13.敵国の諜報員
人を信じることは、相手のすべてを知ることではない。
知らない部分があると承知したうえで、それでも隣に立つことなのだと、ユイは思い始めていた。
けれど、その考えはまだ、彼女の中で形になりきってはいなかった。
知らないことがあるのと、隠されていたことがあるのとでは、何が違うのだろう。
知らない部分は、これから少しずつ知っていけばいい。けれど、隠されていた部分には、最初から自分の知らないところで何かが進んでいたという事実がある。自分が笑っていたときも、誰かと食事をしていたときも、その人は別の顔を持っていたのかもしれない。
その可能性を想像するだけで、ユイの胸の奥はひどく冷たくなった。
その日の朝、救助拠点はいつもより慌ただしかった。
前日の雨で傷んだ避難所の屋根を修理するため、工具と木材を運ぶ者が行き交っている。負傷者の容体を記録する医療班の声と、配給物資を確認する係の声が重なり、建物の中には絶えず人の気配があった。
平和とはほど遠い。
それでも、ここには生きている人々の営みがあった。
誰かが食事を作り、誰かが怪我人の包帯を替え、誰かが泣いている子どもの手を握る。昨日まで知らなかった人同士が、限られた物資を分け合いながら、一日をどうにか越えようとしている。
ユイはその光景が好きだった。
好きだからこそ、失いたくなかった。
「ユイ、悪いけど、この名簿を東側の仮設診療所に届けてくれる?」
ハナに紙束を渡され、ユイは顔を上げた。
「わかった。負傷者の移送記録も一緒でいい?」
「ええ。あと、避難経路の変更を書いた紙も入っているから、間違えないようにね」
「了解」
受け取った紙束を布袋にしまう。
そのとき、ふと、数日前のことが頭をよぎった。
リゼが、避難者名簿をいつになく注意深く見ていたこと。
ユイが何気なく声をかけると、彼女はすぐに紙から目を離し、何事もなかったかのように微笑んだ。
あのときのリゼは、何を探していたのだろう。
いや、そもそも、どうしてそんなことを今になって考えるのだろう。
疑いたいわけではなかった。
むしろ、疑いたくないのだ。
自分たちが苦労して見つけた秘密の経路を教えてくれた。危険な場所に取り残された人々を助けるために、何度も力を貸してくれた。無愛想に見えることもあるけれど、彼女は彼女なりに、ここで暮らす人たちを気にかけているように思えた。
少なくとも、ユイはそう信じていた。
「ユイ?」
ハナの声に、我に返る。
「どうしたの。何か気になることでもある?」
「ううん。何でもない」
ユイは首を横に振った。
人を疑うのは簡単だ。
疑い始めれば、相手の何気ない仕草まで意味ありげに見えてくる。曖昧な言葉は嘘に聞こえ、沈黙は隠し事の証拠になる。そうやって相手の中に疑う理由を探しているうちに、いつしか自分自身が、相手を信じられなくなってしまう。
それは、助けたいと思っていた人に対して、失礼なことではないだろうか。
ユイは自分にそう言い聞かせ、布袋を抱え直した。
けれど、その日の午後。
彼女は、自分の疑いが杞憂であることを願う気持ちと、疑いが正しかったと認めなければならないかもしれない恐怖を、同時に味わうことになった。
◇
東側の仮設診療所へ向かう途中、ユイは資材置き場の裏手で、見慣れた後ろ姿を見つけた。
紫色の髪。
少し伏せられた顔。
リゼだった。
彼女は、人目につきにくい崩れかけた建物の陰に立っていた。片手には、小さな金属製の道具が握られている。指先で何かを調整するような動きを繰り返し、ときおり周囲を見回していた。
ユイは足を止めた。
声をかけようとして、ためらった。
何をしているのだろう。
そう考えた瞬間、リゼが手元の道具を耳元へ持ち上げた。
「……確認できた。記録にあった人物は、間違いなく生存している」
低く抑えられた声だった。
ユイは息をひそめた。
「回生能力も健在。ただし、残存回数については確証がない。現在の情報では――」
回生能力。
その言葉を聞いた途端、ユイの頭の中で何かが音を立ててつながった。
レン。
リゼが知っていたこと。
レンの胸にある回生核。
残された回数。
そして、敵国の軍事計画。
偶然で片づけるには、あまりにも多くのものが一致していた。
「リゼ……?」
思わず声が漏れた。
リゼの身体が、目に見えて硬直する。
手元の道具を握り込むと、彼女はゆっくりと振り返った。
その瞳に浮かんでいたのは、驚きだけではなかった。
見られてはいけないものを見られた人間の、切迫した表情だった。
「ユイ」
いつもの落ち着いた声だった。
けれど、その声はほんのわずかにかすれていた。
「今の……何?」
「何のこと?」
「とぼけないで」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
リゼは答えなかった。
いつものように、少し首を傾けることもしない。ただ、ユイを見つめていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「レンのことを報告していたの?」
ユイは一歩、リゼに近づいた。
「あなたは、最初からレンのことを知っていた。彼が生き返ることも、回生核のことも。だから、あのとき……私たちの前に現れたの?」
リゼの指が、金属製の道具を強く握り締めた。
「ユイ、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょう!」
声が、資材置き場の壁に反響した。
近くを通っていた人が、ちらりとこちらを見た。ユイはそれに気づき、唇を噛んだ。
怒鳴りたいわけではなかった。
ただ、怖かった。
自分が信じていたものが、実は最初から別の意味を持っていたのかもしれない。その可能性が、彼女の足元を少しずつ崩していく。
「あなたは……私たちを利用したの?」
リゼは目を伏せた。
ほんの数秒の沈黙。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「そうよ」
あまりにも静かな答えだった。
ユイは言葉を失った。
「私は敵国の諜報員。こちら側に入り込んで、軍事情報を集めていた。その過程で、回生兵計画に関わった可能性のある少年が、この地域にいるという情報を得たの」
リゼは、まっすぐにユイを見た。
「その少年が本当にレンなのか。回生能力は残っているのか。軍が再び彼を利用できる可能性はあるのか。それを確かめる必要があった」
「……だから、私たちに近づいたの?」
「ええ」
「秘密の経路を教えてくれたのも?」
「それは本当に必要だったからよ。あの道を使わなければ、助けられなかった人がいた」
「でも、最初から目的があったんでしょう?」
「否定はしない」
リゼは、言い訳をしなかった。
だからこそ、ユイは何も言えなかった。
嘘をついた人間が、必ずしもすべてを偽っているわけではない。誰かを助けたことも、誰かに親切にしたことも、本当だったのかもしれない。
けれど、本当の行為の中に嘘が混じっていたと知ったとき、人はどこまで過去を信じ直せばいいのだろう。
リゼが差し出した手。
傷ついた人に向けた視線。
避難経路を説明するときの真剣な表情。
それらは、どこまでが本当だったのだろう。
ユイには、判断することができなかった。
「どうして……」
喉の奥がひどく乾いていた。
「どうして、そんなことを平気で言えるの?」
「平気なわけじゃないわ」
リゼの声は、初めて感情を帯びた。
「でも、今さら隠し続けることにも意味がない。あなたに知られた以上、誤魔化しても、もっとひどいことになるだけだから」
「それなら、最初から話してくれればよかったでしょう!」
「話したら、あなたたちは私を信じなかった」
「当たり前よ!」
即座に答えたあと、ユイは自分の声に怯んだ。
当たり前。
そう言い切ってしまえば、すべてが簡単になる。
敵国の人間だから信じない。嘘をついたから許さない。利用しようとしたから、もう二度と関わらない。
正しい判断のように見える。
けれど、それだけで終わらせていいのだろうか。
リゼは、ユイが救助活動をする姿を何度も見てきた。危険な場所に飛び込むユイを、時には止め、時には支えた。そのリゼのどこかに、ユイの知らない事情があったのだとしても。
だからといって、裏切りをなかったことにはできない。
ユイは拳を握り締めた。
「私は、あなたが何かを隠しているかもしれないって、少しは思ってた。でも……」
言葉が続かなかった。
少し疑っていたことが、今さらになって自分を責める材料になった。
もっと早く気づいていれば。
もっと注意深く見ていれば。
レンのことを利用させずに済んだかもしれない。
そう考える自分が、嫌だった。
自分はまた、すべてを見抜けなかったことを悔やんでいる。
助けられなかった人がいたときと同じように。
誰かを信じた結果、傷ついたかもしれないときと同じように。
自分の無力さを、別の形で突きつけられている気がした。
「レンには……もう報告したの?」
「まだよ」
「これから話すつもりだった?」
「ええ」
「何を?」
リゼは、ほんの一瞬、口を閉ざした。
「彼が軍事計画に関係していたこと。回生能力が軍にとってどれほど価値のあるものなのか。そして、彼が今も生きていると知られれば、再び追われる可能性があること」
「そんなこと、あなたが伝えなくても……」
「誰かが伝えなければいけない」
リゼの瞳が、鋭くなった。
「あなたたちは、彼のことを大切にしている。でも、彼が何者なのかを知らなければ、何から彼を守ればいいのかもわからない」
ユイは息を呑んだ。
その言葉の一部は、間違っていなかった。
レンが何者なのか、まだ誰にもわからない。彼の身体にある回生核がどのような原理で動いているのかも、どこまで命を維持できるのかも、何ひとつ確かなことはない。
彼は、人間なのだろうか。
それとも、誰かが作り出した兵器なのだろうか。
その問いに、ユイは答えられなかった。
だからといって、リゼが彼を調べ、報告していい理由になるわけではない。
「レンは、ものじゃない」
ユイは、ゆっくりと言った。
「軍が必要だからって、誰かが作った計画に関わっていたからって、勝手に調べて、勝手に利用していい人じゃない」
「わかっているわ」
「本当に?」
リゼは答えなかった。
その沈黙を見つめながら、ユイは胸の奥で、別の感情が膨らんでいくのを感じた。
怒りだけではない。
レンの知らない場所で、レンの命が、また誰かの都合に巻き込まれようとしている。そのことが、何よりも怖かった。
彼は、自分が何者なのかさえ知らない。
記憶もない。帰る場所もない。
それでも誰かが助けを求めれば、迷わず手を伸ばす。
その優しさを、利用されてほしくなかった。
彼が生き返るからといって、何度でも傷つけていいわけではない。
彼が命を惜しまないからといって、その命を惜しまなくていいわけではない。
誰かを助けるために死ぬことを、彼自身が選んでしまうからこそ。
その選択を、他人に都合よく使わせてはいけないのだ。
◇
「何の話をしてるんだ?」
不意に、背後から声がした。
ユイは振り返った。
レンが立っていた。
いつものように、少し不思議そうな顔をしている。片手には、修理を頼まれていた工具箱があった。おそらく、資材置き場へ道具を戻しに来たのだろう。
彼はユイとリゼを交互に見た。
「二人とも、ずいぶん真剣な顔をしているけど」
その何気ない問いかけが、ユイの胸に突き刺さった。
言わなければならない。
今すぐ、何もかも。
けれど、どう伝えればいいのだろう。
あなたのことを調べている人がいた。
あなたを助けてくれた人が、あなたを利用するために近づいてきた。
あなたは、もう一度、誰かに狙われるかもしれない。
その言葉を口にした瞬間、レンの中で、何かが壊れてしまうのではないか。
そんな恐怖が、ユイの喉を塞いだ。
「レン……」
「うん?」
レンは、いつもと変わらない目で彼女を見た。
その目に、疑いはなかった。
ユイは、そのことが苦しかった。
彼は人を疑うことに慣れていないのかもしれない。
誰かを信じても裏切られることがあるという事実を、記憶の中に持っていないからかもしれない。
あるいは、過去がなくても、彼の中には人を信じようとする気持ちが残っているのかもしれない。
どちらにしても、その信頼は、あまりにも無防備に見えた。
「リゼは……」
言いかけたユイを、リゼが遮った。
「私から話すわ」
彼女はレンのほうを向いた。
「私は敵国の諜報員よ」
風が吹いた。
建物の隙間を通り抜けた風が、地面に散らばった小さな紙片を転がしていく。
レンは動かなかった。
「諜報員……?」
「こちら側に潜入して、軍事情報を集めていた。あなたが回生兵計画に関わっている可能性があると知って、あなたの生存を確かめるために近づいたの」
リゼは淡々と説明した。
最初に出会ったときから、情報を集めていたこと。
秘密の経路や救助活動についても、状況を観察していたこと。
レンの回生能力に関する報告を、敵国側へ送ろうとしていたこと。
ただし、今までの救助活動がすべて演技だったわけではないことも、彼女は隠さなかった。
「助けられた人たちがいるのは事実よ。あなたたちが救った人の命を、私は否定しない。でも、私は自分の目的のために、あなたたちに近づいた」
レンは、しばらく黙っていた。
怒るだろうか。
責めるだろうか。
ユイは彼の横顔を窺った。
レンの表情からは、すぐには何も読み取れなかった。
「そうか」
やがて、彼は言った。
それだけだった。
リゼの眉が、わずかに動いた。
「……怒らないの?」
「怒っていないわけじゃないよ」
レンは、工具箱を地面に置いた。
「でも、今の話を聞いただけじゃ、何をどう怒ればいいのか、まだわからないんだ」
彼は少し困ったように笑った。
「僕は、自分のこともよくわかっていないから。リゼが何を知りたかったのか、その理由も、まだ全部はわからない。ただ……僕が生きていることを、誰かに報告しようとしていた。それは、怖いと思う」
その声には、偽りのない恐怖があった。
レンは、自分の命を惜しむことに少しずつ慣れ始めている。
生きたいと思うようになっている。
だからこそ、自分の知らない場所で、自分の命が誰かの計画の一部として扱われていると聞けば、怖くないはずがなかった。
ユイは、その事実が嬉しくもあり、苦しくもあった。
レンが怖いと思うこと。
失いたくないものを持ち始めたこと。
それはきっと、彼が自分の命を自分のものとして考え始めた証なのだろう。
「リゼ」
レンは彼女を見た。
「どうして、僕のことを話してくれたんだ?」
「ユイに見られたからよ」
「それだけ?」
リゼは答えなかった。
レンは、しばらく彼女を見つめていた。
「嘘をつき続けることが、嫌になったのかと思った」
リゼの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「……あなたは、ずいぶん人を信じるのね」
「そうなのかな」
「自分を利用しようとした人間にまで、理由を探そうとする」
「理由がわかれば、これからどうするべきか考えられるから」
レンは、そう答えた。
「相手を許せるかどうかは、そのあとに決めればいいと思う」
それは、簡単なことを言っているようで、実際には簡単ではなかった。
信じることと、許すこと。
理解することと、認めること。
それらは似ているようで、同じではない。
誰かがなぜ嘘をついたのか理解できたとしても、その嘘によって傷ついた事実は消えない。事情を知ったからといって、裏切りを受け入れなければならないわけでもない。
レンは、その区別を直感的に理解しているようだった。
あるいは、まだ十分には理解できていないからこそ、決めつけずにいられるのかもしれない。
リゼは目を伏せた。
「あなたには、私を責める権利があるわ」
「うん」
「あなたの命を、情報として扱おうとしたんだから」
「うん」
「それでも、何も聞かないの?」
「聞きたいことならあるよ」
レンは、静かに言った。
「君の国では、どうしてそんな計画が必要だったんだ?」
ユイは息を呑んだ。
リゼが顔を上げる。
「何ですって?」
「回生兵計画だよ。人が生き返る力を、どうして軍が欲しがるんだろう」
レンは自分の胸に、そっと手を当てた。
衣服の下には、回生核がある。
自分の命を支えているのかもしれないもの。
自分を人間から遠ざけているのかもしれないもの。
彼が生きている証拠であると同時に、彼が何者なのかをわからなくしているもの。
「戦争で死ぬ人を減らしたかったから?」
レンは尋ねた。
「それとも、死んでも戦い続けられる兵士が欲しかったから?」
リゼは、すぐには答えなかった。
その沈黙こそが、答えの一部なのだとユイには思えた。
人は、同じ技術を異なる理由で求めることがある。
誰かの命を救いたいと願う人もいる。
自分たちが勝利するために、他人の命を利用したいと考える人もいる。
その二つは、同じ道具から生まれることさえある。
命を救うための技術が、命を使い潰すための技術に変わる。
善意から始まったものが、いつの間にか誰かを傷つける仕組みになる。
その境目は、どこにあるのだろう。
「両方よ」
リゼは、やがて答えた。
「少なくとも、そういう考え方をする人たちがいた。自分たちの兵士を守りたいという人もいたし、敵より優位に立ちたいという人もいた。回生能力が本当に実現すれば、戦争の形そのものを変えられる。そう信じていたの」
「でも、レンは道具じゃない」
ユイは、もう一度言った。
今度は、リゼに言い聞かせるためだけではなかった。
自分自身にも、そう言い聞かせていた。
「彼が何者でも、何のために生まれたとしても、今ここで、誰かを助けたいと思って生きていることは変わらない」
レンが、ゆっくりとユイを見た。
その視線に気づいて、ユイは一瞬、言葉を詰まらせた。
自分は何を言っているのだろう。
まるで、彼のことを誰よりも理解しているかのように。
けれど、本当は違う。
ユイはレンのすべてを知らない。
記憶も、過去も、彼が何を恐れているのかさえ、まだ十分にはわかっていない。
それでも。
彼が食事をするとき、少しだけ安心した顔をすることを知っている。
助けた人が無事だとわかると、誰にも見えないところで肩の力を抜くことを知っている。
危険な場所から戻ってきたあと、ユイが無事かどうかを最初に確かめることを知っている。
彼の胸の中に何があるのかはわからない。
でも、彼が誰かの手を取るときの温度なら、知っている。
今、ここにいるレンなら、知っている。
それだけでは足りないのだろうか。
「私も……」
リゼが小さな声で言った。
「そう思っているわ」
ユイは彼女を見た。
「だからこそ、危険なのよ」
リゼの声には、先ほどまでとは違う重さがあった。
「もし回生兵計画が再開されれば、彼の能力を利用しようとする人間が現れる。彼がどこまで生き返れるのか、どうすれば回生核が機能するのか。それを調べようとする人間がね。敵国だけとは限らない。戦争で追い詰められた国が、勝利のために何を選ぶかなんて、誰にもわからない」
ユイの背筋に、冷たいものが走った。
リゼの言うことは、脅しではない。
レンが生き返れることを知った人間が、その力を自分の利益のために使おうとする可能性。
それは十分に考えられた。
そして、一度知られてしまえば、簡単には取り消せない。
リゼは、自分の持つ道具を見下ろした。
「あなたたちを利用したのは事実よ。それを正当化するつもりもない。けれど、ひとつだけ覚えておいて。彼が自分の命をどう使うかを決める前に、他人がそれを決めてしまうことだけは、避けなければならない」
ユイは、その言葉にすぐ答えられなかった。
彼女自身も、レンに対して同じことをしていたのではないだろうか。
もう危険なことはしないでほしい。
もう死なないでほしい。
残された回数が少ないのだから、これ以上は命を懸けないでほしい。
その願いは、レンを守りたいという気持ちから生まれていた。
けれど、それを理由に、彼が誰かを助けようとする気持ちまで奪ってしまってはいないだろうか。
自分の恐怖を、レンの選択に重ねてしまってはいないだろうか。
そんな考えが、胸の奥に小さな痛みを生んだ。
それでも、だからといって、他人が彼の命を利用していいわけではない。
彼が自分で選ぶことと、他人から選ばされることは違う。
守りたいという気持ちと、所有したいという気持ちも違う。
その違いを、ユイは忘れたくなかった。
◇
リゼは、工具箱を持ち上げたレンを見た。
「あなたは、これからどうするつもり?」
「どうするって?」
「私を信用できないでしょう」
「今までと同じようには、難しいと思う」
レンは正直に答えた。
「でも、話を聞くことはできる。君が知っていることを、全部教えてほしい。僕が何者なのか、どうして生き返るのか。これから何が起こる可能性があるのか」
「すべての情報が手に入るとは限らないわ」
「それでも、知らないままでいるよりはいいと思う」
レンは少しだけ、ユイのほうを向いた。
「自分のことだから、ちゃんと知りたいんだ」
その言葉を聞いて、ユイは胸が締めつけられた。
これまで、レンが自分の過去をどこまで知りたがっているのか、よくわからなかった。
記憶がないことを寂しそうにすることはあっても、無理に思い出そうとはしなかった。今ここで自分ができることを探し、目の前の人を助けようとしていた。
過去がなくても、人は生きていける。
レンは、そう考えていたのかもしれない。
けれど、過去がなくてもいいということと、自分が何者なのかを知りたいと思わないことは違う。
知らないことを受け入れるのと、知る機会を諦めるのも違う。
レンは、少しずつ自分の人生を取り戻そうとしている。
誰かに与えられた役割ではなく、自分の意思で選ぶ人生を。
「レン……」
ユイが呼びかけると、彼は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。ひとりで決めるつもりはないよ」
その言葉に、ユイは小さく息を吐いた。
彼は、変わり始めている。
命を惜しまない少年から、命を大切にしながら人を助けたいと願う少年へ。
ただ誰かを救えればいいと思っていた少年から、救った人と、そして自分自身と、これからも一緒に生きていきたいと願う少年へ。
その変化は、まだ小さい。
それでも確かに、彼の中に根を張り始めている。
「……私も、一緒に考える」
ユイは言った。
「あなたが何者なのか、どうしてそんな力を持っているのか。簡単には答えが出ないかもしれないけど、一緒に調べたい」
「ありがとう」
「でも」
ユイはリゼを見た。
「あなたのしたことを、すぐに許せるわけじゃない」
リゼは静かに頷いた。
「わかっているわ」
「これからも協力するかどうかは、あなたが本当のことをどこまで話してくれるか、それから考える」
「それでいい」
リゼは、わずかに笑った。
いつもの、どこか余裕のある笑顔ではなかった。
疲れた人間が、ようやく肩の力を抜いたときのような、頼りない笑みだった。
「あなたは、私が思っていたより厳しいのね」
「そうかな」
「ええ。誰かを助けたいと思う気持ちと、何をしても許すことは違う。そういうことなのでしょう?」
ユイは答えなかった。
自分が今、どこまで理解できているのか、まだわからなかったからだ。
ただ、そうありたいと思った。
相手の事情を知ること。
相手を理解しようとすること。
そして、自分が傷ついたという事実を、なかったことにしないこと。
そのすべてを、同時に抱えられる人間でありたかった。
優しさとは、何でも許すことではない。
信頼とは、一度信じた相手を疑わないことでもない。
相手が間違えることも、自分が傷つくことも認めたうえで、それでもどう関わるかを選び続けることなのかもしれなかった。
◇
三人が資材置き場を離れたころには、日が傾き始めていた。
救助拠点に戻る道で、レンは何度か自分の胸に手を当てた。
回生核。
回生兵計画。
敵国の諜報員。
聞き慣れない言葉ではない。
それでも、誰かが口にするたび、自分が少しずつ自分自身から遠ざかっていくような気がした。
自分は、人間なのだろうか。
人間として生まれたのだろうか。
誰かが、兵士として使うために作ったのだろうか。
もし、自分の優しささえ、戦場で兵士を使いやすくするために組み込まれたものだったとしたら。
困っている人を見過ごせないことも。
誰かが泣いていると、胸が痛むことも。
助けた人が笑ってくれたとき、嬉しくなることも。
そのすべてが、誰かに与えられた機能だったとしたら。
自分の気持ちは、どこにあるのだろう。
レンは足を止めた。
「どうしたの?」
ユイが振り返る。
「……少し、考え事をしてた」
「回生兵計画のこと?」
「うん」
レンは、正直に頷いた。
「僕が誰かを助けたいと思うのも、もしかしたら、そういうふうに作られたからなのかなって」
口にすると、思った以上に苦しかった。
答えがわからないことが苦しいのではない。
答えが、自分の信じていたものを否定するかもしれないことが怖かった。
自分の気持ちは自分のものだと、信じたい。
誰かに命じられたからではなく、自分が助けたいと思ったから、手を伸ばしてきたのだと。
けれど、それを証明する方法がわからない。
人間だとわかれば、証明できるのだろうか。
人工的に作られた存在ではないと確認できれば、自分の気持ちを信じられるのだろうか。
そもそも、人間であれば、心は必ず自分のものなのだろうか。
育った環境に影響され、誰かの言葉に傷つき、社会の価値観をいつの間にか身につけていく。人間だって、何もないところから自分の心を作るわけではない。
だとしたら、自分の気持ちが何かの影響を受けていることと、自分の気持ちではないことは、同じではないはずだ。
そう考えても、まだ不安は消えなかった。
レンは、自分の手を見つめた。
この手で、何人もの人を助けてきた。
誰かの身体を支え、落ちてくるものから庇い、逃げ道を探し、傷ついた人を安全な場所へ運んできた。
それは、命令だったのだろうか。
記録に書かれた役割だったのだろうか。
それとも――。
「レン」
ユイが、静かに名前を呼んだ。
「私には、あなたが何者なのか、まだわからない」
レンは顔を上げた。
「人間なのか、そうじゃないのか。どうして生き返るのか。あなたの過去に何があったのか。今の私には、どれも答えられない」
ユイは、言葉を選びながら続けた。
「だから、適当なことを言って安心させるつもりはないよ。あなたは絶対に人間だとか、あなたの気持ちは全部本物だとか……私が確かめられないことを、簡単には言いたくない」
レンは、黙って聞いていた。
「でもね」
ユイは、まっすぐに彼を見た。
「あなたが、私たちと一緒にご飯を食べて、助けた人の無事を喜んで、帰り道に明日の予定を考えて。戦争が終わったら甘いものを食べに行こうって言ってくれたこと。それまで、全部、なかったことにはしたくない」
レンの瞳が、かすかに揺れた。
「それが、あなたの心がどこから生まれたのかを証明できるわけじゃない。でも、私は、そのときのあなたを知っている」
ユイは少しだけ、恥ずかしそうに視線を落とした。
「あなたが自分のことをわからなくなったときは、私が知っているあなたのことを話すよ。私もわからなくなったら、一緒に考える。だから……ひとりで答えを出そうとしないでほしい」
レンは、すぐには返事ができなかった。
胸の奥に、温かいものが生まれていた。
それは、回生核の光とは違う。
誰かが装置に組み込んだ機能なのかもしれない、という疑いから、完全に逃れられたわけではない。
けれど、目の前にいるユイの言葉を聞いて、彼女のことを大切だと思った。
その気持ちまで、今すぐに疑ってしまいたくはなかった。
「ありがとう、ユイ」
レンは言った。
「……僕、君がいてくれてよかった」
ユイは、何か言おうとして、口を閉じた。
胸が高鳴った。
彼の何気ない言葉が、自分の中の大切な場所に触れてくる。
彼のことが好きだ。
それを、もう否定することはできない。
けれど、その気持ちを今、伝えるべきなのかはわからなかった。
彼は自分の過去と向き合い始めたばかりだ。
自分が何者なのかもわからず、これから何が起こるのかもわからない。
そんな彼に、好きだと告げることは、彼を支えることになるのだろうか。
それとも、彼に新しい悩みを与えてしまうのだろうか。
ユイは、結論を急がないことにした。
彼のそばにいることと、自分の気持ちを押しつけることは違う。
今はただ、彼が自分の足で自分の未来を選べるように、隣にいたかった。
「……私も」
ユイは小さく答えた。
「レンがいてくれて、よかったよ」
言い終えてから、顔が熱くなる。
レンは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日の昼ご飯も一緒に食べよう」
「えっ?」
「いや、だって、ユイと食べるご飯はおいしいから」
あまりにも自然に言うものだから、ユイは返事に困った。
「……もう。そういうところ、ずるい」
「何が?」
「何でもない!」
ユイは少し早足になった。
レンは理由がわからないまま、その隣を追いかける。
ほんの短い会話だった。
世界の戦況が変わったわけではない。
リゼの嘘が消えたわけでも、レンの過去が明らかになったわけでもない。
明日になれば、また救助活動が始まる。
人手は足りず、物資は限られ、助けを求める声は途切れないだろう。
それでも、二人の間には、いつもと同じ帰り道があった。
隣を歩く人がいる。
明日の昼ご飯を一緒に食べようと約束できる。
帰った先には、今日を終えた人たちがいて、温かい食事が用意されているかもしれない。
レンは、そのことを大切だと思った。
自分が何者なのか、まだわからなくても。
自分がなぜ生まれたのか、まだわからなくても。
自分がこれから、誰かに何を求められるのか、わからなくても。
少なくとも、今の自分は、この帰り道を失いたくないと思っていた。
◇
二人が救助拠点に戻ったあと、リゼはひとりで東側の建物に残っていた。
手の中の通信道具は、もう沈黙している。
報告を完了させることはできなかった。
レンの生存は確認できた。
回生核も、彼の胸で機能しているらしい。
だが、残された回数には不確かな点が多く、軍事的な価値を判断するには情報が足りない。
それを伝えることはできる。
しかし、リゼはすぐには通信を再開しなかった。
目を閉じる。
浮かんできたのは、敵国の冷たい部屋でも、暗号化された命令書でもなかった。
瓦礫のそばで、必死に人を助けようとしていたユイの姿。
傷ついた人の手を握り、無理に笑わせようとしていたレンの姿。
そして、先ほどのレンの問い。
――君の国では、どうしてそんな計画が必要だったんだ?
敵国の兵士にも、家族がいる。
帰りたい家があり、待っている人がいて、戦争が終わったらやりたいことがある。
それは、こちら側の人間と何も変わらない。
けれど、戦争が始まると、人は相手の名前より先に、所属を知ろうとする。
敵国の人間。
味方の人間。
救うべき者。
切り捨てるべき者。
そうやって世界を分類してしまえば、目の前の相手が何を考え、何を失い、何を恐れているのかを考えずに済む。
考えずに済むから、命令できる。
考えずに済むから、命を数字に変えられる。
リゼは、ゆっくりと目を開けた。
自分も、同じことをしていたのかもしれない。
レンという人物を、回生兵計画に関わる重要情報として扱った。
ユイを、情報収集の妨げになるかもしれない人間として見ていた。
救助拠点の人々を、報告書に載せるべき情報の一部として眺めたこともある。
自分には理由があった。
目的があった。
やらなければならないことがあった。
それらは、嘘ではない。
けれど、理由があるからといって、何をしても許されるわけではないことも、彼女にはわかっていた。
「……私は、何をしているんだろう」
誰にも届かない声が、空っぽの建物に落ちた。
答えはなかった。
ただ、夕暮れの光が、ひび割れた窓から差し込んでいた。
その光の中に、埃がゆっくりと舞っている。
誰かに見られることもなく。
誰かに評価されることもなく。
それでも、そこに在り続けるもののように。
リゼは通信道具をしまい、建物の外へ出た。
彼女にも、帰る場所があった。
そこが今も自分を待っているのかは、わからない。
けれど、その場所を忘れてしまったら、自分が何のために生きているのかさえ、わからなくなる気がした。
彼女は歩き出した。
嘘をついた事実は消えない。
敵国の諜報員であることも、変わらない。
それでも、明日、誰を助けるのか。
どの情報を伝えるのか。
何を守り、何を守らないのか。
その選択まで、すべて命令に預けてしまうつもりはなかった。
その小さな決意が、何を変えられるのかは、まだわからない。
戦争は続いている。
そして、レンの知らないところでは、彼を再び兵士として利用しようとする人々が、今もどこかで動いている。
彼が生きているという事実は、誰かにとって希望であり、誰かにとって恐怖であり、誰かにとっては、手に入れるべき価値ある情報だった。
けれど、レン自身にとって、それはまだ、ひとつの問いにすぎなかった。
――自分は、何者なのか。
その問いの答えを決める権利は、本来、彼自身にあるはずだった。
たとえ、生まれた理由が何であっても。
たとえ、誰かに与えられた役割があったとしても。
その役割に従うことだけが、彼の人生ではない。
誰かを助けたいと思うこと。
明日の昼ご飯を楽しみにすること。
帰る場所を失いたくないと願うこと。
隣を歩く少女の笑顔を、もう一度見たいと思うこと。
それらの小さな願いを、自分の未来として選び取れるかどうか。
レンの本当の戦いは、そこから始まろうとしていた。




