第三話 旅人と魔獣
村を出てから、二日が過ぎた。
セレナは西へ続く街道を、一人で歩いていた。
道の両側には草原が広がり、その向こうにはなだらかな丘陵が連なっている。
遠くには森が見え、街道沿いには旅人が休むための小さな休憩所もあった。
天気はよく、旅をするには申し分のない日だった。
「……次の町までは、今日中に着けそうかな」
セレナは道標を確認した。
この先には、旅人や商人が立ち寄る町があるらしい。
そこで食料を補充し、魔法の師について何か情報が得られないか尋ねてみるつもりだった。
前の村で受け取った報酬のおかげで、しばらくは旅費に余裕がある。
とはいえ、無駄遣いをするわけにはいかない。
宿に泊まる日が続けば、あっという間に金はなくなる。
できるだけ野営をしながら進み、必要なときだけ町や村で休む。
それが今のセレナの旅の方針だった。
「魔法の師匠、か……」
ふと、彼は空を見上げた。
旅立つ前は、魔法を教えてもらえる相手さえ見つかれば、すぐにでも自分の望む力が手に入るような気がしていた。
しかし、実際に旅を始めてみると、目的の人物について分かっていることは驚くほど少なかった。
西の国チャイムにいたらしいこと。
年老いた、変わり者の魔法使いであること。
それ以外は、ほとんど手がかりがない。
「……本当に見つかるのかな」
弱気な言葉が、思わず口から漏れた。
けれど、すぐに首を横に振る。
探さなければ、見つかるものも見つからない。
今は歩き続けるしかなかった。
セレナは外套の襟を整え、再び街道を進んだ。
*
昼を少し過ぎた頃。
街道の先から、荷車の音が聞こえてきた。
一台の荷馬車が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
御者台には中年の商人が座り、荷台には樽や木箱が積まれていた。
セレナは道の端に寄り、馬車が通り過ぎるのを待とうとした。
そのときだった。
「うわっ! なんだ、こいつらは!」
商人の叫び声が響いた。
馬が突然いななき、前脚を高く持ち上げる。
荷車が大きく揺れ、積まれていた木箱が音を立てた。
その前方から、三匹の魔獣が飛び出してきた。
以前にも遭遇した、猪に似た姿をした魔獣だった。
大きさは普通の猪よりも一回り大きく、太い牙が口元から突き出している。
背中には硬そうな毛が逆立ち、赤黒い目が獲物を捉えていた。
三匹は馬車の前に立ちはだかり、低いうなり声を上げている。
「魔獣……!」
セレナは剣の柄に手を添えた。
街道沿いに魔獣が現れること自体は、珍しい話ではない。
だが、馬車が襲われているのを見過ごすわけにはいかなかった。
商人は手綱を握りしめ、必死に馬を落ち着かせようとしている。
「くそっ、どうすりゃいいんだ……!」
魔獣の一匹が地面を蹴った。
巨体が一直線に馬車へ突進する。
「危ない!」
セレナは駆け出した。
*
魔獣の牙が、馬車の側面へ届こうとした瞬間。
鋭い金属音が響いた。
セレナの剣が、魔獣の突進を横から受け流したのだ。
勢いを殺しきれなかった魔獣は、街道脇の草地へと転がった。
「な、なんだ!?」
商人が目を見開く。
セレナは馬車と魔獣の間に立ち、剣を構えた。
「馬車を下がらせてください! ここは僕が引き受けます!」
「お、お前一人でか!? 無茶だ、逃げろ!」
商人の言葉に答える余裕はなかった。
残る二匹が、左右から挟み込むように迫ってきたからだ。
右の魔獣が牙を振り上げる。
セレナは身体を低くして、その懐へ滑り込んだ。
刃が一閃する。
魔獣の脇腹を斬りつけたが、浅い。
硬い毛と厚い皮膚に阻まれ、致命傷には至らなかった。
「……やっぱり、正面から斬るだけじゃ駄目か」
魔獣が振り返り、牙を突き出してくる。
セレナは後ろへ跳び、間合いを取り直した。
その間に、最初に転がされた魔獣が立ち上がる。
三匹が再び、少年を取り囲んだ。
セレナは呼吸を整えた。
速さでは負けていない。
しかし、相手は体格も大きく、突進の威力もある。
まともに受け止めれば、こちらの身体がもたない。
ならば、力で押し切る必要はない。
相手の動きを見極め、攻撃をかわし、隙を突く。
それは、幼い頃から繰り返し教えられてきた剣の基本だった。
「……よし」
セレナは剣を構え直した。
最初に動いたのは、正面の一匹だった。
地面を蹴り、一直線に突っ込んでくる。
セレナはぎりぎりまで引きつけた。
そして、魔獣が牙を振り上げる直前、身体を横へひねる。
巨体が目の前を通り過ぎた。
その背後へ回り込むと同時に、剣を大きく振り抜く。
銀色の刃が、魔獣の首元を走った。
魔獣は数歩進んだところで、力を失って倒れた。
「一匹……!」
だが、息をつく間もない。
左側から、もう一匹が突進してきた。
セレナは剣を引き戻し、足元へ意識を集中させる。
攻撃を避ける。
一歩踏み込む。
そして、回転の勢いを乗せた斬撃を放った。
刃が魔獣の身体を捉え、巨体が地面へ崩れ落ちる。
残るは一匹。
仲間が倒されたことに気づいたのか、最後の魔獣は低くうなりながら、セレナを睨みつけた。
少年は剣先を向けたまま、静かに相手の動きを待った。
魔獣が地面を蹴る。
その瞬間、セレナも踏み込んだ。
身体を回転させ、斬撃を放つ。
最後の一匹も、短い悲鳴を上げて倒れた。
静寂が戻った。
セレナは剣を下ろし、周囲を確かめた。
「……これで、終わりかな」
魔獣の気配は、もう感じられない。
彼は剣についた血を拭い、鞘へと収めた。
*
「た、助かった……!」
商人は馬車から降りると、何度もセレナへ頭を下げた。
「ありがとう! 本当にありがとう! お前さんがいなかったら、馬も荷物もどうなっていたことか……!」
「いえ。怪我がなくてよかったです」
セレナは、馬の様子を確かめた。
幸い、少し怯えているだけで、大きな怪我はなさそうだった。
「それにしても、驚いたな。あんな魔獣を三匹も、一人で倒しちまうとは……」
商人は、倒れた魔獣とセレナを交互に見た。
「冒険者か何かかい?」
「いえ、ただの旅人です」
「ただの旅人って……」
商人は苦笑した。
「そんな腕の立つただの旅人がいるかよ」
セレナは返事に困り、仮面の奥で目を泳がせた。
こういうとき、何と答えればいいのか分からない。
「……運がよかっただけです」
「運だけで、あんな動きができるもんかねえ」
商人は感心したようにうなずいた。
それから、ふと倒れた魔獣へ目を向ける。
「ところで、こいつらはどうするつもりだ?」
「どうする、といいますと?」
「魔獣の素材は売れるんだよ。牙や皮は道具の材料になるし、肉も種類によっては食べられる。こいつらの肉は癖があるが、食べられないことはない」
セレナは、魔獣の身体を見た。
これまでにも魔獣を倒したことはあるが、素材を売ることについては、まだ詳しくなかった。
旅の資金を稼ぐ手段として、覚えておいて損はないだろう。
「それなら、売りに出してみようと思います」
「よし、俺が手伝ってやる。次の町まで行くんだろう? あそこなら、魔獣の素材を買い取ってくれる店があるはずだ」
「本当ですか?」
「ああ。助けてもらった礼だ。町まで一緒に行こう」
商人は笑顔で答えた。
セレナは、少し考えてから頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
「なあに、礼を言うのはこっちの方さ」
*
魔獣の素材を回収し、荷車へ積み込む作業は思ったよりも時間がかかった。
商人が手際よく牙や皮を取り分け、セレナも見よう見まねで手伝った。
作業を終える頃には、太陽が少し傾き始めていた。
「よし、これでいいだろう」
商人は手を払い、荷車の荷物を確かめた。
「そろそろ出発するか。町までは、あと少しだ」
セレナはうなずき、馬車の横を歩き始めた。
しばらく、二人は他愛のない話をしながら街道を進んだ。
商人の名はダリオというらしい。各地を回って道具や食料を売買しているという。
「ところで、お前さんはどこへ向かっているんだ?」
「チャイムです。魔法を教えてくれる人を探していて」
「へえ、魔法使いか。そいつはまた、珍しい目的だな」
ダリオは少し意外そうな顔をした。
「剣の腕は十分すぎるほどに見えるが、魔法も覚えたいのか?」
「はい。どうしても、覚えたい魔法があるんです」
セレナは、少しだけ声に力を込めた。
「まだ、ほとんど何も使えないので……」
「ほとんど何も、ねえ」
ダリオは少年の腰にある剣を見て、それから鉄仮面へ視線を移した。
「剣が使えて、魔法にも興味がある。お前さん、ずいぶん欲張りなんだな」
「……そうでしょうか?」
「悪いことじゃないさ。やりたいことがあるなら、目指す方が後悔しないさ」
ダリオは笑った。
「ただし、旅は長い。金と食い物、それから休む場所は大事にしな。腕が立っても、腹が減れば動けなくなるからな」
「……覚えておきます」
セレナは真剣にうなずいた。
今の自分にとって、何よりも現実的な助言だった。
*
夕方。
二人はようやく町へ到着した。
街道沿いに発展した小さな町で、入口には石造りの門が設けられている。門の脇には数人の兵士が立ち、出入りする旅人や荷車を確認していた。
町の中からは、商人たちの呼び声や人々の話し声が聞こえてくる。
セレナは門をくぐりながら、周囲を見渡した。
旅の途中で、これほど多くの人を見かけるのは久しぶりだった。
「まずは素材の買い取りだな」
ダリオが言った。
「そのあと、宿を探すといい。安いところなら、町の南側にあるぞ」
「ありがとうございます。とても助かりました」
「こっちこそ、魔獣から助けてもらったんだ。これくらいは当然さ」
ダリオは荷車を引きながら、通りの向こうを指さした。
「あそこの角を曲がった先に、素材を買い取る店がある。店主は少々口が悪いが、腕は確かだ」
「分かりました」
「それじゃあ、俺は荷物を届けに行く。またどこかで会ったら、声をかけてくれよ」
「はい。道中、お気をつけて」
ダリオは片手を上げ、人混みの中へと消えていった。
セレナはその背中を見送ってから、教えられた店へ向かった。
*
店の中には、魔獣の牙や皮、薬草、鉱石などが所狭しと並べられていた。
カウンターの向こうでは、年配の店主が帳簿をつけている。
「いらっしゃい。何を売りに来た?」
「魔獣の素材を買い取っていただきたいのですが」
セレナがそう言うと、店主は顔を上げた。
「魔獣の素材? 持っているのか?」
「はい。猪に似た魔獣を三匹ほど」
「三匹だと?」
店主は眉を上げた。
「お前さん一人で仕留めたのか?」
「ええ。街道で馬車が襲われていたので」
店主は、しばらくセレナを眺めていた。
やがて、短く息を吐く。
「……まあいい。素材を見せてみな」
セレナは荷物を下ろし、回収した牙や皮をカウンターへ並べた。
店主は一つずつ手に取り、傷の具合や状態を確認していく。
「ふむ……傷はあるが、十分に使えるな。牙も折れていない。これなら、まとめて買い取れる」
店主が金額を告げる。
セレナは、その額を聞いて少し驚いた。
思っていたよりも高い。
「これほどになるんですか?」
「魔獣の素材は、需要があるからな。状態がよければ、それなりの値はつく」
店主は代金を用意しながら、ちらりとセレナを見た。
「だが、気をつけろ。魔獣を倒せるからといって、無理に狩り続けるんじゃないぞ。群れに出くわしたり、強い個体に遭遇したりすれば、腕の立つ者でも命を落とす」
「……分かりました」
セレナは素直にうなずいた。
確かに、旅先で何が起こるかは分からない。
強くなることだけを考えて、無茶をするわけにはいかなかった。
代金を受け取ると、彼は店主に礼を言い、店を出た。
*
町の通りは、夜が近づくにつれて賑わいを増していた。
夕食の準備をする店からは香ばしい匂いが漂い、酒場の前では仕事を終えた人々が談笑している。
セレナは教えられた安宿を探しながら、通りを歩いていた。
その途中、魔法道具を扱う店が目に留まった。
窓辺には、小さな水晶や杖、見慣れない形の金属器具が並べられている。
彼は思わず足を止めた。
「……魔法道具」
しばらく、窓越しに品物を眺める。
どれも高価そうだったが、見ているだけでも興味が尽きない。
店内では、店主らしき人物が小さな石を手に取り、何かを確かめていた。
「……いいなあ」
思わず本音が漏れた。
いつか自分も、こうした魔法道具を自在に扱えるようになるのだろうか。
いや、道具だけではない。
自分の力で魔法を使い、誰かを助けられるようになりたい。
そんな願いが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
しかし、今はまだ遠い目標だ。
セレナは名残惜しそうに店を離れ、宿へ向かった。
まずは休むこと。
明日もまた、旅を続けなければならない。
黒い外套をまとった仮面の旅人は、夜の町へと歩いていった。




