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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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12/16

12.君と生きたい

 帰ってきたレンを見たとき、ユイは、すぐには声をかけられなかった。


 救護所の入口に、見慣れた姿があった。


 濃い髪。少し汚れた服。疲れたように肩を回す仕草。


 どこからどう見ても、いつものレンだった。


 それなのに、ユイは、その場から動けなかった。


 彼が帰ってきた。


 それだけで、胸の奥に張りつめていた何かが、ゆっくりと緩んでいく。


 ほっとした。


 本当に、ほっとしたのだ。


 けれど、同時に、腹が立った。


 どうして、こんなに心配させるのだろう。


 どうして、あんなに簡単に危険な場所へ行こうとするのだろう。


 どうして、自分はこんなにも、この少年のことで一喜一憂しなければならないのだろう。


 ユイは、ぎゅっと手を握り締めた。


 昨日、彼を見送ったときのことを思い出す。


 行ってらっしゃい。


 自分は、確かにそう言った。


 彼の意思を尊重したいと思ったから。


 彼が誰かを助けたいという気持ちを、否定したくなかったから。


 それでも、彼がいなくなったあと、何度も入口を見てしまった。


 足音が聞こえるたびに顔を上げた。


 誰かが戻ってくるたび、レンではないことに、少しずつ落胆した。


 そして、彼が帰ってきた瞬間、今まで感じたことのないほどの安堵を覚えた。


 自分でも、どうしてこんなことになっているのか分からなかった。


「……ユイ?」


 レンが、こちらに気づいた。


「ただいま」


 その言葉を聞いて、ユイは反射的に立ち上がりそうになった。


 駆け寄って、無事だったことを確かめたかった。


 怪我をしていないか、疲れていないか、何か危険なことはなかったか、全部聞きたかった。


 けれど、足が動かなかった。


 代わりに、口から出たのは、まったく別の言葉だった。


「……お疲れさま」


 レンは、少しだけ目を見開いた。


「……うん。ありがとう」


 彼は、穏やかに笑った。


 それだけだった。


 いつものように、何でもない会話。


 それなのに、ユイは胸の奥がひどく痛くなるのを感じた。


 もっと何か、言いたかったはずなのに。


 帰ってきてくれて嬉しい。


 無事でよかった。


 心配したんだから。


 そんな言葉が、いくつも頭の中に浮かんでいた。


 なのに、どれも口にできなかった。


 彼が帰ってきたことが、こんなにも嬉しい。


 その事実を、本人に知られるのが怖かった。


 自分の気持ちを認めてしまったら、もう、以前のようにはいられなくなる気がしたからだ。


     ◇


 レンが旧郵便所へ向かったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 救護班の責任者と合流し、まずは現場の状況を確認した。


 建物は古く、一部の壁が崩れかけていた。内部にはまだ三人の兵士が取り残されており、そのうち一人は足を負傷しているという。


 正面から進めば、崩落の危険がある。


 側面の通路は狭く、人が一人通るのがやっとだった。


 救助班の責任者は、慎重に建物を観察していた。


「……無理に全員で入るわけにはいかない。まず、内部の状態を確認しよう」


 その判断に、レンは頷いた。


 以前の彼なら、取り残されている人のことを考え、すぐに建物へ飛び込んでいたかもしれない。


 助けを求める声が聞こえる。


 自分にできることがある。


 そう思った瞬間、身体が動いてしまう。


 しかし、今は違った。


 自分が危険な場所へ入れば、助けを必要とする人が増えるかもしれない。


 自分一人が無事であれば、それで済むわけではない。


 誰かを助けるためには、誰かと協力することも必要なのだ。


「……僕が、外から声をかけます」


 レンは、建物の隙間を指さした。


「反応があれば、位置を確認できます。中に入るのは、そのあとでも遅くないと思います」


 責任者は、少しだけレンを見つめた。


 そして、頷いた。


「……そうだな。やってみよう」


 レンは、崩れた壁の近くへ移動した。


「聞こえますか! 誰かいますか!」


 何度か呼びかけたあと、かすかな返事が聞こえた。


 取り残されていた兵士たちは、まだ意識がある。


 位置も、おおよそ分かった。


 救助班は、建物の状態を確かめながら、側面の通路から慎重に進むことを決めた。


 レンも、その一員として内部へ入った。


 狭い通路を進み、崩れた壁を避けながら、少しずつ奥へ向かう。


 やがて、三人の兵士がいる部屋へたどり着いた。


 一人は足を痛め、動けなくなっていた。


 もう一人は肩を負傷し、瓦礫を持ち上げることができない。


 残る一人は、二人のそばを離れず、助けが来るのを待っていた。


「……来てくれたのか」


 兵士の一人が、安堵したように呟いた。


「はい。もう大丈夫です。これから、外へ運びます」


 レンは、そう答えた。


 その声は、落ち着いていた。


 焦ってはいけない。


 急ぎすぎれば、かえって危険が増す。


 一人ずつ、確実に。


 レンは、責任者や救助班の仲間と協力しながら、負傷した兵士を外へ運んだ。


 最後の一人を救出したとき、遠くで、建物の一部が崩れる音がした。


 全員が、一斉に振り返った。


 もし、もう少し遅れていたら。


 その考えが、誰の頭にも浮かんだのだろう。


 レンは、息を吐いた。


 怖かった。


 正直に言えば、かなり怖かった。


 これまでなら、自分が死んでも生き返るという事実を、どこかで頼りにしていたのかもしれない。


 けれど、あと三回しか回生できないと知った今、その考え方は変わり始めていた。


 自分が命を落とせば、悲しむ人がいる。


 帰ってくるのを待っている人がいる。


 自分が生きていることを、望んでくれる人がいる。


 その事実を、もう知らなかった頃には戻れなかった。


 レンは、救出された兵士たちを見つめた。


 彼らが無事だったことが、嬉しかった。


 そして同時に、自分自身が無事に帰れることも、嬉しいと思った。


 それは、今までに感じたことのない種類の喜びだった。


     ◇


 救護所へ戻る道すがら、レンは何度もユイのことを考えていた。


 彼女は、今ごろ何をしているだろう。


 物資を運んでいるのだろうか。


 負傷者の手当てを手伝っているのだろうか。


 それとも、自分が帰ってくるのを待っているのだろうか。


 そう考えた瞬間、レンは足を止めた。


 自分は、どうしてこんなことを考えているのだろう。


 助けを求めている人がいると聞けば、すぐにでも向かいたいと思う。


 その気持ちは、今も変わらない。


 けれど、いつの間にか、自分が救助を終えたあと、どこへ帰るのかを考えるようになっていた。


 以前なら、救助が終われば、それでよかった。


 誰かを助けられた。


 それなら、自分がここにいた意味はあった。


 しかし、今は違う。


 助けを終えたあと、ユイに会いたい。


 彼女と話したい。


 今日、どんなことがあったのか聞きたい。


 できることなら、一緒に食事をして、他愛のない話をして、また明日も会いたい。


 そんなことを考えるようになっていた。


 レンは、自分の胸元に手を当てた。


 そこにある回生核は、何も答えてくれない。


 自分が何者なのか。


 どうして生き返ることができるのか。


 自分の命が、何のためにあるのか。


 その答えは、まだ分からない。


 けれど、今の自分が何を望んでいるのかだけは、少しずつ分かるようになってきた。


 ――ユイと一緒にいたい。


 それが、今の自分の願いだった。


 誰かを助けることだけではない。


 自分が誰かの役に立つことだけでもない。


 ただ、一緒にいたい。


 彼女が笑うのを見たい。


 彼女の声を聞きたい。


 何でもない話をしながら、同じ時間を過ごしたい。


 その願いは、どこかから与えられたものなのだろうか。


 それとも、自分自身が見つけたものなのだろうか。


 レンには、まだ分からなかった。


 それでも、一つだけ確かなことがあった。


 彼女のもとへ帰りたいと、心から思っていた。


     ◇


 帰還後、レンは負傷した兵士たちの状態をハナへ報告した。


 大きな問題はなかった。


 三人とも、救護所で治療を受けられる状態だった。


 ハナは報告を聞き、安堵したように息を吐いた。


「……よく戻ってきたわね。現場の判断も適切だったと聞いているわ」


「ありがとうございます」


「以前のあなたなら、もっと無茶をしていたかもしれないわね」


 そう言われ、レンは少しだけ苦笑した。


「……そうかもしれません」


「無茶をしなかったからこそ、全員が助かった可能性もある。覚えておきなさい」


 ハナは、記録用紙を机へ置いた。


「自分一人が命を懸ければ何とかなる、という考え方には限界があるわ。人を助けるために必要なのは、勇気だけではないの」


「……はい」


「知識も、準備も、協力も必要。そして、救助に向かった人間が無事に帰ってくることもね」


 レンは、その言葉を静かに受け止めた。


 無事に帰ってくること。


 それは、誰かに言われて初めて意識するようになったことだった。


 自分が助けた人が無事であることだけでなく、自分もまた、帰ってきていいのだ。


 それが、当たり前のことなのだと。


「……レン君」


 ハナが、少しだけ声を和らげた。


「あなたが誰かを助けたいと思う気持ちは、否定しないわ。でも、その気持ちを長く持ち続けたいのなら、自分自身のことも守らなければならない」


 レンは、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました」


 その返事は、以前よりも、少しだけ深い意味を持っていた。


     ◇


 その日の夕方、ユイは救護所の裏手にある小さな倉庫を整理していた。


 木箱を種類ごとに並べ、使い終わった物資を確認する。


 仕事に集中していれば、余計なことを考えずに済む。


 レンの帰りを待っているあいだ、ユイはそうやって、自分の気持ちをごまかしていた。


 けれど、彼が帰ってきてからは、かえって落ち着かなくなった。


 声をかけたい。


 無事だったことを確かめたい。


 怪我をしていないか、何か危険なことはなかったか、聞きたいことがいくつもある。


 それなのに、いざ顔を見ると、何を言えばいいのか分からなくなる。


 ――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。


 ユイは、木箱の蓋を閉めながら、小さく息を吐いた。


 以前の自分は、誰かを助けたいと思うことに、迷いはなかった。


 助けられるかもしれないなら、行く。


 危険があるなら、できるだけ避ける。


 それでも難しいなら、できる範囲で手を伸ばす。


 自分の中には、単純な判断基準があった。


 けれど、レンと出会ってから、その判断基準に、もう一つの気持ちが加わった。


 彼に生きていてほしい。


 彼が危険な場所へ行くと、心配になる。


 彼が戻ってくると、ほっとする。


 彼が笑っていると、嬉しい。


 彼が自分以外の誰かと楽しそうに話していると、どうしてか、胸の奥が落ち着かない。


 そして、彼がいなくなることを考えると、どうしようもなく怖くなる。


 それらの感情を、ユイはまだ整理できずにいた。


 自分は、彼に何を求めているのだろう。


 自分を助けてくれたことへの感謝。


 彼を一人にしたくないという同情。


 危険な場所へ行ってほしくないという心配。


 そのどれも、本当なのだと思う。


 けれど、それだけでは説明できないものも、確かにあった。


 ユイは、木箱の上に手を置いた。


 そして、ふと気づいた。


 自分は、彼に帰ってきてほしいのだ。


 ただ、それだけではない。


 帰ってきた彼と、一緒にいたい。


 彼が何を考えているのか知りたい。


 何が好きなのか、何に困っているのか、何を怖いと思っているのか、もっと知りたい。


 明日も、その先も。


 できることなら、ずっと。


 そう願っている。


 そこまで考えた瞬間、ユイは、顔が熱くなるのを感じた。


「……うそ」


 小さく呟いた。


 自分は、何を考えているのだろう。


 彼は、記憶を失った少年だ。


 自分が何者なのかも分からない。


 今は、同じ救護活動をしている仲間で、それ以上でも、それ以下でもない。


 少なくとも、これまでは、そう思っていた。


 けれど。


 ユイは、目を閉じた。


 レンが帰ってきたとき、胸の奥からあふれた感情。


 彼が「ただいま」と言った瞬間、泣き出しそうになったこと。


 彼が無事であることを、何よりも嬉しいと思ったこと。


 その意味を、もう、分からないふりはできなかった。


 ――私、レンのことが好きなんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が静かになった。


 不思議だった。


 これまで、何度も考えてきたはずなのに。


 どうしてこんなに心配するのだろう。


 どうして、彼がいなくなることが怖いのだろう。


 どうして、彼と一緒にいると、嬉しいのだろう。


 その問いに、ようやく、一つの答えが見つかった。


 好きだから。


 彼のことが、大切だから。


 失いたくないから。


 それだけのことだった。


 けれど、その答えを見つけた途端、ユイは、どうしようもなく不安になった。


 好きになってしまった。


 よりによって、あと三回しか生き返れない少年を。


 いつか、本当に自分の前からいなくなってしまうかもしれない少年を。


 そして、自分の気持ちを、まだ伝えることもできないまま。


「……どうしよう」


 ユイは、両手で顔を覆った。


 嬉しかった。


 自分の気持ちが分かったことは、嬉しかった。


 けれど、それ以上に怖かった。


 好きになればなるほど、失うことが怖くなる。


 彼が笑えば嬉しい。


 彼が帰ってくれば安心する。


 その一つ一つが、これからもっと大きくなってしまうのだろう。


 自分は、それに耐えられるのだろうか。


 彼の生き方を尊重しながら、自分の気持ちも大切にすることができるのだろうか。


 ユイには、まだ分からなかった。


 ただ、一つだけ、確かなことがあった。


 もう、彼をただの仲間だと思うことはできない。


     ◇


 翌朝。


 ユイは、レンと顔を合わせることを、少しだけ避けていた。


 仕事があることを理由に、早めに救護所を出た。


 物資の確認をし、避難民の案内を手伝い、頼まれたことを一つずつこなした。


 忙しくしていれば、彼のことを考えずに済むと思ったからだ。


 けれど、そんな考えは、すぐに崩れてしまった。


「ユイ、おはよう」


 背後から声がした。


 振り返ると、レンが立っていた。


「……お、おはよう」


「今日も早いね」


「う、うん。ちょっと、やることがあって……」


「そうなんだ。何か、手伝おうか?」


「だ、大丈夫! 一人でできるから!」


 声が大きくなった。


 レンは、驚いたように目を見開いた。


「……そっか」


 その表情を見て、ユイは、胸が痛くなった。


 違う。


 そんなつもりではなかった。


 彼を避けたいわけではない。


 ただ、どんな顔をして話せばいいのか分からなかっただけだ。


 昨日までなら、気軽に声をかけられた。


 くだらないことで怒ったり、少しだけ照れたり、何でもない会話を楽しんだり。


 けれど、今は違う。


 彼を見るだけで、胸が高鳴る。


 彼が笑うと、嬉しくなる。


 彼がこちらを見つめると、目を逸らしたくなる。


 そして、彼の隣にいる自分を、以前よりもずっと意識してしまう。


 それが、ひどく恥ずかしかった。


「……ユイ」


 レンが、静かに呼んだ。


「……なに?」


「……僕、何かした?」


 その言葉に、ユイは息を呑んだ。


 彼は、少しだけ不安そうな顔をしていた。


「昨日から、少し距離を感じるから。もし、僕が何か嫌なことをしたなら、教えてほしい」


 ユイは、言葉を失った。


 彼を傷つけるつもりはなかった。


 ただ、自分の気持ちを整理する時間がほしかった。


 それなのに、その行動が、彼を不安にさせてしまった。


「……違うの」


 ユイは、慌てて首を横に振った。


「あなたが悪いわけじゃない。何もしていないよ」


「……本当?」


「本当」


 レンは、少しだけ安心したように息を吐いた。


「……よかった」


 その一言が、ユイの胸に刺さった。


 彼は、自分が嫌われたのではないかと心配していたのだ。


 自分が何者なのか分からない彼にとって、誰かとのつながりは、きっと大切なものなのだろう。


 それなのに、自分は、そのつながりを壊しかねないことをしていた。


「……ごめんね」


 ユイは、俯いた。


「ちょっと、考えたいことがあったの」


「考えたいこと?」


「……うん」


 レンは、それ以上尋ねなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


「……分かった。何かあったら、話してね」


 その優しさが、また胸に響いた。


 ユイは、彼に何かを言いたかった。


 あなたのことが好きだと。


 あなたと一緒にいたいと。


 あなたが生きて帰ってくることを、どれほど願っているのかと。


 しかし、どの言葉も、口にすることができなかった。


 今の自分には、まだ、その勇気がなかった。


     ◇


 その日の午後、ユイとレンは、別々の仕事を担当することになった。


 ユイは避難民の受け入れを手伝い、レンは物資を別の救護所へ運ぶことになった。


 仕事の都合だった。


 それだけのことだった。


 それなのに、ユイは、少しだけ寂しいと思っていた。


 いつも隣にいた人が、いない。


 何でもない会話をする相手がいない。


 仕事の途中で困ったことがあっても、つい彼の姿を探してしまう。


 それが、こんなにも気になることだとは思わなかった。


 ユイは、自分の気持ちを持て余していた。


 彼と一緒にいたい。


 けれど、一緒にいると、気持ちを隠すことが難しくなる。


 彼に話しかけられると、嬉しくなる。


 彼が自分を心配してくれると、胸がいっぱいになる。


 そして、その一つ一つが、いつか失われるかもしれないと思うと、怖くなる。


 好きになるということは、こんなにも落ち着かないものなのだろうか。


 ユイは、思わず苦笑した。


 これまで、自分は誰かを好きになったことがなかったわけではない。


 けれど、こんなふうに、相手の命の残り回数を数えなければならない恋は、初めてだった。


 相手の明日を願うことが、こんなにも切実な意味を持つことも。


 ユイは、空を見上げた。


 灰色の雲が広がっている。


 いつか、この空が、何の心配もなく見上げられる日が来るのだろうか。


 レンと一緒に、穏やかな朝を迎えられる日が来るのだろうか。


 そんな未来を考えると、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 けれど、すぐに不安が追いかけてきた。


 彼に、そんな未来を望む資格があるのだろうか。


 自分が、彼の未来を願ってもいいのだろうか。


 彼は、あと三回しか生き返れない。


 そんな彼に、これからも一緒にいてほしいと願うことは、残酷なことなのではないだろうか。


 ユイは、目を閉じた。


 好きだからこそ、彼を縛りたくなかった。


 彼の生き方を、自分の気持ちだけで変えたくなかった。


 それでも。


 好きだからこそ、彼に生きていてほしかった。


 その二つの気持ちは、どちらも本当だった。


     ◇


 夕方、レンが戻ってきた。


 ユイは、救護所の入口で、その姿を見つけた。


 彼は、いつものように、疲れた様子で肩を回していた。


 そして、こちらに気づくと、少しだけ笑った。


「……ユイ」


 名前を呼ばれただけで、胸が高鳴った。


「……おかえり」


 思わず、そう答えていた。


 レンは、目を見開いた。


 それから、柔らかく笑った。


「……ただいま」


 そのやり取りは、ほんの一瞬だった。


 それだけで、ユイは、今日一日抱えていた不安が少しだけ軽くなるのを感じた。


 彼が帰ってきた。


 今日も、無事に帰ってきてくれた。


 その事実が、何よりも嬉しかった。


 しかし、その喜びを、今の自分は素直に表現できなかった。


「……今日は、どうだった?」


 ユイは、できるだけ自然に尋ねた。


「うん。物資を届けてきたよ。向こうの救護所も、人手が足りないみたいだった」


「……そっか」


「ユイは?」


「私は、避難民の案内をしていたよ」


「大変だった?」


「……うん。でも、何とか」


 二人は、短い会話を交わした。


 その間、ユイは何度も、もっと話したいと思った。


 今日、何があったのか。


 どんな人に会ったのか。


 何か困ったことはなかったのか。


 そして、彼が帰ってきてくれたことが、どれほど嬉しかったのか。


 それらを、全部伝えたかった。


 けれど、言葉はうまく出てこなかった。


 レンもまた、何かを言おうとして、やめることがあった。


 以前なら、もっと気軽に話せていた。


 けれど、今は、何かが少しだけ違っていた。


 互いに、相手を大切に思っている。


 だからこそ、簡単には踏み込めない場所が生まれてしまったのだ。


「……ユイ」


 レンが、静かに呼んだ。


「……なに?」


「……無理に話さなくてもいいよ」


 ユイは、顔を上げた。


「……え?」


「何か、考えたいことがあるんでしょう?」


 レンは、少しだけ微笑んだ。


「僕は、待てるから」


 その言葉に、ユイは胸がいっぱいになった。


 自分の気持ちを、まだ伝えられない。


 それでも、彼は、無理に聞き出そうとはしない。


 自分が話せるようになるまで、待ってくれる。


 その優しさが、嬉しかった。


 けれど、同時に、少しだけ悲しかった。


 彼に待ってもらう時間が、いつまでも続くとは限らないからだ。


「……ありがとう」


 ユイは、小さく答えた。


「……でも、いつか、ちゃんと話すね」


 レンは、頷いた。


「……うん。待ってる」


 その返事を聞いて、ユイは、少しだけ笑った。


 いつか。


 その言葉を、今度こそ、未来への約束として受け取りたいと思った。


     ◇


 その夜、ユイは一人で、宿の近くを歩いていた。


 雨は降っていなかった。


 空には、雲の切れ間から星が見えていた。


 ユイは、空を見上げた。


 星を見ていると、遠い場所から、自分のことを見つめられているような気がする。


 もちろん、そんなことはない。


 星は、ただそこにあるだけだ。


 自分が何を考えているのかも。


 誰を好きになったのかも。


 どんな未来を願っているのかも。


 何も知らない。


 それなのに、今夜の星は、いつもより少しだけ綺麗に見えた。


 ユイは、ゆっくりと息を吐いた。


 レンのことが好きだ。


 その気持ちは、もう否定できない。


 彼が生きていてくれることが嬉しい。


 彼が自分の名前を呼んでくれることが嬉しい。


 彼と一緒にいる時間が、好きだ。


 そして、彼がいなくなることが、怖い。


 そのすべてが、同じ一つの気持ちから生まれているのだと思った。


 大切だから、失いたくない。


 好きだから、一緒にいたい。


 それは、決して不思議なことではないのだろう。


 けれど、自分たちが置かれている状況は、あまりにも不確かだった。


 戦争は続いている。


 レンの命には限りがある。


 いつ、何が起きるのか分からない。


 そんな世界で、誰かを好きになるということは、どんな意味を持つのだろう。


 ユイは、自分の手を見つめた。


 いつか、この手で、レンを守れる日が来るだろうか。


 彼が危険な場所へ向かうとき、自分も一緒に考え、支え、無事に帰ってこられるように力を尽くす。


 ただ、止めるのではなく。


 彼の生き方を否定するのでもなく。


 彼が自分の意思で選んだ道を、できる限り一緒に歩いていく。


 それが、本当にできるのだろうか。


 まだ、分からない。


 けれど、そうしたいと思った。


 自分の恐怖だけで、彼の未来を狭めたくない。


 それでも、自分が彼を大切に思っていることまで、隠し続けたくない。


 ユイは、空を見上げた。


 いつか。


 いつか、自分の気持ちを、ちゃんと伝えられる日が来るだろうか。


 そのとき、レンは、どんな顔をするのだろう。


 想像しただけで、顔が熱くなった。


「……もう、何考えてるんだろう」


 ユイは、小さく笑った。


 けれど、その笑顔は、すぐに消えてしまった。


 彼が生きていること。


 自分が彼を好きになったこと。


 その二つを、これまでのように、ただ嬉しいと思っていられるだろうか。


 彼の命には、残された回数がある。


 それが、あと三回。


 その数字は、今も変わらない。


 ユイは、胸の奥に手を当てた。


 好きになってしまった。


 この先、どれほど苦しくなるか分からない相手を。


 それでも、好きになってしまったのだ。


 ならば、もう。


 自分の気持ちから、逃げることはできない。


     ◇


 同じ頃、レンもまた、一人で考え込んでいた。


 ユイと話すとき、以前よりも言葉を選ぶようになっていた。


 何を言えば、彼女は笑ってくれるのだろう。


 何を言えば、彼女を不安にさせずに済むのだろう。


 どこまで自分の気持ちを伝えれば、彼女に負担をかけずに済むのだろう。


 そんなことを考えるようになったのは、初めてだった。


 今までは、思ったことを、そのまま口にしていた。


 誰かを助けたい。


 ありがとうと言いたい。


 嬉しいと思ったら、嬉しいと伝えたい。


 それだけだった。


 しかし、ユイに出会ってから、自分が口にした言葉が、相手の心にどんな影響を与えるのか、少しずつ考えるようになった。


 彼女が、自分の言葉で笑う。


 彼女が、自分の言葉で照れる。


 そして、彼女が、自分の行動で悲しむ。


 そのことを知った。


 自分の行動は、自分だけのものではない。


 その事実を、ようやく理解し始めていた。


 レンは、窓の外を見つめた。


 ユイは、今ごろ何をしているだろう。


 もう眠っただろうか。


 それとも、まだ何かを考えているのだろうか。


 彼女が最近、少しだけ距離を置くようになったことが気になっていた。


 自分が何かをしてしまったのかもしれない。


 そう思って尋ねたが、彼女は、違うと言った。


 考えたいことがある。


 そう言っていた。


 レンは、その言葉を思い返した。


 彼女が何を考えているのか、知りたいと思った。


 けれど、無理に聞き出したいとは思わなかった。


 彼女にも、自分には話せないことがあるのだろう。


 自分が過去を思い出せないように。


 誰にだって、簡単には言葉にできない気持ちがあるのかもしれない。


 レンは、自分の手を見つめた。


 この手で、誰かを助けることができる。


 そのことは、今も大切だった。


 けれど、最近は、それだけではない。


 ユイの手を握ること。


 彼女が笑うのを見ること。


 一緒に食事をすること。


 そうした、何でもない時間を、もっと大切にしたいと思うようになった。


 以前の自分なら、そんなことを考えたこともなかっただろう。


 自分が何者なのか分からない。


 いつまで生きられるのかも分からない。


 そんな自分に、未来を望む資格があるのだろうか。


 そう考えていた。


 けれど、ユイと一緒に過ごす時間が増えるにつれて、その考えは少しずつ変わってきた。


 自分が何者なのか分からなくても、今、自分が何を望んでいるのかは分かる。


 過去に何があったとしても、これから何をしたいのかは、自分で考えることができる。


 そして、今の自分は。


 ユイと一緒にいたいと思っている。


 明日も。


 明後日も。


 彼女が笑っているところを、もっと見たいと思っている。


 レンは、ゆっくりと目を閉じた。


 その願いを、まだ、うまく言葉にできなかった。


 けれど、それは確かに、自分の中に生まれたものだった。


     ◇


 翌朝、救護所に一通の伝言が届いた。


 リゼからだった。


 ユイがそれを受け取ったのは、朝の物資整理を終えた直後だった。


 紙には、短い文章が書かれていた。


 ――レンの出生に関する記録を、もう少し詳しく確認できるかもしれない。二人に話したいことがある。今日の夕方、東側の広場で会いたい。


 ユイは、その紙を何度も読み返した。


 レンの出生。


 回生核。


 残された命。


 彼が何者なのかを知る手がかりが、見つかったのかもしれない。


 それは、レンにとって大切なことだ。


 自分が何者なのか。


 どうして、こんな能力を持っているのか。


 その答えを知りたいと、彼はずっと願っていた。


 ユイも、彼のために真実を知りたいと思っていた。


 けれど、同時に、怖かった。


 もし、その記録に、彼の命に関わることが書かれていたら。


 もし、彼が自分の知らない過去を持っていたら。


 もし、彼が今まで信じてきたものを、根底から覆すような事実が明らかになったら。


 自分は、彼を支えることができるのだろうか。


 ユイは、紙を握り締めた。


 それでも、避けて通るわけにはいかない。


 彼が知りたいと願っていることなら、きちんと向き合わなければならない。


 ユイは、レンを探しに行こうとした。


 しかし、その途中で、彼の姿を見つけた。


 救護所の入口で、物資を運ぶ準備をしている。


 声をかけようとして、ユイは足を止めた。


 昨日までなら、すぐに駆け寄っていた。


 けれど、今は少しだけ、勇気が必要だった。


 自分が彼を好きだと気づいてから、彼の姿を見ることが、以前よりも難しくなってしまった。


 それでも。


「……レン」


 ユイは、声をかけた。


 彼が振り向く。


「おはよう、ユイ」


「……おはよう」


 ユイは、手に持っていた紙を差し出した。


「これ、リゼさんから」


 レンは紙を受け取り、目を通した。


 その表情が、少しずつ真剣なものに変わっていく。


「……出生の記録」


「うん。今日の夕方、話したいことがあるって」


 レンは、しばらく紙を見つめていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……行こう」


 その声には、覚悟のようなものがあった。


 自分が何者なのか。


 その答えを知ることが怖くないわけではない。


 それでも、もう、知らないままでいたくなかった。


 ユイは、そんなレンを見つめた。


「……私も、一緒に行くよ」


 レンは顔を上げた。


「……いいの?」


「うん」


 ユイは、少しだけ笑った。


「あなたが知りたいことなら、私も一緒に知りたいから」


 その言葉は、思ったよりも自然に口から出た。


 レンは、しばらくユイを見つめていた。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……ありがとう、ユイ」


 ユイは、顔を逸らした。


「……別に。仲間なんだから、それくらい当然でしょ」


 そう答えたあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 まだ、仲間。


 そう言っているのは、自分自身だった。


 本当は、もう少し違う言葉で、彼との関係を表したいと思っている。


 けれど、今はまだ、その言葉を口にすることができない。


 ユイは、そっと息を吐いた。


 いつか。


 いつか、自分の気持ちを、きちんと伝えられる日が来るだろうか。


 そのとき、レンは、どんな顔をするのだろう。


 考えるだけで、胸が苦しくなる。


 けれど、その苦しささえ、今は少しだけ大切に思えた。


 好きになってしまったのだから。


 それが、自分の本当の気持ちなのだから。


 もう、逃げることはできない。


     ◇


 夕方まで、二人はそれぞれの仕事を続けた。


 会話は、必要なことだけになった。


 以前のように、何でもないことで笑い合うことも少なくなった。


 ユイは、何度もレンへ声をかけようとした。


 けれど、そのたびに、言葉が見つからなくなった。


 好きだと伝えることは、まだできない。


 それでも、彼が大切だということだけは、隠したくなかった。


 その二つの思いの間で、ユイは揺れていた。


 一方、レンもまた、ユイとの距離を感じていた。


 彼女は、自分に何かを話したいと思っているようだった。


 しかし、その一方で、何かを言うことをためらっているようにも見えた。


 無理に聞き出したくはない。


 けれど、何も分からないまま、彼女が自分から離れていくのも嫌だった。


 レンは、自分の中にある感情を、うまく説明できなかった。


 以前なら、誰かが離れていくことを、ただ仕方のないこととして受け入れていたかもしれない。


 自分には記憶がない。


 帰る場所もない。


 だから、誰かと別れることがあっても、それは自然なことだと思っていたのかもしれない。


 しかし今は違う。


 ユイが遠くへ行ってしまうことを想像すると、胸の奥が寂しくなった。


 彼女と話したい。


 一緒にいたい。


 できることなら、これからも。


 その願いが、自分の中で大きくなっていることを、レンは認めざるを得なかった。


     ◇


 日が沈み始めた頃、二人は東側の広場へ向かった。


 空には、薄い雲が広がっていた。


 広場の片隅には、以前と同じように、倒れた石像が残っている。


 リゼは、すでにそこにいた。


 彼女は二人の姿を見つけると、ゆっくりと顔を上げた。


「……来てくれたのね」


「はい」


 レンが答えた。


「……記録について、何か分かったんですか?」


 リゼは、手にしていた小さな袋を取り出した。


 その中には、折り畳まれた書類と、古い金属板が入っていた。


「ええ。あなたの出生に関する、もう少し詳しい記録が見つかったわ」


 レンは、息を呑んだ。


 ユイも、思わず身を乗り出した。


「……どんなことが?」


 リゼは、二人を見つめた。


 そして、静かに口を開いた。


「まず、あなたが回生兵計画に関係する存在だったことは、ほぼ間違いないと思う」


 レンは、目を伏せた。


「……やっぱり」


「でも」


 リゼは、言葉を続けた。


「その記録には、もう一つ、気になることが書かれていたの」


 二人は、彼女を見つめた。


「……あなたは、最初から人間ではなかったと、断定されているわけではない」


 レンが、ゆっくりと顔を上げた。


「……どういうことですか?」


「記録には、あなたの身体に回生核を組み込む前の情報が、ほとんど残されていないの。つまり、あなたが元々どんな存在だったのか、どのようにして今の身体になったのか、それを証明する資料がないのよ」


 リゼは、金属板を見せた。


「この記録だけでは、あなたが人間だったのか、人工的に作られた存在だったのか、まだ分からない」


 レンは、何も言わなかった。


 答えが得られたわけではない。


 むしろ、自分が何者なのかという疑問は、さらに深まったように思えた。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


 知りたい。


 怖くても、知りたい。


 自分が何者なのか。


 どうして、ここにいるのか。


 そして、自分の命に、どんな意味があるのか。


 その答えを知ることは、自分の人生を選ぶために必要なのだと、少しずつ感じ始めていた。


     ◇


 リゼは、金属板をしまい、二人を見つめた。


「……もう一つ、話しておきたいことがあるわ」


 ユイは、胸の奥に嫌な予感を覚えた。


「……何ですか?」


 リゼは、少しだけ視線を落とした。


「回生核について、私が知っていることは、まだ全部ではないの」


 レンの表情が強張った。


「……どういう意味ですか?」


「あなたの能力について、記録には、回生できる回数だけでなく、その能力を維持するための条件も書かれていた」


 リゼは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「ただ、その部分は欠けているの。だから、今の段階では、正確なことを説明できない」


 ユイは、レンの手に触れた。


 彼は、その手を握り返した。


「……でも、少なくとも」


 リゼは、二人を見つめた。


「あなたの能力が永遠ではないこと。それだけは、忘れないでほしい」


 その言葉が、静かに広場へ落ちた。


 夕日が、石像の表面を淡く染めていた。


 ユイは、レンの横顔を見つめた。


 彼は、何も言わなかった。


 ただ、遠くの空を見つめていた。


 その横顔を見ながら、ユイは思った。


 自分は、彼に生きていてほしい。


 できることなら、ずっと一緒にいたい。


 けれど、その願いを叶えるために、彼の生き方を奪いたくはない。


 それでも、彼を失うことが怖い。


 その気持ちは、これからもきっと、消えないのだろう。


 ユイは、彼の手をそっと握り直した。


「……帰ろう、レン」


 小さく言うと、レンは顔を上げた。


「……うん」


 二人は、並んで歩き始めた。


 まだ、答えは見つかっていない。


 レンが何者なのか。


 回生核が、どんな仕組みで働いているのか。


 そして、彼に残された命が、いつまで続くのか。


 何一つ、分からないままだった。


 それでも、今は一緒に帰ることができる。


 そのことだけは、確かだった。


 ユイは、隣を歩くレンを見つめた。


 彼は、まだ自分の気持ちに気づいていないのかもしれない。


 自分もまた、彼に何を伝えればいいのか、まだ分からない。


 けれど、いつか。


 いつか、自分の気持ちを、ちゃんと言葉にできる日が来るだろうか。


 そのとき、彼がどんな答えをくれたとしても。


 自分は、彼と一緒に生きていきたいと、願えるだろうか。


 ユイは、胸の奥にその願いをしまい込んだ。


 今はまだ、伝えられない。


 けれど、その気持ちは、もう確かに存在していた。


 ――私は、レンが好きなんだ。


 その思いは、彼女の胸の中で、静かに、けれど確実に、大きくなり始めていた。


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