると、ハナは別の紙束を手に取った。


「少し待って。子どもの移送記録は別にまとめてあるから」


 二人は手分けして、記録を確認し始めた。


 そのとき、診療所の入口に、リゼが立っているのが見えた。


 彼女は何も言わず、こちらの作業を眺めていた。


 ユイは、手を止めた。


 昨日の告白が、頭をよぎる。


 リゼは敵国の諜報員だった。


 その事実は、今も変わらない。


 彼女がこちらへ来た目的を、ユイはすべて知らない。どんな情報を集め、誰に報告し、何を隠しているのか。


 疑問はいくつも残っている。


 それでも、彼女が名簿を見つめる目には、どこか切実なものがあった。


「……何か用?」


 ユイが尋ねると、リゼは少しだけ肩を揺らした。


「手伝えることがあるかと思って」


「あなたが?」


「ええ」


 ユイは、すぐには答えなかった。


 手伝ってもらっていいのだろうか。


 昨日、自分たちを利用したと認めたばかりの人間に。


 信じることはできない。


 けれど、目の前の作業を進めるために、人手が必要なのも事実だった。


「……避難民の家族の所在を確認しているの。移送先がわからない人もいるから、この記録を照合してもらえる?」


 ユイが名簿を差し出すと、リゼは一瞬、驚いたような顔をした。


「私に任せていいの?」


「信用したわけじゃないよ」


 ユイは、まっすぐに言った。


「でも、今ここで必要なのは、家族を探している人たちを、できるだけ早く見つけることだから」


 リゼは、しばらく彼女を見つめていた。


 それから、静かに名簿を受け取った。


「……わかったわ」


 彼女は空いている机へ移動し、紙を一枚ずつ確認し始めた。


 最初は、事務的な作業だった。


 名前を探し、番号を照合し、移送先を確認する。


 けれど、何枚か紙をめくったところで、リゼの手が止まった。


 名簿に書かれた名前を、彼女はじっと見つめていた。


 それから、隣の紙を引き寄せ、同じ名前がないか確かめる。


 見つからない。


 もう一枚、別の記録を開く。


 そこにも、見つからなかった。


 彼女は、別の名前を探し始めた。


 そしてまた、手が止まった。


 その仕草を見て、ユイは気づいた。


 リゼは、避難民全員の家族を探しているのではない。


 誰か特定の人を、探しているのだ。


「リゼ?」


 呼びかけると、彼女はすぐに顔を上げた。


「何か見つかった?」


「いいえ。まだよ」


 答えは、いつもどおり落ち着いていた。


 けれど、名簿を握る指先は、わずかに震えていた。


 ユイは、その手を見つめた。


 何を探しているのか、尋ねるべきだろうか。


 昨日のことを考えれば、知っておきたいことは山ほどある。


 リゼがなぜ諜報員になったのか。


 どうしてレンの存在を調べていたのか。


 集めた情報を誰に渡していたのか。


 そして、今も何を隠しているのか。


 けれど、今この場で、問い詰める必要があるのだろうか。


 ユイは迷った末、何も聞かずに自分の作業へ戻った。


 リゼが本当のことを話すかどうか。


 彼女を再び信頼できるようになるかどうか。


 その答えは、まだ先にある。


 今は、目の前の人たちのためにできることをしよう。


 それだけは、疑わずにいられた。


     ◇


 夕方、配給所の前では、小さな騒ぎが起きていた。


 食料の配給量を巡って、避難民の男性と、こちら側の住民が言い争っていたのだ。


「子どもがいるんだ。これだけじゃ足りない!」


「こっちだって同じだ! お前たちだけ特別扱いできるわけがないだろう!」


「特別扱いなんて頼んでいない!」


「なら、文句を言うな!」


 言葉は、少しずつ鋭くなっていった。


 ユイは、レンと一緒に二人の間へ入った。


「どうしたの?」


「この人が、食料をもっとよこせと言うんだ!」


 こちら側の住民が言った。


「こっちだって、十分にもらえていないのに!」


「子どもがいるんだ。昨日から何も食べていない子もいるんだぞ!」


 避難民の男性が言い返す。


 レンは、二人の話を聞いたあと、配給記録を確認した。


 避難民への配給量は、こちら側の住民に比べて少なくなっていた。


 理由は、到着時に必要人数の確認が終わっていなかったためだった。


 足りない分を、まだ配り切れていない。


 それが、騒ぎの原因だった。


「ちょっと待ってください。今、人数をもう一度確認します」


 レンは配給係に声をかけ、記録を見直した。


 ユイも手伝い、まだ受け取っていない人の数を数える。


 すると、記録と実際の人数が合っていないことがわかった。


 子どもを抱えた女性が、ひとり分としてしか登録されていなかったのだ。


 配給の担当者は、慌てて記録を訂正した。


「すみません。こちらの確認不足でした」


 謝罪を受けた男性は、すぐには何も言わなかった。


 怒りが消えたわけではないのだろう。


 ただ、自分の子どもが食べるものを得られるとわかったことで、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


「……もういい。ちゃんと配ってくれるなら、それでいい」


 男性は、小さく言った。


 レンは、頷いた。


「確認してくれて、ありがとうございます。次からは、記録を受け取るときに人数も一緒に確認します」


 男性は、意外そうにレンを見た。


「お前は……怒らないのか?」


「え?」


「俺たちが騒いだことだよ」


 レンは少し考えた。


「お腹がすいているときに、食べ物が足りなかったら、不安になると思います。それに、子どもがいるなら、なおさらですよね」


 男性は、口を閉じた。


「もちろん、言い争いにならないほうがいいとは思います。でも、困っていることを伝えてくれなかったら、俺たちも気づけなかったかもしれないから」


 レンは、配給所の中を見た。


「だから、教えてくれてよかったです」


 その言葉に、男性は少しだけ目を伏せた。


「……悪かったな」


「いえ」


 レンは笑った。


「明日からは、ちゃんと食べられるようにします」


 男性は、今度こそ頷いた。


 その様子を見ながら、ユイは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 問題が解決したからではない。


 争いがなくなったからでもない。


 人間は、不安になると、相手を責めてしまうことがある。


 自分の生活を守りたいと願うほど、他人の存在が脅威に見えることがある。


 それでも、相手が何に困っているのか確かめ、間違いがあれば直し、次に同じことが起こらないように考えることはできる。


 人は、最初からわかり合えるわけではない。


 けれど、わかり合えないからといって、話し合うことまで諦める必要はないのだ。


 ユイは、ふとレンを見た。


 彼は、配給係と話しながら、記録の確認を手伝っていた。


 その横顔を見ていると、昨日の不安が少しだけ和らいだ。


 レンの優しさが、いつか誰かに利用されるかもしれない。


 その恐れが消えたわけではない。


 それでも、彼が今していることは、誰かに命じられたからではなく、彼自身が考えて行動していることだった。


 少なくとも、ユイにはそう見えた。


 そして、彼の考えを支えているのは、何も特別な力だけではない。


 目の前の人の話を聞こうとすること。


 間違いがあれば認めること。


 困っている人を、困っている人として見ること。


 そんな、ごく普通の行為の積み重ねなのだ。


     ◇


 夜。


 避難民の受け入れ作業がひと段落すると、救助拠点には疲れた空気が流れていた。


 食堂では、残ったスープが温め直されていた。


 机の上には、今日使った食器が積み重なっている。


 あちこちから、ため息や小さな笑い声が聞こえた。


「今日は、さすがに疲れたね」


 ユイが椅子に座ると、レンが隣に腰を下ろした。


「うん。でも、少しは落ち着いたみたいだ」


「そうだね。まだ問題はたくさんあるけど……」


 言いかけて、ユイは言葉を止めた。


 すべてが解決したわけではない。


 物資は、相変わらず足りない。


 避難民の中には、家族の行方がわからない人もいる。


 こちら側の住民にも、不満や疲れが残っている。


 明日になれば、また別の問題が生まれるだろう。


 それでも、今日は今日で、少しだけ前へ進めた。


 ユイは、温かいスープをひと口飲んだ。


「……レンは、怖くないの?」


 ぽつりと尋ねた。


「何が?」


「敵国の人を助けること。あとから、その人が悪いことをしていたってわかったらどうしよう、とか」


 レンは、少し考えた。


「怖くないわけじゃないよ」


 思いがけず正直な答えだった。


「誰かを助けたことで、別の誰かが傷つくこともあるかもしれない。俺が知らない事情だって、たくさんあると思う」


 レンはスプーンを置いた。


「でも、何もわからないから助けないって決めるのも、違う気がするんだ」


「……うん」


「相手が何をしてきたのか、これから何をするのか。それを知ることは必要だと思う。でも、今、目の前にいる人が怪我をしているなら、まずはその怪我をどうにかしたい」


 レンは、ゆっくりと言葉を続けた。


「そのあとで、必要なことを考えればいいんじゃないかな」


 ユイは、レンの顔を見つめた。


 それは、簡単な答えのようで、簡単にはできないことだった。


 相手を助けながら、相手が何をする人なのかを見極める。


 人を救うことと、危険を避けること。


 優しくすることと、相手のすべてを受け入れること。


 その二つを、どちらか一方だけに決めつけず、両方とも考え続ける。


 それは、きっと疲れることだ。


 それでも、どちらかを放棄してしまえば、簡単に間違った方向へ進んでしまうのかもしれない。


「……レンって、時々、すごく大人みたいなことを言うよね」


「そうかな」


「うん。でも、さっきの配給のことを考えると、ちょっと子どもっぽいところもあるけど」


「えっ、どこが?」


「お腹がすいている子に、先にご飯を食べさせようとするところ。自分の分がなくなるかもしれないのに」


「でも、その子はお腹がすいてたから」


「そういうところだよ」


 ユイは笑った。


 レンは少し困ったように頬を掻いた。


「……ユイだって、そうすると思うけど」


「私は……」


 ユイは、言いかけて黙った。


 以前の自分なら、迷わずそうしただろう。


 自分の食事を後回しにしてでも、誰かを助けようとしたかもしれない。


 けれど、今は少し違う。


 自分が食べなければ、明日の仕事に支障が出る。


 自分が倒れれば、ほかの人に負担をかける。


 助けたい人がいるなら、自分もまた、助ける側として生き続けなければならない。


「……今は、ちゃんと自分の分も食べるよ」


 ユイが言うと、レンは嬉しそうに笑った。


「それがいいと思う」


「レンもね」


「うん」


「約束だよ。自分のことも、ちゃんと大切にすること」


 レンは、少しだけ目を伏せた。


 その約束が、自分にとってどれほど難しいものなのか、彼は知っていた。


 誰かを助けるためなら、自分の命を危険にさらしてもいいと思っていた。


 自分が生き返れるのなら、なおさら、自分の命を差し出してもいいと考えていた。


 けれど、今は違う。


 もう一度、ユイと一緒にご飯を食べたい。


 明日も、明後日も、帰ってきたときに彼女の声を聞きたい。


 戦争が終わったら、約束した甘いものを一緒に食べに行きたい。


 その願いを守りたいと思うようになった。


 自分の命を大切にすることは、誰かを助けることを諦めることではない。


 生きて帰ることもまた、誰かのためにできることなのだ。


「約束するよ」


 レンは答えた。


「ちゃんと食べるし、無茶をする前には相談する」


「本当?」


「本当」


「……なら、いいけど」


 ユイは笑った。


 その笑顔を見て、レンも笑った。


 ただそれだけのことだった。


 戦争は終わっていない。


 リゼの秘密も、レンの過去も、まだ解決していない。


 明日、また誰かを助けられないかもしれない。


 それでも、二人は同じ食卓に座っていた。


 温かいスープを飲み、明日の予定を話し、くだらないことで笑っている。


 そうした時間が、どれほど大切なのか。


 レンは、少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 食堂を出たユイは、廊下の端で、リゼがひとり立っているのを見つけた。


 彼女は、窓の外を眺めていた。


 夜空には、雲が広がっている。


 星はほとんど見えなかった。


「リゼ」


 ユイが声をかけると、彼女は振り返った。


「……何?」


「家族を探しているの?」


 リゼの表情が、わずかに変わった。


「どうして、そう思うの?」


「今日、名簿を見ていたとき。あなたは、誰かの名前を探しているように見えたから」


 リゼは、しばらく黙っていた。


 否定することもできたはずだ。


 違うと答え、別の話をして、そのまま立ち去ることもできた。


 けれど、彼女はそうしなかった。


「……そうね」


 小さく答えた。


「探している人がいるわ」


「敵国に?」


「ええ」


 ユイは、続きを待った。


 リゼはそれ以上、何も言わなかった。


 今はまだ、話せないのかもしれない。


 あるいは、話すべきかどうか、迷っているのかもしれない。


 ユイは、自分から問い詰めることをしなかった。


「見つかるといいね」


 ただ、それだけを言った。


 リゼは、驚いたように目を見開いた。


「……あなたは、私がどんな人間なのか、わかっているの?」


「全部はわからないよ」


 ユイは正直に答えた。


「あなたが敵国の諜報員だということも、私たちを利用したことも、忘れてはいない。あなたを、すぐに信じられるわけでもない」


 リゼの目が、少しだけ曇った。


「でも、誰かを探しているなら、見つかってほしいと思う。それだけだよ」


「どうして?」


「どうしてって……」


 ユイは、少し考えた。


 なぜだろう。


 自分を利用した人間に、そんなことを願う必要はないのかもしれない。


 彼女が何をしたのかを思えば、簡単に優しい言葉をかけるべきではないのかもしれない。


 けれど、リゼが家族を探しているという事実を聞いたとき、ユイの中に生まれたのは、疑いや怒りだけではなかった。


 彼女にも、帰りたい場所がある。


 見つけたい人がいる。


 その人に会いたいと願っている。


 それは、今日、レンに妹を探してもらっていた少年と、何が違うのだろう。


「……会いたい人がいるのは、悪いことじゃないと思うから」


 ユイは言った。


「ただ、それだけ」


 リゼは、何かを言おうとして、やめた。


 その瞳に、一瞬だけ、隠しきれない感情が浮かんだ。


 悲しみ。


 安堵。


 そして、自分でも整理できない何か。


「あなたは、危うい人ね」


 リゼは、かすかに笑った。


「敵だとわかっている相手にも、そんなことを言うなんて」


「そうかな」


「そうよ。人を信じることと、人に利用されることの境目を、間違えてしまいそう」


 ユイは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 人を信じること。


 人に利用されること。


 自分は、その違いを本当に理解できているのだろうか。


 レンのことを思えば、誰かを信じたい。


 彼の優しさが、人を信じることから生まれているのなら、その優しさを疑うことで傷つけたくはない。


 けれど、信じることが、相手に何をされても受け入れることになってしまったら。


 自分も、レンも、いつか取り返しのつかないものを失うかもしれない。


 その危うさを、ユイは今日、知ったばかりだった。


「……だから、気をつけるよ」


 ユイは答えた。


「でも、疑うことだけが、自分を守る方法だとも思わないから」


 リゼは、ゆっくりと目を伏せた。


「そうね」


 それ以上、二人は何も話さなかった。


 廊下の向こうから、食器を片づける音が聞こえる。


 誰かが笑い、誰かが明日の予定を確認している。


 避難してきた人々も、疲れた身体を休める場所を探しているだろう。


 敵国の人間も、こちら側の人間も、今夜は眠る。


 明日の朝になれば、また生きるために目を覚ます。


 どちらの国に生まれたかに関係なく、人は帰りたい場所を持ち、会いたい人を思い、失いたくないものを抱えている。


 戦争は、その当たり前のことを、見えにくくしてしまう。


 だからこそ、忘れないことが必要なのかもしれなかった。


 誰かの国籍を知ることと、その人のすべてを知ることは違う。


 誰かが犯した罪を忘れないことと、その人の明日まで否定することも違う。


 そして、誰かを助けることと、その人を信じ切ることも、同じではない。


 ユイは、廊下の窓から夜空を見上げた。


 明日も、きっと簡単ではない。


 誰かが不満を訴え、誰かが助けを求め、誰かが判断を迫られるだろう。


 全員を救える保証はない。


 それでも、考えることを諦めたくはなかった。


 誰かを敵と呼ぶ前に、その人が何を失ったのかを知ろうとすること。


 自分たちの生活を守りながら、他人の命を切り捨てない方法を探すこと。


 信じるべきところと、疑うべきところを、何度でも考え直すこと。


 それが、今の自分にできることなのだと思った。


 ユイは廊下を歩き出した。


 その先には、明日も続いていく救助拠点の暮らしがある。


 誰かと食事をし、誰かを助け、時には迷いながら、それでも一日を積み重ねていく場所がある。


 レンも、そこにいる。


 リゼも、そこにいる。


 そして、今日この場所へ逃れてきた人々も、明日を生きようとしている。


 彼らの過去は違う。


 立場も違う。


 背負っている責任も、抱えている罪悪感も、きっと同じではない。


 それでも、これから何を選ぶかという問いは、誰の前にも残されている。


 その答えを、国に決めさせるのか。


 過去に決めさせるのか。


 それとも、自分自身で選ぶのか。


 ユイには、まだわからなかった。


 ただひとつ、わかっていることがあった。


 誰かが帰る場所を失ったとき。


 誰かが会いたい人に会えなくなったとき。


 誰かが、自分はもう、どこにも居場所がないと思ってしまったとき。


 そんな人に向かって、あなたは敵だから、と言うだけの人間にはなりたくなかった。


 いつか、レンが自分の過去を知ったとき。


 もし彼が、どこにも帰る場所がないと思ってしまったら。


 そのときは、自分が彼の隣にいたい。


 そう思った瞬間、ユイは自分の胸に手を当てた。


 それは、彼を守りたいという気持ちだった。


 そして同時に、彼と一緒に生きていきたいという、まだ声には出せない願いでもあった。


 戦争が終わる日は、まだ見えない。


 けれど、戦争が終わったあとに、誰と、どこで、どんなふうに生きていたいのか。


 少しずつ考えられるようになっていた。


 その未来の中には、レンがいた。


 彼が笑っていて、自分も笑っている。


 夕食を食べ、明日の予定を話し、帰り道を一緒に歩いている。


 何も特別なことのない日々。


 けれど、失いたくないと思える日々。


 その小さな未来を守るためにも、今を生きなければならない。


 ユイは、静かに息を吸った。


 明日もまた、人を助けよう。


 自分ひとりではなく、仲間と一緒に。


 敵も味方も、ひとつの名前だけで判断せずに。


 誰かを助けることの難しさから、逃げずに。


 そして、自分自身の命も、レンの命も、他の誰かの命も、決して当たり前のものだと思わずに。


 夜の救助拠点には、今日を生き延びた人々の寝息が、少しずつ広がっていた。


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