16.嘘をついた理由
誰かに嘘をつくとき、人は必ずしも相手を傷つけたいと思っているわけではない。
ときには、失いたくないものを守るために嘘をつく。
ときには、自分が傷つかないために。
そして、ときには、正直に話してしまえば、今まで必死に保ってきた自分自身が崩れてしまうような気がして、口を閉ざす。
嘘をついた人間にも、理由はある。
けれど、理由があることと、嘘をついてもよいことは同じではない。
その違いを、リゼは知っていた。
知っていたからこそ、彼女は長いあいだ、自分のしていることを正当化するための言葉を探し続けていたのかもしれない。
家族を探すためだった。
情報が必要だった。
ほかに方法がなかった。
そう言い聞かせれば、嘘をつくたびに生まれる罪悪感を、少しだけ遠ざけることができた。
自分は、誰かを傷つけるためにやっているのではない。
ただ、会いたい人がいるだけなのだ。
生きていてほしい人がいるだけなのだ。
だから、多少の嘘は仕方がない。
そう思わなければ、進み続けることができなかった。
しかし、嘘を重ねるうちに、彼女は気づき始めていた。
嘘は、目的を守ってくれることがある。
けれど同時に、自分が本当に守りたかったものから、自分自身を遠ざけてしまうこともあるのだと。
◇
翌日の午後、リゼは救助拠点の裏手にある木箱のそばで、ひとり座っていた。
箱の上には、半分ほど飲んだ水の入った瓶が置かれている。
彼女の手には、折り畳まれた小さな紙片があった。
そこには、ふたつの名前が書かれている。
何度も確かめた名前だった。
記憶が曖昧になりそうな夜には、何度も開いて確認した。忘れてしまわないように。自分がどこへ帰りたいのか、わからなくなってしまわないように。
紙の端は、指で触れ続けたせいで、少しずつ柔らかくなっていた。
「何を見ているの?」
声がして、リゼは顔を上げた。
ユイが立っていた。
手には、洗濯した布をまとめた籠がある。救助拠点で使う包帯や布巾を乾かし終え、倉庫へ戻す途中なのだろう。
「何でもないわ」
リゼは反射的に紙片を畳んだ。
それから、自分の動作に気づいた。
何でもない。
その言葉は、あまりにも自然に口から出た。
これまで何度も使ってきた言葉だった。
聞かれたくないことがあるとき。
説明したくないことがあるとき。
本当のことを話す勇気が持てないとき。
その一言で話を終わらせれば、それ以上、誰も踏み込んでこない。
ユイは、そんなリゼを見つめた。
「……また、隠し事?」
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、リゼは胸の奥が痛くなった。
怒られたほうが、まだ楽だったかもしれない。
敵だと罵られたなら、敵らしく振る舞うこともできる。
信用されていないのなら、信頼を求める必要もない。
けれど、ユイの声には、怒りと同じくらい、悲しみがあった。
もう一度、何かを隠されるかもしれない。
また、信じたことを後悔するかもしれない。
そんな不安が、声の奥から伝わってきた。
「……そうね」
リゼは、小さく答えた。
ユイは籠を地面に置いた。
「話したくないことなら、無理に話してとは言わないよ。でも、私たちに関係することなら、知っておきたい」
「ええ。そうでしょうね」
「それに……」
ユイは、いったん言葉を切った。
「あなたが何かを隠していると、私も、どう接していいかわからなくなるから」
リゼは顔を上げた。
ユイはまっすぐにこちらを見ていた。
そこには、以前のような無条件の信頼はない。
疑いがある。
戸惑いもある。
それでも、最初からリゼを拒絶しているわけではなかった。
そのことが、かえってリゼを苦しめた。
もしユイが完全に自分を拒絶してくれたなら、リゼはここを去る理由を見つけられただろう。
自分は敵国の人間だ。
こちら側の人間に受け入れてもらえるはずがない。
そう考えて、すべてを終わらせることができたかもしれない。
けれど、ユイはまだ、自分が何者なのかを知ろうとしている。
その姿勢が、リゼには眩しかった。
「……家族を探しているの」
リゼは、手の中の紙片を見つめながら言った。
ユイは、静かに息を吸った。
「敵国にいるの?」
「ええ。私の家族は、まだ向こうにいるはずよ」
「はず?」
リゼは頷いた。
「最後に連絡が取れたのは、ずいぶん前のこと。戦況が悪化して、街の通信設備が使えなくなった。それから、何の知らせもない」
彼女は紙片を開いた。
「この二人が、私の家族。母と、弟よ」
紙の上には、ふたつの名前が並んでいた。
ユイは、それを覗き込むことはしなかった。
名前を知ったからといって、家族のことまで理解できるわけではない。今は、リゼが自分から話そうとしていることを、最後まで聞くべきだと思った。
「生きているかどうかも、わからないの?」
「ええ」
リゼの声は、驚くほど静かだった。
「避難したのかもしれない。軍に移送されたのかもしれない。どこかの施設に保護されている可能性もある。あるいは……」
最後の言葉は、声にならなかった。
生きていない可能性。
それを考えない日はなかった。
朝、目が覚めたとき。
夜、ひとりで横になったとき。
街の名前を聞いたとき。
幼い子どもが母親の手を握っているのを見たとき。
何気ない風景の中に、弟の姿を重ねることがあった。
母が、もう一度自分の名前を呼んでくれる場面を想像することもあった。
けれど、想像はいつも途中で途切れる。
彼らが本当に生きているのか、わからないからだ。
生きていると信じれば、希望を持つことができる。
しかし、希望を持てば持つほど、何もわからない現実が苦しくなる。
希望を捨てれば、これ以上、傷つかずに済むのだろうか。
リゼは何度もそう考えた。
けれど、家族の名前を書いた紙片を捨てることだけは、できなかった。
「……ずっと、探しているの?」
ユイが尋ねた。
「ええ」
「どうやって?」
リゼは、少しだけ目を伏せた。
「情報を集めているの。軍の移送記録や、避難民の名簿、捕虜や保護対象者に関する報告。そういうものを調べれば、どこかに手がかりがあるかもしれないと思った」
「それで……諜報員になったの?」
リゼはすぐには答えなかった。
諜報員になることを決めた日のことを、彼女は思い出していた。
あれが正しい選択だったのか、今でもわからない。
ただ、何もできずに待つことが耐えられなかった。
誰かが知らせを運んでくれるのを待ち、通信が復旧するのを待ち、家族の名前がどこかの記録に現れるのを待つ。
その間にも、時間は過ぎていく。
母と弟が生きているという保証はない。
次の知らせが、彼らの死を告げるものではないという保証もない。
何もできないまま待つくらいなら、危険を冒してでも情報を集めたいと思った。
自分が何を失うことになっても。
それが、自分を動かしていた。
「そうよ」
リゼは答えた。
「最初は、少しでも家族の消息に近づきたかった。それだけだった」
「最初は?」
「情報を集めるためには、軍の動きを知る必要があった。軍の動きを知るためには、命令系統や作戦に関する情報にも触れなければならなかった。そうしているうちに、回生兵計画に関する資料を見つけたの」
リゼは、遠くを見るような目をした。
「レンの存在を知ったのは、そのあとよ」
ユイは、唇を引き結んだ。
レンが回生能力を持っていると知り、その存在を確認するために近づいた。
秘密の経路を教えたのも、救助活動を手伝ったのも、最初から、情報を集める目的があった。
その事実は、変わらない。
「それで、レンのことも報告するつもりだったの?」
「ええ。彼が生きていることは、軍にとって重要な情報だったから」
「彼の命が、どんなふうに扱われるか、考えなかったの?」
リゼは、目を閉じた。
「考えなかったわけではない」
「じゃあ、どうして?」
「……情報を得ることが、自分の目的につながると思っていたからよ」
リゼは、苦しそうに息を吐いた。
「彼のことを知れば、計画に関わった人間や、資料を管理していた組織に近づけるかもしれない。そうすれば、失われた記録や、移送された人々の情報も手に入るかもしれない。そう考えたの」
「でも、レンは……」
「わかっているわ」
リゼは、ユイの言葉を遮った。
「彼は人間よ。少なくとも、私の目の前で誰かを助け、笑い、悩み、自分が何者なのかを知りたいと願っている。その彼を、私は情報として扱った」
彼女は自嘲するように笑った。
「どれだけ立派な理由を並べても、それは変わらないわ」
ユイは、何も言わなかった。
リゼが話したことは、理解できる部分もあった。
家族を失いたくない。
消息を知りたい。
何もできないまま待ち続けるのは、耐えがたい。
その気持ちは、ユイにもわかる。
もし自分の大切な人が、戦争の向こう側に取り残され、何の知らせも届かなくなったら。
生きているのか、亡くなったのかさえわからなくなったら。
自分は、何をするだろう。
危険を冒してでも、情報を探そうとするかもしれない。
誰かに頼み、無理だと言われても諦めず、少しでも可能性があるなら手を伸ばそうとするかもしれない。
そう考えると、リゼの行動のすべてを、ただ悪いと切り捨てることは難しかった。
けれど、それでも。
レンが利用されるかもしれないことを、彼女は知っていた。
その危険を理解しながら、報告しようとしていた。
家族を探すためだったとしても、レンの人生を、自分の目的のために使おうとした事実は消えない。
「……家族に会いたかったんだね」
ユイは、静かに言った。
「ええ」
「会いたいよね」
リゼは、顔を上げた。
その言葉が、あまりにも何気なく、何の責めもなく差し出されたため、彼女はすぐに返事ができなかった。
会いたい。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、どれだけ言い訳を重ねても、どれだけ目的を説明しても、結局、自分が求めていたのは、その一言で済んでしまうものだったのかもしれない。
母に会いたい。
弟に会いたい。
無事だと知りたい。
もう一度、同じ場所で食事をしたい。
何でもない話をしたい。
戦争が始まる前には、当たり前だったことを、もう一度取り戻したい。
それだけだった。
リゼの目に、涙が浮かんだ。
彼女は、すぐに顔を背けた。
「……そうよ」
声がかすれた。
「会いたいの。何でもいいから、二人が生きていると知りたい」
口にしてしまえば、もう隠すことはできなかった。
ずっと胸の中に押し込めていた願いが、言葉になった途端、ひどく幼いものに思えた。
軍の情報を集めるために危険な任務を引き受けた。
敵国の人間になりすまし、身元を偽り、誰にも本当のことを話さずに生きてきた。
そのすべての先にあったのは、母と弟に会いたいという願いだった。
あまりにも単純で。
あまりにも、どうにもならない願いだった。
「……それなのに、私は」
リゼは言葉を続けようとした。
「私は、あなたたちにも嘘をついた」
ユイは、何も言わずに聞いていた。
「あなたたちが何を考えているのか、少しずつわかるようになったあとも。レンが、自分の命を使って人を助けようとする姿を見たあとも。彼が自分のことを知りたいと悩んでいるのを知ったあとも。私は、本当のことを話さなかった」
リゼは、紙片を強く握り締めた。
「自分の目的を失いたくなかったから。ここで得られる情報を、手放したくなかったから。それに……あなたたちに嫌われるのが、怖かったのだと思う」
ユイの目が、わずかに揺れた。
「嫌われるのが?」
「ええ」
リゼは、苦笑した。
「矛盾しているでしょう? 最初から、あなたたちを利用するつもりで近づいたのに。いざ、一緒に過ごす時間が増えると、あなたたちに嫌われたくないと思うようになった」
彼女は、食堂での何気ない会話を思い出した。
レンが、当たり前のように食事を分けてくれたこと。
ユイが、失敗した自分を責める代わりに、次に何ができるかを考えようと言ったこと。
ハナが、疲れた顔をしながらも、誰かの怪我を診るために席を立ったこと。
この場所の人々は、立派な人間ばかりではない。
不満を口にすることもある。
怒鳴ることも、間違えることも、誰かに八つ当たりすることもある。
それでも、一緒に暮らしている。
助け合いながら、時にぶつかりながら、今日を越えようとしている。
その中にいると、リゼは、少しだけ自分もそこにいていいのではないかと思ってしまった。
その気持ちが、怖かった。
ここに居場所を感じてしまえば、いつか手放さなければならなくなったとき、もっと苦しくなる。
自分は敵国の諜報員だ。
いずれ、この場所を離れるかもしれない。
母と弟が見つかったとしても、見つからなかったとしても、今の自分の立場が変わるわけではない。
そう考えているはずなのに。
ユイとレンの顔を思い浮かべると、自分が本当は何を恐れているのか、わからなくなることがあった。
「私は……自分の目的を守りたかっただけなのかもしれない」
リゼは言った。
「でも、いつの間にか、この場所で過ごす時間も、失いたくないものになっていたの」
ユイは、すぐには答えなかった。
理解できる。
そう思った。
誰かを大切に思う気持ちは、いつも同じ形をしているわけではない。
最初は、ただ利用するつもりだった相手と、何度も顔を合わせるうちに、少しずつ情が生まれることもある。
最初は、何とも思っていなかった場所が、いつの間にか帰る場所のように感じられることもある。
そして、その気持ちに気づいたとき、人は自分が何をしてきたのかを、改めて考えなければならなくなる。
自分は、この人たちを大切に思っている。
それなのに、自分は、この人たちを利用している。
その矛盾から目をそらすために、嘘を重ねてきたのかもしれない。
ユイには、そう思えた。
「……でも、リゼ」
ユイは、静かに口を開いた。
「家族に会いたいと思う気持ちは、悪いことじゃないよ」
リゼは目を上げた。
「そのために、何とかしようとしたことも、わからなくはない。何もわからないまま待っているのが、どれだけ苦しいことなのかも」
ユイは、自分の手を見つめた。
「だけど、レンを利用してもいい理由にはならないと思う」
その言葉は、まっすぐだった。
厳しい言葉だった。
けれど、責めるためだけの言葉ではなかった。
「あなたが苦しかったことと、レンが傷つくかもしれなかったことは、どちらか一方だけが本当というわけじゃないでしょう?」
リゼは、息を止めた。
「あなたが家族を大切に思っていることは、本当なんだと思う。だからって、レンの命を情報として扱っていいことにはならない。あなたが寂しかったことと、私たちに嘘をついたことも、両方、本当なんだと思う」
ユイは、言葉を選びながら続けた。
「だから、私は、あなたの事情を理解したいとは思う。でも、すぐに許すことはできない」
リゼの目から、涙がひとつ落ちた。
「……そうよね」
「うん」
「あなたは、私を責めてもいいのに」
「責めたい気持ちはあるよ」
ユイは、正直に答えた。
「レンが、もしまた誰かに利用されたらどうしようって思うと、怖い。あなたが集めた情報のせいで、レンが危険な目に遭うかもしれない。それを考えると、今でも腹が立つよ」
ユイは、一度、目を閉じた。
「でも、あなたが家族に会いたいっていう気持ちまで、否定したくはないんだ」
それは、簡単な答えではなかった。
許すことも、信じることも、まだできない。
けれど、相手の苦しみを理解しようとすることはできる。
相手が間違えたことを認めながら、その人の中にある願いまで否定しないことはできる。
それらは、互いに矛盾しないはずだった。
ユイは、リゼの顔を見た。
「だから、もう嘘を重ねないでほしい。あなたが何を考えているのか、何を知っているのか、私たちに関係することなら、ちゃんと話してほしい」
「……わかったわ」
「すぐに信じられるようになるとは言えない。でも、本当のことを話してくれるなら、私も、あなたのことを知ろうと思う」
リゼは、何度も頷いた。
その表情には、安堵と、申し訳なさと、まだ消えない不安が入り混じっていた。
信頼は、謝罪の言葉ひとつで元に戻るものではない。
自分が何をしたのかを認めること。
その結果、相手が傷ついたことを受け入れること。
そして、これからの行動によって、少しずつ関係を築き直していくこと。
それらを、リゼはこれから始めなければならない。
簡単ではないだろう。
途中で、相手の言葉を信じられなくなることもあるかもしれない。
また疑われることに、腹を立ててしまう日もあるかもしれない。
それでも、嘘をついた自分が、再び誰かに信じてもらいたいと願うのなら。
まずは、自分が真実から逃げないことが必要だった。
◇
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「二人とも、ここにいたんだ」
レンだった。
彼は、空になった水差しを手に持っていた。食堂から戻る途中、二人の姿を見つけたらしい。
ユイは、リゼのほうを一度見た。
リゼは、ほんの少し迷ったあと、レンへ向き直った。
「レン。少し、話してもいい?」
「うん。もちろん」
レンは水差しを近くの棚に置き、二人のそばへ歩いてきた。
リゼは、手の中にあった紙片を見つめた。
何から話すべきだろう。
家族のこと。
諜報員になった理由。
自分が、レンを利用したこと。
どれも、今まで彼には話してこなかったことだった。
話すことで、レンが自分をどう思うのか。
自分が、この場所にいられなくなるのか。
それを考えると、怖くなった。
けれど、レンの前に立つと、かつて彼が言った言葉が思い出された。
――話を聞くことはできる。君が知っていることを、全部教えてほしい。
彼は、何もかも許すとは言わなかった。
ただ、知りたいと言った。
自分の命が、誰かの目的に使われることが怖いと認めたうえで、それでも、自分が何者なのかを知りたいと願った。
リゼは、小さく息を吸った。
「私は、家族を探しているの」
レンは、静かに頷いた。
「敵国に、母と弟が残っている。最後に連絡が取れてから、ずっと消息がわからない。私は二人が生きているか知りたくて、軍の情報を集め始めた」
「……そうだったんだ」
「回生兵計画について調べたのも、あなたの存在を確認しようとしたのも、情報を集めれば、家族の消息に近づけると思ったから」
リゼの声は、少し震えていた。
「あなたの命を、情報として扱った。あなたが何を思い、何を望んでいるのかを、ちゃんと考えずに」
レンは、彼女の話を遮らなかった。
「本当に、ごめんなさい」
リゼは、深く頭を下げた。
「あなたたちに嘘をついたことも、利用しようとしたことも、家族を探していたからといって、許されるわけではない。それは、わかっているわ」
レンは、すぐには答えなかった。
彼は、リゼが頭を下げている姿を見つめていた。
自分の命が、誰かの目的のために利用されようとしていた。
そのことは、今でも怖い。
自分が何者なのかわからないからこそ、他人に自分の存在を決められることには、強い不安があった。
回生能力があるから、戦場で使える。
何度でも生き返るから、危険な任務に向いている。
そうやって評価されれば、自分は再び、誰かの目的のために生きることになるのかもしれない。
それは、避けたかった。
自分の命をどう使うのかは、自分で考えたい。
誰を助けるのかも。
何を大切にするのかも。
そして、どんな未来を望むのかも。
それでも、目の前で頭を下げるリゼの姿を見ていると、彼女が何を求めていたのか、少しだけわかるような気がした。
彼女は、母と弟に会いたかった。
生きているかどうかを知りたかった。
何もできずに待つことに耐えられず、自分にできることを探した。
その気持ちは、理解できる。
だからといって、彼女のやり方を認めることはできない。
そのふたつを、レンは別々のものとして考えようとした。
「リゼ」
レンは、静かに呼びかけた。
「顔を上げて」
リゼは、ゆっくりと顔を上げた。
目元が赤くなっていた。
「……あなたは、私のことを許せる?」
その問いは、思っていた以上に切実だった。
レンは、正直に答えた。
「まだ、わからない」
リゼの表情が、かすかに曇った。
「俺は、自分の命が誰かの目的に使われるのは怖い。だから、君が俺のことを調べて、報告しようとしていたと聞いたときは、どうしていいかわからなかった」
「……ええ」
「でも、君が家族に会いたくて、必死に情報を探していたことはわかったよ。それ自体を、悪いことだとは思わない」
レンは、少しだけ視線を落とした。
「俺には、家族の記憶がないから。君がどんな気持ちでいたのか、全部はわからないけど……大切な人がどこにいるのかわからないのは、きっと苦しいと思う」
リゼは唇を噛んだ。
「それでも、君がしたことを、なかったことにはできない。俺が怖かったことも、君が嘘をついたことも、どちらも本当だから」
「そうね」
「だから、これからどうするか、考えていきたい。君が何を知っているのか、何を隠しているのか。ちゃんと話してほしい。それから、俺も、自分がどうしたいのかを考えたいんだ」
レンは、リゼの目を見た。
「……ただ」
彼は、少しだけ笑った。
「君が、お母さんと弟さんに会えるといいな、とは思うよ」
リゼの瞳が、大きく揺れた。
「……どうして?」
「どうしてって……会いたいんでしょう?」
レンは、当たり前のように言った。
「大切な人に会いたいと思うことは、悪いことじゃないと思うから」
リゼは、何も言えなかった。
その言葉は、以前、ユイからも聞いたものだった。
会いたい人がいるのは、悪いことではない。
ただ、それだけのこと。
それだけのことなのに、リゼはずっと、自分の願いを正当化するために、さまざまな理由を必要としていた。
情報が必要だった。
手段が必要だった。
誰かを利用しなければならなかった。
そうしなければ、家族に会いたいと願う自分を、無力な人間だと認めてしまうような気がしたから。
何かを成し遂げなければならない。
何かを手に入れなければならない。
そう思うことで、ただ待つしかない自分の弱さから、目をそらしていたのかもしれない。
けれど、本当に欲しかったのは、母と弟に会うことだった。
それ以外の何かを得ても、その願いは消えない。
たくさんの情報を集めても、家族が生きていると確認できなければ、心のどこかが満たされないままなのだ。
「……ありがとう」
リゼは、声を絞り出した。
涙が、頬を伝った。
「私……本当は、ただ、二人に会いたかったの」
「うん」
「また一緒に、ご飯を食べたかった。弟がくだらないことで笑って、母が、それを見て呆れて……そういう、何でもない時間を、もう一度過ごしたかった」
言葉にするたび、胸の奥にしまい込んでいたものが、少しずつ崩れていく。
「最後に会ったとき、私は、すぐに戻ると言ったの。ちょっとした用事があって、家を離れただけだったから。こんなに長く、帰れなくなるなんて思っていなかった」
リゼは、手の中の紙片を握り締めた。
「だから、今でも考えることがあるの。あのとき、別の言葉をかけていればよかったんじゃないかって。もっと一緒にいればよかったんじゃないかって。あの日、家を出なければ……」
声が途切れた。
後悔は、過去を変えてはくれない。
けれど、後悔することをやめれば、大切な人との最後の時間まで、自分の中から消えてしまうような気がする。
もっと優しくすればよかった。
もっと話を聞けばよかった。
当たり前だと思っていた時間を、もっと大切にすればよかった。
そんな思いが、何度も何度も、彼女を過去へ引き戻す。
「……帰りたい」
リゼは、小さく呟いた。
「二人のところに、帰りたいの」
レンは、彼女を見つめていた。
その願いが叶うかどうか、彼にはわからない。
自分にできることがあるのかも、わからない。
ただ、その気持ちを否定したくはなかった。
「帰れるといいね」
レンは言った。
「それで、また一緒にご飯が食べられるといい」
リゼは顔を覆った。
声を上げて泣くことはしなかった。
ただ、肩が小さく震えていた。
今まで、どれほどの夜を、ひとりで過ごしてきたのだろう。
何度、同じ願いを胸の中で繰り返したのだろう。
母と弟の無事を知りたいと願いながら、その願いを叶えるために、誰にも本当のことを話せなくなっていた。
家族のことを考えるほど、誰かを利用することに慣れていった。
利用することに慣れるほど、人を信じることが難しくなっていった。
そして、誰かを信じたいと思うようになったころには、すでに多くの嘘を重ねてしまっていた。
その矛盾が、彼女を苦しめていた。
レンは、無理に励まそうとはしなかった。
大丈夫だと約束することも、きっと見つかると言うこともできなかった。
根拠のない希望を渡すことが、必ずしも相手の支えになるとは限らない。
今、リゼが必要としているのは、すぐに不安を消す言葉ではなく、自分の願いを、願いのまま口にしてもよいと思える時間なのかもしれなかった。
だからレンは、ただそこにいた。
彼女が顔を上げるまで、何も言わずに待っていた。
◇
しばらくして、リゼは目元を拭った。
「……ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのに」
「謝らなくていいよ」
「でも、あなたたちに迷惑をかけたことは、謝らなければならないわ」
「それは、これから考えていけばいいと思う」
レンは言った。
「信頼を取り戻すには、時間がかかるかもしれない。俺も、すぐに君を信じられるわけじゃない。でも、これから何をするかは、まだ選べるでしょう?」
リゼは、ゆっくりと頷いた。
その言葉を聞いて、彼女は少しだけ、自分の足元を見つめ直せた気がした。
これまでの自分は、過去に追い立てられていた。
家族を探さなければならない。
情報を集めなければならない。
何もできないまま時間が過ぎていくことを、受け入れられなかった。
そのために、できることを増やそうとした。
危険な任務を引き受けた。
身元を偽った。
嘘をついた。
そして、自分が何をしているのかを、少しずつ考えなくなっていった。
家族を探すという目的さえあれば、そのために何を犠牲にするのかを考えずに済んだ。
けれど、レンたちと出会ってから、彼女は少しずつ別のことを考えるようになった。
目の前の人を助けたいと思うこと。
誰かと一緒に過ごした時間を、大切だと思うこと。
嘘をついたことを、申し訳ないと感じること。
それらは、任務を遂行するうえでは、邪魔になる感情だったのかもしれない。
けれど、今のリゼは、その感情を捨てたくなかった。
「……私、これからは、知っていることを隠さないようにするわ」
リゼは言った。
「あなたたちに関わる情報は、できる限り正直に話す。危険があるなら、危険があると伝える。私が知らないことは、知らないと言う」
レンは頷いた。
「うん」
「それで、家族の消息も、正規の手段で調べられることがあるなら、そちらを優先する。少なくとも、あなたたちを利用することを、当たり前だとは思わないようにする」
「それがいいと思う」
レンの返事は、落ち着いていた。
そこには、彼女を無条件に許したという意味はなかった。
ただ、これからどうするべきかを一緒に考えようという姿勢があった。
リゼは、そのことを忘れないようにしようと思った。
信頼は、もらうものではない。
相手が自分を信頼してくれるようになるまで、何をするかを選び続けること。
その結果として、少しずつ生まれるものなのだろう。
過去を消すことはできない。
嘘をつかなかったことにはできない。
それでも、明日からの行動を変えることはできる。
そして、いつか母と弟に会えたなら。
自分がどんなことをして、何を失い、何を学んだのか。
そのすべてを、正直に話せる人間でありたいと思った。
◇
リゼが立ち去ったあと、ユイとレンは、しばらくその場に残っていた。
空は夕暮れに染まり始めていた。
救助拠点の裏手には、夕食の準備をする音が聞こえている。
誰かが鍋をかき混ぜ、誰かが食器を並べていた。
遠くから、子どもたちの声もする。
今日も、誰かが一日を生き延びた。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
「……リゼ、家族に会えるといいね」
ユイが言った。
「うん」
レンは頷いた。
「俺も、そう思う」
ユイは、彼の横顔を見つめた。
「レンは、リゼのことを許せると思う?」
レンは、少し考えた。
「今は、まだわからない」
「そっか」
「でも、許すかどうかと、彼女が家族に会えるといいと思うことは、別なんじゃないかな」
ユイは、顔を上げた。
「別?」
「うん。俺は、リゼがしたことを、なかったことにはできない。俺のことを調べて、報告しようとしていたのは事実だし、それが怖かったのも本当だから」
レンは、静かに続けた。
「でも、彼女が家族に会いたいと願っていることまで、否定する必要はないと思う。そこまで否定したら、彼女が何を大切にしているのか、考えられなくなってしまうから」
ユイは、少しだけ目を細めた。
「……レンは、ちゃんと考えているんだね」
「そうかな」
「うん」
ユイは笑った。
「前だったら、きっと、リゼが家族を探しているって聞いたら、すぐに手伝おうとしていたと思う」
「今も、できることがあれば手伝いたいとは思うよ」
「うん。でも、今のレンは、リゼが何をしたのかも、ちゃんと考えているでしょう?」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれない」
以前の自分なら、目の前で困っている人を助けることだけを考えていた。
その人が何をしてきたのか。
その行動が誰に影響するのか。
助けたことで、別の誰かが傷つく可能性はないのか。
そうしたことを、十分に考えずに動いていたかもしれない。
人を助けたいと思う気持ちは、今も変わらない。
けれど、その気持ちを理由に、何も考えずにすべてを受け入れることは、必ずしも正しいわけではないのだ。
助けたいと思うこと。
相手を理解しようとすること。
相手がしたことの責任を、きちんと考えること。
そのすべてを抱えながら、自分がどう行動するべきかを選ぶ。
それが、今の自分に求められていることなのかもしれなかった。
「……ユイ」
「何?」
「ありがとう」
「え? 何が?」
「一緒に考えてくれること」
ユイは、少し驚いたように目を瞬いた。
レンは、照れくさそうに笑った。
「俺、自分のことを考えるのが、まだ苦手なんだと思う。誰かを助けたいと思うと、そっちのことばかり考えてしまうから」
「……うん」
「でも、これからは、自分のことも、ちゃんと考えたい。自分がどうしたいのか、何を大切にしたいのか。そういうことも、少しずつわかるようになりたいんだ」
ユイは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼は、少しずつ変わっている。
誰かを助けるために、自分の命を差し出しても構わないと思っていた少年が。
自分の命も、誰かの命と同じように、大切にしたいと考え始めている。
その変化を見られることが、嬉しかった。
レンが生きたいと思うようになること。
帰りたい場所を持つこと。
明日のことを楽しみにすること。
そのひとつひとつが、ユイにとっては、かけがえのないものだった。
「……私も、そうしてほしいと思ってるよ」
ユイは言った。
「あなたが自分のことを大切にしてくれるのが、嬉しいから」
レンは、彼女を見た。
ユイは、少し恥ずかしそうに笑った。
「だから、これからも、ちゃんと自分のことを考えてね。何かをするときは、ひとりで決めないで。私たちにも相談して」
「うん。約束する」
二人は、並んで歩き始めた。
夕食の時間が近づいている。
今日も、温かい食事が用意されているだろう。
誰かが鍋をかき混ぜ、誰かが食器を並べ、誰かが明日の仕事について話しているはずだ。
そんな何でもない時間が、今のレンには大切だった。
自分が人間なのか、そうでないのか。
自分の気持ちがどこから生まれたのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、明日もユイと一緒に食事をしたい。
明日も、誰かが助かったときに、安心したい。
明日も、帰ってきたい。
そう思っていることは、確かだった。
その気持ちが、誰かに与えられたものなのかもしれない。
それでも、今の自分は、その願いを選びたいと思っている。
誰かに命じられたからではなく。
生まれた理由が何であっても。
自分が、そう生きたいと願っているから。
◇
夜、リゼは救助拠点の一室で、家族の名前が書かれた紙片を机に置いていた。
いつもなら、すぐに引き出しへしまっていた。
誰かに見られることを恐れていたからだ。
けれど今夜は、しばらくそのまま眺めていた。
嘘をついたことを、なかったことにはできない。
レンに許してもらえたわけでもない。
ユイとの信頼が、元どおりになったわけでもない。
それでも、今日、自分は家族に会いたいと口にすることができた。
情報を得るためではなく。
誰かを説得するためでもなく。
ただ、自分の願いとして。
会いたい。
生きていてほしい。
もう一度、家族と食事がしたい。
そんな願いを、願いのまま口にすることができた。
それは、リゼにとって、小さな変化だった。
これまで彼女は、目的を達成するために行動してきた。
目的があれば、前へ進める。
やるべきことがあれば、迷わずに済む。
けれど、目的を達成することと、願いが叶うことは、必ずしも同じではない。
どれだけ情報を集めても、家族が生きている保証はない。
どれだけ危険を冒しても、会えるとは限らない。
努力すれば必ず報われるという約束は、どこにもない。
その事実を認めることは、怖かった。
自分にできることを増やせば、何かを変えられると思っていた。
何もしないまま待っている自分には、耐えられなかった。
だからこそ、危険を冒した。
嘘をついた。
そして、手段を正当化し続けた。
けれど、今は少しだけ考え方が変わっていた。
家族に会いたいと思うこと。
そのために努力すること。
努力しても、結果がわからないこと。
それらは、すべて同時に存在していいのかもしれない。
願いが叶う保証がないからといって、願うことまでやめる必要はない。
結果を自分で決められないからといって、自分の行動まで、すべて誰かに委ねる必要もない。
リゼは、机の上の紙片を丁寧に折り畳んだ。
「……待っていて」
小さく呟いた。
その声は、誰にも届かなかった。
それでも、彼女は言葉にしたかった。
いつか家族に会えたとき、自分がどんな人間になっていたのかを、隠さずに話せるようになりたい。
嘘をついたこと。
誰かを利用したこと。
それを後悔し、これからは違う選択をしようと決めたこと。
すべてを、正直に伝えられる人間になりたい。
そのためには、明日からの自分が変わらなければならない。
過去を消すことはできなくても、これからの行動は選べる。
そのことを、リゼは今日、少しだけ信じられるようになった。
◇
同じ夜、レンは寝台に横になりながら、昼間のことを思い出していた。
リゼが家族の話をしたときの表情。
彼女が、母と弟に会いたいと口にしたときの声。
そして、涙を拭いながら、もう嘘をつかないと約束したこと。
彼女がしたことを、すぐに許すことはできない。
それでも、彼女が家族を大切に思っていることは、否定したくなかった。
人は、ひとつの理由だけで動くわけではない。
誰かを大切に思いながら、別の誰かを傷つけてしまうことがある。
正しいことをしたいと思いながら、自分の恐怖に負けてしまうこともある。
誰かのために行動しているつもりで、いつの間にか、自分の願いばかりを優先していることもある。
そうした矛盾を抱えているのは、リゼだけではないのだろう。
自分だって、そうだ。
誰かを助けたい。
だから、自分の命を惜しまない。
そう考えていたころは、自分が助けた人のことばかりを見ていた。
自分がどうなるのか。
自分が傷ついたあと、誰が悲しむのか。
自分がいなくなったあと、誰が自分を待つのか。
そんなことを、十分に考えていなかった。
誰かを助けたいという願いは、本物だったのかもしれない。
けれど、その願いだけを見つめていたことで、自分の命を大切にするという、別の大切なことを見落としていたのかもしれない。
レンは、胸に手を当てた。
衣服の下には、回生核がある。
この身体が、どのような経緯で作られたのかはわからない。
これまで何度、生き返ってきたのか。
あと何度、生き返ることができるのか。
そのすべてを、まだ正確には理解できていない。
けれど、今の自分は、もう一度生き返れるかどうかだけを考えているわけではなかった。
自分が生きているあいだに、何をしたいのか。
誰と一緒にいたいのか。
何を失いたくないのか。
そうしたことを、考え始めていた。
ユイと一緒に、朝食を食べたい。
ハナに、今日は無理をしなかったねと呆れられたい。
救助した人が、明日も元気に笑っている姿を見たい。
リゼが、いつか家族に会えたと聞いたら、その話を聞いてみたい。
そして、戦争が終わったら。
ユイと一緒に、約束した甘いものを食べに行きたい。
その願いを、レンはひとつずつ心の中で確かめた。
自分が何者なのか、まだわからない。
自分の心が、どうやって生まれたのかもわからない。
それでも、今の自分は、明日を迎えたいと思っている。
その願いを、誰かのせいにしたくはなかった。
誰かが自分をそう作ったのだとしても。
誰かが、自分にそう望んだのだとしても。
これから何を大切にして、どう生きるのか。
その選択だけは、これからの自分が引き受けたいと思った。
レンは、目を閉じた。
明日になれば、また救助活動が始まる。
誰かが助けを求めるかもしれない。
判断に迷うことも、危険に直面することもあるだろう。
すべてを救えるわけではない。
それでも、誰かを助けたいという気持ちは、捨てたくなかった。
ただ、これからは、その願いと一緒に、もうひとつの願いも抱えていたい。
生きていたい。
帰りたい。
大切な人と、明日も一緒に過ごしたい。
それは、誰かを助けることと、矛盾しないはずだった。
むしろ、その願いがあるからこそ、自分はこれからも、誰かを助けながら生きていこうと思えるのかもしれない。
暗闇の中で、レンは静かに息を吐いた。
回生核は、何も語らない。
自分の過去も、まだ何も語ってはくれない。
それでも、明日が来る。
その明日に、自分が何を選ぶのか。
その問いに答えるために、レンは眠りについた。




