第二話 森に潜む悪意
森の中は、夕暮れとともに薄暗さを増していた。
木々の枝葉が空を覆い、地面には細長い影が幾重にも伸びている。
セレナは足元に気を配りながら、森の奥へと進んでいた。
村長から聞いた話では、古い見張り小屋は森の北側にあるという。
人が通らなくなって久しい道は草木に覆われていたが、ところどころに踏み固められた跡が残っていた。最近も誰かが行き来している証拠だ。
「……ここを通っているのか」
セレナは地面に残る足跡を見つめた。
一人や二人ではない。複数の人間が、何度も同じ道を往復している。
足跡を追いながら、彼は意識を周囲へと向けた。
悪意の気配は、少しずつ濃くなっている。
村の入口で感じたものと同じだ。
盗賊たちが村人を脅していたときに感じた、相手をいたぶることを楽しむような不快な気配。
それが森の奥から伝わってくる。
「……間違いなさそうだな」
セレナは剣の柄に手を添えた。
ただし、急ぐ必要はない。
相手の人数も、武器も、まだ分かっていないのだ。
無闇に踏み込んで、村人に被害が及ぶようなことだけは避けなければならない。
彼は歩幅を小さくし、足音を殺して進んだ。
やがて、木々の向こうに古びた建物が見えてきた。
朽ちかけた木造の見張り小屋。
屋根の一部は崩れ、壁にも穴が開いている。
しかし、入口の周辺だけは比較的きれいに片づけられていた。
小屋のそばには荷車が一台置かれ、近くの木には馬がつながれている。
そして、建物の中から男たちの笑い声が聞こえてきた。
「……見つけた」
セレナは近くの茂みに身を隠した。
小屋の中には、まだ複数の人間がいる。
セレナは眉をひそめた。
「思ったより多いな……」
一人で相手にすること自体は、さほど難しくないかもしれない。
だが、盗賊たちが村人を人質に取っている可能性もある。
彼はしばらくの間、小屋の様子を観察することにした。
*
「おい、聞いたか? 今日も村に食料を奪いに行ったんだってな」
「ああ。あそこは楽でいいぜ。ちょっと脅せば、すぐに言うことを聞く」
小屋の中から、男たちの声が響いた。
「このまま搾り取ってやろうぜ。どうせ、助けを呼ぶ度胸もねえんだからよ」
「だが、最近は食料も減ってきたらしいぞ。次は最後の家畜でも持ってくるか?」
「それがいい。逆らう奴がいたら、見せしめに一人くらい痛めつけてやればいいさ」
下卑た笑い声が、森の静けさを破った。
セレナは黙って聞いていた。
村人たちがどれほど苦しんでいるのか、彼らは知っているはずだ。
それでも、やめるつもりはない。
むしろ、相手が抵抗できないことを楽しんでいる。
仮面の奥で、セレナの瞳がわずかに細くなった。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
この感覚には覚えがあった。
他人の悪意を強く感じ取ったとき、まるで自分の中にまで染み込んでくるような感覚だ。
だからこそ、彼は意識して呼吸を整えた。
「……落ち着け」
小さくつぶやき、目を閉じる。
怒りに任せて動けば、相手と同じように大切なものを見失ってしまうかもしれない。
今、自分がするべきことは明確だった。
盗賊たちを制圧し、村人たちをこれ以上苦しめないようにする。
それだけでいい。
セレナは静かに息を吐くと、小屋の裏手へ回り込んだ。
壁の隙間から中を覗くと、男たちが卓を囲んでいた。
人数は七人。
壁際には、村から運び出したと思われる穀物の袋や木箱が積まれている。
隅には武器もまとめて置かれていた。
幸い、人質らしい姿は見当たらない。
「まずは武器を使わせないことだな……」
セレナは周囲を見渡した。
小屋の裏手には、薪や壊れた木箱が積まれている。
そこから細い木片を一本拾い上げると、手の中で重さを確かめた。
そして、入口から少し離れた場所へと移動した。
木片を石にぶつける。
乾いた音が、静かな森に響いた。
「ん?」
小屋の中の一人が顔を上げた。
「今、何か聞こえなかったか?」
「気のせいだろ。風で木が倒れたんじゃねえのか?」
「いや、ちょっと見てくる」
男が立ち上がり、剣を手に入口へ向かう。
扉が開いた。
男は辺りを見回したが、誰もいない。
「……なんだ?」
その瞬間、背後から声がした。
「こんばんは」
「なっ――!」
振り返ろうとした男の手首を、セレナの鞘が打った。
剣が地面に落ちる。
続けて足を払われ、男は声を上げる間もなく倒れ込んだ。
セレナは男の身体を壁際へ引き寄せ、手早く縛り上げた。
それから、何事もなかったかのように小屋の入口へ立つ。
「……さて」
仮面の奥で、銀色の瞳が暗がりを見据えた。
「お話を聞かせてもらいましょうか」
*
「誰だ、お前は!」
小屋の中に入ったセレナを見て、盗賊たちは一斉に立ち上がった。
「村で暴れていた連中の仲間ですか?」
「先ほど、村の入口で五人ほど捕まえましたが」
「なんだと!?」
男たちの表情が変わった。
「まさか、あいつらをやったってのか?」
「ええ」
セレナは淡々と答えた。
「皆さんにも、同じようにしていただくつもりです。武器を置いて、抵抗せずに投降してください」
一瞬、静寂が訪れた。
次の瞬間、盗賊たちは笑い出した。
「はっ、はははは! たった一人で、俺たち七人を相手にする気か?」
「痛い目を見る前に、さっさと消えな!」
セレナは小さく首を傾げた。
「……話し合いは難しそうですね」
「ふざけるな!」
一人が卓の上に置いてあった短剣をつかみ、セレナへ投げつけた。
少年は身体をわずかに傾けてかわす。
短剣は背後の壁に突き刺さった。
それを合図に、盗賊たちが一斉に動いた。
二人が正面から剣を振り下ろし、別の男が横から迫る。
セレナは一歩踏み込み、最初の剣を鞘で受け流した。
返す動きで相手の手首を打ち、武器を落とさせる。
そのまま身体を回転させ、横から迫った男の腹部に柄を叩き込んだ。
男がうめき声を上げて崩れ落ちる。
正面から斬りかかったもう一人は、剣を振り切る前に足を払われた。
「ぐっ!」
男が床に転がる。
「こいつ、速いぞ!」
盗賊たちの顔から、余裕が消えた。
セレナの剣は、力任せに振るわれるものではなかった。
相手の動きを見極め、最小限の動作で攻撃をかわし、武器を奪い、戦う力を失わせる。
一人が斧を振り回して迫ってきた。
セレナは後ろへ飛び退き、斧の刃をかわす。
男が勢い余って体勢を崩したところへ、素早く踏み込んだ。
柄で脇腹を打ち、膝裏を蹴る。
男は床に倒れた。
残る三人は、互いに顔を見合わせた。
「くそっ……!」
そのうちの一人が、壁際に積まれた武器へ走った。
「武器を取れ! 囲んで叩き潰せ!」
しかし、男が剣を手にするより早く、セレナが目の前に現れた。
「それは、駄目です」
「ひっ……!」
剣の鞘が、男の腕を強く打つ。
男は武器を取り落とし、悲鳴を上げてうずくまった。
最後の二人は、もはや戦う気力を失いかけていた。
それでも一人が、やけくそになって突っ込んでくる。
セレナは剣を抜いた。
銀色の刃が、薄暗い小屋の中で一瞬だけ光る。
次の瞬間、男の短剣が宙を舞った。
セレナは回転の勢いを殺し、抜いた剣を相手の喉元へ突きつけた。
「これ以上は、やめておきましょうよ」
男は青ざめ、両手を上げた。
「わ、分かった! 降参だ! もう何もしねえ!」
残る一人も、その場に武器を置いた。
セレナは剣を下ろし、静かに息を吐いた。
戦いは終わった。
盗賊たちは、誰一人として命を落としてはいない。
「……最初から、そうしてくれればよかったのに」
少年は小さくつぶやいた。
*
盗賊たちを縛り上げたセレナは、小屋の中を調べ始めた。
積み上げられた穀物の袋には、村の家々で見かけたものと同じ印がついていた。
ほかにも、鍋や農具、衣服、いくつもの木箱がある。
どれも、盗賊たちが村々から奪ったものだろう。
「これだけの量を……」
セレナは、積み荷を見つめた。
村人たちが冬を越すために蓄えていた食料。
それを奪い、笑いながら分け合っていたのだ。
怒りが胸の奥で再び膨らみかける。
しかし、すぐに力を抜いた。
今は、これらを持ち主のもとへ返すことが先決だ。
「さて、どうやって運ぶかな……」
小屋の外には荷車がある。
馬も一頭つながれているが、セレナは馬の扱いにそれほど慣れていない。
それでも、荷物を運ぶくらいなら何とかなるだろう。
彼は盗賊たちの一人を起こし、荷車の使い方を尋ねた。
「お前、何をする気だ?」
「荷物を村へ戻します。荷車を動かす方法を教えてください」
「……俺たちに、手伝えってのか?」
「ええ。自分たちで運んだものですから、自分たちで返すのが筋でしょう?」
盗賊は、何か言い返そうとして口を開いた。
だが、セレナの仮面を見て、結局何も言わなかった。
「……分かったよ」
盗賊たちは縛られ全員縄で繋がった状態で、荷車へと向かった。
セレナはその様子を確かめてから、小屋の中をもう一度見回した。
ほかに人が隠れていないか。
村人が捕らえられていないか。
悪意の気配が残っていないか。
慎重に確かめたが、ほかに誰かが潜んでいる様子はなかった。
森に漂っていた不快な気配も、先ほどより弱くなっている。
「……ひとまず、これで大丈夫そうだな」
セレナは小屋を後にした。
*
村へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。
村の入口には、数人の村人が集まっていた。
セレナが戻るのを待っていたのだろう。
「おお! 戻ってきたぞ!」
村人の一人が声を上げる。
その声に気づいた人々が、次々と家から出てきた。
「ご無事だったんですね!」
「盗賊たちは、どうなりました?」
セレナは荷車を止め、村人たちを見渡した。
「森の見張り小屋にいた連中も、全員捕まえました。
奪われた食料や道具も、見つかった分は持ち帰っています」
その言葉に、村人たちはどよめいた。
「本当ですか……?」
村長も駆けつけ、荷車に積まれた食料を見て目を見開いた。
「これは……私たちの村のものです!」
穀物の袋に刻まれた印を確認し、村長は震える手で袋に触れた。
「本当に……本当に、戻ってきたのですね……」
その声は、途中から涙にかすれていた。
村人たちの中にも、顔を覆って泣き出す者がいた。
長い間、奪われることに怯え、抵抗することさえできなかった。
明日もまた食料を奪われるのではないか。
家族が傷つけられるのではないか。
そんな不安から、ようやく解放されたのだ。
セレナは、その様子を黙って見つめていた。
仮面の下で、表情が少しだけ和らぐ。
「……間に合ってよかった」
小さな声は、誰にも聞こえなかった。
*
盗賊たちは村の広場に集められ、村人たちの前に並べられた。
村長は彼らを見下ろし、厳しい表情で口を開いた。
「お前たちは、我々から食料を奪い、家畜を持ち去り、逆らう者には暴力を振るった。そのせいで、どれほどの人々が苦しんだか分かっているのか」
盗賊たちはうつむいたまま、何も答えなかった。
「本来なら、すぐにでも町の役人へ引き渡すべきだろう。だが、まずは奪われたものを返してもらわねばならん」
村長は村人たちへ振り返った。
「皆さんどうしたいですか?」
その問いに、村人たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
怒りをあらわにする者もいれば、複雑な表情で盗賊たちを見つめる者もいる。
やがて、一人の男性が前へ出た。
「俺たちは、こいつらにひどい目に遭わされた。だが、同じことをしてやりたいわけじゃない」
その隣にいた女性も、静かにうなずいた。
「奪われたものを返してもらって。それから、町の役人にきちんと裁いてもらいたいです」
ほかの村人たちも、それぞれの思いを口にした。
怒りは消えていない。
失ったものも、受けた傷も、すぐには元に戻らない。
それでも、彼らは自分たちの手で復讐するのではなく、正しい手続きを踏むことを選んだ。
セレナは、その様子を静かに見守っていた。
「……それが、皆さんの答えなのですね」
村長がうなずく。
「はい。彼らの罪は、きちんと償わせます。ですが、私たちも、もう前へ進まなければなりませんから」
セレナは、ほんのわずかに頭を下げた。
「分かりました。では、盗賊たちは町の役人へ引き渡しましょう。私もそこまでお手伝いします」
盗賊たちは抵抗しなかった。
村人たちの前で、彼らはようやく自分たちが何をしてきたのかを突きつけられたのかもしれない。
*
その夜、セレナは村長の家で食事を振る舞われた。
温かいスープに、焼いたパン。豪華な料理ではなかったが、旅の途中で食べるものとしては十分すぎるほどだった。
「本当に、何とお礼を申し上げればよいのか……」
村長が深々と頭を下げる。
「おかげで、村は救われました。明日、町へ使いを出して盗賊たちを引き渡す手配をします。報酬も、できる限り用意させてください」
「ありがとうございます。助かります」
セレナは、素直に礼を言った。
旅には金が必要だ。
食料も買わなければならないし、剣の手入れにも費用がかかる。
こうして報酬を得られるのはありがたかった。
しかし、それ以上に心に残ったのは、村人たちの表情だった。
夕方には怯えきっていた人々が、今は互いに声を掛け合い、食料を運び、明日の準備をしている。
失われたものを取り戻すには時間がかかるだろう。
それでも、彼らは自分たちの暮らしを取り戻そうとしていた。
「……いい村ですね」
思わず漏れた言葉に、村長は少し驚いた顔をした。
「そう思っていただけますか?」
「ええ。皆さん強いと思います」
セレナは、スープを口に運んだ。
「盗賊たちを怖がっていたのに、最後は自分たちでどうするべきかを決めた。簡単なことではないと思います」
村長はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに笑った。
「あなたが助けてくださったからこそ、考える余裕ができたのです」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
村長は、はっきりと答えた。
セレナは何と返せばよいのか分からず、仮面の奥で少し困ったように目を泳がせた。
褒められることには、まだ慣れていない。
「……それなら、よかったです」
ようやくそう答えると、村長は声を上げて笑った。
*
翌朝。
村の入口では、盗賊たちを町へ連れていく準備が進められていた。
セレナは荷物をまとめ、再び旅立つ支度をしていた。
「もう行かれるのですか?」
村長が尋ねる。
「ええ。目的地まで、まだ距離がありますから」
「せめて、もう一日くらいゆっくりしていかれては……」
「お気持ちだけで十分です。昨日は、ゆっくり休ませていただきましたから」
セレナは荷物を背負い直した。
報酬として受け取った金貨を確かめる。多くはないがしばらくは食料にも困らないだろう。
「本当にありがとうございました」
村長が頭を下げると、周囲の村人たちも次々と礼を述べた。
「旅のお方、どうかお気をつけて!」
「また近くを通ったら、ぜひ立ち寄ってください!」
セレナは少し照れくさそうにしながら、うなずいた。
「ありがとうございます。皆さんも、お元気で」
そう言って、彼は村を後にした。
街道へ戻ると、朝の風が黒い外套を揺らした。
西の空には、まだ薄い雲がかかっている。
セレナは道標を確かめ、チャイムへ続く道を歩き始めた。
黒い外套をまとった旅人は、再び西へ向かって歩き出す。
その背中を見送る者は、もういなかった。




