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∞に生きる  作者: 和泉 きよ


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11/16

11.もう行かないで

 人は、失うかもしれないものの価値を、いつから知るのだろう。


 それを手に入れた瞬間だろうか。


 それとも、失う可能性を知らされた瞬間だろうか。


 ユイには分からなかった。


 ただ、レンに残された回生があと三回だと知ってから、世界の見え方が少しだけ変わってしまった。


 朝、レンが目を覚ます。


 食事をする。


 何気ない会話をする。


 時折、仕事の途中で困ったように笑う。


 その一つ一つが、昨日までと変わらないはずなのに、今はどこか違って見えた。


 この時間が、いつか終わってしまうかもしれない。


 何でもない朝が、最後の朝になるかもしれない。


 そんな考えが、ふとした瞬間に頭をよぎるようになった。


 もちろん、レンがあと三回死ぬと決まったわけではない。


 これから一度も命を落とさなければ、生き返る必要もないのだ。


 それなのに、ユイは安心できなかった。


 自分たちがいるのは、戦争の続く国だった。


 目の前の道が、次の瞬間には崩れているかもしれない。


 避難民を助けに行けば、砲撃に巻き込まれるかもしれない。


 誰かを救おうと手を伸ばす、そのほんのわずかな時間に、取り返しのつかないことが起こるかもしれない。


 今までは、そうした危険を避けるために考えてきた。


 どうすれば助けられるのか。


 どこを通れば安全なのか。


 誰に協力を求めればいいのか。


 それが、これからは少し違う。


 レンが死んだとき、あと何回、生き返ることができるのか。


 もし最後の一回を使ってしまったら。


 その次に、彼が命を落としたら。


 ユイは、もう一度、彼のいない世界を想像しなければならない。


 そして、その想像は、以前よりもずっと具体的なものになっていた。


 朝になっても、隣の寝台に彼がいない。


 食事の席に、彼の姿がない。


 自分の名前を呼ぶ声が聞こえない。


 そんな未来を考えるたび、ユイは胸の奥を強く締めつけられた。


 ――嫌だ。


 その言葉だけが、いつも最後に残った。


 何があっても嫌だった。


 レンがいなくなることだけは、どうしても受け入れたくなかった。


     ◇


「ユイ、これ、どこに運べばいい?」


 声をかけられ、ユイは我に返った。


 目の前には、木箱を抱えたレンが立っていた。


「……あ、ごめん。こっちの棚にお願い」


「分かった」


 レンは、いつものように素直に頷いた。


 その姿を見ながら、ユイは小さく息を吐いた。


 今日も彼は、普通にここにいる。


 昨夜、残された命の回数を知ったあとも、レンは何も変わらなかった。


 少なくとも、表面上は。


 自分の能力について知りたいことは増えたはずだし、これからどう生きるかを考えなければならないことも分かっているはずだ。


 それでも彼は、朝になれば起きて、与えられた仕事をこなそうとしていた。


 まるで、いつもどおりにしていれば、何も変わらずにいられるとでもいうように。


 ユイは、彼の横顔を見つめた。


「……レン」


「うん?」


「今日は、あんまり無理しないでね」


 レンは、少しだけ困ったように笑った。


「昨日も聞いたよ、それ」


「昨日も言ったよ、それ」


「……そっか」


「そうだよ」


 ユイは、彼の持っている木箱を指さした。


「重かったら、誰かに頼んで。疲れたら休んで。何かあったら、ちゃんと言ってね」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


 レンは真面目に頷いた。


 その返事を聞いて、ユイは少しだけ安心した。


 けれど、本当に安心できたわけではなかった。


 自分が心配しているのは、荷物の重さや、仕事の疲れではないのだから。


 彼が、また命を落とすかもしれないこと。


 その可能性を、彼自身がどこまで理解しているのか分からないこと。


 そして、自分には、その未来を変えられる保証がないこと。


 そうした不安は、言葉にできないまま、ずっと胸の奥に残っていた。


     ◇


 昼前、救護所に一人の伝令が駆け込んできた。


 濡れた外套を脱ぐ間もなく、彼はハナのもとへ走り寄った。


「前線近くの旧郵便所に、負傷した兵士が取り残されているそうです!」


 その声に、救護所の空気が変わった。


 旧郵便所は、街の東側にある古い建物だった。


 かつては軍と民間人の間で物資をやり取りする拠点として使われていたが、戦闘が激しくなってからは放棄されていた。


 その周辺では、撤退する部隊と進軍する部隊が交錯し、今も断続的に戦闘が続いているという。


「人数は?」


 ハナが尋ねた。


「少なくとも三人です。現地から戻ってきた兵士の話では、建物の一部が崩れて、移動できなくなっている者がいるとのことです」


「救助は?」


「部隊はすでに撤退しています。後方から救助班を出そうとしていますが、道が塞がれていて、到着までかなり時間がかかるそうです」


 ハナは地図を広げた。


「……ここね」


 旧郵便所は、救護所からそれほど離れていない。


 しかし、途中には崩落の危険がある街路があり、迂回路を使えば時間がかかる。


 何より、戦闘が続いている地域だった。


 ハナは、周囲にいる医療員たちを見渡した。


「こちらから救助に行く場合、医療班だけでは対応が難しいわ。現場の状況も確認しなければならない。まずは、ほかに動ける人がいるか確認して」


「はい!」


 伝令が再び走り出した。


 ユイは、机の上の地図を見つめていた。


 負傷した兵士が三人。


 建物の中に取り残されている。


 救助班が向かっているものの、時間がかかる。


 その情報だけで、どれほど危険な状況なのかは想像できた。


 助けを必要としている人がいる。


 けれど、救助に向かう人間も危険にさらされる。


 どうすればいいのだろう。


 ユイは、隣に立つレンを見た。


 彼は、すでに地図を見つめていた。


 その表情を見た瞬間、ユイの胸の奥に、冷たいものが広がった。


 まさか。


 そんなことを考えているのではないだろうか。


 いや、きっと、考えている。


 誰かが取り残されている。


 助けに行けるかもしれない。


 その二つの事実があれば、彼はきっと、何かをしようとする。


 ユイは、思わず口を開いた。


「……レン」


「うん?」


「行くつもり?」


 レンは、彼女を見た。


 少しだけ迷ったあと、静かに頷いた。


「……まず、現地の状況を確かめたい」


 その返事は、以前より慎重だった。


 すぐに飛び出そうとしているわけではない。


 まず状況を確認する。


 その考え自体は、間違っていない。


 それでもユイは、どうしても安心できなかった。


「……でも、あそこは危険なんだよ」


「分かってる」


「戦闘が続いているんだよ。建物だって崩れかけているかもしれない。もし、また何かあったら……」


 ユイは、そこで言葉を止めた。


 あと三回。


 その数字が、頭の中に浮かんだからだ。


 レンは、自分の命を落としても生き返ることができる。


 けれど、残されている回数は無限ではない。


 彼が次の救助活動で命を落としたら、残りは二回になる。


 その次も。


 その次も。


 いつか、本当に終わりが来る。


 ユイは、彼の手を握った。


「……行かないで」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


 レンは目を見開いた。


「……ユイ?」


「お願いだから、行かないで」


 今度は、はっきりと言った。


「あなたは、あと三回しか生き返れないんだよ。もう、前みたいに何でもできるわけじゃないんだよ」


 レンは、黙っていた。


 その沈黙が、ユイには怖かった。


 彼が何を考えているのか分からない。


 自分の言葉を、どう受け止めているのかも分からない。


 ただ、彼が地図から目を離さないことだけが、ひどく気になった。


「……レン、聞いてる?」


「うん。聞いてるよ」


「だったら……!」


 ユイは、彼の手を強く握った。


「だったら、どうしてそんな顔をするの?」


「……どんな顔?」


「助けに行くことしか考えていないような顔!」


 声が、少し大きくなった。


 周囲の人々が、こちらへ目を向けた。


 ユイは、はっとして口を閉じた。


 こんなところで、声を荒らげるつもりはなかった。


 レンを責めたいわけでもない。


 ただ、怖かった。


 彼がまた、自分の命を投げ出すような行動をすることが。


 そして、もう二度と戻ってこない可能性があることが。


「……ごめん」


 ユイは、俯いた。


「……大きな声を出して、ごめんね」


 レンは、首を横に振った。


「謝らなくていいよ」


 優しい声だった。


 その優しさが、今のユイには苦しかった。


 彼は、いつもそうだ。


 誰かが怒っていても、悲しんでいても、まず相手を受け止めようとする。


 自分が傷ついていても、相手の気持ちを考えようとする。


 その優しさに救われてきた。


 けれど今は、その優しさが、彼自身を傷つけることになるのではないかと怖かった。


     ◇


「……ユイ」


 レンは、少しだけ視線を落とした。


「僕だって、死にたいわけじゃないよ」


 ユイは、顔を上げた。


「……え?」


「あと三回しか生き返れないと聞いて、怖いと思った。次に何かあったら、本当に死んでしまうかもしれないって」


 レンは、自分の胸元へ手を当てた。


「……だから、昨日から、ずっと考えていたんだ。これから、どうすればいいのか」


 その言葉に、ユイは黙り込んだ。


 レンも、怖いのだ。


 自分の命が有限であること。


 今までのようにはいかないこと。


 そうした事実を、彼自身も受け止めようとしている。


「……でも」


 レンは、地図へ目を向けた。


「ここに、助けを必要としている人がいる」


 ユイは、息を呑んだ。


「その人たちが助かるかどうかは、まだ分からない。ほかの人が間に合うかどうかも分からない。僕が行けば、何かできるかもしれない」


 彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「……それを知っていて、何もしないでいることが、僕には怖いんだ」


 ユイは、彼の顔を見つめた。


「……どうして?」


「助けられたかもしれない人を、助けないままにしてしまうから」


 レンの声は、静かだった。


「もし、僕が危険な場所へ行って、何もできなかったら、それは仕方のないことかもしれない。でも、何もしないまま、助けられたかもしれない人が亡くなったら……僕は、きっと、そのことを忘れられないと思う」


 ユイは、何も言えなかった。


 その気持ちは、分かっていた。


 自分も同じだからだ。


 助けられなかった人のことを、何度も思い返してきた。


 あのとき、もう少し早く動いていれば。


 あのとき、別の道を選んでいれば。


 あのとき、もう少しだけ、何かができていたら。


 そうした後悔が、何度も胸の奥によみがえった。


 だからこそ、レンが何を恐れているのか、分かる気がした。


 彼は、死ぬことだけを恐れているわけではない。


 自分が助けられるかもしれない人を、助けないままにしてしまうことも、恐れているのだ。


 それが、彼の生き方なのだろう。


 その気持ちを、ユイは否定したくなかった。


 けれど。


 それでも。


「……私は、あなたに生きていてほしい」


 ユイは、震える声で言った。


「あなたが誰かを助けたいと思っていることは、分かるよ。助けられるかもしれない人がいるなら、何かしたいって思うことも……私だって、同じだから」


 彼女は、一度、息を吸った。


「でも、私は……あなたがいなくなったら、嫌なの」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、少しずつあふれ始めた。


「あなたが戻ってこなかったら、私はどうすればいいの?」


 レンは、目を見開いた。


「……ユイ」


「今までは、生き返るって分かっていたから……何とか、待つことができた。でも、これからは違うんだよ。次に死んだら、もう生き返らないかもしれないんだよ」


 ユイの目に、涙が浮かんだ。


「……私は、あなたが死ぬところを見たくない」


 声が震えた。


「あなたがいなくなってしまうことが、怖い。明日、あなたがいないかもしれないって考えるだけで、苦しくなる……」


 ここまで言って、ユイは気づいた。


 自分は、ずっと怖かったのだ。


 レンを失うことが。


 彼が自分の知らない場所で命を落とし、二度と戻ってこなくなることが。


 それなのに、自分はその気持ちを、うまく言葉にできずにいた。


 彼が誰かを助けようとするたび、止めたくなる。


 危険な場所へ行こうとするたび、引き止めたくなる。


 そうすることが、彼の生き方を否定することになるかもしれないと分かっていても。


 どうしても、止めたかった。


 彼を失いたくなかった。


「……お願い」


 ユイは、彼の手を握り締めた。


「……もう、行かないで」


     ◇


 レンは、何も言えなかった。


 ユイの目から涙がこぼれていた。


 彼は、これまでにも、彼女が悲しむ姿を見たことがある。


 自分が危険な目に遭ったとき。


 助けられなかった人のことを話したとき。


 自分が何者なのか分からないと、彼女に打ち明けたとき。


 そのたびに、ユイは彼を心配してくれた。


 自分のことを考えてくれた。


 それが、どれほどありがたいことなのか、レンはまだうまく説明できなかった。


 けれど今、目の前で泣いている彼女を見て、初めて理解したことがあった。


 自分の行動は、自分だけのものではないのだ。


 誰かを助けようとして命を落とすのは、自分一人で完結する出来事ではない。


 自分がいなくなれば、悲しむ人がいる。


 自分が戻ってこなければ、帰りを待っている人がいる。


 そうした人々の気持ちも、自分が生きている世界の一部なのだ。


 レンは、ゆっくりとユイの手を握り返した。


「……ごめん」


 それだけしか言えなかった。


 ユイは首を横に振った。


「……謝らないで」


「……うん」


「謝ってほしいわけじゃないの。ただ……」


 ユイは言葉を探した。


「……あなたにも、自分のことを大切にしてほしいの」


 その言葉は、レンの胸の奥に静かに沈んでいった。


 誰かを助けること。


 それが、自分にとって大切なことだった。


 困っている人がいたら、何かをしたい。


 助けられるかもしれないなら、手を伸ばしたい。


 その気持ちは、今も変わらない。


 けれど、ユイは、自分が助けられることを望んでいる。


 自分が生きていてほしいと願っている。


 その願いを、自分はどう受け止めればいいのだろう。


 レンは、答えを見つけられなかった。


 助けを必要としている人がいる。


 自分を失いたくないと願う人がいる。


 どちらも、大切だった。


 どちらも、無視したくなかった。


 その二つを、どうすれば両立できるのだろう。


 今の彼には、分からなかった。


     ◇


「……レン君」


 静かな声が、二人の間に入った。


 振り向くと、ハナが立っていた。


 彼女は、二人の表情を見て、何かを察したようだった。


「……少し、いいかしら」


 ハナは机の上の地図へ目を向けた。


「旧郵便所の件だけれど、こちらから救助に向かう人員を確認しているところよ。今すぐ、あなたたち二人だけで向かう必要はないわ」


 ユイは、思わず顔を上げた。


「……本当ですか?」


「ええ。まずは状況を確認し、可能なら複数人で動く。それが基本よ」


 ハナは、レンを見た。


「あなたが一人で行けば助けられる人がいるかもしれない。でも、あなた一人で行かなければ助けられないと決まったわけではないでしょう?」


 レンは、黙っていた。


「救助には危険が伴う。だからこそ、できる限り危険を減らす方法を考えるの。無理をして一人で抱え込むことが、いつも最善の選択とは限らないわ」


 その言葉は、ユイにも向けられているようだった。


 助けたいと思う気持ちだけでは、救助は成り立たない。


 誰が向かうのか。


 どの道を使うのか。


 何人で動き、どんな道具を用意するのか。


 助けた人を、どうやって安全な場所へ運ぶのか。


 そうしたことを考えるのも、命を救うために必要なことなのだ。


 レンは、ゆっくりと地図へ目を落とした。


「……まず、現地の状況を確認することはできますか?」


 ハナは頷いた。


「できる限り、情報を集めるつもりよ。現場から戻った兵士がいれば、話を聞く。通行できる道も調べる。そのうえで、救助が可能か判断するわ」


「……分かりました」


 レンは、静かに答えた。


 ユイは、少しだけ安心した。


 すぐに向かうわけではない。


 まずは情報を集める。


 そういう考え方を、レンも受け入れてくれた。


 それなら、少しは危険を減らせるかもしれない。


 それでも、ユイの胸の奥には、まだ不安が残っていた。


 現地の状況が分かれば、きっと彼は向かうことを考えるだろう。


 助けを求める人がいると分かれば、今度こそ、何もしないままではいられないだろう。


 そのとき、自分はどうすればいいのだろう。


 再び、彼を引き止めるのだろうか。


 それとも。


 ユイは、レンの手を離した。


 自分の指先が、冷たくなっていることに気づいた。


     ◇


 午後になって、旧郵便所に関する追加の情報が届いた。


 取り残されているのは、三人の兵士だった。


 一人は足を負傷し、自力で歩けない。


 もう一人は肩を痛めており、重いものを持ち上げることが難しい。


 残る一人は、二人のそばにいるものの、建物の崩落を恐れて外へ出られずにいるという。


 救護所から出せる人員は限られていた。


 また、現地へ向かう経路の一部には、まだ危険が残っている。


 救助班が到着するまでには、相応の時間がかかる見込みだった。


 ハナは、情報を確認したあと、救助活動のために必要な物資を整理し始めた。


 ユイも、その手伝いをしていた。


 包帯。


 担架。


 水。


 簡単な食料。


 負傷者を運ぶための布。


 一つずつ確認しながら、ユイは考えていた。


 レンは、どうするのだろう。


 彼が救助に向かいたいと思うことは、想像できた。


 そして、その気持ちを完全に否定することはできなかった。


 取り残された人がいる。


 今すぐ助けなければ、容体が悪化するかもしれない。


 誰かが向かわなければ、救助が遅れるかもしれない。


 それは、簡単に無視できる理由ではなかった。


 自分だって、同じ状況なら、助けに行きたいと思うだろう。


 それでも。


 ユイは、包帯を握り締めた。


 レンには、残された回生があと三回しかない。


 その事実が、何よりも怖かった。


 もし、また命を落としたら。


 もし、次の回生に時間がかかったら。


 もし、そのとき、彼の能力が働かなかったら。


 もう、彼は戻ってこない。


 ユイは、その可能性を考えるたび、胸の奥が締めつけられた。


「……ユイ」


 ハナが、静かに声をかけた。


「大丈夫?」


 ユイは顔を上げた。


「……はい」


 そう答えかけて、やめた。


 そして、正直に言った。


「……大丈夫じゃないです」


 ハナは、少しだけ目を細めた。


「……そう」


「レンが、また危険な場所へ行くかもしれないと思うと……怖いんです」


 ユイは、包帯を机へ置いた。


「助けたい気持ちは、分かります。私も、そうだから。でも……」


 言葉が途切れた。


「……私は、レンに生きていてほしいんです」


 ハナは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「……そう思うことは、悪いことではないわ」


 ユイは、顔を上げた。


「誰かの命を大切に思うことと、その人の行動をすべて受け入れることは、同じではないもの」


 ハナは、物資の数を確認しながら続けた。


「大切だからこそ、無理をしてほしくない。危険なことをしてほしくない。そう思うのは自然なことよ。でも、相手にも、その人なりの考えがある」


 ユイは、黙って聞いていた。


「だから、どちらかの気持ちを消そうとするのではなく、両方をどうやって成り立たせるかを考えることも、大切なのだと思うわ」


 ユイは、自分の手を見つめた。


 両方を、どうやって成り立たせるか。


 自分は、レンを失いたくない。


 それでも、レンが誰かを助けたいと思う気持ちを、否定したくはない。


 その二つを両立させる方法が、本当にあるのだろうか。


 まだ、分からない。


 けれど、考え続けなければならないのかもしれない。


     ◇


 夕方。


 レンは、救護所の入口に立っていた。


 遠くに、黒い煙が見える。


 旧郵便所のある方向だった。


 彼は、その煙を見つめながら、静かに息を吐いた。


 取り残された人たちの顔は、まだ知らない。


 名前も、年齢も、どんな人生を送ってきたのかも分からない。


 それでも、そこに人がいることは確かだった。


 助けを必要としている人がいる。


 自分が行けば、何かできるかもしれない。


 その思いは、消えてくれなかった。


 けれど、ユイの言葉も、頭から離れなかった。


 ――もう、行かないで。


 彼女は、泣いていた。


 自分がいなくなることを、怖いと言っていた。


 自分に、生きていてほしいと願っていた。


 その言葉を思い出すと、胸の奥が痛んだ。


 自分は、誰かを助けたい。


 それは、本当だ。


 けれど、ユイを悲しませたくないという気持ちも、本当だった。


 どちらかが嘘なら、簡単だったのかもしれない。


 どちらか一つを諦めれば、答えは出る。


 しかし、どちらも大切だった。


 レンは、自分の胸元へ手を当てた。


 回生核は、静かだった。


 あと三回。


 その数字が、もう一度、頭の中に浮かぶ。


 今、ここで自分が何もしなければ、助けられるかもしれない人が、取り残されたままになる。


 それを知っている。


 しかし、今、ここで自分が命を落とせば、ユイを悲しませてしまう。


 それも、知っている。


 レンは、目を閉じた。


 どうすればいいのだろう。


 何を選べば、誰も傷つかずに済むのだろう。


 答えは、見つからなかった。


     ◇


「……レン」


 背後から声がした。


 振り返ると、ユイが立っていた。


 彼女は、何かを言おうとしているようだった。


 しかし、すぐには言葉が出てこなかった。


 レンも、何も言わずに彼女を見つめていた。


 二人の間に、沈黙が流れた。


 いつもなら、ユイは何かしら言葉を見つけられた。


 くだらない冗談でも、少しの文句でも。


 レンが困ったように笑うようなことを言って、気まずさをごまかすことができた。


 けれど、今は何も思いつかなかった。


 何を言っても、自分の本当の気持ちが伝わらないような気がした。


 行かないでほしい。


 でも、助けたいというあなたの気持ちも、分かっている。


 生きていてほしい。


 でも、あなたが何もできずに後悔する姿も、見たくない。


 そんな矛盾した思いが、胸の中で絡まり合っていた。


「……レン」


 ユイは、ようやく口を開いた。


「……私、まだ怖いよ」


 レンは、静かに頷いた。


「……うん」


「あなたが、また危険な場所へ行くことが。生き返れなくなるかもしれないことが……」


 ユイは、一度、息を吸った。


「……それでも、あなたが助けたいと思っていることは、分かってる」


 レンは、彼女を見つめた。


「だから……」


 ユイは、言葉を続けようとした。


 けれど、その先を口にすることができなかった。


 彼に行ってほしくない。


 それでも、彼の気持ちを否定したくない。


 自分の願いを押しつけたくない。


 しかし、どうしても、失いたくない。


 何を選んでも、自分は何かを傷つけてしまうような気がした。


「……ごめんね」


 ユイは、俯いた。


「……うまく言えなくて」


 レンは、ゆっくりと近づいた。


 そして、彼女の前で足を止めた。


「……ユイ」


「……なに?」


「僕は、君を悲しませたいわけじゃない」


 その言葉に、ユイは顔を上げた。


「……うん」


「でも、助けを求めている人がいると、やっぱり、何かしたいと思うんだ。君がそうであるように、僕も……」


 レンは、少しだけ言葉を切った。


「……僕も、何もしないままでいることが、怖いんだ」


 ユイは、唇を噛んだ。


 分かっていた。


 彼は、自分を苦しめるために、危険な場所へ行こうとしているわけではない。


 自分を悲しませたいわけでもない。


 ただ、目の前にいる人を助けたいと思っている。


 その気持ちは、本物なのだ。


 ユイは、何度も頷こうとした。


 理解していると伝えたかった。


 あなたのことを分かっていると、そう言いたかった。


 けれど、声が出なかった。


 その代わりに、涙が一粒、頬を伝った。


「……分かってる」


 やっと、そう言った。


「……分かってるよ」


 レンは、彼女の涙を見つめていた。


「……でも、私は、あなたに生きていてほしい」


 ユイは、彼の手を握った。


「お願いだから……私のところへ、帰ってきて」


 レンは、彼女の手を握り返した。


「……うん」


 その返事は、静かだった。


 優しい声だった。


 けれど、ユイには、それが約束として十分なのかどうか、分からなかった。


 彼は、帰ってくるつもりでいるのだろう。


 自分だって、彼に帰ってきてほしいと願っている。


 しかし、この世界では、どれだけ願っても、思いどおりにならないことがある。


 そのことを、ユイは知っていた。


 知っているからこそ、怖かった。


     ◇


 翌朝、救助班の出発準備が始まった。


 現地の状況を確認した結果、旧郵便所へ向かうことは危険を伴うものの、救助の可能性はあると判断された。


 複数人で向かう予定だったが、物資の準備や別の救助活動との兼ね合いで、すぐに出発できる人員は限られていた。


 ハナは、救助班の責任者と状況を確認していた。


 ユイは、そのそばで物資を整理していた。


 レンの姿は見えなかった。


 彼は、現地の詳しい状況をもう一度確認すると言って、救護所を出ていた。


 その言葉を聞いたとき、ユイは何も言えなかった。


 止めようと思えば、止められたのかもしれない。


 もう行かないでと、もう一度、伝えればよかったのかもしれない。


 けれど、彼の意思を尊重したいという思いも、確かにあった。


 彼が何者なのか分からなくても。


 彼がなぜ、誰かを助けたいと思うのか、すべてを理解できなくても。


 その気持ちが、彼自身の大切なものなのだということは、分かっていた。


 だから、引き止める言葉が、どうしても出てこなかった。


 ユイは、物資の入った袋を握り締めた。


 自分は、どうすればよかったのだろう。


 もっと強く止めるべきだったのだろうか。


 それとも、彼の言葉を最後まで聞き、彼自身が選ぶのを待つべきだったのだろうか。


 正しい答えは、見つからなかった。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 自分は、レンを失いたくない。


 その気持ちだけは、どれだけ考えても変わらなかった。


     ◇


 しばらくして、レンが戻ってきた。


 彼は、必要な情報をまとめた紙を持っていた。


「……ハナさんに、報告してきたよ」


「……そう」


 ユイは、できるだけ普通に答えた。


 レンは、彼女の前で足を止めた。


「……ユイ」


「……なに?」


「昨日のことだけど」


 ユイは顔を上げた。


 レンは、少しだけ困ったように笑った。


「……僕は、君の気持ちを、ちゃんと考えたいと思っている」


 その言葉に、ユイの胸が小さく跳ねた。


「君が、僕に生きていてほしいと思ってくれていること。僕が危険な場所へ行くたびに、心配してくれていること。……それは、ちゃんと分かっていたい」


 レンは、真剣な目で彼女を見つめた。


「だから、これからは、何も言わずに一人で行くことはしない。危険があるなら、ちゃんと相談する。できるだけ、無理をしないようにする」


 ユイは、彼を見つめた。


 その言葉を聞いて、少しだけ安心した。


 けれど、完全に安心することはできなかった。


「……でも、行くんだね」


 思わず、そう尋ねていた。


 レンは、頷いた。


「……うん。助けを待っている人がいるから」


 ユイは、ゆっくりと目を伏せた。


 分かっている。


 彼がそう答えることは、分かっていた。


 それでも、実際に言葉にされると、胸が苦しかった。


「……そっか」


 それだけしか言えなかった。


 レンは、彼女の手を取った。


「……帰ってくるよ」


 ユイは、その手を見つめた。


 温かかった。


 昨日と同じ。


 今までと同じ。


 それなのに、その温かさが、いつか失われるかもしれないと思うと、どうしようもなく怖かった。


 ユイは、彼の手を握り返した。


「……約束だよ」


 レンは、頷いた。


「約束」


 その言葉を交わした瞬間、ユイは、自分が何を望んでいるのかを、改めて理解した。


 彼に誰かを助けてほしくないわけではない。


 彼が誰かを助けたいと思う気持ちを、否定したいわけでもない。


 ただ。


 ただ、彼に、生きていてほしい。


 自分の隣で。


 明日も、明後日も、その先も。


 それだけだった。


 けれど、その願いを口にすればするほど、彼の選択を縛ってしまうような気がした。


 ユイは、彼の手を離した。


「……行ってらっしゃい」


 ようやく、そう言った。


 レンは、少しだけ驚いたように彼女を見た。


 そして、静かに微笑んだ。


「……行ってきます」


 その言葉を聞いた瞬間、ユイの胸の奥で、何かが軋んだ。


 彼は、行ってしまう。


 自分がどれほど心配していても。


 自分がどれほど、そばにいてほしいと願っていても。


 彼は、自分の意思で、助けを求めている人たちのもとへ向かう。


 それが、彼の選んだ生き方なのだ。


 ユイは、その背中を見つめた。


 呼び止めたかった。


 もう一度、お願いだから行かないでと、言いたかった。


 けれど、声が出なかった。


 ただ、彼が無事に帰ってくることを願いながら、立ち尽くしていた。


     ◇


 レンの姿が見えなくなったあとも、ユイはしばらく、その場から動けなかった。


 救護所の中では、いつもどおり人々が行き交っていた。


 誰かが物資を運び、誰かが負傷者の手当てをしている。


 世界は、何も変わっていない。


 変わってしまったのは、自分の心だけなのだろうか。


 ユイは、ゆっくりと息を吐いた。


 レンを引き止めることはできなかった。


 彼の意思を尊重すると決めたわけでもない。


 ただ、最後まで、自分の気持ちをどうすればいいのか分からなかった。


 行ってほしくない。


 でも、彼の生き方を否定したくない。


 生きていてほしい。


 でも、彼が助けたいと思う人々を見捨ててほしくない。


 その二つの思いは、どちらも本物だった。


 だからこそ、苦しかった。


 ユイは、自分の手を見つめた。


 ついさっきまで、レンの手を握っていた。


 温かかった。


 確かに、そこにいた。


 その感触が、まだ残っているような気がした。


「……レン」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 彼は、もう出発してしまったのだ。


 ユイは、目を閉じた。


 そして、心の中で願った。


 どうか、無事でありますように。


 どうか、帰ってきますように。


 どうか、今度も、笑って戻ってきてくれますように。


 その願いが、どれほど自分勝手なものなのか、ユイには分かっていた。


 それでも、願わずにはいられなかった。


 自分は、彼を失いたくない。


 その気持ちが、今まで以上にはっきりと、自分の中に存在していることを知ってしまったから。


 彼が帰ってくるまで、きっと、落ち着かないだろう。


 何度も入口を見てしまうだろう。


 足音が聞こえるたび、彼ではないかと顔を上げてしまうだろう。


 そして、そのたびに、自分がどれほど彼の帰りを待っているのか、思い知らされるのだろう。


 ユイは、ゆっくりと目を開けた。


 まだ、彼に自分の気持ちを伝えることはできない。


 自分が彼をどれほど大切に思っているのか、どう説明すればいいのか分からない。


 ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。


 彼がいない時間は、思っていたよりも、ずっと長く感じられる。


 そして、彼が帰ってくることを、こんなにも強く願っている自分がいる。


 それが何を意味するのか。


 もう、分からないふりはできなかった。


     ◇


 その頃、レンは救護所から離れた街路を歩いていた。


 遠くに、旧郵便所のある方向が見える。


 建物の向こうには、薄い煙が漂っていた。


 彼は、自分の胸元へ手を当てた。


 あと三回。


 その数字は、まだ頭から離れていない。


 けれど、今は、そのことだけを考えているわけにはいかなかった。


 助けを求めている人がいる。


 自分が行けば、何かできるかもしれない。


 そう思っていた。


 それは、今も変わらない。


 ただ、昨日までとは違うことが一つだけあった。


 自分が帰るのを待っている人がいる。


 ユイが、帰ってきてほしいと願っている。


 そのことを、レンは知っていた。


 だから、彼は歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。


 無理はしない。


 一人で抱え込まない。


 危険を見極める。


 そして、帰る。


 助けを必要としている人たちを救うために。


 そして、自分の帰りを待っている少女のもとへ、帰るために。


 その二つを、両立させたいと思った。


 けれど、どうすれば本当に両立できるのか、まだ分からなかった。


 レンは、空を見上げた。


 雲の隙間から、わずかに光が差し込んでいる。


 その光を見つめながら、彼は初めて、心の底から願った。


 ――僕は、生きて帰りたい。


 誰かを助けるためだけではなく。


 誰かに必要とされるためだけでもなく。


 自分自身が、帰りたいと思う場所があるから。


 そこに、自分を待っている人がいるから。


 レンは、歩みを止めなかった。


 まだ、答えは見つかっていない。


 それでも、彼は自分の意思で、前へ進んでいた。


 そして、彼を待つユイもまた、少しずつ変わり始めていた。


 彼の生き方を否定することなく。


 自分の願いを押し殺すこともなく。


 いつか、二人が同じ未来を選べる日が来ることを、まだ知らないまま。


 ただ、互いの帰る場所を、少しずつ心の中に作り始めていた。


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